第10話:知るということ
「──できた……」
その一言は珍しく声に出ていたらしく、ルカが後ろで小さく反応したのがわかった。
狭いルカの部屋にある唯一の机を占領して数日、俺はひたすらに計算を繰り返した。リヴァーシン神国の公式に残っている3年前の地図と現状はあまりにも変化していた。それはリヴァーシンが天帝への反発をした際に起こした小さな惨劇が激しく残った結果だ。現状と照らし合わせて現在への修正を行った結果、今の西大陸には天帝に知られずリヴァーシンの残党が雲隠れできる場所はほとんどない。将軍からも定期的に何所に正規軍が駐屯しているということを教えてもらい(機密かと思ったらすんなり教えてくれた、大丈夫なのか)、絞られる場所を絞って来た。昔の地図と合わせて透かせば、それはだいたいわかる。
数は多いがそこまでではない。全部で30箇所程度。実際現状を聞けばもう少し減るかもしれない。そしてあの神官の女神へのこだわりから、土着の女神の居場所を遠く離れることはそう簡単にできないだろう。そうやって絞り込めば、つまりネイシャの居場所は簡単にわかる。……はずだ。
剣を振るうこともできなければ、体力もないからあんまり遠くへも行けない。役に立たない俺が唯一できることは、これぐらいだった。地図なら少しは自信がある。もちろん実際に測量していないからずれは生じるだろうが、今回はそのために書いたものではない。ある程度の居場所を絞ることができればそれで良い。
「……あんた、本当に地図書けたんだ」
いつの間に背後に居たルカが、信じられないような目で書き上げたばかりの地図を見つめる。俺にとってはルカが看護師であることのほうが不思議だが、それと同レベルで信じられていなかったらしい。まぁ気持ちはわからないでもない。面倒くさいが第一声の俺にこんな細かいことができるなんて、先生に教えてもらうまでは知らなかった。反論したい気持ちはひとまず置いて、俺は二つの地図を重ねて可能性のありそうな場所に印をしていく。
「あー、そこは今駄目だと思うわよ。この間もう人が立ち入れないほどの瓦礫でね。すぐ近くに天帝が作った診療所があるから」
俺の無言をどう受け取ったのか、珍しくルカが真面目にアドバイスをくれたため、また候補を絞ることができた。これを将軍に見せればさらに詰めて行くことができそうだ。
「ありがとう、ルカ」
云うか悩む前に、正直な気持ちが先行して言葉になった。帰って来たは良いものの、国上げて探している一人の人間をどうやって探すかなどまるで術がなかった。レイヴンにも上空から見てもらってはいるが、レイヴンが俺のものだと神官にはすっかりばれているため、あんまり頻繁にはできない。八方塞がりの俺に本という知識をくれたのはルカで、それはたぶん冷静になれという意味合いもあったのだろうが、おかげで自分のできることを進められた。ベルクスに啖呵を切った手前、何かしら役に立たないと示しもつかない。
珍しく素直な俺に一瞬顔をしかめたルカも、茶化すことはしなかった。
「それにしても普段のずぼらが嘘みたいに正確な地図ね」
「いや測量したわけじゃないから正確じゃない」
正確さは求めていないからそう云えば、ルカはくすりと笑う。
「変なところで完璧になろうとしないでよ」
「完璧?」
俺からは遠いその単語に違和感がある。意味を取り違えているかと少し悩むものの、他の語句を思い浮かべることができない。
「まぁわからなくはないけどね。──あんたが何所までもずぼらでいい加減で、適当だったら良かったのに」
意味がわからない。
理解させるつもりもないのか、ルカは手ぶらで扉を開ける。
「将軍のところまで行くのなら案内するわよ、仕事に行くついでだしね」
俺が来た頃帰って来たような風だったのに、こいつも案外仕事一筋だ。そういえば飲んだくれているし行儀は悪いものの、ルカが街中で自由にしている姿をそんなに見たことがない。帰る前に開いた祭りの時も、ついこの間も居なかった。完璧を捨てたがっているのはむしろ、ルカなのではないだろうか。
・・・・・
ルカに云われて付いて行った先は、俺の仮の家から真北に進んだ立ち入り禁止区域だった。流石に俺はこれ以上進めないのではないかと思い留まっていると、ルカはそちらより先に進む前に、入口にある小屋へと入って行く。それからしばらくすると、ルカの代わりに将軍がその小屋から出て来た。まさに掘っ建て小屋と云えるそれは、戦地でどうにか生き延びた個人宅が数軒連なっている。
「ビル殿、わざわざすまないな」
「いやむしろ俺ここまで来て良かったわけ」
「これ以上先はもちろんビル殿も立ち入り禁止だ」
そりゃあ当然だろう。いくら害がないと云えども異国人に情報を漏らしすぎではないかと心配になってしまう。だが俺の心配を余所に、将軍は的外れなことを云う。
「疫病の患者がまだ2、3人居るのだ。貴殿に伝染ったら申し訳がない」
「え?」
「ああ、聞いていないか。表向き軍事基地として立ち入り禁止にしてはいるが、ここから1キロ先は施療院だ。疫病患者にはとにかく清潔さを一番に与えたいんだが、施設を作るのに資源も資金もまだ足りなくてな。まだ一棟しかできていないから、軍の立ち寄りはどうしたって古いものになる」
さも当たり前のように鎮痛な面持ちで話され、俺は言葉に詰まる。ルカの勤務先である施療院とはここのことだったのか。疫病患者が居る中に、彼女はなんのためらいもなく入って行った。そんなことまで教えてもらった罪悪感と、平然とここへ俺を連れて来たルカの思惑に溜め息を吐く。
俺はそれに気づかないふりをして、将軍にできたばかりの地図を渡す。
「ほぉ、これは」
地図を見た将軍が目を見開く。あんまり感心されても自信がない俺は、すぐに昔の地図を後ろに重ねた。
「若干違うとこもあると思うけど、だいたいで合わせて見るとこうなる。たぶん女神に執着しているからその関連の建物付近に居ると思う。で、今は通れない道とか天帝の一団が居る場所とか、抜かすと可能性はこれだけ」
ルカと話し合った結果、ざっと30余りあった箇所が25箇所ほどに絞られた。
「でもたぶん、まだ他にも実際無理な場所があると思う。それを将軍に見てもらいたい」
できたことがこれぐらいしかなかったことに若干の申し訳なさと不安が混じり、たぶん早口になっていたと思う。黙って地図を見る将軍に、俺の拙いレジーク語がもしかして全部伝わっていないかもしれないとさえ思えたのだが、将軍はじっと地図を見つめたあとに、
「──実に見事だ、ビル殿」
思わず漏れてしまったとでも云うように、短く吐き出した。
「正直神官たち残党の動きが活発でな、我々はまだこの東側の地形を完全には把握できていない。だから定期的に見回りをして少しずつ確認はしていたのだが、ここまで書き留められたものはなかった」
はぁ、そりゃ見回って測量して書いてってやってたら大変だよな。俺は3年前の地図を元にしたから、本当に大したことはしていない。
「やはり貴殿は貴重な戦力だ。すぐにこの努力への返答をするよう全力を尽くす」
元はといえば俺が投げ出した結果だというのに、やっぱり莫迦真面目なままだった。
・・・・・
ようやく落ち着いたその日は、ルリに呼ばれてダグの料理を食べさせてもらうことになっていた。俺はと云えば自分で仕上げたというものの、本当に正しいのかが不安で落ち着かない。将軍に空振りさせてしまっていたら、俺のしたことは本当に無意味だ。
最初は部屋にひとりで居たのだがそれも落ち着かず、なんとなく降りて来て長椅子に陣取り新聞を読みつつ、忙しく立ち回るルリエールをぼんやりと見ていた。新聞なんてもちろん、すらすら読めるわけがない。集中しなければならないのに動き回るルリエールを見るとそちらに注意が逸れてしまうし、別段読みたいわけでもないからすぐに内容へと戻れない。
そんな俺の焦燥を見透かしたかのように、ルリは気を遣ってあれこれ世話を焼き始める。
「この間ナバラさんに戴いたお茶です、軍の方が西側から持って来てくれたみたいで簡単に手に入るようになりました」
そういえば植物なんて何所にも咲かないこの地域一帯で、どうやって薬草を仕入れているのかと思えば、帝都パクスカリナの北には大きな森が広がっているのだという。山脈から続いてある森だから、今まで破壊されずに済んだらしい。
「悪い」
そんなとりとめもない話を自然としてくるルリエールに流石に申し訳なく思って云えば、どうして謝られたかわからない、というような顔をする。──なんとなく気が抜ける。こんなに人が良すぎてよく生きて来られたなぁと純粋に思う。俺がそわそわしていても仕方がないと、ひとまずネイシャのことを頭の隅に押しやる。
「あの、じゃあビルさん。少しお時間戴けますか」
俺の言葉をどう受け取ったのか、ルリエールは突然思いついたかのように、俺の横に座る。もちろん読むふりをするぐらい閑な俺に断る必要はない。
「この間、私はビルさんのことを教えてもらいました。でもビルさんだけと云うのは少しずるいし、ビルさんが良いと云ってくださったので、ちょっとビルさんに甘えさせてもらっても良いですか?」
いや、ずるいとかそう云う問題じゃあないと思う。
いつでも聞くと俺は云った。だから別に、聞くことに覚悟はあるから問題ない。ただ話すほうが大丈夫なのかと少し心配になる。今思い出したかのように始めたルリだが、たぶん話すタイミングを探していたのだと思う。たまたま今、その時間があるというだけ。
「今ビルさんが使っている部屋は、私の一番上の兄の部屋です」
部屋数が無駄にたくさんあるのは、もちろんそれだけ人が居たということだ。それぐらいわかっていたはずなのに、改めて云われるとその重みが強くなる。
「その隣から順番に、二男、長女、私、三男四男、父母と妹の部屋でした」
ルリとダズの部屋は変わっていない。なんでそんな間の抜けた使い方をしているのか、宿をするなら二人の部屋は別に作るべきではないかと思ったが、相変わらずここに宿泊する客は俺しか居ない。もともと、埋めるつもりもないのだ。
「戦争が起こって大勢の人が港へ逃げ込んできました。船に人は乗り切らず暴動が起きて、ここら辺は船員の宿舎だったので攻撃が集中したんです。そのうちに西からもっと領地を求めてやって来た人たちが、この土地を荒らしました」
港町、それは国の玄関口であると共に、外へと逃れることのできる唯一の出口だ。毎日の戦が嫌になって逃げ出そうと思うなら、その出口はここしかない。外に行ったところで生きていけるかはわからないが、少なくともこれだけ派手に毎日戦争している大陸は他にない。
「仲裁に行った上の兄は処刑され、下の兄は無理矢理出した船が難破して行方がわかりません。姉は何所かへ連れて行かれました。遺体は見つかっていませんが、連れて行かれた人々が追っ手に攻撃されたらしいので亡くなったと思います。弟二人は拉致されて、戦争に行かされたようです。安否はその後わかりません」
ルリエールはそっと手を出す。その小さい手をで俺の手を握ろうとして、 だがそれは宙に浮かんでふらふらするばかりだった。
「私は母と妹とここに残っていたんですけど、西から来る人たちが港を狙っていてここも危ないから、近所の女性や子どもとカーヴレイクへ避難することになったんです。行軍は厳しくてみんな体力もないので休憩中が頻繁でした。夜は小さい妹の手をつないで、母が居ることを確かめて眠りました。──でも私がある朝目が覚めた時、持っているのは冷たくなった二人の手だけでした。周囲に居たみんなも散り散りになって、私が助かったのは本当に奇跡だったんです。戦争が終わった後、お父さんが妹の遺体を連れて来てくれました。母は……見つかっていません」
──手を握るのって、苦手なんです。
ついこの間、そう云っていたことを思い出す。
今すぐやめろと、云いたかった。だができなかった。
中断させることは簡単だ。だがルリエールはそれを望んでいない。俺が自分のことをルリエールに話したのを理由に、俺がルリエールの話を知る義務にしたのだ。悩むように動く小さな手をそっと握ってやりたかったが、それができなかった。俺はよく、そうやって手を繋いでいた。レーイと居ると、自然とそうだった。そうすればだいたいのことが、話す必要もなくわかるから。
俺はどうしてやって良いかわからなくて、結局前みたいに震える身体を支えて、肩を貸すことしかできなかった。
「ビル、さん……ごめんなさい」
「おまえが話したいなら話し終えるまでちゃんと聞いててやるから、だから何も気にせず話せば良い。終わらせたいなら終わらせても良い。いつでも続きは聞く」
たぶん今ここで話すのをやめたら、二度と話すことはないだろう。そうは思いながらも、一応は逃げ道を作っておいてやる。逃げ道が欲しかったのはもしかしたら、俺なのかもしれない。
「……ここら辺の宿舎で生きて戻った船員は父を入れて3人だけ。ここに居る限り、この大陸に居る限りまた殺される。……だけど、天帝が、すべて助けてくださって」
大きく息を吸って、ルリエールは一気に続けた。
「その後から今は、とても平和です。私みたいな目に遭った人は大勢居るから、私だけが特別なわけではありません。まだ息のある人を助けようと、家を施療院代わりにしたんです。ビルさんが初めてここに来る、少し前のことでした。ちょうど最後のお客さんを施療院に移し終えて、やることがなくなるとどうしたら良いかわからなくなってしまって」
今までが膨大過ぎたから、何もしなくて良い日常に突然戻るとどうしたら良いかわからないのだろう。だから戦が終わったばかりの場所に宿屋なんて的外れなものができたのだ。たぶんダグは、ルリが気を紛らわすことができるものならなんでも良かったのだと思う。
「ビルさんが来てくださって、仕事ができて助かりました。施療院はできるだけ近寄るなって云われてしまったので、今も呼ばれた時しか行きません」
宿には誰も来ないが、ルリエールは毎日忙しそうにしている。今も忙しく動き回っているのは、考えたくないからかもしれない。本当に俺が来る少し前は、この大陸に居る限り平穏がないような場所だったのだ。そんな雰囲気を欠片も見せないカーヴレイクの人たちは、こうやって誰かに吐き出すこともせずにどうやってそれらに折り合いをつけたのだろう。
「お父さんはたぶん……母を捜しています」
飄々としたダグさえも、そんな傷を見せて来る。
「母は私が握りしめていた手首しか埋葬していません。毎日港をふらふらしていますけど、たまに西側へ行っては戻って来て……今さら探したところで残酷ですけど、それでも探さずには居られないんだと思います。港へ行くのもたぶん、それが日常だったからで、私が孤児院に行っているのと同じなのかもしれません」
何かをしていないと気が紛れない彼らは、平和に慣れていない。だからリヴァーシンとの抗争でいきなり爆炎が上がっても平然としている。あれぐらい日常茶飯事で距離が遠いから問題ないと平気で居られる。もうあれが自分のもとへ来ないとまだ信じてはいないかもしれないが、ひとまずの平穏を手に入れた彼らは、この大陸に生まれたことを恨んでいるだろうか。
ぽんぽんと軽く頭を叩いてやれば、ルリエールが突然、ぱっと俺から離れて距離を取る。
「すすす、すみません!」
慌てて赤くなるその顔はいつも通りのルリエールで、俺は若干ほっとする。俺が知っているこんないつも通りのルリエールも、最近構築されたものなのかもしれない。
「いや、ありがと」
俺の話した瑣末なことより、ずっとずっと重たいその話に、俺は返す言葉も見つけられない。生まれた時から命を厳重に守られた俺には想像もつかない、儚い世界。発端はレジーク王朝が滅びてからだという。南大陸から嫁を取った王を不服に思った臣下が、ほんの少し力をつけた小国と手を取り王を弑する計画を企てた。実際はその小国は手を組んだレジーク王朝の臣下を裏切り、国を拡大するつもりで居た。だがしかし反逆の日、レジーク王朝の王族関係者も、小国の者も、誰も生き残らなかった。何が起きたかは誰もわからない。小国の居残り組がそう吐いただけでそれが本当に事実かどうかはわからないが、それ以来、この国はひたすら戦が続いている。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」
「でも俺は、助かったよ」
「え?」
「ルリが宿屋なんて作ってくれなかったら居場所なかったし、ルリが居なかったらたぶん、俺はここに居ないと思う」
ルリエールが世話を焼いてくれたから町の人たちが警戒せずに済んだのであって、将軍からの信頼は身分のわかる保証付きの後付けだ。いろいろな人たちがなぜか俺を警戒せず居心地の良い場所にしてくれたが、それは最初にルリエールやダグと関われたおかげだ。宿屋なんて意味わからないものがあってくれたことに感謝する。
ルリエールはまだ赤い顔のまま、困ったように視線をうろうろとさせ、仕舞いにはそのまま下を向いて消え入るような声でつぶやいた。
「ありがとう、ございます……」
なんでお礼を云われるのかわからない。だが返す言葉も思い浮かばず、俺はただ小さなルリエールの手を見ているだけだった。




