第百八十話 イェーナの実態
大広間には緊迫した空気が漂っていた。エリザートリ教団の教祖の正体がヴェラリアの母であるイェーナ・クロフィであることを知ってユーキたちは衝撃を受ける。特にヴェラリアは夢でも見ているのではと感じ、目の前の現実を受け止めることができずにいた。
「は、母上……本当に母上なのですか?」
ヴェラリアが震えた声を出しながら問い掛けるとイェーナはヴェラリアの方を向いて小さく笑みを浮かべる。
「ええ、正真正銘、私はイェーナ・クロフィです」
イェーナの言葉にヴェラリアは再び驚きの表情を浮かべて一歩後ろに下がる。
教祖がイェーナの顔をしているのだから、イェーナ本人であることは間違い無い。しかしヴェラリアはそれでも間違いであってほしいと思っていたため、イェーナの言葉を聞いて大きなショックを受けた。
ユーキも教祖の正体を知って驚きを隠せずにいた。だが、平常心を失えば自分やヴェラリアたちの立場が悪くなる可能性があったため、心の中で落ち着くよう自分に言い聞かせながら平常心を保っている。
「なぜです! なぜ母上が教団の教祖に!?」
落ち着こうとするユーキの隣ではヴェラリアが力の入った声を出しながらイェーナに問い掛けた。戦場で取り乱すことが危険なのはB級冒険者であるヴェラリアも分かっている。だが自分の母親がエリザートリ教団の教祖だと知ったため、ヴェラリアは落ち着くことができなかった。
ユーキや冒険者たちは取り乱すヴェラリアを無言で見つめている。ここまでのヴェラリアの反応から、彼女はイェーナがエリザートリ教団の教祖であることを知らなかったとユーキたちは悟った。
「勿論、偉大なるベーゼの力になるためです」
取り乱すヴェラリアを見ながらイェーナは冷静に答える。ユーキたちはイェーナの返事を聞くと僅かに表情を歪ませた。
「私は強大な力を持つベーゼがこの世界を素晴らしい世界に作り変えてくださることを願っています。そのために私は教祖となってベーゼを崇拝し、彼らに協力することにしたのです」
「教祖になって……それでは一度壊滅した教団を復活させたのも母上なのですか?」
「そのとおりです」
誤魔化すことなくエリザートリ教団を復活させたことを認めるイェーナを見てヴェラリアはサーベルを持っていない方の手を強く握る。
イェーナが教祖だったことにも驚いたが、異常な宗教団体を復活させたのもイェーナだと知り、驚きとは別にヴェラリア自身にも理解できない感情が湧き上がってきていた。
ヴェラリアは目を閉じながら俯いて奥歯を噛みしめる。ユーキや冒険者たちは傷ついているヴェラリアを見ながら気の毒に思っていた。
「何時から……何時から教祖として活動していたのですか?」
「本格的に動き始めたのは四ヶ月前になりますね」
「四ヶ月前……父上が病死された頃から?」
「ええ。ただ、その二ヶ月ほど前から教団を復活させる準備を始めましたので、教祖となったのは半年ほど前になります」
「半年? 父上が生きていらっしゃった頃から母上は教祖として活動していたということですか?」
イェーナはヴェラリアの問いに返事をせず、無言で頷いた。ヴェラリアはイェーナが長い間自分たち家族を騙していたことを知ると俯きながら肩を震わせる。
ユーキはショックを受けるヴェラリアを黙って見つめていた。だがすぐにイェーナの方を向いて鋭い視線を向ける。自分の家族を騙し、何の罪も無い人々を傷つけて来たイェーナの行いにユーキは腹を立てていた。
「先程もお話ししたように私はベーゼの作り上げた世界にこそ、私たち人類の幸せがあると思っています。だからこそ偉大なるベーゼに協力しているのです。そしてそのついでに自分が望むものを手に入れているだけです」
「望むもの?」
ヴェラリアが少しだけ顔を上げて訊き返すとイェーナはヴェラリアを見ながら両手を自分の頬にそっと当てた。
「そう。……私は美しさを手に入れるために若い人たちの聖水を飲んでいるのです」
イェーナの口から出た言葉にヴェラリアは耳を疑い、思わず目を見開いた。
エリザートリ教団は信者たちが望むものを持つ若者を殺害し、その血を飲む宗教団体。それを知っているヴェラリアはイェーナが若者の血を飲んでいたことを知って愕然とした。
「母上、本当に人間の血を飲んでいるのですか? それに美しさを手に入れるためと言っていましたが……まさか」
「そうです。私はこの美しさを保つため、多くの若者、特にうら若き乙女たちの聖水を飲み続けました。その結果、ツヤのある若々しい肌を手に入れることができたのです」
笑顔で答えるイェーナを見てユーキたちは一斉に固まる。若者を攫い、殺害して血を飲んでいたのに悪びれる様子も見せず、自慢するかのように語るイェーナのユーキたちは一瞬寒気を感じた。
ユーキたちが驚いている中、ヴェラリアは特に驚愕している。自分の知っているイェーナは優しく、死んだ夫や自分のことを誰よりも大切に思ってくれる優しい女性だった。だが目の前にいるイェーナは侵略者であるベーゼを崇拝し、信者に罪のない人々を殺害させた挙句、そのことに罪悪感を感じていない。
目の前にいるイェーナは本当に自分を愛してくれていたイェーナと同一人物なのか、ヴェラリアは驚きの表情を浮かべながら心の中でそう思っていた。
ユーキはイェーナが自分の綺麗な手に見惚れている姿をジッと見つめている。そんな時、頭の中にあることが思い浮かぶ。
イェーナは既に四十七歳なのに三十代くらいの若々しい見た目をしている。ユーキは最初、イェーナの若い外見を見て不思議に思っていたが、若さを保つために若者の血を飲んでいると聞いてイェーナが若い見た目をしているのは若者の血を飲んでいたからではないかと推測した。
しかし人間の血を飲んでも肌にツヤが戻ったり、肉体が若返るという根拠はユーキが転生前にいた世界でも存在しない。そのため、ユーキはイェーナが若く見えるのは若者の血を飲んだからではなく、彼女の体質に原因があるのではと考えていた。
ただ、若さを求めて血を飲んだという点は大して重要ではない。重要なのは血を飲むために若者を殺害したということだった。
ユーキは自分たちの欲望のために多くの若者を殺害したエリザートリ教団の罪を許そうとは思っていない。勿論、教祖であるイェーナも例外ではなかった。
「……イェーナさん、既に教団の隠れ家は包囲しています。もうどこにも逃げ場はありません。投降してくれませんか?」
イェーナを見つめながらユーキは投降を勧める。できることならイェーナにはしっかり罪を償ってもらい、もう一度ヴェラリアとやり直してもらいたいと思っていた。何よりも娘であるヴェラリアの前でイェーナに手荒なことはしたくないと思っている。
ユーキたちが見つめる中、イェーナはしばらく黙り込み、やがて静かに溜め息をついた。
「ルナパレス君、貴方はまだ状況が分かっていないようですね? 外にはベーゼの力を得た信者たちが貴方の仲間たちを襲撃しています。更にアローガ様も信者たちと共に戦っている。追い詰められているのは貴方たちの方なのですよ」
「生憎、俺たちは追い詰められているとは思ってません。確かに何の能力を使うか分からないアローガは厄介ですけど、こっちにも強い混沌士がいるんです。奇襲や挟撃を受けたとしても、勝てる可能性は十分あります」
二ッと余裕の笑みを浮かべながらユーキは問題無く戦えることをイェーナに伝える。ヴェラリアや冒険者たちはユーキの言葉を聞いて、目の前の児童は強い精神の持っていると感じた。
「この状況でまだ勝ち目があると考えるとは、幼い少年には理解できないみたいですね」
イェーナは笑みを浮かべるユーキを見ると哀れむような表情を浮かべながら小さく首を横に振る。ユーキは自分を小馬鹿にするような発言をしたイェーナを見ると小さく鼻を鳴らす。
「フン、ガキだからってナメるなよ?」
低い声を出すユーキを見てイェーナは反応をし、ヴェラリアたちもユーキを見て軽く目を見開く。児童が相手を威圧するような雰囲気を見せたことにその場にいる全員が意外に思った。
「驚きました。幼いのに戦士らしい顔ができるなんて……」
ユーキの意外な一面を見たイェーナは小さく笑う。イェーナは今回の一件でメルディエズ学園に強い生徒を派遣してほしいと依頼していたため、先程のユーキを見て彼も強い生徒だと理解する。
そもそもイェーナがメルディエズ学園に強い生徒を派遣するよう依頼したのも全てエリザートリ教団のためだった。強い生徒を派遣させ、教団に生徒たちを捕らえさせてその血を飲めば信者たちは捕らえた生徒の強さを手に入れられると考え、強い生徒を派遣するよう依頼したのだ。
ユーキは笑っているイェーナを鋭い目で見つめる。この時、ユーキはイェーナのことを依頼主ではなく異常な宗教団体のリーダーとして見ていた。
冒険者たちも教祖の正体を知ってユーキと同じことを考えている。ただ、ヴェラリアだけはまだ現実と向かい合うことに抵抗を感じていた。
「イェーナさん、二つ質問してもいいですか?」
突然ユーキがイェーナに問い掛け、ヴェラリアはフッとユーキに視線を向ける。イェーナは質問しようとするユーキを見てまばたきをした。
「……何でしょうか?」
イェーナが小首を傾げながら訊き返すとユーキは構えていた月下と月影をゆっくりと下ろした。
「イェーナさんが教団に所属している理由は分かりました。ただ、どうしても分からないことがあるんです。……どうして貴女は教団の存在を知っていたんですか? 教団はベーゼ大戦が終わった直後に壊滅し、今では教団の存在を知っている人は殆どいません」
ユーキは真剣な表情を浮かべながら疑問に思っていたことを尋ねる。
エリザートリ教団のことは終戦後に生まれた若者たちは当然知らず、ベーゼ大戦が起きた時から生きていた者たちも教団のことは忘れている。中には人の血を飲む恐ろしい宗教団体のことなんて忘れたいと思って無意識に記憶から消した人もいるだろう。
現在ではエリザートリ教団のことを知っている者は皆無と言ってもいい。それなのにイェーナが教団のことを知っており、教祖にまでなっていたことをユーキは不思議に思っていたのだ。
「アイカたちから聞いたんですけど、ベーゼ大戦の時からアルガントの町にいた人たちも教団のことを知らず、教団の情報が書かれた本も数冊しかなかったそうです。町で教団の情報を得るのは難しいのに何でイェーナさんは教団に詳しいんですか?」
「簡単なことですよ」
イェーナは両手を背中に回すと右を向いてゆっくりと歩き出し、歩きながらユーキの問いに答えた。
「終戦時、帝国軍はベーゼに加担した教団を壊滅させるために隠れ家を襲撃し、当時の教祖と大勢の信者を捕らえました。ですが、信者の中には運よく軍から逃れ、正体を隠しながら暮らしていた人もいたんです」
エリザートリ教団の信者の中に捕まらなかった者がいたと聞かされたユーキは反応し、ヴェラリアも初めて聞く話に少し驚いた様子を見せていた。
「逃げ延びた信者の中には何時か教団が復活することを願って家族や身近な人たちに教団の教義や慣習、歴史と言った情報を伝えたり、書物などに書き残していたんです。そして信者が亡くなった後も家族は教団の情報を受け継ぎ、教団が復活する時までそれらを守っていたのです」
歩きながら語っていたイェーナは立ち止まり、ゆっくりとユーキたちの方を向いた。
「私もその信者が遺した教団の情報を見つけ、クロフィ家の力を使って密かに教団を復活させて教祖となったのです」
「信者が遺した情報……それじゃあ」
あることに気付いたユーキはイェーナを見つめる。イェーナはユーキと目が合うと笑いながら頷いた。
「そうです。私が見つけた教団の情報は私の親族だった信者が遺した物。そして、その情報を遺したのが当時の教団の幹部、私の父だったのです」
「なっ!?」
ヴェラリアは大きく目を見開いて声を出す。母親であるイェーナだけでなく、母方の祖父までもがエリザートリ教団の信者だったと知ってヴェラリアは驚愕した。
ユーキはイェーナだけでなく、彼女の父親までもがエリザートリ教団の信者だと知ると表情を鋭くする。親子二代で人々を殺め、その血を聖水と言って飲んでいたのかと思うとユーキは少しずつ気分が悪くなっていった。
「私の家は下級貴族で、当主だった父は色々と苦労されていました。立場などから精神的に追い込まれることもよくあり、父はその苦しみから解放されるために教団に入り、聖水で欲しいものを得ようとしたのでしょう」
「その後、お父さんは教団の幹部になったというわけですか?」
真剣な顔で尋ねるユーキを見てイェーナは小さく頷く。
「私も幼い頃に父から教団のことを聞かされていましたが、当時の私は物心がつく前で父が話す教団のことを理解できずにいました。結局、私が教団のことを理解できるようになる前に父は他界し、母も教団のことを詳しく話してくれませんでした」
(きっとお母さんは教団のことを良く思ってなくて、娘であるイェーナさんにわざと教えなかったんだろうな)
イェーナの母親はエリザートリ教団の教義を受け入れず、娘のことを想って教団のことを話さなかったのだとユーキは考えた。だが、母親の努力も空しくイェーナは教団の信者となっていまい、ユーキは母親を気の毒に思う。
「父が他界した後は母が当主代行となり、私と母は二人で生きていきました。それから年月が経ち、成人した私はクロフィ家に嫁いで男爵夫人となりました。しかし、半年前にそんな生活が大きく変わったのです」
「半年前……母上が教団を復活させようと決意した時ですか?」
「そうです。……半年前、私は久しぶりに故郷にある実家を訪れました。その時に父の部屋に隠してあった教団のことを記した書物を見つけたのです」
イェーナは半年前に実家でエリザートリ教団の書物を目にし、教団の存在を知ったことを語る。
書物にはエリザートリ教団の教義を始め、若者の血を飲めばその若者が持つ知識や力、美しさなどが得られること、三十年前にこの世界に現れたベーゼを崇拝していることなどが書き記されていたそうだ。
イェーナは書かれている内容に興味を持ち、長い時間を掛けて書物を読んだ。そして最終的にはベーゼの力とエリザートリ教団の教義に魅入られ、教団を復活させることを決意する。
それからアルガントの町に戻ったイェーナはクロフィ男爵やヴェラリアに気付かれないよう、身分を隠しながら密かにエリザートリ教団の教えを広めて信者を集め、男爵家の財力を利用して教団復活に必要な物資などを用意した。
「私は少しずつ教団が活動できるよう準備を進めていきました。そんな時、教団の情報を聞きつけたアローガ様がやって来て、若者の死体を差し出すよう仰いました。そして、死体を差し出すのなら偉大なるベーゼが教団に力を貸すと仰り、私はアローガ様の提案を受けたのです」
アローガとどのような取引をしたのかイェーナは笑いながら説明する。話を聞いていたユーキはエリザートリ教団を支援していたのが教祖であり、クロフィ家の男爵夫人であるイェーナ本人だと知って目を鋭くした。
ヴェラリアは自分の家の財力をエリザートリ教団のために利用されていたことを知ると小さく俯きながらサーベルを握る手を震わせた。
「資金と物資、偉大なるベーゼの協力を得たことができ、教団は準備を始めて二ヶ月が経った頃に活動できるようになりました。そして復活した直後、私は信者たちにアルガントや周辺にある村から若者を攫わせたのです」
イェーナが若者たちの失踪事件が起きるまでの出来事を全て話し終えるとヴェラリアは顔を上げ、悔しそうな表情を浮かべながらイェーナを睨む。
「母上、貴女は人としての良心を捨ててまで教団を復活させたかったのですか? 罪の無い人々を犠牲にしてまでベーゼが支配する世界が見たいのですか!?」
「先程も言ったでしょう? ベーゼが支配する世界こそが私たちが幸せを感じられる世界なのです。自分や周囲の人々が幸せに過ごせる世界を作ろうとすることがそんなにおかしなことですか?」
理解できないような反応を見せながらイェーナはヴェラリアに訊き返す。
ヴェラリアはイェーナが問題があることを理解していないと知ると奥歯を噛みしめ、娘である自分の言葉や思いはもうイェーナに届かないと悟る。
最初はイェーナがエリザートリ教団の教祖だと知って悲しさを感じていたヴェラリアだったが、イェーナの異常な言動に悲しさは徐々に怒りに近い感情へと変わっていった。
ユーキは母親の異常さを目の当たりにしたヴェラリアに同情の眼差しを向ける。だがすぐに目を鋭くしてイェーナを睨みつけた。
「二つ目の質問ですが、貴女はこれからどうするつもりですか?」
「それは愚問ですよ? 当然貴方たち、そして外にいる貴方たちの仲間を倒して今後も偉大なるベーゼのために活動を続けます」
「……念のため訊きますけど、その中にはヴェラリアさんも含まれているんですか?」
「勿論です」
イェーナの口から出た言葉にユーキは反応し、ヴェラリアも大きく目を見開く。イェーナにとってヴェラリアは血を分けた娘、そのヴェラリアをユーキたちと共に始末すると言い出したのだから、二人が驚くのは当然だった。
「ヴェラリアさんは貴女の娘でしょう? それなのに手に掛けると言うんですか?」
「仕方がありません。その子は教団の教義を受け入れることができず、ベーゼを害悪と見ているのですから。もしもヴェラリアが教団に入ることを決意したのなら私の後継者として迎え入れ、教団やアルガントの町のことを任せるつもりでした。ですが、ヴェラリアはそれを拒否しました。でしたら、此処で消えてもらうしかありません」
自分が腹を痛めて産んだ子に向ける言葉とは思えない、ユーキはそう思いながらイェーナを見つめる。
「……アンタ、本気でそう言ってるのか? ベーゼや教団のために実の娘の命を奪うって言うのか?」
「既にその子は教祖の正体が私であることを知りました。信者にならないのなら、ヴェラリアは教団にとって都合の悪い存在でしかありません。教団を存続させるためならば、私は喜んで実に娘を手に掛けます」
迷っている様子を見せずに語るイェーナを見ながらユーキは月下と月影を握る手に力を入れる。既にイェーナの心にはヴェラリアに対する愛情は残っていない、ユーキはそう確信していた。
ユーキは自分の子供を平気で殺そうと考えるイェーナを睨みながら月下と月影を構え、後ろにいるレンジャーと女魔導士もイェーナを警戒しながら身構えた。その隣ではヴェラリアが俯きながら黙り込んでいる。
「これ以上、アンタのくだらない話を聞く気は無い。投降する気が無い以上、力づくで捕まえさせてもらう」
「そうですか。ですが、私もこんな所で捕まるわけにはいきませんので、抵抗はさせてもらいますよ?」
イェーナはそう言ってローブの中に手を入れ、透明の小瓶を取り出す。小瓶の中には赤い液体が入っており、瓶の中で大きく揺れていた。
「まさかそれ、ベーゼの血か?」
ユーキは小瓶の中に入っている赤い液体の正体についてイェーナに尋ねる。ユーキの言葉を聞いて冒険者たちは驚き、俯いていたヴェラリアも思わず顔を上げた。
「そのとおりです。本来は聖杯に入れて飲まなくてはいけないのですが、現状から聖杯に入れて持ち運ぶことはできないため、小瓶に入れておきました」
小瓶の中に入っているベーゼの血を見るイェーナは美しい物を見ているかのように笑う。エリザートリ教団の教祖であるイェーナにとってベーゼの血は恩寵と言えるほどの物であるため、血を見ると自然に笑みを浮かべてしまうようだ。
イェーナは笑みを浮かべたまま小瓶の蓋を外す。それを見ていたユーキたちはイェーナが何をしようとしているのかすぐに気付いて目を大きく見開く。
「待て! それを飲んだらアンタはもう後戻りできなくなる。人間であることを捨てることになるんだぞ!」
ユーキは声を上げてイェーナを止めようとする。するとイェーナは笑顔のままゆっくりとユーキたちの方を向いた。
「何を仰っているのですか? 私たち教団の人間にとってベーゼになること、ベーゼの力を得ることは最大の願いなのです。血を飲んで偉大なるベーゼと同じ場所に立つことができるのなら、私は喜んでこの聖水を飲みます」
「母上っ!」
ヴェラリアも蝕ベーゼになろうとするイェーナを止めようと大きな声で呼びかける。しかし、イェーナにはヴェラリアの言葉を届いておらず、再び小瓶に入っている血に視線を向けた。
「それに今のままでは貴方たちと戦っても勝ち目はありません。貴方たちを倒すためにも、この血を飲んで私はベーゼの力を手に入れます」
そう呟いたイェーナは小瓶を口に近づける。
「やめろーっ!」
ユーキはイェーナに向かって走り出し、ヴェラリアもそれに続く。だがイェーナは小瓶の中の血を一気に口に流し込み、そのまま飲み込んでしまう。
イェーナがベーゼの血を飲んだ直後、イェーナの体が紫色に光り出し、強烈な発光に驚いたユーキとヴェラリアは急停止する。
「ううっ、ああああぁっ! これが、これがベーゼの力を得る時の痛み……偉大な存在になるための試練なのですね」
全身の痛みを感じながらイェーナは両腕で自分の体を抱きしめるような体勢を取る。通常、痛みを感じれば表情を歪めるものだが、イェーナはベーゼに生まれ変われる喜びから痛みを感じても笑みを浮かべていた。
ユーキたちは眩しそうにしながらイェーナを見ている。すると、光の中でイェーナの体に変化し始めた。
イェーナの肌は水浅葱色に変色し、頭頂部からはサメの背ビレのような緑色の角が生えた。角が生えると今度は両腕両足が僅かに伸び、伸びたことで今までローブで隠れていた足が見えるようになる。
靴は消滅して裸足となっており、足の爪は鋭くなった。両手の爪も鋭くなり、10cmほどに伸びる。更にローブの背中の部分が破れ、先端に四本の鋭い棘が付いた触手が二本姿を現した。
体の変化が終わるとイェーナの体の発光は治まり、ユーキたちにイェーナの姿がハッキリと見えるようになる。ユーキたちはイェーナの変わり果てた姿を目にすると一斉に驚きの表情を浮かべた。
「は、母上、なんということを……」
ベーゼを崇拝するだけでなく、ベーゼそのものに成り下がってしまったイェーナをヴェラリアは見つめる。隣にいるユーキも堕ちるところまで堕ちてしまったイェーナを見て哀れに思っていた。
「おおおぉ! 素晴らしい、これがベーゼの力を得た私なのですね!」
ユーキたちが見つめる中、イェーナは変化した自分の姿を見て目を見開く。体形は殆ど変わっていないが、角や触手など人間には無い物が増えているのを見て自分は間違いなく蝕ベーゼになった知ったイェーナは歓喜する。
人間で無くなったのに喜んでいるイェーナを見たヴェラリアは奥歯を強く噛みしめた。
「これで私は偉大なるベーゼと同じ場所に立つことができるようになった。これほど喜ばしい出来ことはありません!」
「クッ!」
イェーナは両手を横に伸ばしながら天井を見上げて狂喜し、ユーキは喜ぶイェーナを見ながら小さく苛立ちの声を漏らす。
目の前にいるイェーナはもう人間ではない。ベーゼとなってしまった以上、此処で倒すしかないと感じるユーキは月下と月影を構え直した。ただ、ベーゼになってしまったとは言え、娘であるヴェラリアの前でイェーナを倒すのは抵抗があり、迷いを感じるユーキはうっすらと汗を流す。
ユーキが身構えるとイェーナはユーキたちの方を向いて伸ばしていた両腕をゆっくりと下ろした。
「では、さっそく新しい体の調子を試してみましょう」
「……!」
イェーナの意味深な言葉にユーキは反応する。その直後、イェーナの背中から生えている二本の触手がユーキとヴェラリアに向かって勢いよく伸びた。
前から迫って来る触手を見たユーキとヴェラリアは目を見開いて咄嗟に迎撃しようとする。だが、二本の触手はユーキとヴェラリアの真横を通過し、二人の後ろにいたレンジャーと女魔導士の体を貫いた。
「がああぁっ!」
「ギャアアッ!」
背後から聞こえてくる二つの断末魔を聞いたユーキとヴェラリアは振り返り、触手に貫かれた冒険者たちを目にする。冒険者たちは致命傷を受けて既に絶命しており、持っている弓矢や杖を落とし、糸の切れた操り人形のようになっていた。
冒険者たちが死んだのを見たイェーナは触手を冒険者たちの体から引き抜く。触手が抜かれたことで冒険者たちの遺体は床に落ち、伸びていた触手も縮んでイェーナの下に戻った。
「これは凄い! 冒険者を一撃で倒してしまうとは」
イェーナは冒険者を簡単に倒した自分の力に興奮する。ユーキはイェーナの方を向くと険しい顔でイェーナを睨んだ。
「今のでアンタには人間としての良心は微塵も残ってないってことが分かった。アンタは此処で倒す!」
「私を倒す? ウフフフ、できるのですか?」
不敵な笑みを浮かべるイェーナを見たユーキは隣で冒険者たちの遺体の方を向きながら俯くヴェラリアに視線を向けた。
「ヴェラリアさん、貴女には悪いですがイェーナは此処で倒します。アイツをこのまま放っておいたらより多くの人々が犠牲になり、教団は手が付けられないくらい巨大な組織になってしまう。……多くの人々を護るためにも俺は此処で貴女の母親を斬ります」
倒さなければより多くの犠牲者が出る。それを防ぐためにもイェーナを倒すとユーキは語り、ヴェラリアはユーキの話が聞こえていないのか無言で俯いている。
「イェーナを斬った後、俺のことを憎んでくれてもいいです。例えベーゼになったとしてもイェーナは貴女の母親なんです。……貴女には俺を恨む権利があります」
「……そんなこと、気にする必要は無い」
俯きながら低い声を出すヴェラリアにユーキはフッと反応する。顔を上げたヴェラリアは険しい表情を浮かべており、サーベルを強く握りながらイェーナの方を向いた。
ヴェラリアはここまでイェーナの異常な言動に怒りや悲しさを感じながらずっと我慢してきた。だが、たった今目の前で仲間の冒険者たちが殺されたのを見て、我慢してきた怒りが爆発したのだ。
「ルナパレス、私のことは気にせずに全力で戦ってくれ。……私も力を貸す!」
「ヴェラリアさん?」
闘志を燃やすヴェラリアを見たユーキは軽く目を見開く。てっきりイェーナがベーゼと化したことでショックを受け、戦意を失ってしまったとばかり思っていたため、ヴェラリアの反応を見て少し驚いていた。
イェーナは自分を睨みつけるヴェラリアを見るとどこか悲しそうな表情を浮かべた。
「ヴェラリア、貴女は私と戦うつもりなのですか? 人々の幸せを願って教団を復活させ、偉大なるベーゼとなった実の母を?」
「黙れぇ!」
大広間にヴェラリアの怒りの声が響き、ヴェラリアの怒号の声を聞いたユーキは驚く。
ヴェラリアはサーベルの切っ先をイェーナに向けながら鋭い目で彼女を睨む。
「母上……いや、イェーナ! 貴女はもう私の母親ではない。私と父上を欺き、欲のために罪の無い人々を殺めた醜い化け物だ!」
「醜い?」
ヴェラリアの言葉を聞いたイェーナは小さく反応した。
イェーナは美しさに執着し、ベーゼを強く崇拝している。先程のヴェラリアの発言は美しさと崇拝するベーゼとなった自分の全てを否定しているように感じられ、イェーナはヴェラリアに対して小さな怒りを感じていた。
「もはや私は貴女を斬ることに躊躇などしない!」
サーベルを構え直しながらヴェラリアはイェーナに怒りの言葉をぶつける。ヴェラリアの姿を見ていたユーキもイェーナの方を向いて動きやすい体勢を取る。
先程までユーキはヴェラリアの前でイェーナを斬ることに少し迷っていた。娘の前で母親を斬ることは家族の絆を大切にするユーキにとって抵抗があることだからだ。
しかしヴェラリアがイェーナを母親とは思わず、イェーナもヴェラリアに愛情を懐いていないのであれば、心置きなく戦うことができる。ユーキは心の迷いが消えたことで戦いやすくなったと感じながらイェーナを見つめた。
ユーキとヴェラリアが見つめる中、イェーナは俯いたまま黙り込んでいる。しばらくするとイェーナはゆっくりと顔を上げて二人を見た。
「……いいでしょう。貴女が私を斬ると言うのなら、私も容赦はしません。偉大なるベーゼの敵と見なし、排除します」
イェーナは先程まで見せていた笑みを消し、鋭い目でヴェラリア見つめている。その目にはヴェラリアに対する想いなどは一切感じられず、純粋な殺意だけが宿っていた。
ユーキとヴェラリアは得物を構え、ベーゼと化したイェーナを睨みつける。今の二人はイェーナと戦うことに抵抗を感じていなかった。




