トラウマ(暗闇)について
「ふ、ふーっ……。っは……。っ、ご、ごめん、ほんと暗いのだめ、で。いま、まじで余裕、ないから、あんま見ないで……」
「ご、ごめんごめんごめんごめん!!!!」
泣き腫らしてじんわりと潤んだランスくんの瞳が苦しそうに細められるのを見て、わたしはばっと顔を横に逸らした。
どくんどくん……と早鐘を打つランスくんの心音が、感度が上がった耳の奥で反響する。熱を孕んだ荒い息が首筋にかかって、反射的にきゅっと目を閉じ、ランスくんの胸元をしわになるほど握りしめた。
密着した体が火照ってしょうがないのに、狭いクローゼットの中じゃ身動きも取れなくて、逃れようともがいてもドレスの波に押し返されてしまう。
「はあ……はあ……、っく……、はあ……」
荒い息遣いも、唾液の水音も、薄っすら張った喉ぼとけが上下する音や衣擦れすら、全部が立体音響みたいになって、沸騰寸前の脳をダイレクトに刺激する。
「……ひっ、く、……はあ、はあ」
しゃくりあげる切なげな声が、湿度の高い甘い吐息が、赤くなった耳の縁を掠って、得体の知れない感覚がぞわぞわと背筋を撫で上げた。
クローゼットに充満した石鹼の優しい香りが、茹だった思考を蕩かせていく。息継ぎする度にランスくんの匂いに包み込まれて、ふわふわとした多幸感に脳が支配されてしまう。
「……ロザリー、サン」
「っ、」
耳元で縋るように囁かれた声に、翼の先を丸まらせる。
無意識なんだろうか。顔を背けたまま視線だけで見上げたランスくんは、俯いて瞼を伏せて、わたしの名前を呼んでいて、きゅっと心臓が締め付けられた。
濡れた長い睫毛が艶やかに光る。食い入るように見惚れるわたしの視線を感じたのだろう。ランスくんがしぱしぱと瞼を開けて、うるんだ瞳でわたしを見た。
息が詰まる。ふたりの視線が絡まって、火花か電撃が瞳を焦がしそうなほど、一瞬が永劫に感じられるほど、長く深く互いを見つめ合う。
何秒そうしていただろうか。もしかしたら、何分だったかもしれない。
先に目を逸らしたのはランスくんの方だった。
「……ごめ、……ごめん。オレ、ほんと、だめで……、手、握ってても、いい?」
ほんとごめん、と続けて、ランスくんがよわよわとわたしの肩に顔をうずめた。ごくんと生唾を飲んだわたしの小指に自身のそれを絡め、甘えるように指先で握り込む。
きゅーっと、頭が熱に浮かされていく。
「い、いいよ」
絞り出した声はか細く震えていた。
「……いいの? まじでごめん、ありがと……」
「う、うん。……気にしない、で」
ぱっと顔を上げて眉根を下げ、仔犬のような表情でランスくんがわたしを見つめる。長い髪先が中途半端に持ち上げた手の甲を掠る。繋いでいた小指が離れ、かわりにぎゅっと恋人つなぎで手を握られた。
やっぱりランスくんの手、結構骨ばってるんだ。指もわたしのより全然長い。力つよいのに、わたしが痛くないように優しく握ってくれてる。怖くてしょうがないだろうに、優しい子だな。
……ランスくんの恐怖がちょっとでも多く、和らぎますように。
そう思って目を伏せ、わたしはもう片方の手でランスくんの髪を優しく撫でつけた。
「っ、」
スン、とランスくんが鼻をすする音が至近距離で鼓膜に響く。ぐりぐりと、ランスくんが額をわたしに擦りつける。うるんで赤くなった目が不安気にゆらいで、ためらうようにわたしを見上げる。
「……謝ることしかできなくて、ごめん」
掠れた泣き声が、吐息が、熱っぽく首元をくすぐった瞬間、ゾクッとした感覚がわたしの背筋を駆けあがった。
「――っ」
甘い声が、吐息が、麻酔のように脳を鈍く痺れさせる。くらくらするほど濃い匂いが、理性の糸をジリジリ焦がしていく。あまりにも強い刺激にわたしの目にも涙が滲む。心臓が痛いくらい鼓動している。顔が熱い。うまく息ができない。
……あ、これ、ほんとやばい。どうしよう。よくない。なんとかしなきゃ。
どくどく脈打つ心音の隙間で、まだ冷静な部分のわたしがそう呟いた。
「……ら、ランスくんは、なんで、暗いのが苦手なの?」
斜め下を向いたまま、わたしはランスくんに問いかけた。
「……」
声が震えてるの、バレてないかな。訊いちゃだめなことだったかも。話題まちがえた。どうしよう。沈黙がこわい。ランスくんの顔が見れない。
サアァ……と、脳に上った血が引いていく心地がして、ぐるぐると思考が堂々巡りを始めた。無音の空間に自分とランスくんの心音だけが響いている。音が、温度が、重なっていく。
「……だれにも、いわない?」
「!」
内緒話をするように、咎められることを怯えるような暗い音色で、ぽつりと声は落とされた。
「、いわないよ。言わないから、教えてくれる?」
「……」
ぎゅうっと、さっきまでより強く、手を握られる。ぽすんと肩に額を乗せて、背中を丸めたランスくんの髪を、梳くように撫でつけて返答を待つ。
「……昔、オレがもっと小さかったころ、手違いで王宮の武器庫に閉じ込められたことがあったんだ」
解答は、想定よりもずっと早くもたらされた。
「オレが、悪いんだけどさ。聖剣をどうしても見てみたくて、警備のおっちゃんに無理言って、一回だけって言って武器庫に入れてもらったんだ」
わたしがいるのと逆方向に顔を傾け、思い出すようにぽつりぽつりと、ランスくんは言葉を紡ぐ。
「そこは昼なのにすごく暗くて、電灯も燭台も何もなくて、扉を開けた瞬間から、あ、やばいとこ来ちゃったかもって、すごい後悔した。でもせっかくここまで来たんだし聖剣だけ見て帰ろうって、扉を半開きにしたまま、奥のもっと暗い方へ進んで、それで――バタンって真っ暗になった」
ランスくんのもう片方の手がわたしの背に回って、ドレスの背をぎゅっと握りしめた。ぐーっと押しつぶすように体重をかけられて、支えきれずに少し下がる。
「ほんとうに自分の指先すらも見えないほどの暗さで、パニックになって転んで、気づいたら扉がどこにあるのか全く分からなくなってて。叫んだけど誰も気づいてくれなくて、それでもなんとか入り口までたどり着いて、扉を開けようとして、で、鍵がかかってるのに気づいたんだ」
「……」
「もう聖剣どころじゃなくて、何度も何度も出してって、扉を叩いて。でも武器庫なんてめったに誰も立ち寄らないから、意味なんてなくて、叫び疲れて声が枯れて、そのまま……そのまま何時間も閉じ込められた」
はっはっ、とどんどん息を荒くするランスくんの背を撫でて眉をひそめ、静かに耳を傾ける。思い出すだけで過呼吸になるほどトラウマになっているのだろう。幼少期に負った心の傷はそう簡単にふさがらないことを、わたしはよく知っている。
けれど、お前は自分が最も忌諱している“孤独”をルキウスさまに味わわせたのだと、内なるわたしが囁いた。
「鍵をかけた人もわざとじゃなかったと思うんだ。暗い武器庫の中に子供がいるかもなんて、普通思わないだろ? ただ誰かが閉め忘れたんだろうって、閉めただけで。悪いのは自分だって、わかってるけどさ、それでも怖くて、ずっと泣きじゃくってた」
「……」
「このまま誰にも見つけてもらえないまま、真っ暗な中で弱って死ぬのかなって、嫌な想像ばっかり頭に浮かんできて、怖くて、震えて、うずくまって、そのまま何時間も何時間も経って――そんなときにオレを見つけてくれたのが、ルキウスだったんだ」
「!」
予想だにしなかった名前の登場に、どきっと心臓が跳ねる。ルキウス、と口にした途端にランスくんの口角が緩んで、声色が穏やかになった。
「ルキウスは夢でオレが閉じ込められるのを見たらしくって、それでオレの姿が見えないからもしかしたらって思って来たって、言ってたっけな。すごいよな、まるで神様のお告げみたいでさ」
「……」
それはつまり、ルキウスさまのスキル『世界観測』の権能なのだろう。小さい頃の話なら、もしかしたらスキルを完全に理解する前のことなのかもしれない。
バッドエンドしかない結末に、絶望する前の。
「扉が開いたときに、もう夜だったんだけど月の光が差してて、その光を背負ったルキウスがオレを助け出してくれて、ほんとオレ馬鹿みたいに泣いてさ、そんとき、この恩に報いようって、オレは一生こいつの隣に立ち続けようって誓ったんだ。……ルキウスには暗いのだめなことは隠してるんだけどな」
「そっか」
夢見心地な声で恥ずかしそうに、照れたようにランスくんがはにかむ。その声にはもう恐怖の色はほとんどなくて、わたしはそっと安堵の息を零した。
「なんだ。全然ルキウスさま、一人ぼっちじゃないんじゃん」
確かに、ルキウスさまはランスくんに、スキルの恐怖を隠していて、ランスくんはルキウスさまに、暗闇というトラウマを隠しているのかもしれない。似た者同士な彼らは、各々が抱える恐怖を、孤独感を、真に分かち合うことはできないのかもしれない。
それでもランスくんがいる限り、ルキウスさまが本当の一人ぼっちになってしまうことは、これまでもこれからもずっとないんだろうと、わたしは思う。
わたしが今回おかした失態を棚上げするわけではないし、ランスくんの思いがちゃんと伝わるかはわからないけれど。
「いいなあ。わたしもランスくんみたいな妹……ゲフンゲフン、弟がほしいな~」
「ロザリーサン、今妹ってゆった?」
「言ってないよ(噓)」
「噓だあ。さっきから薄々思ってたけど、ロザリーサン、オレのこと女の子だと思ってるだろ。めっちゃ頭とか撫でてくるし」
「そんなそんな。ちゃんと男の子だと思ってるよ? ……たまに」
「たまに!?」
「だって視覚情報的には超絶美少女なんだもん……ごめんけど……。……。ランスくん、頭撫でられるの、嫌だった……?」
「いや……じゃねーけど……、気持ちいいし、落ち着くし……。でもちょっと、ふわふわしちゃうから、恥ずかしい……」
「っ!!!! か!!!!(自粛)」
「そこまで言ったならもういーよ……」
「かわいいい!!!!! 生まれてきてくれてありがとう!!!!!」
「どーいたしまして」
可哀想なものを見るジト目でこちらを見下ろすランスくんと目が合って、彼の腕の中でくすっと吹き出す。そうやってしばらくツボっていれば、ランスくんもつられてクスクスと笑い出した。
狭いクローゼットの中で、小さく暖かい笑みが反響する。
「てか、一個訂正しときたいんだけど、オレ、ロザリーサンより年上だぜ? あんま見えないかもだけど、」
「え? うそ!? 学年一緒じゃなかったっけ!?」
「? 魔法学園のことを言ってるなら、ルキウスの入学に合わせて入る予定だから、ロザリーサンとも同学年になるけど……、なんで知ってんの?」
「え、えーと、風の噂かな……。ちなみに、何個上?」
「一個」
「ランスくん、8歳だったのか……」
「うん」
衝撃の新事実にわなわなと口を震わせるわたし。どうりでお姫様だっこしにくいわけだ、身長高いし……と妙なところで納得する。
ランスロット・スティーリア。
言っていなかったけど、彼は『愛飢え乙女の幸福な結末』の攻略対象の一人なのだ。
ルキウスさまの騎士で、氷の魔剣の使い手。一対一での剣での決闘なら、最強メイドたるシルヴィアに勝るとも劣らない天才剣士。そんな彼が迎えるバッドエンドについては……、あれ、どんなんだったっけ……?
やばいやばいやばい。言い訳になるけど、学園編時点ではかわいい系じゃなかったし、前世のわたしのストライクゾーンから外れてたから全然覚えてない!!! どうしよう。こうして知り合ってかわいさに打ちのめされた以上、絶対に幸せにしたいのに!!!
「ランスくん、絶対幸せにするからね……! ぐすん、」
「この数秒で情緒どこ行ったんだ??」
目から提灯型の涙を垂らしてぐすんぐすんとランスくんの手をにぎにぎするわたしに、目を丸くして心底困惑するランスくん。
ちなみにさっき、言ってなかったけど……って言ったけど、ランスくんの存在を思い出したのはロゼッタがフルネームで呼んだときなので、ついさっきだったりする。
いや、最初に玉座の間で見かけたときから、なんか見覚えあるなーって思ってはいたんですけどね。こうなったら是が非でもランスくんの結末を思い出さなきゃいけないな。世界観測持ちのルキウスさまに聞けたらいいんだけど……なんて思考を巡らせていた、その時。
「あっ、ランスくん、電気ついたよ!」
「ほんとだ。さっきの停電はシャンデリアの故障だったんかな」
パチッと、クローゼットの外が明るくなった。
「よかった~。後半は正直それどころじゃなかったけど、もうちょっとで理性が焼き切れて、ランスくんを襲っちゃうところだったから助かったよ~。あ、ランスくん、一応周囲探ってみるから、ちょっと静かにしててね」
「聞き捨てならないセリフしかない気がすんだけど??」
ゾッと自身の体を抱き寄せたランスくんから離れ、クローゼットの扉に耳を押し当て、真剣に周囲の音を探知する。
「んー、聴覚異常なーし。隙間から覗いてみても……異常ないね。ルキウスさまはいないよ。もう外出る?」
「うん、出よう。今すぐ出よう。絶対外の空間より、隣にいるロザリーサンの方が危険だし……」
「えー心外だなー」
「事実だわ」
呆れ顔でこちらを見つめるランスくんに、ぷくーっと片頬を膨らませて扉を開けた――瞬間。
わたしたちは硬直して、目を見開いた。
「――ごめん、ランス。知らなかったんだ。ほんとうに、ボクは……」
「なんで、」
呟いたのはわたしだったか、ランスくんだったか。
クローゼットの外、橙色の光がともったシャンデリアの下にて。
そこには、さっきまでいるはずのなかったルキウスさまが、悲痛気に顔を歪めて立っていた。
第19話も最後までお読みいただきありがとうございます!!!
面白かったらブクマや星などで応援していただけると嬉しいです!!!
はい。
なんというか、全力を出しすぎた気がします……序盤の描写が実際ほんとド健全なのに、センシティブに見えてしまう……。
これBANされたりしませんかね???こわすぎる。
次にランスくんのトラウマに関する補足説明になりますが、例のおっちゃんが鍵を閉めたわけではございません。
まじで通りすがりの人による単なる事故なんです。あとなんでおっちゃんは気づかんかったんとか聞かないでください。そこんとこまだ思いついてないので……( ;꒳; )
あとあと、前回のあとがきで決着つくかも?って言いましたが、着きませんでした……無念。
全部、序盤の描写をフルスロットルで出力してしまったせいです。文字数がね……やばいことなっちゃうので……。
まあ、さすがに?次回か、次々回には区切り着くかなって!思います!!!たぶん!!!
次回もぜひともご覧あれ!!!!!