ようこそ、ヘルヘイムへ
ヘルヘイムは遥か昔、魔王と天使達による世界の命運を賭けた戦争が行われたと伝えられる地。
数百年にもわたる戦火の末、天使達は勝利し魔王は滅んだが、その代償としてヘルヘイムは荒れに荒れ果て、まともな生物が生きていける環境ではなくなった。
そこにあるのは、骨が転がる荒野に、全てが失われた真っ白い砂漠、それと過酷な環境に適応した恐ろしいモンスターだけだ。
この世界で最も危険な隔離域として知られ、極刑のないこの国では、ここへの投獄が最大の刑罰とされている。
そして、俺は今まさにその地獄へ投げ捨てられるところだった。
「おい、着いたぞ。さっさと降りろ、カイネ・フォン・アイリーンベルク」
外に出ると辺りはすっかり暗くなっていた。
武装船で運ばれた俺は、防護服に身を包んだ一般兵に背中を思い切り蹴飛ばされ、無事にヘルヘイムに上陸する。
「オラ、水と食料だ。しばらくの間はそれで持つだろ、ここに住む化物共に殺されなければな」
そう言って別の一般兵が、俺に重たいコンテナをいくつか投げつける。
いつも俺を様付けで呼び、へこへこ媚びへつらっていた平民共が……。
「この野郎……!」
睨みつける俺を兵達は嘲笑う。
「あ?何睨んでんだ。お前はこの間まで偉い偉い貴族様だったが……今はスラムの貧民よりも、ずっとずっと下の大罪人だろうが!当然の扱いだッ!」
はらわたが煮えくり返りそうな気分だが、完全カースト制のこの国では全くの正論だった。
反吐が出るほどの正論だ、くそったれ。
「よし、では帰還するぞ。こんな危険な場所に長居は無用だ」
罪人を投棄し、船はそそくさと帰っていく。
俺を捨てたあの国へ。
だが、しばらくすると巨大なクジラのモンスターが海中から現れた。
そして、立派な武装船はまるでおもちゃのように粉々にされ、あっという間に飲み込まれていく。
距離があってよく見えなかったが、恐らくあれは全滅だろう。
ざまぁ見ろと鼻で笑うが、自分の置かれた状況を思えば、そんな乾いた笑いも一瞬で失せる。
色々な感情がぐちゃぐちゃになっているが、それについては後回しだ。
今は生き延びることに集中しよう。
とりあえず俺は、前の罪人が使っていたであろう海岸沿いの質素な小屋に、水と食料の入ったコンテナを運んだ。
その後は小屋の中で身を潜めるように、ただじっと夜が明けるのを待っていた。
ヘルヘイムで迎えた初めての夜は、風と波の音しか聞こえないほど静かで、想像していたよりもずっと穏やかなものだった。
その静寂のせいか、次第に緊張感も薄れ、ついうつらうつらと睡魔に襲われていたのだが……。
── ザ……ザ……ザ……ザ……
「……!!」
何かが小屋に近づく音がした。
ここは数多くの罪人が送られてきた流刑地で、その中の誰一人として生き延びることのできなかった場所。
新しいエサが来たと、この地獄に住むモンスターが俺を食らいに来たのかもしれない。
俺は腰に携えていた剣を抜き、息を呑んで入り口の前で構える。
立派な騎士になるために、俺は必死に修行してきた。
その夢はぐしゃぐしゃに壊れてしまったが、モンスターなんかに大人しく食われてたまるか。
全力で抵抗して、生き延びてやる……!
剣の腕にはそれなりの自信があった俺だが、その手は恐怖で震えていた。
そして、足音が鳴りやんだその時……。
コン、コン
ドアを軽く2回叩かれたのだ。
何だ今の……?ノック……されたのか?モンスターがノックするか?
人間?いや、ここに人間なんかいるはずない。
モンスターが鼻先をぶつけて、ニオイでも嗅いでいたのか……?
やべえ、食われたくない、死にたくない。
……ここからなら、やれるか?
やるしかないか……?
僅かな葛藤の末、俺は木製のドアに向かって切っ先を向けた。
「ッこの腐れカルト国家がぁ!!」
生への執着と、やり場のない憤りが込められた叫びと共に、俺は半ばやけくそにドアごと剣で突き刺した。
しかし、その刃にはドア以外の手応えがなく、一瞬やってしまったと死が脳裏をよぎったが、返ってきたのは死よりも信じ難いものだった。
「にゃあああ!!!いきなり何するんですかぁ!!?」
予想の斜め上の反応。
聞こえたのは明らかに甲高い少女の声だった。
俺は訳も分からず、慌てて外へ飛び出す。
そこにいたのは……。
「て……天使ッ!?」
背に真っ白い羽を持った、可愛らしい少女が尻餅をついていた。
そして、その綺麗な顔はどこかで見た覚えがあるような。
ていうかこの天使、頭の上に何か大事なものがないのだが……。
その辺りでこいつが何者なのか、大体の見当がついてしまった。
「お前、もしかしてあの時の天使か……?」
「そうです、そうです!なんだぁ、覚えててくれてたんじゃないですかぁ!」
やはりその少女は、俺が頭の輪を破壊した天使本人のようだった。
いきなり殺傷してこようとしてきたんでびっくりしましたよと、服についた砂を払いながら、彼女は明るい声で話しかけてくる。
俺はと言うと、自分をどん底に突き落としたやつが、何も悪びれる様子もなくやたらフレンドリーに接してくることに、ただただ困惑するだけだった。