出来損ないは愛を知る
この世界は理不尽だ。
そう悟ったのはまだ私が小学生で、必死に勉強して取った98点を親に破り捨てられた時である。その時は、ただひたすら呆然とした。
なにが起こったのか理解ができない。高得点だと思った。頑張ったから誉められると思った。
『常に完璧でいなさい』
その言葉は今の私を生成したものであり、何かに縛り付ける呪いでもあった。
私、本条咲良には2歳離れた妹がいる。可愛くて明るい少女。堅物の母と父も率先して可愛がる、私の妹。
私とは正反対に位置していて、誰からも愛されるそんな女の子。
妹の持つ才能は計り知れない。何も持っていない私とは違う。勉強なんかしなくてもいつも私と同じくらい取れる。じゃあちゃんとしたらどうなるんだろう。私なんかあっさり追い抜かされるんじゃないか。
両親は二人とも医者で、私の未来もすでに作られているようなものだった。特に私には厳しい。それはきっと長女だから。私には兄もいないし弟もいない。必然的に親を継ぐのは私。
私が塾に行っている間に妹は遊んでいる。デートとか彼氏とか。私には無いものを持っている。
私には学力しかないのに。それすらも嘲笑うかのように高得点を叩き出してくる。努力もせずに親に認められている。
同じ98点でも妹と私では重みが違う。妹が98点なら私は100点を取らなければならない。
努力は報われない。それでもやるしかない。
やるしかないんだ。完璧に、せめて努力で補えるように。
妹が得たくても得られないもの、それは経験。何のために2年早く生まれてきたの?追い付かれたくない。追い抜かれたくない。早く、早く。
いつも妹に比べられて生きてきた。妹は簡単に出来るのになんで貴女は出来ないのって。そんなの私が聞きたい。なんでも予習と復習がないと私は高得点なんて取れない。だって私は天才じゃないんだから。
妹に何かしら欠点があればまだ良かった。妹に勝てる何かで自分を保っていられる。けれど、現実は甘くない。
完璧でいなさい。呪いの言葉が今日も私を苦しめる。
「あ、あの、宮くん……。その、これ私が作ったんだけど、食べてくれない?」
可愛らしい女子の声で我に返った。参考書を開きながらぼんやりしていたらしい。昼休みももうすぐ終わってしまうし、勿体無いことをした。
「あのっ!」
女子は怯まずに窓の外を眺め続ける宮の制服を引っ張る。
教室で何をやってるんだろう。いくら可愛くても彼に近づくのには勇気がいるし、何より虐められやすくなる。
宮翔也。同じクラスの男子生徒。
しかし彼は普通の人間ではない、と私は思っている。いや、確かに人間ではあるんだけど、人間性を感じないほど冷たい。
漆黒の髪色、夜を映したような瞳は星のように光が反射しては煌めく。生粋の日本人の筈なのに、肌は白く人形のように整っている。
ピクリとも動かない様子は本当に作り物なんじゃないかと思ってしまう。
そんなイケメンにファンがいないわけがない。同い年の高校生を神のように崇める者だって存在する。その団体がファンクラブなどと呼ばれるなんて世も末だ。
さらにに頭までいい。本当に腹が立つ。いつでも飄々としていて、努力なんて知らない。
はっきり言おう。私は、宮翔也が、嫌いである。
何でも持っていて、何でもできるコイツには見ているだけで自尊心を傷つけられる。朝も、昼も、授業中も教科書なんか開かずにぼーっとしている。空を眺めていたり、寝ていたり。そのくせ、テストがあれば満点で、学年1位。
コイツがいるから私が1位になれない。満点は取れなくても1位になれたら親からの評価も違ったかもしれないのに。
恨みがましく睨んでいたら宮の瞳が面倒くさそうにお菓子を持った女子の顔を捉えた。
その様子にまたイラッとする。こんな奴のせいで自分が一番になれないと思うと尚更。
宮の一挙一動を見逃すまいとしている回りの野次馬女子(ファンクラブ会員)は宮がお菓子を持ってきた女子に何かしらの反応を見せたことに殺気立った。それとは対照的に当の本人は嬉しそうに頬を染める。
もう、周りが見えてない。恋は盲目だと言うけど本当にその通りだ。
殺気立った女子(ファンクラブ以下略)のギラギラした嫉妬が見え隠れする目を見てあとから起こるであろうことに胸糞が悪くなる。
制裁がどうのこうの言ってるけどあれはただの集団リンチだ。
一度だけファンクラブの制裁を見かけたことがある。図書館に行く途中の中庭でいかにもカースト上位層の女子が一人の女子を囲んでいた。
囲まれてる女子は恐怖に涙を浮かべ、ごめんなさいごめんなさいと繰り返しながら震えていた。見ているこっちも震えた。
気付かれないように慎重に渡り廊下を歩いた時は精神的に疲れた。何だかぐったりして勉強する気も起きなかったので帰ろうとしたが、またあの恐怖の渡り廊下を通らなければならないと気付き泣く泣く諦めた。
もう少し違う場所でやってほしいと切実に願う。
宮はおもむろに席を立つと、お菓子を受け取らずに一言。
「邪魔」
冷たくそう言い放つと興味を失ったように呆然としている女子の横を通りすぎた。あれは、ない。
後ろで宮様が喋ったわ!なんて言ってる女子(ファン以下略)も、ない。
ちらりと一人取り残された女子を見てぎょっとした。ハラハラと涙を流すか、がっくりと肩を落とすかしてるかと思ったが彼女の顔は般若のような恐ろしい顔をしていた。
私からのお菓子を受け取らないなんて、何様なの?みたいな目をしている。そして般若を歪めてにやりと嗤った。笑っても般若なので普通に怖い。可愛らしさが完全に消えた。
他の男子からは見えない位置で笑っているのも計算のうちか。そうだね、その顔で笑ってごらん。百年の恋も一気に冷めるよ。
あれはファンクラブの制裁とやり合う奴の目だ。心底面倒くさい。暫く図書館に行けないじゃないか。
色々と興醒めして参考書に目線を戻そうとした時、一瞬だけ宮と目が合った気がした。
えっ、と思ったけど二度見するのは癪なので何でもないように参考書を眺める。一瞬、本当に一瞬だったからよく分からない。
きゃあきゃあとうるさい後ろの女子(以下略)をチラ見した説の方が有力だけど。
チャイムが鳴って、先生が教室に入ってきた頃にはもう忘れていた。
「はーい、この前の成績返すぞ~」
教壇に立った先生が皆に見せびらかすように成績表を揺らした。生徒はえぇー、とかうわーとか元気にお返事をしている。
数日前に行われた学力テスト。全国でもベスト5に入る超有名進学校である我が学校のテストは難しい。とは言っても小中高一貫なので頭がいい人とただのお金持ちとでかなり格差があるから学年トップに食い込むのはそこまで難しくないと思う。
志望大学の判定までされているこのテストはかなり大切なテストだった。
成績表を奪うように受け取り、やっぱりと落ち込む。紙の端に申し訳なさそうに鎮座している2位の文字。どうせ1位はアイツだろう。本当、いけ好かない。
志望大学はB判定になったけど……。親はこれで満足してくれるだろうか。ああ、家に帰るのが憂鬱にだ。
「あ、すっげー! 2位だ!」
突然後ろから聞こえた大声にびくりと肩を揺らす。教室に響くような声で言うので必然と視線が私に集まった。どうして、こう、デリカシーが無いのだろうか。
「本当だ! 本条さんすごい!」
「それもT大B判定だぜ?」
「確かにいつも勉強してるもんな」
人の成績表を見て好き勝手にいいやがって。
褒められているはずなのに、悔しくて唇を噛む。2位なんて、なんの価値もない。
「本条さんは、私達とは違うもんね」
何が?
「天才だよ、天才」
まあ、宮の方が凄いけどな。ぼそりと呟いたつもりかもしれないけど聞こえてる。
彼らに悪意はない。宮の方が凄いけど、って言ったのも宮とは比べるだけ無駄だみたいなニュアンスだった。アイツは次元が違うから、と。
次元が違う、つまり本物の天才はアイツじゃないか。何もしなくても何でも手に入れられる。そういう奴のことを天才って言うんだ。
「私は天才なんかじゃない」
私の言葉は誰にも拾われず空気に溶ける。行き場を無くしたこのもやもやは黒い塊になって体の中で重く沈んだ気がした。
目頭が熱くなるのを奥歯を噛み締めて堪える。皆に見つからないように成績表を握り潰した。宮翔也がこちらをじっと見ていたことも知らずに。
重たい足を引きずって、なんとか家に帰る。親の帰りは遅いし、大丈夫。
いつものように部屋に引き込もって、課題して、予習して、復習して。目がしばしばしてきた頃に母が帰って来た。
意を決して成績表を渡す。
「お母さん、これ」
鞄を放り投げて、無駄に大きなソファーにどかりと座った母が面倒臭そうに紙を受け取った。この瞬間が一番ドキドキする。
ビールを飲みながらじいっと成績表を眺める母。重い沈黙を破ったのは妹だった。
「ただいまー!」
ドタバタと騒がしく玄関を開けて自室へ走いく妹を注意することもせず何となく眺める。それに気を取られていると母が成績表を返してきた。
「もっと頑張りなさい」
いつもと同じ声色で、いつもと同じ台詞。
私、頑張ってるよ。見て、志望校B判定になったんだよ。そう言いそうになったのをぐっと堪えた。
「はい、頑張ります」
まだ駄目なのか。絶望的な気分で自分の部屋へ戻ろうとした途中、お風呂へ向かおうとしていた妹と鉢合わせた。
「あ、また2位だったの?」
「……うん」
何でもないように問われて頷く。
「どうせ1位は宮翔也さんでしょ? こっちでも有名なんだよ。いいよねー! 同じ学年にあんなイケメンがいるんだもん。羨ましいー!」
小中高一貫の学校なので中等部の妹が宮翔也を知っていても可笑しくない。基本的に小中高で校舎が違うのでほとんど会えないが、やはり学校全体で有名になるほどの美形なのだ。
きゃぴきゃぴと嬉しそうに笑う妹を見て、こういう奴がファンクラブに入るんだなあ、と変に納得する。
「私も早く高校生になって、翔也さんを狙うんだ!」
「空良……。あなた今彼氏いなかった?」
なぜ宮を下の名前で呼ぶのかはこの際スルーさせていただく。
私が素直に疑問を口にすると、空良はキョトンとしてから笑いだした。
「あはは! あんなの遊びだって! もう別れたし。翔也さん以上のイケメンなんてテレビでも見たことないもん! どうしたって劣っちゃうって!」
今度はこっちが唖然とする。今時の中学生はこんな感じなの?
「もちろん、高校生になったらちゃあんと好きになってもらうし、真面目に付き合うよ! あぁ、でも翔也さんが受験に専念出来なかったらどうしよう!」
好きになってもらうのは到底無理だし、その受験を言い訳に告白を断られるかもしれないよ、と言おうとして、止めた。何でもできる妹は宮翔也でさえも落としてしまえそうな気がしたから。
「あ、そうそう。彼氏で思い出した」
妹は大袈裟にはっとしたあと、にっこりと可愛らしく微笑んだ。
「今週末新しい彼氏がうちに来るの。いつもみたいに部屋に引き込もっててね。根暗な姉がいるとか恥ずかしいから」
そう言って、妹は風呂場に向かった。
暫くして一階から母の嬉しそうな声が聞こえる。紙を持っていたから恐らく成績表をみせたんだろう。
また、1位だよ!なんて大声で言っているあたり、妹は私に自慢をしたいのだろうか。妹が私の横を通り過ぎる時にした、見下すような笑みを思い出す。
「惨めだなあ」
何か1つ、妹に勝るものがあれば自信をもつくのに。こんな、途方もなく虚しくなったりしないのに。
運動、出来ない。顔、今更メイクの勉強したって妹に笑われるのがオチ。似合わないって馬鹿にされるだろう。お金もかかるし、興味もない。これも論外。
じゃあ恋愛?私が上手く出来るとは思えないし、彼氏が出来たから何?って話だ。
だとしたら、残るのはやっぱり………。
努力が一番反映されるのが学問。
精神に左右されない、確実な頭脳の努力。
頬を叩いて目を覚ます。出来ないかもしれない、無駄かもしれない。そんな、雑念を頭から振り払って机にかじりついた。
私がここまで腐らずやれたのはある意味家族のお陰かもしれない。私も妹と同じで負けず嫌いな部分がある。悔しさをバネに。そうやって頑張ってきた。
今日も努力で心の歪みを隠す。
深夜まで私の部屋には明かりが付いていた。
「へっくしゅん! ……あれ?」
自分のくしゃみで目が覚めた。肌寒いなと思ったら私はベッドの上ではなく机に突っ伏して寝ていたようだ。
「最悪……」
身体中痛いし、寝た気がしない。勉強中に寝落ちとか、一体何時に寝たのやら……。
鼻水を啜りながら制服に着替える。寝坊しなかったのが唯一の救いだ。とにかく電車で寝ないようにしないと。
しかし、残念ながら上手くいかない。
寝ないように気を付けていたのに、他校の人に寄り掛かって寝ちゃったし(後で平謝りした。優しい人でよかった)授業中は先生の声がどんどん遠くなるし。
私が頬をつねったり、シャーペンの芯を掌に刺している間にも宮は爆睡していたのを見たときは本当に殺意がわいた。
結局、内容は頭に入ってこず、眠気も取れず、中途半端に終わってしまった。一番に無駄なやり方をしてしまったと反省する。
自分への罰として、恐怖を感じながらも図書館へ行こうと決心した。あの渡り廊下を通るんだ。きっとファンクラブがリンチしてるに決まっている。昨日の女子が呼び出されていてもおかしくない。
そうっと中庭を覗く。ちょっと怪しい人だけど万全を期して渡らなければ。間違っても目を付けられてはならない。私の学校生活が死ぬ。
恐る恐る見たけれど女子はおろか、誰一人として居なかった。肩透かしをくらった気分だけど平和なのは良いことだと思って胸を撫で下ろす。
ダッシュで渡ったのはなんとなくだ。
こじんまりとした図書館に入るとふわっと本の匂いがする。いつもは2、3人くらいはいるはずだけど今日はゼロ。
運がいいなぁと思いながら一番気に入っている日当たりのいい場所に座った。勉強を始めようと参考書を開いて、シャーペンを握るが全然頭に入ってこない。心地好い日光と適度な温度、時々吹く柔らかい風。文字を見るたび、ふわあっと眠気が押し寄せる。
なんだこれは!呪いか!
勉強は進まないし、眠気はすごいし段々イライラしてきた。これはもう諦めて寝る?苦渋の決断を迫らせていると、ふっと手元が陰った。
「横、座っていい?」
顔を上げ、声の主を確認して瞠目する。私に声をかけたのは分厚い本を片手に、首を傾げている美少年___宮翔也だった。
「ど……どうぞ」
コクコクと頷きながら返事をすると、宮は嬉しそうに少し微笑んだ。
あ、笑えるんだ。
宮は私の横に座ると、その無駄に長い足を組んで本を開いた。本を片手に椅子に背凭れる姿は様になる。
私が色々と言える立場じゃない。分かってる。席なんて本人の自由だと思う。けれど言わせて欲しい。
もっと席ありますよ。めっちゃ空いてますよ。
言いたいけど言えるわけがない。というか、なんか近い。腕が当たる。
さっと腕を引っ込めたらさらに近づいた。緊張と驚きで心臓が飛び出しそうである。眠気は吹っ飛んだけどこれはこれで問題だ。
ふう、と一つ息を吐いて、諦めた。もう家に帰ろう。勉強は家でも出来るし。
今、この状況よりは快適なはずだ。ただ同じ空間にベッドという誘惑があるだけ。
教科書類を鞄に突っ込んで席を立つ。不自然でもいいや、と半ばヤケクソに鞄を肩に掛けて一歩踏み出そうとした瞬間、強い力で引っ張られた。
「え」
私を引っ張ったのは宮だった。いや、こいつ以外居ないだろう。
「もう帰るの?」
掴んだ腕は離さないまま、真っ直ぐに目を見てきた。黒い瞳に太陽の光が反射してきらきらと煌めくのを見て、惚けてしまった。
暫く見つめあって、我に返って反省する。ちょっと不自然すぎたかな。
「う……うん。帰るよ」
「あのさ、俺本条さんに聞きたいことあるんだけど聞いていい?」
あ、私の名前知ってたんだ、なんて別のことに感動しつつ頷く。私に聞きたいことってなんだ。
「本条さんって、学年2位でも全然嬉しくなさそうだよね」
ひらりと宮がつまんでいる紙を見て目を見開いた。私の成績表だ。いつの間に。
宮は悪戯っ子のように目を細めて続ける。
「皆に褒められても悔しそうで、悲しそうで俺不思議だったんだ」
ねぇ、なんで?と問われて私は茫然とした。
一瞬頭が真っ白になった後、腹の底から沸き上がったのは___怒り。
見られてたんだっていう羞恥と、なんでそんな事聞くんだろうっていう疑問と、早く腕を離してくれないかなっていう希望と。でもそれ以上に腹が立った。
これが学年3位の人とかならまだいい。もっと喜べよって思うだろう。
でも1位の人に言われたら? 馬鹿にしてんの?って思うでしょ。なんで素直に喜べないのか。自分の台詞をもう一度繰り返してみなよ。答えは出てる。
悔しくて、悲しいからだよ!
怒鳴り散らしてやろうかと思ったけど目の前の美形を見て頭が冷えた。相手は宮翔也だ。ここで逆上してどうする。
ファンクラブなんか呼ばれたら色々死ぬ。社会的に抹消される。冷静に判断できた自分に少し感心した。
それでも怒りはおさまりそうにないので、皮肉ってやった。
「天才な宮くんには分からないよ」
冷たく言い放って帰ろうとするけど腕が離れない。
「ちょっと」
「やっぱり君も俺のこと天才って言うんだ」
顔をしかめそうになった。宮を見ても無表情で何を考えているのか分からない。
「俺だって、本条さんと同じくらい努力してるつもりだけど」
その発言が信じられなくて、耳を疑う。宮翔也も努力している?私と同じくらい?
驚いて力が抜けたのを見計らったように腕を引かれて、再び椅子に腰を下ろすことになった。
「宮くんも努力してるの?」
ポロリと溢れた疑問は願望だった。
宮は無表情で頷く。
「でも、授業中寝てるよね?」
「俺、塾と家庭教師で忙しいんだ。一応部活もしてるし、時間ないから課題と予習と復習してると朝方近くて」
淡々と話す一日の内容は私と変わらない。予習復習を宮もしていたんだ。
そう思ったら途端に宮が近い存在に思えてきた。次元が違うんじゃない。この人も努力する人なんだ。天才なんかじゃない。
天才。その言葉が頭に過った時、自分の失言を思い出した。私はとんでもないことを言ってしまった。
「あの、天才なんて言ってごめんなさい」
素直に謝ると、宮は驚いたように目を見張った。意外と表情がころころ変わるんだなあ、と場違いな感想が浮かんだ。
「ううん。俺も答えたくないようなこと聞いちゃってごめん」
すぐに無表情に戻ったけど申し訳なさそうなのは伝わる。
イケメンで、頭良くて、性格も良い。なんだ、完璧じゃん。
宮が思いの外話しやすくて安心したら眠気が襲ってきた。あくびを噛み殺すと、また腕を引かれた。
「えっ」
「眠いんでしょ? 寝て良いよ」
ほら、と自分の膝の上を叩く。もう一度え?っと聞き返すけど、また無表情のまま首をかしげられた。
もしかしなくても、膝枕?いや、ちょっと、さすがに宮翔也の膝の上で寝れない。
いやいやと首を振るけど、あっちも負けじと腕を引っ張ってくる。図書館の椅子は肘掛けがないので必然的に私が前のめりになってしまう。
「誰かに見られたらまずいし……」
「俺達以外いない」
ぐいぐいと引っ張られ、もうこの体勢がきついので諦めて目の前の膝に頭を乗せた。
やっぱり男子だから硬いけど良い匂いがする。さすがイケメンと言うべきか。頭を触られて一瞬体が強張ったけど、優しく撫でられると力が抜けた。
風は吹くし、手で髪を梳いてくれるのでうとうとする。
ああ、これは寝てしまう……。
「咲良、小学生のころ、覚えてる?」
突然名前を呼ばれて意識が浮上するけど、またすぐに沈んでいく。
「俺達、会ったことあるんだ」
頭を大きな手で撫でられて、いよいよ言葉がすり抜けていく。
――――おやすみ
最後に聞こえたのは宮の声か、幻聴か。
とても良い夢を見た気がする。
すやぁっと気持ち良さそうに俺の膝の上で眠る咲良を見つめる。顔色も良くなって、頬を赤く染めながら口が半開きなのが可愛い。
「やっぱり覚えてないか」
俺と咲良が話したのはこれで二度目。
一度目は小学校3年生のころである。
うちの学校は小中高一貫なので咲良とは小学校からの幼なじみとも言える。
初めて同じクラスになったのが小3の時。
俺は幼い頃から無口無愛想だったので、友達はいなかった。
長男だから家を継がないといけなかったし、周囲が口うるさいのであまり外で自由に遊んだ記憶はない。
塾と家庭教師と学校と。小学生の俺はもういっぱいいっぱいで常に疲れていたと思う。
そんな俺の生活の中で咲良は異質だった。俺と同じように周りとつるまず、ひたすら教科書を読んでいる。静かで、大人な女の子。
ただそれだけなのに妙に気になった。俺の家柄や顔で近付いてくる女子や、何も考えていないような元気な女子とは全く違う様子に惹かれた。
ひっそりと仲間だと思っていた。俺と同じ境遇なのだと。勉強することに、周囲の期待に応えることに疲れているのだと。
だから、咲良が桜の木下で一人隠れて泣いているのを見たときは衝撃を受けた。それほど辛いのかと同情した。
「ねぇ、どうしたの?」
俺なら分かってあげられると思って何も考えずに声をかけた。
泣き腫らした、疲れたような目がこちらを見る。目が合った途端またポロポロと泣き出した。
手にはセロハンテープで継ぎ接ぎにされたテスト。まさか虐められたのだろうか。
慌てて隣に座って、背中を擦る。しゃくり上げながら咲良は言葉を紡いだ。
「おか……お母さんがっ……ひ、100点じゃないと駄目って……。」
ちらりとテストを見ると、98点の文字。低くはないはずだ。レベルの高いこの学校のテストにしてはむしろ良い方。
「空良は……100点と、取ったのにって」
空良………?妹だろうか。
「空良って妹?」
「………うん」
唇を噛んで、泣くのを堪えているのが痛々しかった。
兄弟と比べられるのは屈辱だ。自分よりも出来が良かったら尚更。俺にも弟がいるが、いつも外で遊んでばかりのアイツに抜かされたら腸が煮えくり返る。姉には姉なりのプライドがある。そのプライドをズタズタにされた気分なんだろう。
俺は知ってる。咲良がどれだけ頑張っているか。どれだけ外で遊ぶ同級生を羨ましそうに見ているか。
知っている。だから分かる。
今、咲良がどんな気持ちでいるのかも。努力が認められないことほど悔しいことはない。
「俺も、俺もがんばるから。一緒にがんばろう」
気が付いたら口からそんな言葉が漏れていた。咲良に一人で頑張れなんて言えない。ならせめて、一緒に努力しよう。
泣き止んだ咲良は俺の言葉に驚いたようだったが、真っ直ぐに目を見て答えた。
「うん。がんばる」
覚悟を決めたその瞳に。瞳の奥にあるその熱意に。
やっぱり綺麗だなあと見惚れてしまった。
それから俺は死に物狂いで勉強した。咲良と約束したから。
「大丈夫。もう二度と泣かせたりしない」
8年ぶりに咲良と話したけれど素直なところは変わってない。
咲良、もっと俺のこと頼っていいよ。
そのために頑張ったんだ。
さらりと前髪を撫でると気持ち良さそうに頬を緩めた。
咲良には幸せでいて欲しい。
咲良が笑ってくれればそれでいい。
頬をつついても、手を握っても、咲良はヘラりと笑うだけ。幸せそうに。
「あー……もう。俺が拐っちゃっていいかな?」
咲良を幸せにするのは俺でもいいんじゃないか。俺なら、絶対に幸せに出来る。
けど、それを咲良は望まない。泥臭いことをしてでも自分で成し遂げる。必要があれば努力だって怠らない。そんな君だから好きなんだ。
もう一度頭を撫でて、汚い感情には蓋をした。
君が望むその日まで俺がずっと隣にいよう。
木漏れ日が嬉しそうにゆらゆら揺れた。