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エッグボーイ・ナイトラン

作者: 雪缶

 白熱灯と蛍光灯の明かりはどうしてこうも違うものなのだろうかと、力のこもった眼でなに か熱弁する講師をぼんやりと視界に捉えながらそう思った。白熱灯はやさしくて暖かい光だというのに、ブラインドで窓を閉め切られたこの教室を照らす蛍光灯の光は、人工的すぎてあまり好きになれない。時間だとか季節感だとか、そういったものをまるで感じさせないその光を浴びている僕らは、室内で栽培されている野菜みたいだ。

「なあそこの、名前がわからないんだが卵みたいな頭をしてるやつ」

 教室内が笑い声で軽くざわめいた。何事かと確認することもせず、僕は頬杖を崩して視点を講師に合わせる。

「どうもぼんやりしてるようだから聞くが、ここにはなにを代入すればいい」

 補修したあとが残る木の棒で講師は後ろのホワイトボードを指した。今度は僕の周辺でだけ笑いが起こる。この席からは、たとえ立ち上がろう がしゃがみ込んで下から見ようが、反射でホワイトボードが見えないことを知ってるからだ。

 囁くような笑い声の中で、僕はひとり沈黙する。講師はそういった反応が返ってくることを知っていたかのように、少しだけ口角を上げて 授業を再開した。僕もそんな反応を返されることを知っていたから、また頬杖をついて顔を支える。周りが言うところの卵頭。でも今日はなぜだろう、その頭の芯がいつもより少しだけ熱く感じた。



 教室を抜け出て外に出た。いや、抜け出てという表現は正しくないかもしれない。ともかく、扉近くに座る僕は授業を放棄して曇り空の夜の街に飛び出した。

 なぜ今日に限って我慢できなかったのかは、自分でもよくわからない。けれどたぶん、普通に考えればストレスだとか緊張だとかそんなことが原因なのだろう。吐き出す息はすっかり白くて、僕は口元を隠すようにマフラーを巻いた。

 こんな日はさっさと家に帰って休もう。勉強道具だけがぎっしりと詰まったバッグを背負いなおして、僕は裏通りに入る。すれ違うたびに感じる誰かの視線も、頭が痛くなるくらいの喧騒もない暗い道に僕の足音だけが響く。規則正しく響く自分の音は、なんとなく気持ちを落ち着かせてくれた。

 二十分ほどだろうか、いつもよりゆっくり歩いて自宅に着くころにはすっかり身体も温まっていて、マフラーをはずして首元にあたる風が心地いい。これならストーブをつけて部屋を暖める必要もないだろう。早く、布団に倒れ込んでしまいたい。

 まだ誰も帰ってきていない家の鍵を、降ろしたバッグから取り出して、僕は足元の花に気づいた。

「なんで」

 くすんだ灰色のタイルに、淡い赤に色づいたサザンカの花が転がっていた。かがんで拾い上げる と花弁は数枚抜け落ちてしまい、僕の手にはみじめな塊が残った。玄関扉のすぐ横に置いてある鉢からは艶のない葉が僕を責めるように見上げていて、僕は手のひらの塊を握りつぶしてそれに投げつける。

「せっかく育てたのに」

 それは日々のなかの本当にささやかな楽しみで、だけど僕のなかでは大きなものだったらしい。枯れて花を落とすのは仕方のないことだし、来年の今頃にはまた咲いてくれることだって頭では理解している。それを心がわかってくれない。

 僕の足は足元に残った花弁を地面に擦りつけるように踏みつけていて、頭のなかの僕はそれを他人事のように眺めている。思考と行動が乖離しているようだ。どこからか心に湧き上がる情が身体を支配していて、それは徐々に頭にまで迫ってきている。頭の中の僕はそれに抵抗することもなく飲み込まれて、そうしてようやく僕は花弁から足を上げることができた。

「今は、ここにいたらだめだ。だめだよ」

 いつの間にか過呼吸のように浅い呼吸を繰り返していて、身体は痺れているように鈍い。そんな身体を引き摺って僕は逃げ出した。このままあの場にいれば、そのまま感情にすべてを任せてしまいそうだった。

 静かな夜道に、荒々しい呼吸音と足音が響く。その音はどこまで走っても僕に付きまとって、心のなかを荒らしていく。けれど足を止めれば感情に飲み込まれてしまうから、僕は走る足を止められない。頬を鋭くなでる夜風だけが、それを振り払ってくれるような気がした。

 裏路地を抜けて商店街に出てしまった。それでもまだ僕は足を止めることはできなくて、周囲の視線を一手に浴びている。視線は僕の全身に突き刺さって、だけど嫌だとかそんなことはみじんも感じない。

 息を切らせながら駆け抜ける。途中、あのサザンカの苗を買った花屋を通り過ぎた。看板もシャッターも下ろされていて、あれはきっと閉店してしまったのだろうけど、残っていた花は誰かに買われていったのだろうか。



 機関士を振り落した暴走列車のように走り続けた僕を止めたのは、踏切の遮断機だった。

 普段から運動なんてしない僕の全身は悲鳴を上げて いて、右足のふくらはぎなんかは痙攣しているし、胃だってひっくり返りそうだ。

 そして足を止めた僕の心には、やっぱり蓋をし損ねた感情が滲みだしてきた。それは僕をなにか別のものに書き換えていくように身体を満たしていって、僕は目の前で鳴り響いている遮断機を見て思いつく。ここがどこなのかはわからないけれど、時間としてはいい頃合いなんじゃないだろうか。

 きっと今からここを通り過ぎる電車には、あの教室で僕を笑った誰かが乗っていて誰かとにこやかに会話をしているのだろう。点滅する赤いランプだけが僕を照らしていて、その光に導かれるように僕は痙攣している足を踏み出す。

「後悔はしない? そんな、誰のものかもわからない感情に飲まれて」

 不意にかけられた声で、僕は踏みとどまった。電車の音はもうすぐそこまで来ていて、だけどいまのタイミングでは間に合わない。僕は振り返ってその声の主に返事をする。

「誰のかもわからないって、これは僕の感情だよ。誰のものでもない、僕の」

「本当に?」

 馬鹿にするような口ぶりでそう言うと、くすくすと笑い始めた。僕が笑うな、と言った声は通り過ぎた電車の轟音にかき消されて届かなかっただろうけど、代わりに車内から漏れ出た明かりが彼女の姿を浮かび上がらせて くれた。

 彼女はもう真冬だというのに上には白色のフリースしか着ていなくて、そのフリースにはまだらに赤い水玉模様が滲んでいる。右手からはたぶん血らしき液体が滴り落ちていて、左手にはぬらめいたハサミを持っている。なにをしていたのかなんて聞くまでもなくて、それを気持ち悪いと思わなかったのは彼女が笑顔だったからかもしれない。

「痛くないの?」

「痛いよ。痛いけど、これは私の感情でやったわけじゃないからつらくはないの。死んだりしないし」

「なんだそれ」

 痛いならやらなければいいのに、そう言いかけてやめた。

「あのね、きっと世界のどこかにはいろんな感情を詰め込んだタンクみたいなものがあって、そこから感情は送られてくるんじゃないかな」

 彼女が一歩こちらに踏み出し、地面にまた一つ染みができる。

「私とかいまの君には悪い感情が送られてくるパイプがついててさ、だから私たちはその感情を出して捨ててあげないといけないの。私のこれはその手段の一つでしかなくて、別につらいとかじゃないんだ」

 雫を飛ばしながら手首をぶらぶらさせる彼女は、誰が見たって異常者で、僕だって歪んでいると感じた。言っていることだって異常者のそれだし、普段の僕なら無視しているような相手だ。

 そんな彼女なのに僕がそうしないのは、彼女の言うとおり悪い感情がどこかから送り込まれてきていて、同類になってしまっているからだろうか。

 彼女の手首からは止まる気配もなく血が流れ出ていて、もし吸血鬼なんてものがいたならこの機を逃すことはないのだろうなと、取り留めもなくそう考えた。

「なら僕も、その感情を出してあげないといけないのかな」

 彼女と目が合う。暗くてよく見えないけれど、僕らの目はひどく濁っているのだろう。僕たちのものじゃない濁りで。

「そうだよ。出したらまた、送られてくるけどね。でも運がよければパイプも一緒に流し出してしまえるかもしれないから、私はそれを待ってるんだ」

 やっぱり彼女は歪んでいて、いつかは僕もこんな考え方になってしまうんだろうかと他人事のように考えてしまう。気が付けば彼女は僕の目の前にいて、僕らは見つめ合っていた。予想通り濁っていたその瞳には目が前髪でほとんど隠れてしまっている、卵頭の僕の姿。

「これ、あげるね。どう使ったっていいけれど、死ぬことに使ったらだめだよ」

 左手に持ったハサミを僕に押し付けて、右手で僕の頭をなでる。後ろから自転車の音がして、誰かが通り過ぎた。その誰かは一瞬だけ立ち止まって僕らの方を見たけれど、なに も言わずに立ち去って行った。

 彼女の血が髪を伝って顔に垂れてきた。通り過ぎて行った誰かは、こんな僕らのことを気持ち悪いと思っただろうか。僕らは好きでこんな風になったわけではないのに。むしろ感謝される側なのに。なんだか理不尽だ。

「それじゃあ、私は帰るね。止血しなきゃ死んじゃうし」

「うん。ねえ、またこうやって会えて話せるかな」

「会えて話せるよ。お互いが死んだり、パイプが切れなければだけれど」

 彼女はまた右手を雫を飛ばしながら振って、線路の向こう側に歩いて消えていった。

 僕はそれを見送って、それと同時にまた遮断機が下りた。チカチカと赤色が点滅する。前髪がうっとうしい と思った。

 ハサミを持つ手に力がこもる。心臓がバクバクして手が震える。

 僕はこの日、殻を壊した。


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