第14話:救済
ネイシャの奪還に向けて、カーヴレイクの数人に協力してもらう役目を仰せつかった。比較的カーヴレイクに近い場所で戦闘が行われることを含め、周知しておく必要があるというのは天帝の判断だ。もちろん軽々しく口にしたら神官にばれてしまうのではと思ったが、そこらは流石に戦争を生き延びてきた人々だ。そんな勝手を充分に知っている。むしろ俺の方がど素人で、その俺が助けを求めた結果なのだから、なんだか変な話だった。
カーヴレイクの町は今日も賑やかだ。まるで戦争があったことなど嘘かのように、町はごく自然に活動している。
「ラジェットさんから仕入れたんだ。うまいぞー」
自然に馴染んでしまったこの町で最後に立ち寄ったのは、ベンの八百屋だった。あちこちに顔を出したから、既に日暮れ近く野菜も品切れが多いが、元気に店番をしている。生まれたばかりの子どもはどうしたのだろうか、妻が見ているのか、それにしても家から声が響かない。大した建物を造ることのできない西大陸では、隣近所の音など当たり前のように聞こえる。夕食の団欒や子どもを叱る声が当たり前のように響き、そんな生活の音が俺には珍しくおもしろかった。
「お、ビル。珍しいな、食材買ってくれるのか?」
食材なんて買ったことがないので、俺は適当に放り込んでもらった。ダグかルリに料理してもらおう。外れた自分の仮家よりは交通の便が楽ではあるし、何よりあの宿屋は居心地が良い。今回は自分のわがままで宿に居てもらうからと、宿泊代もルリエールは受け取ってくれなかった。これぐらいしか返すことができない。
「ビルが野菜を買うなんて天変地異の前触れか?」
「もう二度と買わないぞ」
「あはは、悪い悪い。ルリちゃんの料理うまいからなぁ、羨ましいぜ」
もう俺が宿屋に居ることまで広まっているのだからこの地元のネットワークは恐ろしい。俺の仮家の近くに住む親父が作っている野菜だが、最近はベンもそれを手伝い始めているらしい。この死んだ大地で農作物が育つことに驚いたが、親父さんの持つ土地はこの広大な西大陸では微々たる面積だ。二人で土の育て直しから始めるという壮大な計画が立ち上がっているらしい。
そんな新たな人生を楽しんでいる新生児の父親に、あと数日したら近場で戦があると云うのは気が引けたが、伝えないのはもっと問題だ。軽くネイシャの話題に触れたら、居場所がわかったことをまるで我が子のことのように喜んでくれる。俺からすると、西大陸の人々はただの無邪気な人にしか見えない。もちろん、見た目通りではないことぐらいわかってはいるもののその優しさに甘えている。
「──ベン、あのさ」
「ん?」
紙袋に野菜を詰めているベンは、俺を見ることなく商品に集中している。そんな良いものを選ばなくても良いのだが、何を買ったら良いかはわからないから突っ込まないことにする。
「悪かった、おまえんとこの女神をその……何所かやって」
野菜から俺へと移された顔は、本当に間が抜けていた。考えもしないことを云われて、ぽかんとしている。
「──なんで俺に謝るんだよ」
「いや、ちょっと悩んだけどでも、おまえはあいつの安全を第一に考えてただろ」
お身体が無事ならそれで──。
ネイシャを初めてリヴァーシンから外に出した時。初めてベンと会った(か、会話したかは覚えてないが)時に、そう云ったことを覚えている。ベンが居たヴァッカレーはリヴァーシンの辺境の地で、ここからずっと遠い西の方にある。女神の存在に疑問視を持って立ち上がったと軽く聞いてはいたものの、詳細は知らない。ただ女神として立っているネイシャの身を、案じていたことだけは知っている。
他に言葉を思い浮かばず黙っていれば、ベンは顔をしかめて頭を掻く。いつの間に詰め終わったらしい紙袋を片手で持って居るが、明らかに量が尋常じゃあない。
「ビル、おまえって本当不器用だよなぁ」
「え?」
「俺たちはもともと女神の存在を全否定していたわけじゃあないんだぞ。前の女神の時は確かに、特別な能力というのを持ってこの土地を守ってくれていたように思う」
どうせ眉唾だろうと思っていたから、本気で信仰している人たちが周囲に居たことに軽く驚いた。だが冷静に考えれば、生まれてからずっとそう教えられていたら、それが真実だと誰もが信じるだろう。むしろ異教徒を蔑んでもおかしくはない。
「でもなぁ、前女神が亡くなられて出て来たのがあのネイシャだ。まだあんな小さいのに、あんな小さい塔に押し込められて窮屈な世界で祈ってる。宣下する時にさ、王とか神官とかの顔色窺いながら、辛そうに云うんだ。なんかそんなの、おかしいんじゃないかって思ったんだ。俺の疑問はそこからだな」
天帝に従えという声がすると、ネイシャは云っていた。だが神官たちはそれを否定するとも。たぶん聞こえる声と違う宣下をすることにためらっていたのだろう。
「だからネイシャがカーヴレイクに来て、それこそ女神ってことを忘れるぐらい、自然とこの町に馴染んでることが嬉しかったんだよ」
この時に俺は、どんな顔をしていたのだろう。たぶんきっと、いつも通り無愛想なままだったかもしれない。だが俺は確かにこの時、なんとも云えない不思議な気持ちになっていた。嬉しい、楽しい、喜び、感動……どれも何かが違う。うまく言葉にはめられないまま、俺はぼんやりと思う。あそこから出たいと云ったネイシャは、「普通の暮らし」を求めていた。それをあいつは、叶えられたのだろうか。
「でもたぶんあの時、ビルが連れ出してくれなかったらネイシャのあんな姿を見ることはなかったんじゃないかなってさ」
「俺がやらなくても、誰かがやったことだろ」
「いいや、おまえが連れ出さなかったらネイシャは、ネイシャ・ロウリーンリンクは存在しなかったさ」
幾らか強い口調で云うベンに、俺はそれ以上何も返せない。
「ロウリーンリンクっていうのは代々女神を輩出しているだけあって、俺なんかにしちゃあ王よりも天上の人だ。庶民の俺なんかあいつがネイシャじゃなかったら、今でもロウリーンリンクの御子って崇めてたかもしれない」
言葉を探すように話すベンは、俺と同じであまり伝えるのが得意ではないのかもしれない。さっき彼に云われたことが本当ならば、俺はたぶん、嬉しいに近い感情を持っている。自分のことでもないのに、俺がしたことでもないのに、ネイシャがネイシャであることを嬉しいと思う。
「あー……だからそう、逆なんだよ」
なんとか言葉を吐き出したベンは、やはり何所かまだ引っかかる風を見せる。
「俺がお礼を云う方で、俺たちは別に、女神だったからネイシャを捜しているんじゃない。ここに居たネイシャっていう仲間を捜しているんだ」
女神ではない、ただ一人、ここで暮らしていた少女を探している。
「何事も行き過ぎは良くない。それは宗教にしろ国家にしろ、人間関係にしろだ。おまえはおまえなりに、ネイシャとの距離を測って失敗した。本当に不器用なだけだ。俺もあんま言葉がうまくないからわからなくはないけどな」
話がそこでようやく最初に戻ったが、随分とベンの話は回り道だった。だが気持ちはわからないではない。人に言葉で伝えるというのはすごく難しい。俺が他人と話すようになったのは、やっぱり他国に出始めてからが多い。それまで俺に、会話らしい会話は必要なかった。だから余計に煩わしさを感じる。云わなければ伝わらないこと、云わなければわからないこと、それが当たり前のように世界中にあるのに、言葉では完全に伝えきることができない。不完全な言葉というものに、俺はどう頼って良いのかわからない。言語をいくつ習得したところで、それは変わらなかった。
しかし俺がネイシャに黙って出て行ったこと、それが果たして不器用の理由で片付くとは思えない。
「むしろそこまで考えてくれただけ、俺は嬉しいけどな。ネイシャがあのまま女神として存在し続けていたら、ずっと女神と呼ばれ続けて、最終的にどうなっていたんだろうって思うよ。だって結局、あそこに居たらネイシャの世界は閉じられている。知らないうちに神官たちの考えが浸透していてもおかしくない」
それは俺が今、一番恐れていること。あのちっとも子どもらしくない顔で、ロウリーンリンクの御使いだと名乗りだしたら良いのか。俺にはそれがなぜか怖い。だってまたそう云われたら、俺は否定できるだろうか。自分の感情をなしにして、ネイシャの信じる通りにしてやることができるのか、それがわからない。相手の思っていることがわからない。それだけのことなのに、とても大きな問題だった。たぶん今まで、深く考えたことがないからだ。正確には、考える必要がなかった。多分俺の性格を知ってのこともあったかもしれないが、俺の周りは割と正直な連中ばかりで、そこまで深い気遣いをすることもなかった。それに何より、俺は別に必要なかった。俺にはレーイが居たから。レーイとなら、言葉なんて要らなかった。だからそれ以外の世界は、俺にはわからない。
もしネイシャがまたあれを信じるようになってしまったら、その時俺はどうしたら良いのだろう。自分の感情なんて入る余地もないことはわかっているのに、こうして必要とされている話を聞けば、わがままも云いたくなる。
女神が居るか居ないかは別として、ネイシャにはひとまず、特別な声が聞こえていた。だが塔から出て聞こえない現状で、あいつは天帝に従うことを決めた。もし声が聞こえてるようになったとして、その声がネイシャの求めるものと違っていたら、彼女はどうするのだろう。塔を出た時の決断が、今も変わっていなければ良いと願うことしかできない。
「……天帝に従えという声が、ずっと聞こえると云っていた」
「え?」
「でもそれを正直に云うと、王や神官に否定される。駄目な女神だと叱られる。だから必死に祈るけど、あの塔から見える景色は、戦争ばかりで変わらない。どうしたら良いかわからないから、助けてくれって」
ネイシャはそれを表立って云ったことがない。おそらく自分が長く間違った宣託をして来た所為で、余計な苦しみを与えたと思い込んでいる。天帝に従うことが女神の云う是ならば、神官のことなど無視して答えを訴えなければならなかった、と。だがそれは、とんでもなく酷なことだ。自分の身に置き換えると、後々は容易く感じられ余計な自己嫌悪に陥る。だからこそ、余計に云うことができない。俺に云ったのは初めて会った赤の他人に対する一種の気安さからだ。だから俺が云うべきではないとは思ったものの、ベンには知っていて欲しかった。彼はもちろん、それでネイシャを責める人など何所にも居ないだろう。
ベンはゆっくりまたたきをしてから、ずっしりと重たい紙袋を俺へと差し出す。
「──本当に、おまえがネイシャを連れて来てくれたことに、感謝しているよ。だから幾らでも協力を惜しまないさ」
・・・・・
宿に帰り着いた頃には、既に日が暮れていた。ベンだけではない、カーヴレイクのみんなはそうやってすぐ承知してくれた。戦になるというだけで嫌な顔をしても良さそうなものなのに、さっさとネイシャを連れ戻せと誰もが口をそろえて云った。その事実にあっけに取られて椅子に座り込んでしまうと、ルリエールが駆け寄って来る。
「ビルさん、体調大丈夫ですか?」
「……あ、悪い」
ただ脱力しただけだったのに、無駄な心配をかけている。確かに一日歩き通して疲れたものの、嫌な疲れではない。むしろ天帝がなぜ俺にこんな役回りをさせたのか、狙いを理解して若干の悔しさもある。
「ちょっと、驚いただけ」
心配そうに覗かれていたが、ほっとされる。俺の体調に対してそうやって一喜一憂させることに、また申し訳なくなる。不思議と煩いとか面倒くさいとか、そういった感情は起こらない。ルリに同情してはいないつもりだが、その理由は果たして身内ではないからというだけなのだろうか。自分でもよくわからない。
「悪い、ありがとう。いつも迷惑ばっかりごめん」
「いえ、これぐらい、なんでもないですよ。迷惑だなんて思ったことないですよ。力になりたいと思うだけです」
「人が良過ぎる」
「違いますよ。私がビルさんのこと好きだからなんでもしたいただけで」
さも当然のようにさらりと云われたが思わずうつむいていた顔を上げると、ルリエールは俺と目が合った途端、おもしろいぐらいに動揺する。
「あ、いえ、そのっ、あのっ、みなさんが……!」
「……」
「その……、えっと……」
「……良いよ」
「え?」
「その、ありがとう」
「えっと……」
えっと、と何度も繰り返したルリは、そのままかくんと力が抜けたように首を落とす。顔が見えないから少し心配したものの、泣いているわけではないことにほっとする。流石の俺でも、誤摩化し切れない。誤摩化してはいけないと、そう思う。ルリエールは単に流れて来た珍しい俺に興味を持っているだけだと思っていたが、もうそれでは誤摩化し切れなくなっている。こいつは誰にでも優しいが、本当に俺には甘い。
デヴィットの云うことは正しかった。好きな奴ができたという話から少し安心していたが、帰って来てからというものルリエールはほとんど俺につきっきりだ。これだけ一緒に居れば嫌でもわかる。知らないふりして誤魔化して逃げることも可能だ。だがそれを、ルリにしてはいけないと思う。悩んだ末にウェイアレイを振り切ったように、俺はルリのことをきちんと考えなければならない。
「おまえは良い奴なのに、趣味が悪い」
正直俺には理解ができないんだが、ルリエールは少し頬を赤くさせたまま当然のように答える。
「でもそれは、ビルさんの人柄ではないんですか?」
「え?」
「人を好くのに、名前だけなんて人は居ませんよ」
いや、居るんだけどね、実際。敢えてそれは云わないでおく。ルリエールには関係のない話だ。
「ビルさんはここに来て実際、ご自分の身分を明かされたことはありませんよね」
確かに。忘れていてこの間ルリエールに初めて教えたぐらいだ。
「それでもこうして手を貸してくれる人が居ると云うのは、ビルさんの人柄ですよ」
人柄というのが正しいのか正しくなのか、いまいちしっくり来ない単語だった。俺の人柄なんて、ろくでもない。母国でも口の悪い穀潰しが定評だった。
「ここで、ビルさんが会得した信頼の結果です」
顔でも家柄でもなく人柄だと、ルリエールは云い切る。俺の身分も性格も全部知っていてなお、それでも人柄だと云い切る。そしてそれには一切、迷いがない。
「やっぱりおまえは、すごいな」
「え?」
「ん、なんでもない」
ルリエールはいつもそうだ。平生は表情豊かにわかり易い性格をしていながら、自分の信じることにはとにかく真っ直ぐで我が強い。それに嫌気が刺さないのは、彼女自身の普段の態度だろう。それこそ強い信頼があってもなくても信じられてしまいそうな柔らかい態度と、周りを意外にも冷静に見極める観察力。西大陸生まれの性なのだろうか。弱そうに見えるのに強い。西大陸に生まれたからには当然、強くなければ生きていけなかっただろう。だがそんなもの、欲しがって手に入れられるものではない。
ルリエールがどうして強くなったか、強いかなんてわからない。ただ彼女は、真っ直ぐだ。貴族にはないその筋道を少々羨ましく思う。
「ビルさん」
「ん?」
「あの、えと……」
強いかと思えば、唐突にこうしてわかり易く戸惑う姿がまた親近感を呼ぶのだろうか。
「さっきはその、なんだか中途半端にしてしまいましたけど」
「──」
「私、ビルさんのこと、好きです」
「ああ……ありがと」
なんだろう。なんて云えば良いのかわからないけど、取り敢えずそう返しておく。少なくとも学生の時、見ず知らずの女に云われるより、嫌な気分ではなかった。
「あのさ……」
「あ、でも! その! ただ中途半端になってしまったので、お伝えしたかっただけですから!」
突然慌てたように声を上げたルリエールは、俺の言葉を遮って云う。
「今は取り敢えず、ネイシャが無事に帰って来ることだけを願います」
何を云おうとしていたか、別に深い考えがあったわけではない。でもルリエールの続いた言葉に、もう俺が何かを云えることはなくなった。
本当にできた奴だ、と思う。
少し考える。ウェイアレイだったら、なんて云うだろうか。たぶん泣くふりでもしながら、俺にさっさとネイシャを助け出せと云うに違いない。良いやつだなぁとは思う。今はただそれだけだ。悩みはしたものの、別れたことに後悔はない。俺は俺なりにちゃんとウェイアレイが好きだったのに、あいつほど真剣にはなれなかった。これ以上一緒に居ても、ウェイアレイが駄目になってしまう。その判断はたぶん、間違っていない。
考えなければならないことが山積みだ。国のこととかネイシャのこととか病気のこととか、ルリエールのこととかウェイアレイのこととか。
──そうよ、ビル。みんな貴方のこと、大好きなんだから。
そう、こいつの……レーイのこととか。




