誕生
「はい奥様、力んで下さい!!もうちょっとですよ!!」
すぐ近くに居るはずの産婆の声が遠くに聞こえる。もう3度目の出産で、慣れたものねと微笑んだ彼女の姿が、遠い過去のことに思えた。この子はひどく難産だったのだ。
本来なら騎士としての遠征任務を終え、城内の騎士宿舎でゆっくりと一晩を明かす筈だった夜が慌ただしく過ぎていく。出産の報せを聞いて急いで愛馬を走らせ、自領の屋敷に戻ったころにはすでに妻はベッドの上で医者や産婆、メイドに囲まれて息も絶え絶えであった。驚くほどの速さで身を清め、その細い手を取ると、涙の浮かぶ妻のその眦が微かに緩むのが見て取れた。その様子に胸の奥が古傷のように疼き、たまらず祈るように掴んだ手に額を押し当てた。どうか無事でありますように。必死に祈る顔を見せたくなくてそうしたが、もしかしたら手にこもる力に、気付かれていたかもしれない。
彼女の呻きを聞きながら、何度もその顔を拭い、声を掛けた。私たちはひたすらに眼を合わせ、ただお互いの存在を認識し続けていた。嵐のような夜。もしかして永遠に続くのかと思われたその嵐の終わりは、突然に来た。全身にこもっていた力が霧散するように抜け、直後に周りが呪縛から解き放たれたように安堵の息をもらした。
「生まれました、男の子です」
取り上げられた赤子はまるで猿のように皺くちゃで、それもまた可笑しくて、こみ上げるあたたかな気持ちにようやく実感が出てきた。
よくやってくれたと、妻に声を掛けようとしたところで、ふと違和感に気づく。手を引かれるように妻を見れば、やはり不安げな顔をしている。泣き声が聞こえないのだ。この子の兄も、姉も家を揺るがすほど泣いたというのに、辺りには騒めきしか聞こえない。取り上げた産婆は、咄嗟に子供をうつぶせにし、その背中をとんとんと、異物を吐き出させるように叩いた。しかし一向に何も聞こえない。
「赤ちゃん、私の赤ちゃん……」
すでに妻の声は濡れていて、不安に胸がつぶれそうになる。妻の手を両手でにぎりながら、私は今も静かなままの赤子から目が離せない。足元から這い上がるような予感に、奥歯を噛みしめて耐える。そんなはずはない。あっていいはずがない。心の中で吐き出せるだけの祈りの言葉を唱えながら、ただひたすらに待った。
妻はもはや嗚咽を隠せなくなっている。もうだめか。目を反らそうとした瞬間、視界の端に何か白いものが映り込んだ。羽根だ、たった一枚の白い羽根。それが天井からひらひらと舞い落ちてくる。そして、まるで意思を持つかのように赤子の胸の中にすっと消えていった。その瞬間――室内では起こるはずのない暖かな風が頬を撫でた。訳が分からず、妻を見ると自分と同じように呆けているのが見えた。
「な、泣いています。赤ちゃん、泣いています」
その腕の中を覗き見ると、先ほどまで身動ぎ一つしなかった赤子が、口を大きく開けて力いっぱい泣いていたのだ。差し出されるままに妻がそっと抱く。恐怖と興奮、そして安堵がないまぜになった内心を感じさせるように恐々と、だがしっかりとその子を彼女は抱いた。その様子を見ながら、重い口を開いた。
「見たか?」
「……えぇ、しっかりと」
やはり彼女も見えていたのだ、あの白い羽根が。赤子の頬をそっと撫で、彼女は呟いた。
「何かこの子は、特別な力を秘めているのかもしれないわ」
先ほどとは打って変わって、あらん限りの力で泣く赤子に視線を注ぐ。室内に響き渡るその声が、確かにこの子の生を実感させてくれた。たまらず、そっと手を差し出し、その小さな背中に手を置く。
「……なんでも構わんさ、元気でいてくれるなら」
妻が目元に涙を浮かべながら頷く。今はただ、この子の誕生を祝おうじゃないか。
読んでいただきありがとうございます。作者です。
小説というものをしっかりと形にするのはこれが初めてのことなので、何かと拙い部分があるかとは思いますが、お目こぼしいただければ幸いです。
自分でも驚く程の固い文ですね。それでは、失礼いたします。