第19話:やくそく
場所はエウロペ大陸港町の近くにある大都市メルクワール。戦中は拠点となった場所であり、戦後は西側で一番に回復し、中心の都会として栄えている町。その中枢、戦中には軍議室として使われていた議会室に私たちは居た。
「て、天帝……あの、この、その、この度は本当にご迷惑をおかけし、まして……!」
精いっぱいの礼を込めて云ったつもりが、思い切り蹴躓いてしまう。もともと緊張して赤いのに、さらに頬が赤くなるのを感じる私に、前に座る天帝はくすくすと笑った。
「そんな硬くなる必要はないよ、ロウリーンリンク家のお嬢さん……えっと、ネイシャとお呼びして良いのかな」
「え、は、はい!」
私の挙動一つひとつに、天帝と云われる男はくすくすと笑う。天帝天帝と敬われているからどんなに神々しい人なのかと身構えていたが、会ってみるととても雰囲気の優しい美形のお兄さんだった。リヴァーシンでは珍しかったが、輝くような黄金の髪はやはり、西大陸の人らしい。
「なかなかおもしろいお嬢さんだ」
「あの……すみません。私などに時間を割かせてしまって」
この間まで敵国のほぼ中心に居た私が、天帝から助けられるという不思議な図に、恐縮するばかりだ。詳しい説明は聞いていないが、とりあえず助けることに苦心してくれたことはわかったから。謝罪した私に天帝は、今までで一番厳しい顔をする。
「人はね、ネイシャ。誰しも生まれながらにして同等だよ。それを驕ったり貶めるのは自分自身だ。だから決して、そんな言葉を使ってはならない」
「あ、はい……」
「ああ、もちろんこれはうちの大陸の持論であって、押し付けるつもりはないからね。ビル」
付け加える天帝に呼ばれたリュースはと云えば、つまらなさそうに視線を寄越しただけだ。リュースのいい加減な態度は天帝の前でも変わらず、緊張しっぱなしの私とは違って、平然と椅子にもたれている。視線を投げかけたからには少しぐらい聞いていただろうが、ろくに集中していなかったのではとなぜか不安になってしまう。
不穏な空気になる前にと、私は改めて天帝に頭を下げる。
「私とリュースを助けてくださって、ありがとうございました」
「──なるほど、ビルスケッタが気に入るわけだね、なかなか良いお嬢さんだ」
云われたリュースは今度こそそっぽを向いて、ますます態度が悪い。リュースと私が呼びかけても、素知らぬ顔だ。しかし天帝は気分を害した様子はない。
「ビル、君もちゃんと聞いてくれないか」
「聞いてるだろ、さっきから」
「なら心配したこととかビルがやってくれたこととか、素直に話せば良いのに」
「この前散々叱った」
「青い顔でネイシャを助けてくれって僕に頭下げたのは誰だったかな」
「いやあれ、どう見ても頭下げてねぇだろ」
「じゃあ青い顔はしていたわけだ」
「そりゃ発作起きたら顔色悪くもなるだろ」
「素直じゃないなぁ」
あのなぁとリュースが口を挟むも、天帝はもうリュースのほうを見ていない。相変わらずそっけない態度のリュースだったが、最終的には天帝が楽しそうにくすくすと笑っている。どうやらリュースの態度にはらはらしたのは余計な心配だったらしい。むしろ私の居ない間に天帝とそんな仲良くなってしまったんだと思うと、ちょっと悔しい。
「僕としては君たちに会えたことが何よりもおもしろいしね」
すとんと議長席から降りた天帝は、思ったよりもそう大きくはない。リュースのほうが背が高いのかもしれない。しかしその碧眼は見るものを引き止める力があり、一度目が合うとなかなか元に戻せない。美しい宝石のようにきらきら輝いている。
──この人が天帝。女神が従いなさいと云っていた天帝か。
「前からどうにかしようとしていたリヴァーシンが動き出したところで、女神の中心人物リヴァーシン女神自身と神の国アリカラーナの王族が援軍ともなれば心強い」
うん? と首を傾げる私を気にした様子もなく、リュースは嫌そうに顔をしかめる。
「買いかぶりすぎだろ」
「これだから中の人は……少しは母国の影響力を思い知っただろうに」
「それとこれとは話が別だ。俺は戦争に加担するつもりはないからな」
「……おい、こら放蕩貴族」
「アーロン、黙ってて」
「だが、セイルーン!」
「発言を許した覚えはないよ、メイスフィールド将軍」
ぴしゃりと撥ね付けるその声は、特別大きかったわけでも低かったわけでもない。通常通りの声色なのに、その一言だけでそこに居る全員が姿勢を正してしまうような威力があった。セイルーン・クレイヴァという人の、上に立つ者としての力がその一言だけで感じられ、私もこれ以上できないぐらい居住まいを正す。ただでさえ緊張しているのに、そのきっかけを作ったリュースはと云えば、隣であくびまで漏らしているのだからなんというか……。
「ネイシャ・ロウリーンリンク」
「は、はい!」
その流れで呼ばれて、私はこれ以上ないぐらいぴんと背筋を伸ばしてしまう。
「リヴァーシン女神の名の下に、彼らは我が帝国民を虐げている。 残念ながら和解を勧めたいが難しい。ひとまずの捕縛を手伝ってもらいたい」
「……えっと、私に何か、できるのであれば」
「もちろんできるよ。だが君は向こうにとって捕獲の対象だ。君が君で居られる場所を守るつもりなら、気をつけるように」
「はい」
私が私で居られる場所──。そっとりュースを見遣ると、だらけた恰好のままで目が合う。軽く肩をすくめた様は、勝手にしろと云っている気がした。それはそうだ。これは私自身の問題であって、リュースには直接関係ない。やりたいようにしろと云っているのだと解釈する。
でもそれが、ただの無責任からではないことを知っているから、今はまだ安心できる。
にこりと微笑んだ天帝が、さてとと場を和ませる。
「疲れちゃったね。クレアバールに帰るなら馬車を出すから、いつでも云ってね。しばらくは身体を休めると良い」
もとリヴァーシン帝国の王城だった場所から、私たちははるばるメルクワールまで逃げて来た。ここまでの大都市ともなれば、リヴァーシン神官も簡単に手を出せないからだ。どうやらクレアバール周辺は神官の技による被害が多いらしく、戻ったらまた報復を受ける可能性があった。ただ私が居ない限り、彼らは無駄な足を踏まない。天帝の提案でこの大都市に逃げ込んで来たのだが、少しクレアバールが心配でもある。人質でも取られてしまったらと思うと気が気でない。天帝曰くそんなリスキーはことはしないらしいが、私を受け入れてくれた町に被害が起こるなんて嫌だ。今までなら私が出て行くことですべてが丸く収まるのならと、進んで神官のもとへ行っていたかもしれない。だがみんな、こうして助けに来てくれた。何よりもリュースが来てくれた。その気持ちを無駄にしたくないから、私はまだここに居る。
「……あの、天帝」
振り返った天帝の碧眼に、視線が奪われる。しかしそれを見ていると、自然と思い出せた。あの祠に居たときの感覚、声を聞く時の感覚。ゆっくりと目を閉じると、まだ目の前に女神が現れる気さえした。
「──大陸の声を聞きなさい、天帝の声を聞きなさい」
私が紡ぎだすとジョーたちが身じろいだが、天帝はその場に立ったまま私をじっと見ていた。その目を見て思い出したのだ。女神がどうしても伝えたかったこと。何度も私に伝えさせようとしたこと。それはこの人に伝えなければならないと思った。だからそれだけを云いたかったのに、閉じようとした口からはさらに言葉が続いて行く。
「古の血、魔の血、異の血が合わされば、それが大地の道標となる。大地の声を聞きなさい」
私が抗う間もなく、短い宣下は意外にも簡単に終わった。身体から力がふいに抜けるまでどれぐらい時が経ったのか、周囲はしんっと静まり返っている。少しふらついた私にリュースが駆け寄ってくれたが、それよりも私は事の重大さに慌てて天帝ばかり見てしまう。
「あ、あの天帝、失礼しました! あの……」
どう説明しよう。ただ女神が天帝に従えと云っていたことを伝えたかっただけなのに、まるでまた声を聞く時のように自然に言葉が振って来てしまった。祠を出てから声が聞こえることなんて一度もなかったのに、突然のことで私自身が戸惑ってしまう。
しかし慌てる私を天帝は手で軽く制すると、深々と頭を下げる。
「女神からのご助言、確かに戴きました」
天帝はすべてわかっていると云う風に顔を上げて、にこりと微笑んだ。
「君は女神にそっくりなんだね、ネイシャ」
しんっと静まり返ったその場に、優しいのに凛として響く声。ぞくりと背筋が震える。この人は、天帝なのだと思い知らされた。
「見えたんですか、リヴァー神が……」
「うん。もともと信じていないわけじゃあないからね。魔の血代表として、ありがたく受け取るよ」
「え……」
「だいたいの人は僕が魔の血族だと知っている。僕も隠してはいない。そんなこと、これからはなんの問題もないんだよ、ネイシャ」
太古に存在したというその幻の血族は、やはり優しく微笑んだ。
・・・・・
議会所を出て歩いていると、横を歩くリュースが上から下までじろじろと見て来る。──なんだろう。その疑問がいい加減顔に出ていたのか、少し顔を覗き見ると、リュースは少し悩んだあとに尋ねて来る。
「……なんかおまえ、急にでかくなった?」
いまいち的を得ない質問に一瞬きょとんとするが、しばらく考えてようやく腑に落ちた。
「ああ、そうそう。リュース居なかったからね」
「……何まだその厭味掘り返されるの?」
「あ、ごめん。別にそういうわけじゃなくて……大きく、なってる?」
「なんて云えば良いのかわかんねぇけど……ああ、なんか赤ん坊が子どもになった感じ」
悪びれた様子もなく云われると、これまでの私は赤ん坊レベルだったのだろうかと流石に落ち込む。まぁ確かにずっと祠に居たから何も知らない残念な人だったことは認める。でも主にルリエールから始まったいわゆる普通の人の生活には、すっかり馴染んだつもりだ。思わず恨めしい顔でリュースを見ると、彼なりに発言を間違えたと認識したらしく、少し視線を逸らしがりがりと頭を掻く。
「あー……だってうまいたとえ出てこねぇよ」
ぶつぶつと小声で文句を云った後、
「成長したって感じか」
と、共通語で云い直してくれる。ああ、当てはまる言葉が見つからなかったのかと私もようやく納得した。普通にレジーク語で話すし悪態まで吐くし、地元民のように馴染んでいるからか、すっかり異国人だということを忘れてしまう。当てはまる言語が出て来なかったんだと思うと、少しは溜飲が下がる。
「そう見える?」
嬉しくなって改めて訊くと、リュースは逆に顔をしかめる。
「いや異常だろ」
「……どうせ異常ですー」
「急成長し過ぎだっての、拗ねるな餓鬼」
リュースが驚くのも無理はない。彼が居ない間に私の身長はぐんぐん伸びて身体つきも少しは女らしくなり、傍目から見れば至って普通の年頃の女の子に見えるはずだ。首が痛いほど見上げなければならなかったリュースも、見上げこそすれ以前ほど高くない。これに違和感を覚えるのは当然だろう。
「あのね、祠で女神として在籍している間は、どういう仕組みか知らないけど神官の力で成長が止まるの」
「あー、そういえばなんか普通とは違う育ち方をするとか云ってたな」
「うん、神様ってなぜか知らないけど老けちゃあいけないんだって。私は3歳の時に祠に入ったけどその時はまだおばあさまが女神として居たから、そのまま普通に成長していたんだ。おばあさまはそれこそ20代の見た目のままだったよ」
おばあさまと呼びこそすれど、晩年の見た目は神官と同年代ぐらいにしか見えなかった。つまりおばあさまが女神になったのは、20代の頃。外見上ならお姉さまと呼んでもおかしくはなかっただろう。
「私は4年前に引き継いだから、そこで成長が止まってたんだけど…… 祠から出たからその分身体が急激に成長してるんじゃないかなぁって」
理解し難いみたいで、リュースの顔もしかめっ面のままだ。
「勝手にそう理解したんだけど、わかってくれた?」
「ちっとも」
「……うーんと、だからね」
「要するに本当の年齢相応に勝手に身体も追いつくんだろ」
「あれ、わかってるじゃん」
「いや意味はわかったけど、そんな簡単に人の成長を動かせるっていうのが解せないだけ」
カーヴレイクの人たちと同じ発想だ。ベンみたいにリヴァーシン生まれの人は、変わらない姿のままで居るおばあさまを幼い頃から見て来たからか、すんなり理解してくれた。宗教の違いは説明するのが難しい。
「そしたらおまえ結局幾つになるわけ?」
「……うーん、覚えてない。年齢なんて数えなかったもの」
「ああそう」
誕生日という概念も知らなかった。私の身体はあくまで女神のための器であって、私のためのものではない。私という生命が許されたのは、祠を出てからだ。それこそ、リュースが名前をくれたから。
「何歳ぐらいに見える?」
「……10歳」
「え!」
「そういうこと訊くの、餓鬼ぐらいだろ」
リュースはそう云って、私から顔を背ける。子どもなのはわかっているけれど、なんだか悔しい。でもリュースだってそこまで年の離れた大人じゃなかったと思う。改めてリュースの後姿を見ると、たった半年会わなかっただけなのに、またその背中が大きくなったように感じる。リュースはもう成長しないのかな。
慌ててリュースのあとを追いかけながら、改めて後方にそびえ立つ議会所をちらりと見返す。
「でもまさか天帝様が助けてくださるなんて、思いもしなかったよ」
「まぁ天帝だってリヴァーシンの土地をどうにかしたかったんだろ。考えれば村人だって天帝配下の者なんだから、助けてもらえるに決まってる」
「でも青い顔して頭下げたって本当?」
「あれは脚色だ」
苦々しい顔をして吐き捨てたリュースはでも、ふと遠くを見つめる。
「……でも正直、俺もそんなこと、思いもしなかったけどな」
「え?」
「あーだから、偉い奴に頭を下げるってことだよ。なんにも思いつかないで一人で行って 派手に負かされたら、そりゃ青い顔して頭下げたくもなる」
「それ本当だったの?」
「半分は脚色」
またそれか。これは誰か他の人に訊かないと真実はわからないだろう。帰ったらこっそり誰かに聞いてみよう。
「本当どうしようもない時に、偉いやつに助けてもらうことってできるんだな」
そう云うリュースが柄にもなくしんみりとしていて、私は思わず見つめてしまうが、彼はそれ以降特に何も話さない。しばらく黙々と歩いて辿りついた馬車停留所でリュースが何か云う前に、御者が進み出て来た。恭しくお辞儀されて馬車へと手を差し出される。思わず驚いてきょとんとしてしまった私に、手を借りて乗れと後ろから教えてくれたのはリュースだ。私が馬車に乗ると彼は慣れた様子で乗り込み隣に落ち着く。リヴァーシンの式典で乗ったきりの、久々の馬車だった。こんな贅沢なものがまだ5、6台は止まっていて、カーヴレイクとの違いに圧倒される。
御者が振り返って一礼すると、手綱を握る。
「すみません、町を出てからはだいぶ揺れるので、捕まって口は閉じるようにお願いします。ご気分が悪くなった場合は横のベルでお知らせください」
馬車から見る景色は見知らぬ大都会から、あっという間に私の知っている西大陸へと変貌した。しばらくは落ち着いた道のりだったが、道の整備がまだ完全ではないから、この辺りで馬車を使う人なんて居ないのだろう。乾いた大地、走りにくい道、揺れる馬車。座っていてもバランスをとるのが大変だ。
見かねたリュースに無言で前の手すりを掴まされ、肩を抑えられる。身体が固定されるものの、揺れるものは揺れる。何か云いたいものの、リュースを窺うと小さくかぶりを振られる。確かにこの揺れで話すことは難しい。舌を切る可能性もありそうだと大人しくしていることにした。
どれぐらいたったか、知らないうちに揺れが収まり、御者がこれからは比較的平坦ですと教えてくれるとほっとして息を吐いた。
「ありがと、リュース」
リュースが抑えてくれていなかったら、比較的軽いからすっ飛んでしまっていたかもしれない。そういうのにすぐ気付いてくれる辺り優しいのに、返事は、ん、とぶっきらぼうだ。
「ねぇリュースでも、助けてもらえなかったことがあるの?」
「なんだそれ」
「さっきそういう感じだったから」
「あー……別に。やっぱ違う国だなって思っただけ」
「アリカラーナでもそんなことがあるの?」
「うちは別に、外の人間が思うほどの理想郷じゃない。たぶん来たら落ち込むやつも居るんじゃないのか」
そんなものなのか。精霊に守られている神の国アリカラーナ。昔から守られし大地として私ですら知っている理想の国だが、その理想の国のお坊ちゃんは夢のないことを云う。
「至って普通の、ただの権力国家だ」
「その権力国家のお偉いさんリュースはそう思うんだ」
「だから俺は偉くねぇよ。ただ親父が偉いやつの弟ってだけで、そんなの他にもたくさん居る」
リュースはすぐそうやって自分を下に見る。だけどそれが当たり前のような顔をしているから、本当にそうなのかもしれないと思えてしまう。確かに偉い人の息子だからと云って偉いわけではないだろうが、それでも地位というものはそうやって続いていくものだ。だから私もそう。
リュースは私から視線を逸らして、窓から変わらない乾いた大地を見つめながら口を開く。
「俺がスラムから連れて来たやつが、今も俺の侍従をやってる」
唐突な話だったけど、私はただ黙って聞いている。口を挟むとリュースのことだからきっとやめてしまいそうだと思ったのだ。そしてアリカラーナにもスラムがあるということも衝撃だった。
「スラムの近くにうちの使ってない持ち家があって、俺が学院帰りに閑潰しで寄ったらほぼ住み着いてた浮浪者だった。家主の子どもに見つかって最初は逃げようとしたけど、俺にはそいつに何かする権利もない。管理してない方が悪いんだから勝手に使えって云った。代わりに俺が居ることにも文句をつけるなって条件を付けたのは、持病持ちの俺が一人になれる場所が欲しかったから」
そう考える貴族のほうが奇特だということに、リュースは気がつかないのだろうか。それともわかっていてもそれを貫いているのか。
「最初はあいつ相当警戒してたけど、お互いただの餓鬼だったから、長いこと深く考えなかったんだろうな。ただ知り合ってしばらくしてから、たまたま俺がそこで発作を起こした。餓鬼の頃は発作なんて日常茶飯事だったけど、そいつの前では初めてでしかも結構酷かった」
背丈はまぁまぁあるしこんな性格だから忘れてしまうけど、リュースは結構酷い持病持ちだ。今は良くなって来ているらしいけど、薬がないと生活できない。
「意識はあったんだけど力入らないし話せないしで、どうしようかって思ってたら、あいつ慌てて近くの貴族の居住区まで俺を運んで医者は居ないかって助けを呼んでくれた。でも明らかにスラムから来ましたって恰好のあいつに連れられた俺を、誰も助けてはくれなかった。学院帰りの恰好でスラム街なんて行ったらすぐいろんなもん剥ぎ取られるから、俺も大した恰好してなかった。貧民の子どもなんて、助ける必要はないって」
薄汚い恰好をした浮浪者が光り輝くお金持ちの住宅地に走り込むなんて、並大抵の勇気ではなかったはずだ。
「貴族なんてやっぱそんなもんなんだなって思ったな。俺の周りに無駄に良いやつが居るだけで、世の中はこんなもんだろうなって」
「……リュースたちは、そのあと、どうしたの?」
私も女神として崇められて育ったから、スラム街での生活を想像することは難しい。でもリュースのその投げやりな言葉が、すべてを語っている。彼がいろいろとねじ曲がって考えてしまうのも、こういうところにあったのかもしれない。私は心配になって思わず彼の手を握り締め、初めて口を挟んだ。
「近くの貴族って云ってもスラム街の近くだから下級貴族の住む辺りで、もう少し行けば庶民が住む町がある。病院探しに訪れた俺たちを、あっちから声をかけて助けてくれた。後で礼を云いに行ったけど、金さえ受け取ってもらえなかった。ただ元気になって良かったなって、それだけ。カーヴレイクに平然と置いてもらえているときに、それ思い出したな」
私もなんとなくカーヴレイクの面々を思い出して、頬が緩む。一緒に住んでいてたまに残酷な過去を聞かされることがあるけど、そんなことさえ忘れてしまうぐらい、彼らの大きさに私は救われた。あの暖かい気安さは本当に救われるものがある。リュースがカーヴレイクに通うのは、だからなのかもしれない。
握っていた手を離されたかと思うと、リュースはポケットからごそごそと何かを出して私の手に握らせる。それは私の大切な宝物。
「これ……」
リュースが買ってくれた綺麗な小瓶。いったい何所で落としたのだろう。なくしていることにも気づかなかったなんて、少し悔しい。
「中開けたか?」
「え?」
透かしてみると確かに何か入っている。今まで気付かなかった。小さな瓶の入口から出せるように細く丸められたその紙は、私の手のひらに収まるぐらい小さくて、そして書いてあることも実に端的だった。
──しばらく留守にする。4月には帰る。
驚いてリュースを見ると、云いたいことがわかったようで苦笑された。
「まぁやっぱり気付いてねぇよな」
「こ……こんなところになんで入れたの!」
「いや毎日見てるから気付くかもしれないって思って」
「ひっそりし過ぎだよ! 宝探しなの?!」
怒られるかと思ったけど、これぐらいの抗議はして良い。こんなの誰が気付くのだろう。確かに飽きもせず毎日太陽にかざして見ていたけど、リュースが居なくなってからその習慣は消えた。
頭をがりがりと掻いていたリュースは、小さく溜め息を吐く。
「黙って帰って、悪かった」
てっきり煩いとか云われると思っていたのに、素直な謝罪に驚いてしまう。
「……どうして、云ってくれなかったの?」
「わかんねぇけど……云いたくなかったから」
それでは私もわからない。リュースならこんな気付くか気付かないかなんて、わかり難い方法を取らない気がした。こんな面倒くさい方法、それこそらしくない。でもそれを、私はうまく伝えられない。
「一回帰らないとまずいけど、おまえ一人にして行くわけにもいかねぇし、レイヴンでも居れば少しはましかと思って置いて行ったけど、その所為で国に帰るまでに無駄に時間かかったし」
一気にまくしたてた後、リュースは溜め息を吐く。
「悪い、俺のわがままで云わなかった」
「わがまま……」
「俺だって好きで帰ったんじゃねぇよ、できるなら帰りたくねぇし」
「だったらどうして帰るの?」
「レイヴンは俺の監視だ。国からいつでも連絡が取れるようにできてる」
前もそんなことを云っていたのは覚えているが、詳しい話はよくわからない。
「俺はたぶん、国を捨てられない。これまでも、これからも。──だから俺は、おまえのようにはなれない」
「え?」
「おまえは自由だろ。リヴァーシンは滅んで、天帝に戸籍をもらったが基本自由だ。縛られるものがない、何所にでも行ける。俺はそれに、付いて行くことができないから」
だから、云えなかったのか。
私が出たのと、同じ理由だったのだ。私は居場所のあるリュースに迷惑にならないようにと出て、リュースは居場所のない私を束縛させないために黙って帰った。ただでさえ、私はリュースに依存している。自分でもわかっている。だけどそれが我慢できない。
何も入っていない小瓶をぎゅっと握り締める。
「私はもう自由かも、しれないけど」
だけど。
「私はまだ、リュースと一緒に居たいよ」
「……おまえは本当に、趣味が悪い」
「そうですね」
「おまえね」
呆れた調子で返されたものの、ぽんぽんと頭を叩く手は優しい。私が付いて行こうと思った、あの大きな手は変わっていない。
ぎゅるぎゅると音がして、軽やかな振動が突如止まる。
「お疲れ様でした、到着です」
御者に声をかけられ慌てて外を見ると、見知ったカーヴレイク付近の土地だった。スピードが速いからか、あっと云う間についてしまって、まるで瞬間移動したかのようだ。びっくりしている私には構わず馬車から降りたリュースは、ぽかんとしている私に手を差し伸べる。私は迷わず、またその手を取って馬車を降りる。
御者にお礼を云って歩き出してからも、私はリュースの手を離さなかった。リュースも無理に離そうとはせず、ただ文句も云わず歩いている。つい半年前のことなのに、すごく懐かしい気がして私は夢心地でリュースの少し後ろを歩く。砂に足を取られる感覚がもどかしいのに、でも懐かしい。
「俺がもし帰るって云ったら、おまえだって、どうしてたと思う?」
前を向いたままのリュースに唐突に訊ねられ、私は少しの間考える。私の沈黙をどう取ったか、リュースは再度云い直してくれた。
「4月にはまた戻るって教えていたら、どうしてた?」
「そりゃあちゃんと待ってたよ」
振り返ったリュースに澄まして云ってみるが、じっと見つめられて素直に答え直す。
「──付いて行くって、粘ったかもしれない」
「だろ」
「……うん」
今ならたぶん、待っていると云える。だけど半年前はきっと云えなかった。リュースが帰るなら一緒に行く、それが当然の選択だっただろう。リュースはそれを、わかってくれていたんだ。別にリュース自身に嫌われているわけではない。でもリュースの行動は、ほとんど私のことを考えてくれている。たとえそれが、自分が得られないものの写しだったとしても、私のためだ。
わかったと伝えるように、ぎゅっと手を握り締める。
「これからは、勝手な癇癪起こすなよ」
「リュースだって、黙って出て行かないでね」
「はいはい」
「リュース」
「──とにかく、勝手な行動は慎めよ」
「自由だって云ったのに」
「自由と勝手は別だ。おまえがこの後、何所に居るのか、自分の居場所を自分で決めるんだから」
ならリュースが居る場所だと即答しようとしたが、それを止めるかのように先手を打たれる。
「じっくり考えて考えろよ」
「リュース、は?」
「俺? 俺は誰かさんの所為で結構無理矢理出て来たから、一度は帰らないとな」
「それはどうもすみませんでした」
なんとなく悔しくて云えば、リュースは小さく笑う。
「でもまぁおまえが決めるまでは、ここに居る」
「──ありがとう」
リュースは私から視線を前に戻して歩き出す。私たちが住んでいた仮の家に。とりあえず今の私の居場所はあそこだから。