嗤う蟲のくに
昔々あるところに、リデュール王国という小さな国がございました。
その王国では、30年間にわたり一切の、些細な争い事も無く、また、老若男女に関わらず全ての国民が常日頃からニコニコと幸せそうに笑っておりました。
涙を流すのは、腹が空いたと母親に気付いてもらおうとする赤ん坊くらいでございました。
さらにさらに、国民は皆誰一人として、決して悲観的な発言をしないのでございます。
他人を傷つけたり貶したり、はたまた否定や拒絶の言葉等も、国民は知る由もないのでございます。
走り回って小石に躓き、膝をすりむいてしまった5才の少女ですら、何事もなかったかの様にスックと立ち上がり、また笑顔で走り回ると言った次第でございました。
大変に幸せな、大変に前向きな国でございました。
ソノヴァという少年も、此の幸せなリデュール王国の国民の一人でございました。
此の青年には、父親と母親、其れに二人の弟、末にまだ小さな妹がおりまして、家族六人で幸せに暮らしておりました。
ソノヴァの職と言いますと、国王にお仕えする家具職人でございました。父親もそうであった様に、まだ若いと言うのにソノヴァの腕は大層なものであり、国王様は毎度素晴らしい笑顔を見せ、大変にご満足をなさっておりました。
其の日も国王様はソノヴァの作った新しい最高級のベッドを大層気に入られ、豪華なお披露目会を催されました。
当然の事ながらソノヴァも招待状を受け取り、家族で国王様の元へ向かいました。今度で三度目の御呼ばれでございました。
国王様には一人の王子と二人の姫君がおられまして、三人とも皆端正で美しく、いつ見ても揃って優しい笑顔を向けておられました。
毎度とりわけソノヴァの目を引いたのは、長女にあたる一番目の姫君でございました。
フランカ姫と仰いまして、ソノヴァとは同い年でございました。とりわけ会話を交わす機会がこれまでにあったわけではございませんでしたが、ソノヴァは密かに、姫君を其の目に見ることが出来る事を心待ちにしていたのでございました。
ソノヴァを先頭に、順に家族全員が国王家の皆々様の手の甲へ口づけを致しました。国王様が、城に集まった者たちにソノヴァの作ったベッドと、ソノヴァ自身、それにソノヴァの家族を紹介なされまして、大層なもてなしを受けたのでございます。
パーティーも盛り上がって参りまして、そろそろダンスの時間になって参りました。
国王様に勧められて、なんとソノヴァはフランカ姫とワルツを踏むことになった訳でございます。なんと光栄なことでございましょうか。ソノヴァは足元だけではなく、心まで踊る様な気持ちでワルツを踊りはじめたのでございました。
しかし、なんとも姫君の足元がおぼつかない様な感じが致しましたので、どうかなさいましたか、と姫君に問うてみたのでございます。姫君は口を開かぬまま、小さく微笑んでソノヴァに会釈をなさいました。
城からの見送りの馬車の中、ソノヴァはずっと姫君のことを思い出しておりました。
美しいフランカ姫。
しかし、やはりワルツの際の姫君への違和感がどうにも気になってしまい、ソノヴァは母親に尋ねてみることに致しました。「母様、女性とは、ワルツの下手な男と踊るとよろけてしまうものでしょうか」、「いいえいいえ、可愛いソノヴァや、お前のワルツは下手ではございませんわ、姫君も喜んでおいででしたわ」、「母様、母様は姫君と言葉を交わされたのですか」、「いいえいいえ、妃様と会話を致しましたわ」、「母様、妃様は姫君の御御足のことについて何か」
母親は、一瞬ピクリと動揺を見せた様にソノヴァの目には見えました。しかし母親はソノヴァや、姫君の御御足がどうかなさったのですか、と、扇子を開いたり閉じたりしながらソノヴァに聞いてきたのでございます。ソノヴァが答えました。「母様、ワルツを踊っていた際に、姫君は何度もよろけていた様にお見受け致しました。もしや怪我でもされているのでは」
其の瞬間、母親は恐ろしい表情で大きな声を出したのでございます。顔を真っ赤にして、ソノヴァの左頬をパンッと打ち抜きました。「お前は姫君と踊ることが出来た、ただ其れだけを喜んでいれば良いんだ!」
ソノヴァはあまりのショックに三日三晩、熱でうなされ続けたのでございます。
笑顔と幸福の王国リデュールにおいて、あの日の母親の様な恐ろしげな表情を目にする機会はございませんでしたし、左頬に残る熱を、ソノヴァは忘れることができないのでありました。しかしながら、生まれて初めての経験故に、母親のあの言動は何がきっかけだったのか、そして母親はどういう心情であったのか。ソノヴァは理解出来ない母親の言動を悪夢に見ながら、三日三晩苦しみ続けたのでございます。そして、同じ馬車に乗っていながら事の一切を傍観していた父親の太い首に両手を掛ける夢も見ましたが、ソノヴァは其れを直ぐに忘れてしまいました。
其れからと言うもの、ソノヴァの笑顔は、母親の前では頬が痙攣し上手く出来なくなってしまいました。母親が立ち上がり、扇子を広げ、大きな声で執事を呼ぶ。そんな時、ソノヴァは無意識に左頬を腕で覆い隠すようになってしまったのでございます。
此のソノヴァの行動は、母親の笑顔も痙攣らせてしまうことになったのでございます。
此の頃から、母親は時たま夜の間見張りも松明も付けずに、ソノヴァを一人地下の大きな牢の中へ朝まで閉じ込めるという行動を取る様になったのでございます。
ソノヴァも一度も抵抗は致しませんでした。そして、そんな夜は牢の中で美しきフランカ姫を想い、無意識に陰茎を触ったりしながら、朝を迎えておりました。
ある冬の寒い朝、ソノヴァは一人、弱々しい朝日の差し込む牢で目を覚ましました。目を開けますと、牢の外には母親と見知らぬ体格の良い男たちが五人立っており、ソノヴァの方を見ておりました。ソノヴァの位置からは母親の顔がよく見えませんでしたが、男たちは五人ともニコニコとソノヴァを見下ろしておりました。常日頃から見慣れている、いつもの“人間の笑顔”でございます。
しかしソノヴァは五人の男の笑顔を見ると、同時に激しい寒気を感じ、全身を湿った寒風に舐められる様な感覚に襲われました。其れはソノヴァが生きてきた中で感じたことの無かった感覚でございました。
「母様、此れから何をなさるのですか」、「喜びなさい、お前に新しい教えを享受するのです」
ソノヴァは無意識に牢の隅へ後退しておりました。さあ、此の感情をなんと伝えれば良いのだろう。ソノヴァには其の為の言葉が分からないのでございました。何故って、大変幸せな此のリデュールにおいて、“幸せ”以外の言葉など存在致しません。兎に角一番壁際まで後退し、男たちが牢の錠前を外して入ってくる様子を、凍りついた様に見る事しか出来ずにおりました。
男たちは凍りつくソノヴァを慣れた手つきで羽交い締めにし、終始笑顔のまま、猿轡を噛ませました。そしてソノヴァの足の爪を手早く一枚、まるで花占いで花弁を数える様に、いとも簡単に剥がしたのでございました。
ソノヴァの耳に、聞いたことのないウオーッという音が聴こえ、疑問に思うよりも先に、自分の喉元から其の音が鳴っている事に気が付き、間髪入れず、感じた事のない苦しみが右の爪先から物凄い速さで駆け上がって参りました。のたうち回るソノヴァを男たちは笑顔のまましっかりと押さえ込み、母親は恍惚な表情で額に薄らと脂汗を浮かべ、肌を赤らめ、唇を舐め、興奮しているのでございます。そのまま男の一人に顔を近づけ、ソノヴァの苦しむ目の前で、男の一人と激しく求め合い、ソノヴァは、目の前の初めて見る光景に興奮し、興奮しながら泣き、泣きながら笑うのでございました。
ソノヴァは其の朝、沢山のことを学習致しました。
母親の前で笑顔が痙攣することはもう無くなりました。
数ヶ月が経ち、再び国王様より命を受け、ソノヴァはとある椅子を城まで運んでおりました。まだ朝日も昇りきらない薄暗い中を、城からの迎えの荷馬車の荷で身を隠しながら向かうようにと申し付けられておりました。
其の椅子には、煌びやかな宝石も、金の枠も、上質な皮も、一切の装飾は要らない、代わりに鉄の枷を前部分左右の脚に付けるように、という御達しでございました。
これまでと比べ実に易しすぎる仕事でございましたから、なんだか物足りなく感じたソノヴァは、其の椅子に誰を座らせるのかを国王様にお尋ね致しました。国王様其れにはお答えせず、お前は脚から流血をしたことがあるかと尋ねられましたので、ソノヴァは、あの嫌な朝を思い出し、苦々しい面持ちで、ございますとお答え致しました。国王様は立ち上がり、お一人で何処かへ向かわれました。
正午を過ぎた頃、ソノヴァは地下室へ通されました。そこにはソノヴァの枷付き椅子と、其処に両手を後ろに縛られて座るフランカ姫の姿がみえました。
枷付き椅子の足元に、赤黒い液体が溜まっておりました。其れを目にしたソノヴァは、あのお披露目会のワルツを思い出したのでございます。
国王様は首だけゆっくりと振り返りました。「ソノヴァよ、母親は好きか」「無論でございます、しかし、どうしてその様な事を聞かれるのですか」「ソノヴァよ、お前の母親は良い女であるな」「我が母ながら有り難きお言葉でございます」その時ソノヴァはまた、あの朝の光景が脳裏をよぎったことを小さく自覚し、振り払おうと致しました。
「ソノヴァよ、我が娘は目にしてしまったのだ、そして私を罵ったのだ。その女は誰でございますか、お母様ではないではありませんか、お母様にお伝えしなくてはと。だがしかしソノヴァよ、悪いのは誰であろうか。此の幸福なリデュールにおいて、此の私に反抗出来る者がいるとするならば、其れは此の私以外には有り得ぬのである。故に、我が娘フランカはあの椅子に座っている。故に、お前は足の爪を失い、これから其の生命すら失うのである」
「ソノヴァよ、お前に我が娘フランカの純潔をやろうではないか。お前は素晴らしい家具職人であった。しっかりと礼をせねばな。あのベッド等、お前の母上も大層気に入っておられた」
無意識にソノヴァは、フランカ姫の枷を外そうと視線を戻した国王様の太い首に背後からゆっくりと両手を掛けてみたのでございます。
国王様は声も上げずに静かに死んだのでございました。しかしソノヴァの眼には、額に薄らと脂汗を浮かべ、肌を赤らめている其の大きな顔がまるで、性欲で昂ったあの日の母親とそっくりに映り、どうしようもなく可笑しく思えてならないのでした。笑いを堪え切れず、両手に体重を掛けながらソノヴァは大いに笑いました。国王様の遺体の隣で一頻り笑い転げた後、ソノヴァは思い出した様にフランカ姫に近寄り、相も変わらず微笑み続ける其の姫君を笑いながらレイプしたのでございました。
ソノヴァの枷付き椅子は、実に有用でございました。自身で其れを証明して見せたのでございます。ソノヴァは大満足し、最後にもう一度姫君の口に舌をねじ込んでから、国王の護身用の短刀で姫君の頚動脈に傷を付けたのでございました。
国王様はソノヴァを秘密の内に一人静かに死なせるおつもりでございましたので、護衛は付けず、短刀のみを腰に刺してソノヴァを美しき姫君の元へ牽引して下さったのでございました。城の大階段を一人で登る返り血だらけの男、其の大笑いしているソノヴァを、屈強な国王様の家臣たちが見つけ、身柄を確保したのでございます。
ソノヴァ・クレイシス・Jr.が広場の真ん中で、高いところから大衆を見下ろしております。
青白い顔に痩せ細った手足首。それを固定するは、姫君の血痕の残った“ソノヴァの枷付き椅子”。
ソノヴァ・クレイシス・Jr.が広場の真ん中で、言い残す事はないかと聞かれております。
「皆様、ソノヴァ・クレイシス・Jr.の職人としての腕は、確かでございました、万歳ー!」
ソノヴァ・クレイシス・Jr.の爪先付近から真っ赤な炎が物凄い速さで駆け上がって参りました。
凍りつく広場に笑い声が響いております。
さあ、此の感情をなんと伝えれば良いのでございましょう。此の国の私たちには其の為の言葉が分からないのでございます。何故って、大変幸せな此のリデュールにおいて、“幸せ”以外の言葉など存在致しませんから。
けれども、同時に妙な昂りを感じているのは私の気のせいでございましょうか。
私はソノヴァの死後、お仕えしたクライシス家を国王様に売り、そこで大いなる“悦び”を得ましたが、あの日広場で感じた昂りとは、一体何という名であったのでございましょうか。
そして争いが勃発し、王国の名も朽ちた頃、鉄の枷のみが、炎にも焼かれずに人知れず存在し続けたのでございました。
完
読んで頂きありがとうございます。
拙い処女作ではありましたが、何処かの何方かの記憶の片隅に、あーなんかそんな小説読んだ気がするわーくらいの感じで残ることが出来れば嬉しいです。
こんな感じでマイペースに更新して参りたいと思っておりますので、暇な時にでもまたいらして下さい。
甘い鼓動