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花の識守

作者: 靄霧霞

 

 

 

 顔中を真っ黒に染めた男が野卑に笑った。その歯だけは白い。

「若頭ァ! この女男、どうしやす」

 それは数人ばかりの徒党だ。筋骨で肥えた、とは言い難いものの総身に活力ある若い男どもと、その中でもより威を備えた禿頭の男。そして、ひょろ長く弱々しい肢体の男。

 いや、男だろうか。だとしても女だろうか。その骨格はどこか異様である。

「掘らせてみろ」

 若頭と呼ばれた男――徒党の中で最も活力に満ちた者がそう言った。

 彼ら徒党は世界のどこにでも居るような男衆である。砧ノ国四泉、つまり辺境にある『砧』という国の四番目に作られた集落に属している。

 男衆の仕事とは、穴掘りと水脈探しだ。土と岩で埋め尽くされたこの世で生きるために必要なことだ。穴を掘らなければ住む空間もない。水がなければ生存することはできない。

 とりわけ水は大事だった。数日は食わずとも人は生きられる、しかし水なしにそれは難しい。そして、水はたやすく得られない。新たな集落は必ず泉が発見されてから拓かれ、どの集落も『泉』を銘とすることが、その証左である。

「ほらよ」

 女男と嘲られた者に、穴掘り用のつるはしが投げ渡される。男なら、というより男衆に属するなら誰もが軽々と扱うつるはしである。だが、その者は受け取ることはできたものの、そのままよろめいてしまう。笑い声が隧道に響く。

 慣れているのは、蔑みか、自らの非力さか。口元だけ歪めると、その者はつるはしを隧道の端に向かって叩きつけた。

 それなりの音が響く。

 悪くはない堀りぶりであった。腰を据え、つるはしの重みも利用して、硬い土に先端を食い込ませていく。その繰り返しのうちに、荒い呼吸の果て、穴は少しずつ大きくなっていく。

 だが良くはなかった。遅すぎた。

「スピカ」

 そう声をかけた若頭が、自前のつるはしを壁に叩きつける。

 一撃。たったのひと掘りで、スピカと呼ばれた者が時間をかけたものより大きな穴が刻まれた。その能力の差は、目を背けたくなるような明らかさで露わになってしまったのだ。

「小さい。遅い。……そして、すぐ疲れる。無理をするな」

 荒い息で呆然とするスピカをぐいと引っ張り、後ろに追いやって、若頭は穴掘りを再開した。男衆たちもそれに続いた。仕事が再開され、ただスピカは無視され続ける。もともと仕事熱心な連中、穴掘りが再開されればスピカを嘲ることなどするわけもない……。

 握り拳で、見る間に掘り進められる隧道をただ眺めていたスピカ。若頭らの背が見えなくなって、それでようやくその場を去った。



 男でも女でもない。どちらかあるのではなく、どちらもあるのでもなく、どちらもない。無性。

 それが四泉の素比夏、つまりスピカだった。

 だから女男、あるいは男女と蔑まれる。どちらにも身を置けない。

 いや、それでもその身が非力でなくば、あるいは掘り者として男衆に、あるいは保ち者として女衆に迎えられたかもしれない。だが、スピカのひょろ長い異様な肢体はただ弱々しく、どちらの仕事も求められるほどのことができなかった。

「それが、もう、痛々しくてさー……」

「だから何だ」

 仕事を終えた男衆若頭の対面に座るのは、女衆若頭である。だが、若頭と呼ばれることを嫌い、その名の甘間楽、つまりアマラと皆に呼ばせている女性だ。

 アマラは、そのがっしりとした体を若頭に寄せながら言う。危険を感じ、若頭はゆっくりと身を引いた。彼とアマラは昔からの喧嘩友達であり、警戒を怠れば不意打ちの拳が飛んでくることがある。

「スピカ、なんとかならないの」

「男衆には入れん。仕事は仲良しごっこじゃない」

「女衆にも無理だって。あの陰気さ……というか、目? 無理無理」

「ひどいな」

「本当のことだし」

 あえて反駁せず、若頭は言う。

「頭が悪くない。から、父の跡を継げれば、と」

「泉長を?」

「違う。俺の親父だ」

 もともとスピカは集落の差配者、泉長の子だ。しかしその異形ゆえに、識守である若頭の親に預けられた。スピカと若頭は同じパンで育ったのだ。

「無理っしょ。識守はみんなから尊敬されてないと」

 そう言ってアマラは笑った。

 彼女のその姿に、若頭の胸に怒りが弾ける。――さんざん俺の家族を笑い者にしてきたのは、お前たちではないか。

 心を宥めるようにして、若頭は白い濁り酒を飲んだ。硬い土を掘った後に再び生えた柔らかい土を水に漬け込み、昼と夜をたっぷり吸わせた酒は芳醇だった。

 つまみは塩焼きの苔板。生えようとする土を何度も掘り潰していると、次第に土が生えにくくなり、そこに苔がつくようになる。その中で、毒のない苔は珍味としてよく食べられている。

 苔を刻んで板状に整え、塩で焼いたものにはこたえられない味わいがある。普段の料理とは違う、パリパリとした食感と塩味がたまらないのだ。

「あんたでもまぁ演れるんだし、スピカも琵琶いけるんじゃね。で、教会の巡礼」

「牧師にさせろってか」

 楽器を背に、土地を巡る聖職者。識守でも衣買と婚姻と葬送を挙式することはできるが、正式ならばそれらは教会の巡回牧師の仕事である。

「この村にもう居たくはないっしょ」

「……かもな」

 そう言って若頭は苔板を噛み砕くと、濁酒の杯をぐいと干した。そうして天を見上げる。

 どこまで眺めても土だ。集落の広場、天井は高くとも結局は土。掘れども掘れども土か岩しかない。岩は掘れないし、掘った土の穴はすぐにまた土を生やす。その土は食える土だが、それでもしばらく経てば食えない土になり、最後には硬い土となって穴を元通りにしてしまう。

 この広場だって女衆が掘り直すことで維持しているけども、それをやめればそのうち土の中に戻るはずだ。

 掘って、掘って、掘り続けて。

 男衆は硬い土を掘って。女衆は柔らかい土を掘って。

 いつから掘っているのだろう。いつまで掘っているのだろう。

「アマラ。いくつになった」

「あんたと同じ。二十」

 この世では四十歳まで生きるのは稀だ。衣買の十五歳までに大半は死ぬし、三十歳を越えて生きる者は多くなく、四十を越えたらもう年寄だ。いま集落で最も歳を経ているのは四十四歳の女性で、体を悪くしているからもうじき死ぬだろう。

「折り返しか」

「うっさい。あたしは八十歳まで生きて名を残してやる」

 鼻で笑って、若頭は立ち上がった。

「腹減った。帰る」

 若頭がいくらか歩いたところで、アマラが言う。

「もう十四なんだからね」

 その言葉に反応は示さず、若頭は去った。



 若頭の父である座砂、つまりザサは識守だ。人間のことである籍を扱う。昨日と今日と明日のことである暦と史を扱う。その、集落で最も知識を持つザサが言ったことがある。

 あれは、花だと。

 若頭がその時まで見たことのある植物とは、苔だった。だから最初、それが植物とは思えなかった。

 いかにも弱々しく伸びた細い棒。おもちゃみたいにちゃっちい三角。几帳面に揃えられた五つの軽い白楕円。だというのに、それらすべてに信じられないほどの生命力を感じたのだ、若頭は。

 それを持っていたのはスピカだった。手も顔も泥に塗れていた。

 ザサは、スピカの頭を優しく撫でながら、戒めるようにふたりに言った。

『それは花ですよ、スピカ。とても珍しいもので――だから』

 だから。

 その後、ザサはなにを言ったのだろうか。若頭はどうにも思い出せない。

 家に帰ってもスピカが戻っていなかったので、いま彼は、スピカを探してあちこちを歩いている最中だった。

 彼は知っている。こういう時、たいてい、スピカは花の横にいる。誰も気に留めないような場所で、一輪、この世界ではめったに咲くことのない花を握っている。

「スピカ」

「遅かったじゃん、くそハゲ」

 目の充血した、陰気な顔でスピカが振り向く。

「酒臭いよ、兄ちゃん」

「アマラと飲んだ」

「仲いいね。さっさと子供を作れば? 文句なんて言われないでしょ」

 この集落では十五歳で成人となる。その後は、食事情にもよるが、原則として子を成すことが奨励されていた。なのに、二十を越えて艶っぽい話がほぼない若頭は珍しい人間と言える。

「飯だ。帰るぞ」

「ほっといてよ、僕なんか」

「なんかとか言うな。……なんかとか」

 頭をかく若頭に、スピカが恨みがましく言う。

「昼。引っ張られて、痛かったんだけど」

「そもそも来るなっつってただろ」

「サイアクだよ」

「すまん」

「心がこもってないなぁ」

 そう言いながら、スピカは立ち上がる。その手には花がある。小さくて、ささやかで、簡単に踏み潰せそうな、花が。

 それでも色鮮やかな。

 笑いながら、スピカはその花を若頭に差し出してくる。

「花。あげる」

「ん」

 受け取った花を、若頭はそのまま食べた。

「おいしい?」

「しょっぱい」



「上手ね」

「……どうも」

 識守の住居の裏手、どん詰まりでスピカは琵琶を弾いている。そこに、ずさずさと遠慮のない足音で近寄ってきたのは、アマラだった。

「兄貴になんか用?」

「あんたによ」

「へぇ?」

 雑に演奏しながら、スピカは鼻で笑う。

「女衆のとこにはもう行かないよ」

「そりゃ結構。男衆に受け入れられるとも思えないけど」

 スピカは険悪な顔になって言った。普段、侮り蔑んでいる連中でも、その表情に出くわせば両手を上げて退散するだろう、そんなキツい表情だ。

「帰れよ。鬱陶しい」

 だがアマラは飄々と肩をすくめ、気にしない素振りで続けた。

「……本音を言うと、あたし、あんたのことが嫌いじゃないのよ?」

「なおタチが悪ぃーぜ」

 イライラした様子でスピカが吐き捨て、ほぼ同時に空間がゆるく震える。

 掘り抜いて空間を確保しているこの世において、地震とは、世界すべてが震えるという大災害だ。いくら頑丈に補強してあるとはいえ、強い震えがあればすべての場所で崩落が起こってもおかしくはない……。

「大丈夫かな、兄ちゃん」

「埋まってるかもね」

「あんたが埋まれよ、デカぶつ」

「はっはっは。デカくてスゴい私だぞー!」

 仁王立ちで腕組みするアマラの姿に敵意を向けながら、舌打ちひとつ、スピカは素焼きの瓶から水を飲む。ぐびりとではなく、ちびちびと。

「最近、地震ばっかだねー」

「僕のせいだとでも?」

「年寄はそう言ってるな」

「お前アレだろ、黒虫の頭を正月に拝んで聖句を唱えるタイプ」

「ホホホ。それをひとは余裕と言うのヨ」

「ぶっ殺したい……」

 そう吐き捨てたものの、スピカはもうアマラを無視することにしたらしい。顔を背け、琵琶を爪弾き始める。

 しばらく演奏を聞いていたものの、アマラはつまらなさそうに言い捨てた。

「ひっでぇ音。やっぱあんた下手だわ、琵琶。もしくは天才」

「うるせー、死ね」



「そら」

「……なんだそりゃ」

「知らない」

「オイオイオイ」

 渡された花を握りつつ、呆れながら若頭は言葉を返している。視線の先にはスピカがいた。その先には苔。彼らがいまいるのは、苔の群生地だ。昼間だから土が白く光っており、苔に覆われた壁がじわり輝いている。

「知らないけど、その言葉は知ってる。どこにあるのかも」

「誰かなのか? 何かなのか?」

 問いかける若頭に、スピカは生の苔をかじりながら行儀悪く返事をした。

「ここにはないものなんだって。土を掘って、掘って、それでも掘って。岩に当たって。それでも抜けて」

「どうやって岩を抜くんだ」

「どうにかするんだよ! ……で、その先。土と岩の先。それが、そら」

 言い切ると、スピカは苔をむしって壁に字を作り始める。苔は集落の共同財産であり、勝手にむしっていいものでもない。だが若頭は止めなかった。

「そら。こう書くんだ……『空』って」

 むしった苔を若頭も食べる。生の苔は苦味が強いが、成形すると失われる爽やかさがあり、かじるたびに鼻や喉へ柔らかな酸味が渡っていく。

「誰が言ってた?」

「ザサ」

「親父か」

 しばらく、ふたりとも言葉もなく苔を食んでいた。空に想いを馳せていたのだ。

 彼らがいるのは土の中だ。掘れども掘れども、行き当たるのはひたすら土と岩しかない。だが、世界はそれだけではないと、『空』という言葉が示している。

 嘘かもしれない、嘘じゃないかもしれない。それはわからない、それがなにかすらわからない。それでも、ここではないどこかの匂いを、ふたりは味わっていた。

 そこは、ここよりも良い場所だろうか?

 手にあった苔をを一気に飲み込んで、両手を払い、スピカはその吊り目がちの瞳で若頭を見上げる。

「ねぇ、兄ちゃん。兄ちゃんがいなくなったら僕はどうすると思う?」

「葬式」

「行方不明イコール死かよ! 早えよ!」

「なにごともさっさと失敗するのが一番だ」

「ひでぇ! そこはかとなくひでぇ!」

 わめくスピカの口に花を突っ込んで黙らせ、若頭は言う。はっきりと、強く。

「色々あったが、俺ァ男衆若頭だ」

「……知ってるって」

「忘れんなよ」

「なにそれ」

 鼻で笑い、スピカは顔をそむけた。さんざん向けられた嘲笑、それと似たものを自分と若頭に向けながら。

「兄ちゃんの手に余るよ。二十本あるんだから」

 まともでないこと。それゆえ、まともでないと自覚し、自覚させられ、緩んだ心がなおまともでない方へ進ませる。この種のことは、当人に責任を問うても意味がなく、ただそういうものだと考えるしかないことがらのひとつだろう。

 いつの間にか昼が終わり、土のほとんどは光を弱めていった。夜になるのだ。

 若頭も、スピカの横顔も、色を失っていく。

 そっと、若頭はスピカの腰に手をやって、握った。

「……それすら愛おしい」

「えっ」

 慌てたそぶりのスピカが、若頭の手を上から掴む。

「ちょっと生理的に受け付けないんでやめてもらっていいですか」

 早口で言葉を投げるその表情は、土から出てくることのある黒くてカサカサする虫を見かけた時とそっくりだった。

 照れながら、腹も立てながら、若頭は言う。

「うるせぇ。俺の家族は親父とお前だ。嫌なら出てけ。どこぞにでも行ってあちこちで琵琶ァかき鳴らして聖句でも唱えてりゃ良い。……そっちのが良いってんならそうしろ」

「出てけとか! 兄ちゃん、薄情」

「これはうぜぇ」

 半眼になった若頭の手を、両手でそっと腰から離して。それから、自分の手を握ったままでスピカは呟く。

「ほんっと、兄ちゃん。……薄情」



 泉、と言っても外気に解放されているわけではない。それは厳重に管理され、必要な分だけ放出される機構で守られている。この水こそが生命を保つための絶対なる砦であり、これが失われた時とはそのままこの集落が終わる時なのである。

 だからこそ、集落の差配者は泉長と呼ばれるのだ。

 基是、つまりキゼ。

 それがこの砧ノ国四泉の泉長である。四十歳を越えた年寄にしてなお剛健そのものであり、集落の誰よりも大きな体を備えた男性だ。

 集落で最も聖なる場所、つまり泉から水が供給され始める地において、キゼはある男性と向かい合っていた。

 ザサである。つまりこれは、集落における権力と知力の会談である。

「次の識守、誰と考えておる」

 キゼが口を開き、ザサは言葉を返す。

「スピカ」

 無表情を貫くキゼからは、感情が読み取れない。ザサの返答は、はたして彼にとって予想通りであったのか、そうでなかったのか。

「あれは、道だぞ」

 そう言って、キゼはある文章を諳んじる。

「性なく、腰に指ある者、辺境にありて水瀬と厄災を呼ぶ者なり――」

「――その者、衣買の時を迎えず、成人にならず、岩の先に消ゆ。古文書、識守の史にある通りならば、そうなのでしょうね」

 途中からザサは受けて唱えた。それはかなり古い史書物に刻まれた文章だ。

 スピカのような異形の者は、この土中の世界において何度か生まれていた。そして例外なく、彼らの存在は水や災害と結び付けられ、成人つまり十五歳を迎えるより前に岩壁を越えていった。そう、語られているということだ。

「地震は増えた。史を知らずとも年寄は怯えておる、あれなるバケモノを殺せと」

 キゼは事も無げに言い、ザサが反駁する。

「だが史の通りにならなければ、スピカにも人生があります」

 ゆるく、泉の部屋が振動する。それは地震めいてはいたが、そうではない。

 キゼは大笑していた。

 無表情めいた顔のまま、周囲の土を震わせるほどの強さで笑っていたのだ。

「子でしょう。親でしょう。……人でしょう」

 笑いが止んで後、ザサが諭すようにキゼへ言う。しかし、キゼもまた同じような声音で返した。

「どうしてそこにこだわる。人としては出来損ないだ」

「……私の子です。侮辱はやめていただきたく」

 キゼは吊り目がちの顔をゆるめ、しかし目のギラつきは保ったまま言葉を放つ。

「悪かった。あれは、人の振りしたまがいものと言うべ――」

「泉長!」

 耐えきれず、ザサが遮る。

 誰かが水を汲み始めたらしい。彼らのいる部屋に、水が流れる音が響く。

 初めてキゼは笑い、呟くように声を発した。

「――いつからだろうな」

 責めるような口調ではなかった。むしろ労りがあった。寂寥もまた。

「最初から違っていたのか? あれが違えさせたか?」

 ザサは首を横に振る。

「人は人です。あの子をまがいものと言うなら、誰だってまがいものだ」

「ザサ。間違っているぞお前は」

「それが人だと申し上げています」

 キゼとザサが真っ直ぐに睨み合う。

「性もなく、腰に余分な指が生えていてもか?」

「そもそも人間とは土を食う生き物でしたか?」

 互いの視線に、相手を叩き潰そうという暴威はない。しかし、それを譲れば立ち行かぬという強さがあり、それゆえ相容れなかった。たとえ、諭すような優しさが含まれていたとしても。

 腕を組み直し、キゼは言う。

「……正しくあろうとは思わんのか?」

 ザサもまた居住まいを正し、はっきりと声を発した。

「思います。ただ、正しくあらねばとは思いません。それこそ人ではない」

 そして睨み合いは続いたが、ふいにキゼが視線を逸らせた。そして、長く深く息を吐いて、それでも出しきれなかった寂しさを匂わせながら、ザサに背を向けた姿勢で苦く笑った。

「もう、人は空の内にあるべきだと思わないのだな、ザサ」

「……人は人の内に」

 儀礼のように深く頭を下げ、そしてザサは踵を返した。

 入れ替わりに、ひとりの女性が入ってくる。アマラである。

「牧師は言う。土を食むのは罰だと」

 声をかけようとしたアマラの機先を制し、背中を向けたままキゼは問う。

「アマラよ。お前はどう考える」

 なにも気負わず、あっけらかんとアマラは答えた。

「知りません。なにを食う、どこで住む、そんなことはなるようになればいい話」

 アマラの言葉には強さがあった。夢を背負わない強さだ。

 彼女にも夢がもちろんある。だがそれを現実とは混ぜない。混ざらないと知っているからでもあり、そうあることが彼女の心身に適していたということでもある。

 安心しながら、少し揶揄するような口調でキゼは言い。これまた気楽にアマラは返答する。

「お前は強いな」

「いいえ。みなが弱すぎるだけかと」



 土にまみれ、体中が赤く染まっている男が事務所で若頭に報告をしていた。その顔には仕事をやりきったという感情がある。

「若頭ァ。穴、ようやく奥岩に当たりやしたぜ」

 ここしばらく、彼らは頻発する地震にもめげずにひたすら穴を掘っていた。いつもの水脈探しではなく、岩壁にぶつかるまで掘るという仕事である。辺境は岩壁も多いとはいえ、そこまで掘り続けるのはなかなかの苦労があった。

「おつかれ。今日はもう仕事、上がっていい。酒も飲め」

 男は口笛を吹いた。

「ありがてぇ。……しっかし、なんでまた岩に当たるまで掘らせたんで?」

「泉長の指示だ」

 渋い顔をして、男が言う。

「仕事ァ危ねェもんですが、危ねェ仕事をやらされるのは勘弁ですな。何人も怪我をした」

 穴掘りたちの経験知によれば、岩壁に近いほど地震は増えるものだった。それゆえに、岩壁はできるかぎり避けるのが原則となる。しかし今回、彼らがした仕事はその原則に反しており、しかも地震が多くなっているという状況。かなりの危険が予想され、実際に被害も出ていた。

「死者が出なくてよかったよ」

「ですな」

「それでもやりとげられた。みなのおかげだ、感謝するぜ」

「いえいえ、どうも。ま、文句ァあたしに留めさせますよ。では」

 とはいえその仕事も終わり。何度か掘り直しをして隧道を維持する必要はもちろんあるが、苦労は減るだろう。

 書類用の土板に文字を刻みながら、ふと男が思い出して口にする。

「あぁそうそう。若頭の……その、弟だか妹?」

「スピカか」

「手ぶらで穴の奥に行きやしたぜ。様子がおかしくて、止めるこっちも見なかったですな」

「……なんだって?」

 驚きながら、若頭は呆然と問い返す。

「危ねェですよ。最近、地震も多いわ――」

 男のその言葉通り、みしみしと世界が揺れる。若頭の体が、地震とは違うなにかでぞわぞわと揺れる。

「――やはり多いですな。地震」

 男の言葉の終わりも聞かず、事務所から若頭は飛び出していた。

『それは花だよ、スピカ。とても珍しいもので』

 若頭は思う。なぜ俺は走ってるのだろうと。

 いつ頃からか、彼は焦燥を覚えるようになっていた。スピカのことを考えると言葉にできない胸の苦しみがあった。

『だから、ミナベ。お前が』

 いつかの光景が、言葉が、若頭の頭の奥で回る。

『面倒をみるんだよ』

 走りながら、苦しい呼吸によって、若頭はようやく気付く。

 あの時。

 泥と花の笑顔のスピカを見た時。その瞳の煌めきが。

 彼の胸に、いつか消えるであろう幸福、という釘を打ち込んだことに。


 そうして、砧ノ国四泉で、凄まじい地震が引き起こされる。


「……地震って怖いね」

「なんで、お前、は」

「ごめん」

 穴の奥、岩壁の前に、ふたりはいる。

 スピカはほぼ無傷。だが、若頭は重傷を負っていた。隧道が崩落した時、スピカをかばって岩に押し潰されてしまったためである。

「……這いずるぐらいしか、できそう、に、ねぇ」

「折れてる。あちこち。少なくとも両足」

「出血は……」

「縛ってある、左足、膝近く。ごめん、腐るかも」

 落ちてきた岩は、若頭の右足を巻き込んで左足を潰してしまった。もし生き延びたとしても、男衆としては再起不能と言っていい大怪我だ。そもそも、出血量からして命にも関わるだろう。

 若頭の顔は青い。

 早く安全な場所に運び、しっかりと治療しなければならない状況だったが、隧道は崩落してしまっている。彼らふたり、岩壁付近に閉じ込められた形だ。救助を待つしかないが、隧道が完全に崩落するほどの大地震である。集落付近の被害状況によって、救助の時期はずいぶんと後になるだろう。

 あるいは、救助など来ないかもしれない

「……俺の葬式はお前に任せた」

「あることないこと言えってことは、被虐主義者か。ごめん、もっといじめてあげればよかった」

「ボケが長ェよ……」

 意識を保っていたほうが良いとはわかっていたが、若頭はまぶたを開けていられなかった。努力しても瞬かせる程度しかできず、往々にして飲み込まれるように目を閉じてしまう。

 そんな彼の唇に、ぬるい水が染みた。

「水があるのか……助かる……」

 その潤いに癒され、若頭の意識が少しはっきりとしてくる。

「飲みたいだけあげるよ」

「多いと……死ぬ……」

「大丈夫、兄ちゃんは大丈夫……」

 自分の体で若頭の体温を保ちながら、スピカは優しく語りかける。危機的状況だというのに、その声には怯えも震えもない。まるで、……ようやく家路にたどり着いたとでも言いたげな、安心した声だった。

 自分の近くにスピカがいる。それだけで、若頭もまた、安堵している。

「……本当は、俺は」

 『お前を守りたかった』。若頭はそう言おうとした。

 実際、それは彼の望みだ。スピカをこの世にある理不尽から遮断し、スピカが望む道を、望むまま進めるようにしたかった。苦労や困難を排除したかったわけではない。ただ単に、理不尽や呪いめいた生来から解放されてほしかったのだ。

 だが若頭にできたのは結局、ほんの些細な、毒に一滴だけ水を加えてゆるめるぐらいのことしかできなかった。少なくとも彼はそう思っている。

 悔しかった。申し訳なかった。

 その思いが、この土壇場で口をついて出ようとして。

「僕を男だと思ってた? それとも女?」

 遮って、スピカが言う。

 いつもの、しかし土壇場ですら変わらない自虐である。男でも、女でも、人間であるかすら怪しいスピカにとってそれは、世界が震えたって変わらない。

 スピカは笑っている。

「笑ってんじゃねぇよ」

 謝罪めいた心持ちもどこへやら。若頭は、怒りにまみれた言葉を返す。

「お前がなにかなんて知るか。泥まみれで、花をくれたのは、お前だ」

 言葉を受けて、スピカはなお笑う。

 若頭のその真情でさえ、スピカの薄笑いを止められない。だが、それでも、たった一筋だけ涙が、スピカの瞳から頬へと流れて、若頭の顔に落ちる。さっきの水の味に似ていると、彼は思った。

「どうしたかった」

「……卑怯だよそれ。先に言わせようとするの」

 めんどくさいやつだ、と若頭は思う。怒りを帯びた心は、スピカがバカじゃねぇのかとさえ考えていく。……だけど、そんなところに、満足もしていた。

「スピカ。俺と、一緒にな」

「……卑怯だよそれ。先に言っちゃうの」

 若頭は歯噛みしてから、毒づいた。

「クソかよ。いいさ」

 そうして若頭は咳き込む。埃っぽい場所で、しかも重傷を負った状態で話し込んだためだった。

 慌ててスピカは水を用意する。咳の合間に、若頭はこぼしながらもスピカの手から何度も水を飲んだ。

「大丈夫……大丈夫。まだいるかい」

「ありがとう……すまねぇ、こぼしちまった。水は、大事だってのに」

 若頭はスピカの体に顔を向ける。救助まで持ちこたえなければならない状況だから、水は命綱と言える。残りの量を調べなければならないと考えたのだ。

 そこで、若頭は気付く。水筒なぞ、スピカは持っていない。

 目を見開いた彼は、スピカの顔を確認する。血の気が引いており色が薄い。息も荒い――

「待て。お前、水、どっから」

「……いいから飲みなよ。僕の水だぞ。花だって育つ……」

 ――言葉を言い切るや、へにゃり、とスピカは若頭の胸に倒れ込んだ。

「おい。おい! こら!」

 若頭の呼びかけで、うるさそうな様子でスピカは目を開ける。

「……ごめん。たくさん、水を出すと、死にそうに……死ぬかも……」

「水を、出す……」

「バケモノだよね、やっぱり」

 スピカは水を出すことができた。そう望むことで、体内の水分を抽出して手のひらに染み出させることができたのだ。その水には少しだけ不思議な力があり、水を滴らせた場所では急速に花が育った。

 だが、それは体内の水分。僅かならば危険はないが、多量の水を抽出すればもちろん、脱水症状や体液の急速な濃度変化により肉体は損傷する。

 眠たげな瞼に隠されたスピカの瞳は、血の色で赤い。

「知ってて、俺に、あんなに」

 いまにも泣き出しそうな様子で。いや、泣きながら若頭は叫ぶ。

「汚ェぞ」

「汚くない……僕の水だぞ……」

 若頭は力なくスピカを抱きしめる。お互いの体は、ひどく冷たかった。

「大丈夫」

「なにがだよ……!」

「僕も、兄ちゃんも、知ってる。『空』があること」

 スピカの朦朧とした言葉が、それでも意思と感情を伴って、語られる。

「もし、死んだら、そっちに。知らなかったら……この土の中。でも知ってる」

 薄笑いではなく、微笑んで、若頭の胸にスピカは頭を押し付けた。

「全部、もう、大丈夫……」

「……そう、だな」

 死にたいわけじゃない。

 でも、ここにいるよりは、死んだほうがいい。

 そんなスピカの心底に、若頭は触れていた。それを否定することも、否定する気にもならなかった。

 やっぱりそうだよな、と若頭は思う。当人じゃない彼でも、『こんな世界』だと思ってしまっている。なら、スピカにとっては、どれほど『こんな世界』であったことか。

 いれる場所なんでほとんどなくて、作れる見込みも薄く、可能性を狭めるような転がりしかできない。最初で最後の居場所だっていつ崩落するかわからない。やせ我慢だって限度があるだろう。

 スピカは、自分をわざわざ閉じようとはしなくても、閉じてしまえる状況をそっと探し続けていた。心待ちにしているような重さはなくとも、不意に盆をひっくり返す程度の軽さを抱きながら、とぼとぼ歩いていたわけだ。

 それは、稼働はしていても、生物としては転び終わったものでしかなかった。

「大丈夫だよ……」

 それでも生きてほしかった。

 若頭は暖めるように、スピカをさする。

「ありがとう」

 スピカの微笑みに、若頭は思う。

 ……これは、諦めだろうか。間違いだろうか。

 ただ、最後まで寄り添いたくて、彼はその唇を重ねて。

「光、見えるか」

「……うん、きっと」

「あの先に……」

「兄ちゃ……」

「……スピカ……」


「……ミナベ」































 意識のない時に。

 彼は、そう聞いた気がした。

『我々はニセモノだ。だから、正しくあろうとしなければならない――』

 意識がなければ聞いたことを思い出すこともできまい。

 思い出せるのだから、ミナベはこれを嘘の記憶だと考えている。


 キゼはザサに言った。

 外殻たる岩壁は裂けてなかったから、引き返すほかなかった、と。

 崩落した隧道を掘り進め、しかし空にまで着けず、彼は土中へ戻ってきたのだ。

 ミナベを抱えての帰還だった。

 ……ミナベはまだ生きていた。

「花が……あぁ。花がたくさんあって、そこで横になっていた」 


 四泉は大地震によってかなりの被害を受けたが、奮闘したアマラの指揮が幸いしたのか、瓦解せずに危機を乗り越えた。死者は多く、誰も彼も被害を被るような大災害となったが、泉が耐えたため集落は存続することができたのだ。

 ザサはこの出来事を詳細に記録し、地震の恐ろしさを史によって戒めた。


 ミナベは生き残った。

 左足は腐り始めたので切り落とすしかなく、もはや男衆としては働けなかった。

 そのため、父であるザサの跡を継ぎ、識守になった。


 地震より後に、ほどなくしてキゼは死んだ。

 苦笑めいた表情のまま、最後に、「光が……」と呟き、息絶えた。


 そして数年が経った。


 まだザサは生きている。識守という重責から解放されて若返ったのか、牧師と共にあちこち歩き回っている。

 泉長となったアマラは婿を取った。ひょろい男で、生まれてくる子の体型が賭けの対象になっている。


 ミナベはまだ結婚していない。

 彼はいま、『花の識守』と呼ばれている。

 ミナベの住む所は、誰かが水や世話をしているかのように花が咲くからだ。

 ……本当に、そこには誰かがいるのかもしれない。


 今日も、花の傍ら、下手な琵琶が爪弾かれている。


 

 

 

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