expectation
ほとんどの生徒が教室に入り、朝礼が始まった。先ほどまでの喧騒が嘘のように、聞こえるのは、舞と広澤の足音だけ。それもきっと、朝礼が終わるまでのほんの束の間のこの時間だけのこと。
彼女達2年生の教室は二階にあり、保健室は一階の隅にある。
その途中、舞は、ふたりの足音が階段に響いていることに気付き、その静けさを意識した。
階段の踊り場をすぎ、再び階段を下り始めたあたりで、ふたりの足音が揃った。
ーあ、揃った。
すると、前を歩く広澤がくるりと振り返った。
「ごめん、歩くの早かった?」
思わぬ質問に、
「え、ううん、大丈夫」と首を降る。
「良かった」
そこでふたりははたと気が付いた。
階段の段差がふたりの身長差を埋め、目線の高さも揃っていることを。
☆☆☆☆
ごくり、という音は、どちらの音だったのか。
広澤は再び前を向き、「行こっか」と言った。
舞は恥ずかしさをごまかすように、歩きながら広澤に話しかけた。
「広澤くんって、遼ちゃんと知り合いだったんだね。知らなかった」
「うん、去年同じクラスだったから」
「そっか。歩くんは?」
「歩は幼馴染み。桃もね」
「そうなんだ、知らなかった~。桃ちゃんもなの?」
「うん」
ー幼馴染みで、付き合ってるのかな?
「一条さんは?」の声に意識を引き戻される。
「ん?」
「歩と知り合いだったんだね」
「うん、あのね、歩くん、去年のクラスによく遊びに来てたの。歩くん、サッカー部でしょ?私の隣の席のコが、連続でサッカー部でね、それでよく話しかけてくれてたの」
「一条さん、桃ともずっと席近かったんだっけ」
「そうなのっ!桃ちゃんね、1年間ずっと席近かったの。桃ちゃんから聞いてたの?」
「うん、なんとなくね」
☆☆☆☆
階段を下り、ふたりは一階の廊下を歩く。続く会話を途切れさせることのないよう、自然と横並びになっていた。
一時間目が移動教室のクラスは、早々に朝礼を終え、生徒達が動き始めたようだ。
保健室は、教室の並びとは反対方向のため、生徒達の音は遠くに聞こえる程度だった。
「一条さん、時田くんと仲良いんだね」
「うん、中学から一緒だし、いま部活も一緒だしね」
「それだけ?」
「え?」
「いや、中学や部活が一緒でも、ふたりほど仲良くなるのは珍しいと思って」
「そうかなぁ?遼ちゃん面倒見いいから、誰にでもああいう感じじゃないかな」
「付き合ってる、わけではないの?」
「違う違う!」
「・・・そっか」
そのときの、広澤の笑顔に舞は目を奪われた。
☆☆☆☆
「広澤くん、やっぱり、やっぱり広澤くんを撮りたいです!撮らせてください!」
広澤が口を開く前に、がらりと扉が開いた。
「あら、何してるの?」
広澤が少し早口で応じる。
「先生。彼女、具合が悪いみたいで」
「大丈夫?熱はあるかしら。ごめんなさい、私いまちょっと呼ばれてしまって。ベッドは空いてるから、休んでいてもらえるかしら」
「先生、後は俺が」
「助かるわ!ごめんなさいね、すぐに戻れると思うから!」
「わかりました」
先生と入れ替わるようにふたりは保健室に入った。
「とりあえず、熱測る?横になってた方が楽かな?」
「このままで大丈夫」
「じゃあ、はい」
広澤に体温計を手渡され、舞は椅子に座り測り始めた。
「広澤くん、さっきの話の続きなんだけどね」
「昨日、あんまり眠れなかったの?」
「・・・うん」
「俺ね、一条さんは、今年も子供達を撮るんだと思ってたんだよね」
「・・・え?」
「だから、ちょっと残念」
「それって、どういう」
ピピピッと体温計の音が鳴る。
「あ、何℃だった?」
「36.5℃の平熱です・・・」
「良かった。でも、本当に顔色あんまり良くなかったから、ゆっくり休んだ方がいいよ」
「ありがとう」
広澤に促され、舞はベッドに座った。
「じゃあ、俺、戻るね」
「本当にありがとう。授業、始まっちゃったね、ごめんね」
「ううん」
そうは言いつつも、遮られてばかりだった舞は、我慢出来ずに最後にもう一度声をかけた。
「広澤くん、さっきの話なんだけどね」
広澤は、ゆっくりと舞の前にしゃがんだ。
「いいよ、やるよ」
「いいの!?」
「やってみて無理だったら、諦めてね」
「ありがとう!」
「無理だったら、諦めてね」
「大丈夫っ」
やったー嬉しい~!と喜ぶ舞に広澤は、
「よろしくね。被写体ってやったことないから」と声をかけた。
「こちらこそよろしくお願いします!」
舞は両手を差し出し、広澤は戸惑いながらも握手した。
「でも、どうして急にやる気になってくれたの?」
すると、握手をしたまま広澤は立ち上がりかけた。その様子に舞は力を緩めたが、広澤の手に、ぐっと力が入る。
驚いている舞の耳元で、広澤が言った。
「寝不足になるぐらい、俺のこと考えてくれたんでしょ?そこまで考えてくれたなら、引き受けてもいいかな、と思って」
舞は顔をあげられなかった。
だから、広澤がどんな顔をしていたかはわからない。
「じゃ、また後で。ゆっくり休んで。おやすみ」という広澤の声に、
「おやすみなさい」と答えるのが精一杯だった。