12話 ルナ Ⅳ
ジアトー郊外。大陸西海岸を縦断する鉄道が敷かれたそこには、軌道上の怪物と言われる列車砲が鎮座していた。鋼材で造られた無骨な巨砲は見る者を威圧し、長大な砲身は高い火力を誇示するようだ。
帝国陸軍がジアトーを占拠する際にこの列車砲を持ち出し、支配のシンボルにしようとした節が見られる。この威圧的な兵器はそこにあるだけで周囲へのアピールになり、帝国陸軍の思惑も納得できる。
その列車砲が今まさに火を噴かんと砲身を巡らしている。ターレットが回り、砲座が指定の角度まで旋回、仰角が修正される。
その砲口が向けられたのは帝国陸軍陣地。街を威圧しようと持ち出された列車砲はすでに街のレジスタンスによって制圧され、今度は製造した帝国軍に対して向けられていた。
周囲の空間を振るわせる轟音と一緒に巨砲が火を噴く。ジアトーを巡る戦いは、この砲声を合図にして潮が引くように終わりを迎えようとしていた。
◆
「すっげー音、花火大会の特等席よりもデカイ音するよ」
「んー? ああ、28センチ砲だしね」
腹に響く轟音を出す列車砲を遠目に見ながら、オレは戦いが終わりかけているのを実感していた。
もうジアトーの街は首長国の軍とレジスタンで制圧されて、残る帝国軍の抵抗もこうして列車砲の砲撃でダメ押ししている。確かに危険な場面は何度もあったけど、案外あっさりと戦いは終わろうとしていてオレとしては少し物足りない気がしていた。
バトルジャンキーの気はないつもりだけど、思ったほど長く激しい戦いが無かったので予想が外れて少し気が抜けていた。
「これで戦いは終わりなんだろうか」
「そうなんじゃない? ……はぁー」
「戦い終わった辺りからその調子だけど、どうしたんだよ」
「……んー」
オレの言葉に適当な相づちを打つ壱火は、地面に直接腰を下ろしてあぐらをかいていた。その目はぼんやりとジアトーの方を見ていて、何か酷く落ち込んでいる様子だ。
立っているオレは彼女を見下ろす形になっていて、栗色の髪の上で三角形の耳が力なく垂れるのを間近に見ていた。見れば尻尾も地面にしおれた野菜のように倒れている。よほど落ち込む事があったらしい。
「まさか、オッサンが死んだとか……」
「勝手に殺すな。ついさっき話をしたばかりだろうが」
「ははは、そっすよねー。おかえりオッサン」
「おう、ただいま」
冗談めかした事を言っていたら、後ろから本人登場だ。レイモンドのオッサンは戦いが終わるなり着替えて、見慣れたスーツ姿に戻っていた。リザードマンがスーツを着ている姿は普通だったら変だけど、このオッサンが着ると妙に貫禄を感じるから不思議である。
彼はさっきまで首長国の軍のお偉いさんやレジスタンスとの会合に参加していて、着替えは相手に失礼のない服装をと考えたオッサンが自主的にやった。
なんでも勝利は確定したので、今後の大まかな方針を話し合うものだったらしい。オッサンは年長者としてご意見番みたいな役目でそこに出席していた。全体的に若いプレイヤーが多いので首長国軍側に舐められないための措置だそうだ。
「で、話はどうだったすか?」
「今やっている列車砲の砲撃と帝国兵の捕虜の監視は首長国軍が受け持って、列車砲運用の手伝いと暴徒化したプレイヤーの監視はこっちの担当だ。独立したら列車砲はそのままこちら持ちで、向こうから教育を受けながら運用していく。捕虜の扱いは帝国兵なら首長国、暴徒プレイヤーならこっちの担当になった。細かいところは落ち着いてから追々話し合いで決まっていくそうだが、一先ずこんなところだ」
ふーん。あのでかい大砲はこれからもここにある訳か。色々話を聞いてきたけど、ジアトーの今後はこっちの世界に来てしまったプレイヤー達の受け皿になると同時に帝国と首長国の緩衝地帯になっていくみたいだ。
そこから考えると、あの列車砲はジアトーが独立を保つのに必要な兵力ってところだろうか。
そんな小難しいことに頭を回していると、壱火の溜め息が聞こえてくる。会って間もないがこの落ち込み具合が尋常じゃないのは分かる。何があったんだ。
「オッサン、娘さんが大層落ち込んでいるっすけど、何か知らない?」
「ああ、こいつはやたらと持っていたピストルを幾つか無くしてしまったんだ。オーケストラだったか? あんなアホな使い方をしているからだ」
「うぐぅ……」
あ、止め刺された。父親からの言葉にガックリと肩を落とした壱火はピクリとも動かなくなってしまった。
良く見ると彼女の体のあちこちにあるホルスターの内、幾つかが空のままになっている。列車砲を巡って帝国軍と戦った時間は短かったものの、撃ち合った銃弾の数は結構なものだった。その時に何挺か無くしたのだろうな。
オレも戦いに集中していてチラっとしか見ていなかったけど、壱火のあの戦い方は異様だったと記憶している。
何挺もの拳銃を持って二挺拳銃で撃ちまくり、弾を撃ち尽くしたら替え、撃ち尽くしたら替え、さらにはどこぞのサイコミュ兵器よろしく空中に銃を浮かせて複数同時射撃なんて真似までしていた。
あれはオッサンじゃなくてもアホだと思う戦い方だった。
「ちょっと気になったんだが、どうやって銃を宙に浮かせて手も触れずに撃っているんだ?」
「……あれは魔法の初歩、『念動』の制御をちょっと弄ったら出来た」
「へぇ、あれにそんな使い方があったんだ」
どこか投げやりに返ってきた回答にオレは興味を引かれた。『念動』の呪紋は壱火が言うように初歩の魔法で、手を触れずに離れた物体を動かす魔法だったと記憶している。ゲーム時代での使い道はダンジョン探索などで道を塞ぐ障害物を取り除く重機みたいな役割だった。
それが拳銃の操作なんて細かい使い方が出来るとは思わなかった。やっぱりゲームとは違ってこの世界は魔法の使い方も幅が広いのだろう。
魔法が使えていたらもっと出来る事があったのかもしれない。今更だがそんな考えが頭に浮かび、少しだけ後悔している。
「ルナにもこの事教えたんだ。そしたら今のマサヨシみたいな呆れたような感心したような顔していたね」
「ルナさんもか」
感情が表に出にくいルナさんの顔がそんな風に変わったとは。少し見てみたかったな。
彼女の顔が脳裏に現れたせいか、顔は自然とジアトーの市街地がある方角を向いていた。終息に向っているとは言ってもまだ戦いは続いていて、断続的に銃声や爆発音がまだ聞こえていて、魔法の光が空へ放たれ、建物も幾つか崩れて市街地が荒れていく。
まるでオレがこの世界に来たばかりの時に見たジアトーの混乱を焼き直しした光景だ。この光景の中にルナさんはいる。
彼女が今どんな戦いの中にいるか分からない。本心を言うならこんな所で周囲警戒なんて仕事を投げ出して、今すぐルナさんを探しに行きたかった。けれど同時に、チームを考えればそうもいかないと理解もしている。こんな考えを持てるぐらいには今のチームにオレは馴染んでいた。
それにルナさんからは一度別れを告げられている。その時の思い出が少し胸に痛い。会いたい、会ってはマズイ、任された任務、この三つがオレの頭の中で渦を巻いている。彼女の姿を見た後だから想いの渦は一層強くなり、結果として動けないでいるオレだった。
市街地を見る内に気持ちが焦れていく。もどかしい気分を味わいながらルナさんの無事を願った。
列車砲がまたも轟音を上げて火を噴いた。しばらくの間を置いて市街地の一画から爆煙が立ち昇る。戦いはもう少しで終わろうとしていた。
◆◆
撃ち出された弾薬は00《ダブルオー》バック弾。12番ゲージの口径から発射されるおよそ直径9㎜の散弾が九粒。これらが一度にまとめて標的に襲いかかる弾薬だ。普通の人間では反応不可能、プレイヤーでさえも全弾は避けられない。そう考えてこのセレクトだったが、どうやら私はプレイヤーの身体能力をまだ甘く見ていたらしい。
元の世界の人間だったら誰も信じないだろう。飛んでくる散弾を大剣の一振りで払い落としてしまうなんて芸当、人の業から完全に外れている。
まるでハエでも叩くような軽い一振りで自分の攻撃はあっさりと捌かれてしまった。
「冗談、キツイ」
素早くウィンチェスターのレバーを前後に操作、赤い樹脂製の空薬莢が排出口から弾き出されて次弾が装填される。戦闘開始から約十分が経過、ここまで十二発撃ってヒット無し。弾のストックに余裕はまだあるが、どうにか残りの弾数で事態を打開したいものだ。
空薬莢は床に落ちる前に大剣の斬撃が薙ぎ払って粉々になる。それを横目にして自分はすでに身を翻していた。
床を盛大に削る斬り上げは天井にまで及んでパネルを切り裂く。大剣から真っ赤な光が噴き出して斬撃はどこまでも伸びる。床を斬り、壁を斬り、天井を斬った一振りは隣の建物も届いて傷物にした。あれが乗っていた飛行艇の墜落原因らしい。
「主、追い立てられているぞ」
「分かっている」
一緒に攻撃をかわして足元に来ていたジンが小さな声で忠告を入れてくれる。彼には触腕で牽制、トラップの設置などで攻撃に参加してもらっているが効果は薄い。こうなると今は打てる手がない。より正確には手を潰されている。
打つ手が無いまま後退を余儀なくされ、市庁舎を上へ上へと追い立てられているのが今の戦況だ。不幸中の幸いはあの狂戦士以外に敵が見あたらないところか。
散弾は先のように捌かれる。爆発して破片を散らすフラッグ弾も上手くかわされ、罠も剣で設置された地点ごと破壊されて効果はなかった。弾丸は発射されるのを見てから動いて回避に間に合わせ、罠は本能で察知しているとしか言えない。こんなデタラメな敵を相手取るとは、タチの悪い夢だ。
「……それを言ったら、この世界全部が悪夢だな」
「何か言ったか主?」
「大した事じゃない。それより、後数フロアで屋上か」
「まさかまたどこかに跳び移る予定が」
「無いよ。あんなバーサーカー野に放てない。犠牲者の数が増えてしまう」
知性はないくせに、いやむしろ余計な雑念がないお陰で、敵の動きはゲーム時代のプレイヤーキャラそのままだ。
数多くのスキルを無意識に駆使して、生物としての枠さえ踏み外し戦う戦闘マシーン。それが目の前の敵だ。自分はそう認識した。
マシーンを止めるには電源を止めるか、壊して強引に停止させるしかない。都合良くタイマー機能が無いならこの二通り、電源のありかを知らない自分が選ぶのは破壊だけだ。
フロアの壁に描かれた階数表示は屋上まであと少しとカウントしているようだ。敵の関心は今のところ自分一人に向けられている。しかし、これが屋上みたいな開けた場所に出るとどうなるか分からない。この数フロアの内に無力化しておきたい。
物影から敵の様子を窺いつつ、手はショットシェルを銃に込める。気のせいか弾の入り方が微妙に渋くなっている感触が手に伝わってきた。良くない傾向がまた一つ増えた。
「手の込んだ罠を張れればもう少し違うと思うけど、そんな隙は無いな」
「罠を張る時間が問題か……っ! 主、伏せろっ」
ジンの張り上げた声に半ば反射的に床へ身を投じた。一瞬の後、体があった空間を赤い光が薙ぎ払った。
壁や柱ごとこちらを真っ二つにしようとした横殴りの一閃はフロアを上下に切り分けた。向こうは物影に隠れてチマチマ攻撃してくる自分に苛立っているのか、攻撃方法がだんだんと大雑把になってきている。
ならば、その大雑把さを隙として突けばいい。銃弾や罠といった遠距離の攻撃手段が通用しないなら、思い切って敵の懐に。意識は腰に吊したナイフに向けられていた。
問題は接近戦に分がある敵にどうやって懐へ飛び込むかだ。つまり隙がないなら作れば良い。
『ジン、別行動して今から言うトラップを設置して欲しい。まず――』
『――承知した』
まずは起死回生の布石を打つ。ジンに念会話で内容を素早く伝えて、必要な物としてモーゼル拳銃を一挺渡す。
ジンは金色の目でこちらを見て何か言いたげだったが、了承の返事だけを口にして触腕で拳銃を受け取り、素早い獣の動きで上のフロアへと向った。これでまずは一手布石を打てた。
フロア全体が斬られたせいで立ち昇るホコリと煙。それをかき分けるようにして狂戦士の姿が現れる。ウィンチェスターの銃口を向けてレバーをコッキング。牽制程度にしかならないが、ジンが罠を仕掛け終わるまでの時間稼ぎにはなる。
ぎょろり、と濁った目で強い視線を向けられた。舞い上がるホコリを払うように大剣が振りかぶられる。わざわざ間合いが詰まるのを待ってやるほど自分はお人好しではない。敵との距離は目算で十五m、散弾銃でも充分射程内だ。床を蹴って突撃してくる敵を前に銃の引き金を引いた。
すでに体に馴染んだ反動、見慣れた銃火、聞き慣れた銃声。撃ち出された今度の散弾は、小さな矢を無数に撃ち出すフレシェット弾になる。生半可な防具は役に立たないくらいに貫通力があって、威力も相応に望める弾だ。
だけどさっき考えていた通り、無数のフレシェット弾も敵には牽制程度でしかない。敵は発砲を見てから無造作に剣を振るう。次の一瞬には剣に細かい矢が幾つも音を立てて当たり、殺傷力を失った矢は床に虫けらのように叩き落とされた。予想していた光景だけど気分は良くないな。
銃を撃っても簡単に払い落とされる。ただ、この払い落とす動作のために敵は数秒の時間を防御に回さなくてはいけない。稼いだ数秒の時間が自分の命綱だ。
一発で数秒、五発全弾で十数秒、稼いだ時間でジンが罠を完成させる。ここが正念場だ。
――そう気を張って時間を稼ぐこと、多分五分。消費した弾薬ショットシェル二十五発、拳銃弾十発、トラップ型呪紋五基。とにかく時間を稼ぐのと隙を見せないようにするのに集中した結果、どうにかこうにか命を繋いでいる。
五分と思ったのも当てずっぽう。ポケットの懐中時計を見る暇なんてないのだから。おそろしく永い時間が経ったように感じる体感時間からの勘でしかない。実際にはまだ一分しか経っていないと言われても信じてしまいそうだ。
間合いを詰めて来る狂戦士を引きはがして、得意な距離で封殺する。徹底的に自分の距離で戦い、絶対に相手の土俵に上がらない。それでも赤く伸びる斬撃や飛んで来るガレキ、衝撃波などが体を掠るたびに身が凍る。背中からはずっと冷や汗が流れていて、そこに衣服がくっつく感触が何とも嫌な気分だ。
敵から身を隠して壁に身を寄せて座る。知らない間に息が上がり始めていて、吐く息が荒くなっていた。
まだかまだかと待ち望んでいた知らせが脳裏に飛び込んできたのは、この瞬間だった。
『主、待たせた。指示通りに所定の罠を仕掛けた。今全速で戻る』
『っ! 良くやった!』
苦しい状況下でもたらされた朗報だったからか、変なテンションになって念会話を出していた。
自己弁護するなら、ここまでずっと小型の嵐みたいな代物を相手していたのだ。思わず顔がにやけて念会話に出す声なき声が大きくなったのも無理はないはず。
後はここで敵を撒いて、目的の階に誘い込み決着をつける。決意を固めると荒れていた吐息が一気に治った。
壁際から敵を窺いつつ、ゆっくり立ち上がる。脳裏にはすでに呪紋が三つ準備されていた。
見詰める先にいる敵との距離は十m。何を考えているのかその場に佇んで、呆けたように視線を何もない空中に向けている。どう見てもまともな思考能力があるとは思えない姿だ。だけど銃口を向けたら一瞬で反応して反撃してくるのは体験済み、あれは向ける敵意に反応して自動的に反撃をする機械なのだ。
ここからジンに合流するには敵の目の前を通り過ぎる必要がある。最寄りの階段が敵のすぐ横に位置しているのが良くない。もう少し考えて立ち回らないと駄目だったようだ。
準備した呪紋の一つをアクティブに。まずは足元に設置系呪紋、『スモーク』を展開して発動。噴き出す煙は秒単位で広がってあっという間に視界が濃い煙に包まれた。通常の煙と違い、目に染みずノドも焼けないのがこれの利点だろう。
これで敵の目は潰した。当然自分の視界も煙で塞がっているけど、二つ目の呪紋が解決する。
「……鋭化」
小声で唱える補助型魔法で感覚が一段階上のステージに上がった。夜間の鋭い感覚が日のある内に感じられる。これはさっき下階で敵の集団を仕留めた時にも使った戦法だが、ここでも使える。
煙の向こうで敵は戸惑っている様子、動くなら今だ。壁から離れて素早く階段へ移動を始めた。
こうして体験してみると、狂戦士の姿を捉えているのは目だけではない。聴覚、嗅覚、触覚、それらが視覚と同調して周辺環境の情報を拾っている。濃厚な煙の向こうにあっても敵の動きが『視える』というのは強みだ。普通だったらここで仕留めようと欲を出すけど確実にいきたい。
戸惑う敵を横目に真っ直ぐに階段へと走った。予定が順調に進んだのはここまでだった。
煙の向こうの敵が戸惑う動きから唐突に鋭く剣を振るう。それを目に入れた、と思ったらすでに衝撃が体を打っていた。
「――っ」
防御どころか叫び声さえまともに出てこない。視界が低くなっているので床に這いつくばっているのだと分かる。痛みは、痛覚がどうこうというより熱い。
衝撃から気が付けば床に転がっているところからして、おそらく数秒間は意識が途絶えた。まずは思考を回すより動かないと。
「づ! 痛っ」
体を起こしただけであちこちから痛みが出てくる。でもそれも無視出来る範囲内、無理をすれば動ける。痛みは所詮体から出る警報、無視しようと思えばある程度は出来るのだ。
出来る範囲で手早く起き上がるけど、手に持っていたウィンチェスターが無い。武器を探して素早く周囲に目をやると、すぐ横の床にウィンチェスターだった残骸が落ちていた。
あの衝撃が来た時、ほとんど反射的に銃で防御した。お陰でこの程度の負傷で済んでいるのかもしれないが、代償として防御に使った散弾銃はレシーバーからくの字に曲がってしまった。当然ながらもう使えない。これで二個目の武器喪失だ。
丸腰にされる前に何としても決着はつけないと。吹っ飛ばされたお陰か、もう階段の前にいる。手すりを掴んで立ち上がり、反対の手はモーゼルをホルスターから抜き出していた。
銃口は煙幕の向こう側、またやって来るだろう攻撃に備える。さらに準備している三つ目の呪紋、シールドをいつでも使えるように待機させた。正直に言えば自分は防御呪紋の守りは薄い方だ。紙装甲とまではいかないが、狂戦士の攻撃に耐えられる自信は無い。
だから防御するより避けた方が良いと思ったのだが、油断だったみたいだ。詰めの甘さに我ながら泣けてくる。
後ろを警戒しながら階段を上り始める。床に転がった際に捻ったのか、足が階段を踏む度に痛む。だが、骨が折れている感触ではない。まだ動ける。
ジンに罠を用意させたのは屋上の一つ下のフロア。そこまでの数階分、何としても登り切らないと。
ただ、そう簡単に事を運ばせてはくれないのが現実だ。警戒していた後ろから物音が聞こえ、銃口を向ければ案の定だ。
「ちぃ」
舌打ちしつつ発砲。普段だったら頼もしい.30口径拳銃の銃声が今はやたらと頼りなく思える。その思いに違わず、銃弾は敵の大剣で弾かれてしまった。
ワザと外したフェイクの弾もある五発の銃弾、その中で的確に己を害する弾だけを弾いている。嫌になるぐらい害意に敏感な敵だ。
さらに間が悪く今の五発でモーゼルは弾切れ。予備マガジンの再装填は間合いの距離からして無理。また一つ詰まれた。
弾切れを向こうも察知したのか、大剣を構え直した。どうやら一気に決めにかかるつもりだ。理性やら知性が無い分、戦いの機微には鋭い感覚でも持っているのかもしれない。
デッドエンド一歩手前、武器はナイフとバックアップ用のリボルバー。後は待機中の防御呪紋が一回分。これで何とかしないと。
狂戦士が全身を弾ませて跳躍、それだけであれほど稼いだ距離がゼロになる。無造作に振り上げられ、打ち落とされる大剣はひたすらに高速だ。タイミングを見計らう側としては最悪でしかない。
これではシールドで防御、一瞬でも良いので隙を作って至近からリボルバーで撃つという策が使えない。回避しようにも痛む足が想定以上に動かない。
拙い、これは終わったか?
「主――っ!」
――迫ってくる大剣の刃が視界から消えて、今度は階段の踊り場の床を転がっていた。
さらなる痛みを無視して立ち上がり、彼の姿を視界に収めた。自分を庇って代わりに体を両断された黒ヒョウの姿が目に入る。ジンがやられた。
冗談のように上と下が断たれ、血が流れない代わりに何かサラサラと黒い粉状のものが出ている。良く分からないが、これが致命的だと理解できてしまう。
「ジンっ!」
当然、彼に駆け寄って治療をしようとする。しかし、ジンは触腕を上げて拒否のサインを見せた。
「この身に構うな。――行け」
「……」
金色の目で真っ直ぐに見詰めてくるジンの言葉に駆け寄る足が止まった。
常に冷静であろうと努める頭はすぐに彼の言葉が正論だと判断を下す。一秒の時間すら惜しむ切迫した中で、誤った行動は命取り以外の何者でもない。冷血漢に見られようと構わない、非情だと思われようと受け入れる。涙は戦いの中では視界を曇らせるだけだ。
一度長くまばたき。もう身体は上への階段を上っていて、それでも口はジンへの言葉を出していた。
「すまない……ありがとう」
別れの言葉としては非情なくらいに短い発音。それだけを残して、彼が用意してくれた罠があるフロア目指して階段を駆け上がった。
ジンの献身に報いるには、この戦い負けるわけにはいかない。
◆◆◆
「……行ったか」
一度も振り返らず去っていった己の主の背中を見送ったジンは、ポツリと呟いて自身の体を見やった。
切断されたというより吹き飛ばされたように千切れた胴体。そこから肉体の崩壊が始まっており、粉末状になった中身が流れ出ていく。痛覚はすでに切断しているためただ半身が失われたという感覚だけがあった。
主人によって作られ生かされる存在、致命傷を負えば死体も残らず消え去る主人の影、それが使い魔という存在だ。
半身を断たれたジンの命はわずか数分、ここまで体を損傷すると回復魔法も気休めでしかない。残る余命で彼の脳裏に浮かぶのはやはり主人の事だった。
使い魔としてルナの影に生きてきたジン。彼から見て、この数ヶ月間の主人はこれまでと違って心の振れ幅が大きかった。
表面上は平静を保ち冷静であろうと心がけていたが、『繋がり』を持っているジンは主人の揺れる内心を察していた。人を殺して気を落したり、危機に遭って焦ったり、静かな環境で穏やかになったり、ころころと鮮やかに変わる主人の心がジンには非常に好ましかった。
これまでと異なり多彩に変わる己の主人の心。万華鏡のように移ろい、二度と同じものは現れない心象をジンは傍に寄り添って見ていた。人造の肉体に人造の精神、それでも好ましく思うものの傍に居たいと欲求はあった。
ルナはなぜジンが何の文句もなく付き従ってくれるのか疑問だったようだが、尋ねられた時に口にしなかった理由にこんな単純なものがあった。
立ちこめる煙幕が時間経過で薄れて、視界がクリアに戻ったフロア。敵の狂戦士はあれから動かず、その場で棒立ちになってルナを見送っていた。狂った思考がどんなものか余人には理解できない以上、なぜ彼女を追いかけないのかは誰にも分からない。
不意に狂戦士の首が回って、ジンに目を向けた。焦点の合わない濁った瞳で何を思ったのか、下げた大剣を振り上げて彼へ切っ先を向ける。どうやら止めを刺すつもりのようだ。
これはジンにとって願ってもいないシチュエーションだ。
「来るか、いいだろう」
残った前脚と触腕を使って床から起き上がった。これで余命が数分縮んで体の崩壊が早まった。それでも構わない。
ルナの指示でジンが仕掛けた罠、それの最後の準備には少々時間を必要としている。ルナはある程度攻撃をしてかく乱して足止めをするつもりだったようだが、ジン自身がそれをやっても問題はないだろう。
もとより使い魔とは主人の手足、主人の意思を為すための道具だ。ジンがここで最後を迎えても、彼の本懐は遂げられる。
双方の距離は五m程、下半身を失ったジンには跳べない距離だ。それでも一足で詰めてくる敵の勢いに合わせるだけの力は残っていた。
口を軽く開いて牙を剥く。歯茎に力を込めると、粘度の高いとろみのある液体が牙から滲み出てきた。これはルナがジンに与えた武器の一つで彼の奥の手、毒牙だ。
毒蛇じみた真似をジンは好まず、またルナ自身も使うよう命じる機会も少なかったため、当の主人でさえ忘れているかもしれない武器だ。
ただ、この場においては最良の得物になる。ただ一噛みすれば良い。それで狂戦士に毒が打ち込まれる。
敵の足が床を蹴った。理性を無くしても体に術理は染みこんでおり、踏み込みの速さは元の世界の剣客を上回り、すでに魔の領域に入っていた。
五mの距離がコンマ数秒でゼロになる。片手で上段に構えられた大剣が恐ろしい速度で振り落とされ、断頭台と化してジンに迫る。
このタイミングでジンが跳んだ。触腕と前脚、全身のバネを駆使したジャンプは大剣をすり抜け、彼は無防備になった敵の体へと突っ込んだ。
狂戦士と使い魔の咆吼が市庁舎の上層階フロアに響いて、間もなく途絶えた。