14話 ライア→ルナ
朝方に始まったジアトー奪還作戦は数多くの犠牲を払いつつも成功を収めた。飛行艇を使った上空からの奇襲、連動して市街地各所でレジスタンスが活動を始めてこれを援護、電撃的に進む作戦速度に帝国軍は対処できなかった。
加えて帝国軍を指揮していた将官が不在、さらに帝国本国が休戦協定を結んだことが兵達に知らされたのが決定打になり、午後二時頃にはほとんどの戦闘行動は終了した。
この作戦を企てた一人、クリストフ・フェーヤの事前の根回しもあり、ジアトーが首長国、帝国間の緩衝地帯として独立する準備があっという間に整い、ジアトーはたった一日で独立国になろうとしている。
クリストフの手腕にライアは驚くばかりだ。彼女はプレイヤー達の受け皿を作りたいと考えて行動してきたが、それがこうも早く実現するとは思ってもみなかったのだ。
ルナ達には独立と語ってみせたが、実際は自治区やチャイナタウンみたいなものを構想していた。そこまで持って行ければ御の字と考えていたところ、まさか本当に独立国家になるとは予想外だった。
同時に呆れの感情も浮かんでいた。国家とは、こうも簡単に成立するものかと。
歴史やニュースで国家の樹立について学んで見知ったつもりだったけど、日本という何だかんだと言いながら何十年も情勢が安定した国に生まれ育ったライアにとって、この手の動乱は実感が湧きにくかった。
モニタの向こうでどこかの一地域が独立したという報道を見ても、殆どの日本人は感慨が湧かないようにライアもそうだった。それがまさか当事者になるとは思慮の外側でもあった。
「しかも、私が政治首班……父さんが知ったらどんな顔するのかな?」
政治家の父の顔を思い出し笑ってしまう。ライアの父親は上昇志向が強く、将来的には首相になってみせると息巻いている人物だった。そんな野心むき出しな父を彼女は苦手としており、中学生の頃から精神的な距離を置いてきた。
父親を半ば反面教師にしてきた彼女は昔から人の面倒を見るのが好きで、この世界でも困っていたプレイヤー達の受け皿を作るべく奔走してきた。
そういった行動が支持者を作り、気が付けば一国の顔になろうとしている。本当に人生は分からない、そう強く思ってしまうのだ。
「――どうしよっか宏明、お姉ちゃんこの国の首相になっちゃうみたい……本当にどうしよっか」
手の平にあるドッグタグに目を落とし、薄く苦笑するライア。彼女の目は薄く涙が浮かびだしている。
小さな金属プレートに刻印されている文字はローマ字表記で『ストライフ』。ライアの弟、宏明の名前が打刻されていた。これは市庁舎近くで発見された死体から回収されたもので、回収した者はストライフとライアの関係を知っており、すぐさま送り届けられてきたのだ。
状況を聞けば、市庁舎の屋上で戦闘があって、ストライフは敗れて転落らしい。そしてその戦闘の相手はライアも知っているルナだった。
今の心中はライア自身にも説明が難しい。ルナは恨んでいないし、弟が死んでしまったのも悲しいけど諦めていた。だけど割り切れるほどさっぱりしていない。胸の奥がずっとモヤモヤとした言語化困難な気持ちが渦巻いている。
単純に悲しいという感情とは違う、澱のように溜まっていく何かがライアの心の器の底にあった。
ドッグタグを良く見れば、黒ずんだ染みがこびり付いている。間違いなく血の跡で、ストライフのものだ。それをライアは優しくしっかりと握りしめた。
「リーダー、そろそろ時間です。壇上へ上がって下さい」
「うん、分かった」
声をかけてきたメンバーに応えて、ライアは座っていた折りたたみ椅子から腰を上げた。言語化困難な気持ちは一度棚上げ、これから彼女は歴史に残るかも知れないイベントに出る。
浮かべていた涙はもう目元にはない。表情は毅然とした迷いのない顔に変わり、雰囲気もガラリと変わって集団を率いるリーダーに相応しい空気を放つ。
父親を苦手としてきたライアだったが、教育はしっかりと受けていた。人前では弱気で幼い己を見せてはならない。リーダーの役職に相応しい振る舞いを彼女はこれからも続けていくつもりだ。
席を立って演台まではそう遠くない。ここはジアトー市庁舎で、独立宣言に際して演説台が市庁舎前に突貫で作られていた。ライアは今まで市庁舎の一階ロビーで待機していて出番を待っていたのだ。
軽くロビーを見渡しても戦いの生々しい爪痕が目に飛び込んでくる。壁や受付のカウンターには幾つもの弾痕が穿たれて、大型の刀剣類がコンクリートの柱を両断している。魔法が当たったのか床にはクレーターが出来ていて、壁にはどういう経緯かサーベルらしき剣が突き刺さっていた。
死体こそ片づけられていてもあちこちに飛び散った血の跡はそのまま。こういう光景が街のあちこちにあると思うとライアは沈痛な気持ちになってくる。同時に復興計画にも思考が回っている辺り、ライアは政治家の親の影響を確かに受けている。
正面ロビーの扉を開けた途端わっと歓声が巻き起こる。無数の人々から発せられる声は物理的な衝撃すら伴ってライアの体を打つ。
思わず後ずさりしそうな自身を叱咤して、足に力を入れて踏みとどまる。多くの支持者の前で無様な真似は出来ない。一国の代表になってしまったからには公の立場がある。少し大げさに言うと、ライアが無様な姿を見せると、ジアトーにいる他の皆まで無様だと周辺国家に思われてしまう。
半ば押し付けられたような役職だったにも関わらず、彼女は最後までやりきってみせようと今から決意を固めた。
正面ロビーから市庁舎前に続く大階段、そこの広い踊り場に演台が据えられていた。集まった群衆は数m下まで押し寄せており、警備役を買って出てくれたメンバーが防波堤になっていた。
少し高い位置にいるライアの視界から見ても群衆の数は分からない。それほどに市庁舎前の広場を埋め尽くすように人の姿があって、ざっと見ても数千人は居そうだった。
まるで人気バンドの野外ライブみたいね、などとやや現実逃避気味な事を思いつつライアは演台の前に着いた。
演台の上には沢山のマイクが据えられている。そういえば父もこんな風にマイクの前に立っていたな、などと奇妙な気分になっていると、横からメンバーの一人が「マイクチェック、問題ありません。どうぞ」と声をかけてくれた。裏方の彼らに軽く感謝を伝えてライアはマイク、いや集まってくれた数多くの聴衆に向き合った。
政治家の答弁なんかと違い、原稿など用意されていない。最初から最後まで完全にアドリブ、ライアのスピーチ力が試される時だ。
言いたい事、伝えたい事が胸の内に山ほどある。それを聞いてくれる数多くの聴衆だっている。失敗しても愛嬌へと変えればいい、失敗を恐れる事こそ愚かと知れ。
手の中にあるドッグタグをもう一度握りしめ、腹に力を込めてから第一声を放った。
「皆さん、こんにゃちは」
――あ……噛んだ。
◆
『――とまあ、このような事があるのでこの後で皆さんは適度に休息を入れ下さいね。これからも色々な出来事が起こっていくはずですし、気力体力を充実させて事に臨みましょう。さて――』
ノイズ混じりに聞き覚えのある声が耳に入ってきた。それをきっかけに意識は浮上を始め、緩やかに目蓋が開いた。
目に入ってきた白い天井、白い壁、そよ風に揺れる白いカーテン。自分がいるベッドも白く、自分が着ている服も白い。一様に白色に統一された見知らぬ場所、それを認識した意識はまどろみから数秒で復帰した。
鼻をつく薬品臭に、自分が着ている服が患者服装なところからするとここは病院か。聞こえていた声はラジオのものらしく、空電音が混じった音声が開けっ放しの扉の向こうから聞こえてくる。
『――この動乱は私達から様々なものを奪っていきました。友人、恋人、家族、あるいは暴徒になった彼らを自らの手で討たなくてはならない悲劇もあったはずです。私はそんな悲劇を止めたい。そのためにプレイヤーの皆さんを受け入れられるだけの受け皿、国を作りたかった。そしてその第一歩がここなのです――』
ライアさん、本気で国家を樹立してしまったな。有言実行の鑑みたいな人だ。
そして奪われたもの、失ったもの……自らの内側にあったはずの使い魔との繋がりはもう感じない。僕も他の誰かと同じく、大切な存在ジンを喪ってしまったようだ。
ゲアゴジャでは友人だった涼介君を手にかけたのは記憶に新しく、その他撃ち倒してきた敵も数多い。この世界に来てからというもの、自分の周囲には銃声が良く鳴る。血の匂いと死体もよくお目にかかるようになった。
昔に両親を亡くして以来、この手の感覚には慣れている。悼む気持ちはあれど、感情に囚われることはない。どんなに長くても翌日には切り換えられる。
この割り切ったドライな感情をもってしまったのは、自分にとって幸なのか不幸なのか今でも分からない。
ラジオの音声はまだ流れてくるけど、いい加減起きようと思う。
市庁舎の屋上で狂戦士を仕留めたところまでは覚えている。そこから張りつめていたものが切れて崩れ落ち、気を失ったらしい。こうして病院らしき場所で横になっているなら、この戦いはほぼ決着して終わったのだろう。詳しい経緯が知りたいものだ。
仰向けに横たわっていた体に力を入れて体を起こそうとした途端、鋭い痛みが胸の辺りに走った。
「――くぅぅっ!」
不意打ちに襲ってきた痛みのせいで、そのまましばらく悶絶してしまう。
ああ、そういえば肋骨を折っていたのを忘れていた。患者服の下には、固めに巻かれた医療用コルセットが見える。もしかして、と服をズラせば銃弾の当たった腕には包帯も巻かれていた。
病院らしい場所だけあって丁寧な治療がされている。少し耳を澄ませばラジオ以外にも多くの人の声が雑多に聞こえてきて、慌ただしい雰囲気が感じられる。戦いの後だけあって負傷者の手当てに医者や看護師が忙殺されているのだろう。
なんて事を頭ではつらつら考えていたけど、体の方はまだ痛みで動けなかった。「いたたた……」などと口から声も漏れている。重い怪我なんて久しぶり過ぎて懐かしくなってくる。もちろん全く嬉しくない。
こんな風にうんうん唸っていると、部屋に白衣の人物が入ってきた。
「ルクスさん、大丈夫ですか? 先生、五号室のルクスさんがっ」
入室してきたのは白衣の天使、看護師さん。一〇代と言われても信じそうな年若い女性だ。彼女が声を張り上げてからは急激に事態が動いた。
若い看護師が部屋の外へと引っ込んだかと思えば、同じく白衣を着た医者と思しき妙齢の女性が足早に部屋へ入ってきた。彼女は自分にあれこれと早口に言葉を投げかけながら、聴診器やライトを使って地球でもお馴染みの診察を手早く行っていく。
良く見れば着ている女医さんが着ている白衣にはシワが出来ている。髪も若干乱れており、化粧っ気のない顔には薄く疲労が浮かんでいた。身だしなみに気を払う暇もないほど忙しいのが窺える。
戦闘の後こそ彼らの戦場、きっとこの部屋の外は野戦病院さながらな光景が広がっているのだろう。自分が彼ら医者のために出来る事は、行儀良くして手間のかからない患者として振る舞うぐらいだ。
女医さんの腕が良いのか、手早く行われた診察はあっという間に終わった。手抜きした様子は無く、素早く確実に手際よくといった診察だった。
「折れた肋骨はコルセットで固定していますので、今日一杯はそのままにして下さい。銃創はもうほとんど塞がっていますので、明日にでも包帯は取りましょう。ルクスさんは月詠人ですので回復力が高いですね。今夜辺りで大体の傷は治るでしょう。明日検査をして問題がなければそのまま退院して下さい。
ああ、言い忘れていましたが魔法を使って強引に回復はしないで下さい。骨折ぐらいになると無理に回復させるより、自然治癒の方が体に負担がかかりませんから。では、お大事に」
一息に診察結果をまくしたてた女医さんは、こちらの反応を待たずに来た時と同じ速さで部屋を出て行った。
感じていた痛みは診察の間に治まり、大人しくしている限りは痛まないようだ。医者の言うとおり今日明日は安静にしているのが吉だろう。
病室に残った看護師は診察道具をさっさと片付けていき、ボードに診察の所見を書き付けていく。「先生が言っていたように明後日には退院です。長引かずに済んで良かったですね」一言そう言って、彼女も部屋を出て行った。
部屋を出て行く直前、看護師は何かを思い出したらしく足を止めた。
「そうそう、お仲間の方がお見舞いに来ていますよ。眠っていたので面会は断っていましたが、どうします?」
「……呼んで下さい」
「分かりました。少し待っていてくださいね」
仲間と言われて思い浮かべるのは、マサヨシ君、水鈴さん、壱火、レイモンドの四人。この内の誰かが来たのだろう。
都合良くベッド横のサイドテーブルには小さな鏡が置かれている。人に会うのだから見苦しくない程度に外見を繕わなくては。
鏡を覗きこめば、この数ヶ月で見慣れるようになった幼い顔立ちの少女がいた。寝起きで眠そうな目をしていて、髪が寝癖で跳ねている。
手櫛で直そうとしたが、鏡の裏にこれまた都合良くブラシが置かれていたので使う。ひょっとしたらこれは看護師の方が用意してくれたのかもしれない。後で礼を言っておこう。それにしても腕を動かすと肋骨に鈍痛が走るな。これで本当に明後日退院なのだろうか?
ブラシで髪を整えつつ、つらつらと思考を回す。自分が今こうしているから作戦は成功なのだろうが、細かい経緯は聞いてみたい、といった事から、この病院の入院費は自費だろうか? 当然ながら保険は無いから高いと予想されるけど幾らなのか、といった所帯じみた考えまで脳内に浮かんでは消える。
程なく髪は整い、患者服の乱れも直し、一応見られる格好になった辺りで部屋の外から騒がしい音が聞こえてくる。なんとも分かりやすい登場だ。
「ルナっ!」
「ルナさんっ!」
「君ら、ここは病院だぞ。もう少し静かにしろ」
「おー、ルナ本当に入院している。ハロハロ~生きてる? って、見ればわかるか」
四人の内誰かが来たと思ったが、全員来ていたとは少し予想外だ。
マサヨシ君と水鈴さんは先を争うように自分のベッドに駆け寄って来るし、後ろから来たレイモンドはその騒がしさに年長者らしくたしなめ、さらに後ろから来た壱火はこちらの無事を見て茶化しにかかっている。
それなりに静かだった個室がいきなり騒がしくなり、寝起きの頭にこの騒がしさはなかなかくるものがある。だけど、どうしてか嫌とは思えなかった。
「レイモンド、あれからどうなったか少し教えて欲しいのだけど」
「ああ、分かった」
まずは一番事情を知っていて、一番落ち着きのあるレイモンドに事情を尋ねるところから話を始めた。
結論から先に言うと朝方に始まったジアトー奪還作戦は成功を収めた。プレイヤー達と首長国軍の活躍により帝国軍は撤退して、さらに向こうの上層部は停戦を申し入れてきた。
停戦の仲介をしたのは大陸東部の大国、通称『王国』。全権大使をジアトーに送り込んできたらしく、市庁舎を会談場所にして三カ国プラスプレイヤーを交えて停戦合意に調印、同時にジアトーとその周辺地域を緩衝地帯に指定して、首長国から独立する合意文書にも調印がされた。
三カ国から独立の承認と国交の樹立も交わされて、ジアトーは書類上すでに独立国家となっており、後はそれを広く国民に知らせる独立宣言があるぐらいだ。その独立宣言も今ラジオで流れているライアさんの声が『それ』で、現在進行形でジアトーの独立が宣言されている。
恐るべきことに帝国軍の撤退から停戦の申し入れ、王国を仲介にして停戦合意、独立の承認、宣言まで数時間しか時間が経っていない。普通なら年単位で会談を重ねて意見をすり合わせるはずなのに、この進行スピードは異常の一言に尽きた。
三カ国の裏側に何か、あるいは何者かの意図を感じてしまうのは考えすぎではないだろう。もっとも、それを考えたところで一個人に過ぎない自分が出来ることはないし、政治の面倒事に関わる気もない。とりあえず頭の隅にでも入れて備えておく程度でいいだろう。
国家間のことはレイモンドが知っている範囲ではこのぐらいだ。次に自分達を含め、プレイヤー達の今後について聞いてみた。
暴徒化したプレイヤーと帝国軍に破壊されたジアトー市街地の復興、都市の再建、経済の再回転、ジアトーの今後には多数の人手を必要としている。その人手にプレイヤー達が駆り出されるのは当然の流れになる。
詳しくは今後の協議次第になるが、大半のプレイヤー達はジアトーの市民としての生活をスタートさせることになるそうだ。
動乱の中隠れていたジアトー地元市民とも力を合わせ、元の世界にいた時の職歴を活かして労働に勤しむ。そんなごく普通の日常がやって来る訳だ。
「つまり、これからは元の世界と同じく日常生活が始まる運びらしい」
「スリリングな生活ともお別れかぁ、ちょっと名残惜しいような気がするな」
「何を言っている。安定した生活あってのスリルだぞ、こういうのは」
「守りの思考だよね。父さんも立派なオッサンだ」
「オッサンなのは自覚あるが、お前は無鉄砲すぎだ息子。以前は大人しい奴だと思っていたが、猫を被っていたのか」
「被ってて悪い? ボクは父さんと違って体育会系のノリは苦手なんだから、大人しくしてやり過ごしてきたんだよ。ここじゃその必要もないけど」
「だからってな――」
「なに――」
レイモンドと壱火で親子漫才が始まったので、説明はここまでのようだ。
寝ている間に汗でもかいたのか、少しノドの渇きを覚える。「何か飲み物が欲しいな……」と呟いた途端、マサヨシ君が「オレが買ってくるっす」と言い置いて病室を飛び出していった。それは見事なパシリぶりだ。
必然的に残った水鈴さんと顔を合せる格好になった。彼女はこちらを見て柔らかく微笑んだ表情を見せてくれる。こちらの無事を心から喜んでいるのが前面に出ている嬉しそうな顔だ。
お互いに交わした言葉は少ない。水鈴さんはどうか知らないが、話し下手の自分に上手いトークなど出来るはずもなく、会話はぶつ切りだ。それでも彼女は嬉しそうな顔をしている。
ふと、その顔に変化が出た。何か疑問を感じたらしい。
「そういえばルナ、聞けば明後日には退院らしいけど、その後はどうする? 何か予定でもあるのかな」
「予定か」
聞かれたことを反芻して目を病室の窓に向けた。微風が入ってくる窓の外、日を追う事に熱を高める夏の空が見えた。
予定はあって無いようなものだった。一応色々と手を回してくれたクリストフに挨拶ぐらいは必要だし、今後の住まいも真剣に考えないといけない。他にも考えれば片付ける予定は浮かんでくる。けれど切迫した用件は無かった。
この感触を何と言えばいいのだろう。学校で言うなら臨時休校、仕事で言うなら勤務先の臨時休業。勉強や仕事に備えていた気持ちが肩すかしを喰らったようなものとでも言えばいいだろうか。
空白になった今後の予定。けれど、これは悪い気分ではなかった。
「とりあえず、生き抜く努力をしてみるよ」
最初の日にジンに語った言葉をもう一度引き出してみた。これが今後も変わらない僕の方針だ。
水鈴さんはこれを聞いて軽く目を見開いたけど、すぐに笑みを深くして「そっか、そうだね」と頷いてくれた。
『――だからここに政治首班として宣言します。ジアトーはこれよりデナリ首長国より独立して、新しい国家として新しい体制の下、新しい道を歩みます』
ラジオから流れるライアさんの声の後に歓声が沸き上がる。多くの人にとって今日は記念すべき日になるのだろう。
自分にとってもそれはきっと当てはまる事で、この世界の日常はこの日から始まるのだと理由もなく確信した。