懐郷
僕は気がつくとどこか見覚えのある場所に立っていた。
古くなってヒビが入ったアスファルト、そしてあちこちから聞こえる秋虫の合唱。合掌造りが目立つ集落。
そうか、ここは僕が引っ越す前に住んでいた村だ。この村は今はダムの底に沈み存在しない。つまり、僕が見ているこの光景は夢だ。
目の前にトラックが止まっていてトラックの助手席から僕に向かって誰かが泣きながら手を振っていた。「バイバイ、悟くん!私が********。」
顔はぼかしが入っているようにぼやけていてよく見えない。しかし、服装や声から手を降っている主が自分がよく知っていた女の子で有ることが分かる。距離的には目の前のはずなのに女の子の声が段々と遠ざかるーーー。
はっ!!僕は起き上がる。昔、苛ついて、筆箱を思い切り投げたときに開いた天井の穴、壁に貼られた人気アイドルのポスター。どう見てもここは僕の寝室で、先程までの光景は夢だったのだ。夢に出てきた彼女は村で一番仲が良かった友達で幼馴染と言っていい関係だったと思う。東海豪雨の後、ダムの重要性が再認識されてお国の方針で僕の村が沈むことが決まった頃、彼女とその家族は僕を含めた他の村人よりも一足早く村を出ていった。村を早々とあとにした理由は当時小学校低学年だった僕にはよく分からなかったが、今になって考えればお世辞にも裕福な家庭では無かったと思うし、生活の問題なんかがあったのかもしれない。
彼女は僕にとって大切な存在だった。楽しかった事、他の人には話せない恥ずかしい話も彼女にはした。好きな女の子ができた時に彼女に恋愛相談に乗ってもらった事もあったっけ。
しかし、長い時間が経ち僕の大切な記憶は「忘却の渦」に容赦なく巻き込まれ今では彼女の名前や顔すらよく思い出せない。それに何か大切な事を忘れている気がする。
僕は忘れている何かを思い出せない気持ち悪さを持ったまま、今日も学校に行く準備をするのだった。