8話 水鈴
閃光、爆発、爆風、轟音のフルコースが薄皮一枚隔てたところでもう何度も起こっている。
ノドが乾燥してヒリつく、息が上がってきて、熱と冷気と痛みで皮膚がパリパリになっていく。身を防ぐ障壁越しでも余波や余熱は伝わるので、魔法がぶつかる度に思わず声が出てくる。
耳には相変わらず激しいギターの音色が聞こえる。障壁とぶつかり合う魔法の向こうで、演奏者はまだまだ余裕だ。
お互いの距離は一〇mぐらい。こんなに短い距離で私達は魔法を撃ち合っていた。
「ふんふん♪ ふふふん♪……たらったった~♪」
……ノリノリだよこの子。鼻歌なんかもギターと一緒に聞こえて、魔法の連射速度がまた一段上がった感じがする。テンションが上がると魔法の調子も上がっていくタイプっぽい。
一度弦をかき鳴らすと三つの魔法が現れる。これがフレーズ、楽節になるとどれだけの数の魔法が私に向って来ているのやら。うんざりする位の物量だ。
これを防ぐ側の私は、魔法で打ち消し、シールドで防いで、さらに障壁で受け止める三つの方法で対応している。対応しているけど、何かどんどん追い詰められてきていた。
基本私の魔法は一発の威力を重視した一撃主義で、対して向こうは魔法の連射速度と回転効率を重視した物量主義だ。こんな至近距離で撃ち合うなら手数が物をいう向こうに軍配が上がってしまう。
使役獣のサブをデコイにした奇襲作戦が失敗した段階、相手の土俵で戦う羽目になった段階で負けが見えていたってことかな、これって。
今更になってそこに気付くとは間抜けだよ、私は。
飛んでくる一〇の魔法弾を私はまとめて六つ薙ぎ払い、二つをシールドで防いで、二つを障壁で止める。
そんな戦い方になっていた。障壁で守っていると言ってもダメージ全部を防いでくれるものじゃない。一定の閾値を超える攻撃は抜けてくるし、そうじゃなくても余波や熱は伝わってしまう。
だからもう私の体は結構ダメージを受けている。戦闘服として着込んだ白衣と袴の防御力のお陰で深刻にはなっていないけど、体のあちこちが軽く火傷や凍傷になっているし、切り傷もあって血が滲んできた。
戦いで興奮状態になっているせいか痛みは余り感じないけどかゆくなってきた。これはいよいよ対策を考えないとダメね。
「三番、六番、待機解除……」
打開のためにまずは布石を打たないと。正面からパカスカ撃つばかりが魔法じゃあない。撃ち合っている合間に幾つかの呪紋を作って、待機状態にさせている。これを狙った位置で解放させて撃ち出す。
まずは閃光呪紋の三番、次いである程度の派手さで目を引く火炎呪紋の六番。目眩ましにはちょうど良いチョイスと思う。配置は三番相手の正面、六番は背後。
数ある魔法技術の一つが遠隔発動。視界内の指定した場所にいきなり魔法の効果を出すもので、調子に乗っている顔に一発いいのを見舞ってやれるかも。
「放て!」
声と一緒に杖を横に強く振る。途端、強烈なストロボが焚かれた。
ギターのサウンドが一瞬止まって、息を飲む音が聞こえる。程なく数秒の時間差を置いた火炎攻撃が彼女の背中を襲った。「ちょっ!? わお!」何て半分以上喜んでいる声が上がるけど無視、こっちはもう行動を始めている。
閃光に備えて手で目を守っていたお陰で目は眩んでいない。だからすぐに行動に移れる。その場で素早く回れ右、後ろだった方角に全力ダッシュで駆け出した。
そう、不利なら仕切り直せばいい。この子を引きつけるのが役目だからといってずっと引っ付いている必要なんて無い。向こうの注意を私一人に集め続けるだけで充分のはず。
屋上の端にあっという間に到着して、めぼしい着地地点を急いで探す。うん、あそこが良さそうだ。
手近なホテルの屋上を着地地点に選ぶと、後は振り返らずに市庁舎の床を蹴って跳んだ。
ごうごうと耳に聞こえる風の音。重力と風圧の熱烈なラブコールが全身を捕らえて絡みつく。落差およそ一〇mのフリーフォールは、とたんと床を鳴らして無事着地で終わる。
さて仕切り直し。魔力を温存してダメージの回復は魔法ではなく用意した薬剤でやって、その後向こうが復帰する前に出来るだけトラップを準備、待機させる魔法も回転効率を重視したものに代えないと。
ホテルの屋上に着地した次の瞬間から頭は次の手を、さらに次の次の手を打とうと考える。思考は絶対に止めない。私はルナのように戦闘思考で即断即決できる鋼の精神は持っていないし、マサヨシみたいに体が頑丈でもない。だからどれだけ策を用意できるかが勝負を分ける。
まず最初に適当に距離をとってから、そんな風に思って一歩足を踏み出す。相手の策が自分よりも上だと思い知らされるのは次の瞬間からだった。
「――が!? くぅっ」
いきなり足首に衝撃が走って痛みが襲ってくる。当然立っていられなくなって、そのまま前のめりに床にダイブしてしまう。しかもちょっと鼻を打ったせいで軽く鼻血まで出てきた。
けれど鼻血なんか気にしていられない位に足が痛い。体を捻って何があったのか見てみると、
「これ、トラバサミ?」
屋上の床を原料にしたコンクリートと鉄筋のトラバサミが私の足をガッチリとくわえていた。
これ、トラップ系の魔法だ。光の杭を出すタイプの下位に当たる魔法で、確か呪紋を設置した場所の物質を材料にトラップを作る魔法だったと記憶している。拘束力は弱めだけど、ローコストで数を用意出来るのが強み――って、痛すぎて頭が別方向の事を考えて現実逃避を始めている。
強い視線を感じて飛び降りてきた市庁舎の屋上を見上げた。ここまでの魔法の応酬で舞い上がった煙やホコリ、それを割って人影が現れる。
「かかった。猟果はキツネ一匹、ほどなくミンチ仕立てってね」
考えるまでもなく敵のピンク少女が煙から出てきた。あちこちホコリや焦げ目が見えたけど、目立ったケガはなく無傷みたい。
同じ女の私から見てもカワイイと思える顔には獲物を追い詰めた悦びが浮かんでいる。表情を見ていると、なぜかネズミを捕らえて喜んでいるネコを連想してしまう。
それにしても、口ぶりからするとこのトラップを仕掛けたのは彼女か。一体何時の間に仕掛けたの? まさか遭遇した段階でここまでの展開を読んでいたとか。だとしたら恐ろしい。
強い敵なのは充分分かった。でも諦めるのはダメ、まだ打てる手は残っている。今ここで必要なのは少しの時間。だったら、
「アンタ、プレイヤー同士だっていうのによく楽しそうに殺し合いできるよね。私はかなり一杯一杯なのに」
「アンタじゃない。アルトリーゼって名前があるんだけど」
「そう、覚えて置く。私は水鈴」
「よろしく。そしてありがとう、こんなに充実した魔法戦は実のところ初めてだったの。礼を言うよ」
乗ってくれた。時間を稼ぐために一か八かで話しかけてみたけど、会話が成立した。後は準備完了まで話を延ばせれば上等ね。
激痛からシクシクと痛む疼痛に変わってきた足首を手で撫でながら、必至で会話を延ばす算段をつけてみる。それにしても、命のやり取りをしている最中なのに本当に楽しそうな顔をする子だ。
こっちの世界に来たプレイヤーの何割かが戦闘狂い《バトルジャンキー》になってしまうけど、この子みたいに際立っているのは流石に珍しい。
帝国軍側について戦いに参加しているプレイヤーのほとんどはチーム『S・A・S』の人達だ。なんか、あのチームはこういう風に極端な人達を集めている様な印象があるのだけど、気のせいかな?
そうこうしている内にアルトリーゼは手にしたギターを構える。もちろん私に止めを刺すために。せっかちだね、この子。
「お礼代わりに苦しまずに逝かせてあげるよ。遠慮はいらない、しっかり貰ってね」
「それは――」
うん、そういうのは……
「――受け取り拒否でっ! 四番、五番二重起動!」
まだまだ生に未練がある私は全力で拒否する。残っている待機呪紋に強く魔力を注ぎ、手にした杖を床に突き刺す勢いで叩きつけた。
杖の先端から迸る魔法が床を突き破って下まで穴を開け、一瞬で屋上を崩落させた。床にトラップの魔法があるなら床をとっぱらってしまえば良い。手っ取り早くて確実、おまけに相手の不意もつけてお得だ。
ただし、やった本人の安全は二の次になってしまうけど。
床が盛大に崩れていくのに合わせて浮遊感が襲ってきて、下を見れば下の階の床とベッド。コンクリート等の建材と一緒に私も下へと落ちていく。
落ちていくまでの数秒間、アルトリーゼの顔が驚いているのが見えた。
その顔もすぐにガレキとホコリで見えなくなって、すぐに体に衝撃が走った。自分だと分からないけど、だいぶ不格好に着地したみたいだ。
「痛たたた、無鉄砲だったね私」
落下先は下の階にあったベッドの上。スプリングも効いて布団もまだ柔らかいベッドに落ちて来られたのは相当に運が良いはずなんだけど、高さがあった上に崩れた建材にもぶつかっていたせいで痛い。体のアチコチから鈍く重いズキズキとした痛みが湧き上がっていた。
仰向けにベッドに落ちたから上は文字通りの青天井、雲一つ無い青空が見えている。日本だとこの時期は梅雨とかで曇りがちのはずだけど、こっちは抜けるような青い青い空が広がっていた。
空を見ていると、私は何をやっているのだろうか? なんて思ってしまう。こんな綺麗な空の下で醜く殺し合いとかやっているなんて、とも思ってしまう。
いや、まあ現実逃避なのは分かっていますとも。
現実逃避に区切りをつけてさっさと起き上がらないとね。これ以上呆けていたら向こうから魔法が降ってきそうだ。
ガレキとホコリを被って汚れたベッドから転がり降りる。ちょうどこのタイミングで使役獣三匹の内の一匹がやって来た。良し、ナイスなタイミングだ。
「姐さん、ご無事ですかい!」
「うん、何とか。ロク、サブは大丈夫だった?」
「アイツは殺しても死なないような奴ですぜ。ピンピンしてまさぁ」
あの子に近付くために囮になってくれたサブは無事だったようで胸をなで下ろした。すぐに思考を切り換えてロクに次の指示を出さないと。
「そっか、良かった。じゃあ例の件お願い」
「へい!」
指示を出してすぐに威勢の良い返事をしてロクが部屋を出て行く。フサフサ尻尾が廊下の向こうに消えるのを見届けてから立ち上がってホコリを払う。
見上げると崩れた天井、立ち昇るホコリの向こう側からアルトリーゼの気配をまだ感じる。これは視界が確保出来次第また撃ってきそうだ。
あの子の魔法は同じ魔法使いから見ても少し異常だ。手数の多さは圧唱を楽器の音色に代えているからだろうけど、攻撃範囲の広さはちょっと分からない。街区一つを範囲内に入れる手品のタネは探ってみる価値があるはず。
楽団のみんなが安全に動けるようになるに彼女を引きつける役を請け負ったけど、倒せないまでも退けるところまではやりたい。
「じゃあ、頑張ろう」
一言私自身にエールをかけて杖を握った。
◆
アルトリーゼと水鈴、二人の戦いの場は広がってジアトー市街地にある高めの建物の屋上が主戦場になっていた。
屋根から屋根へ。壁から階段、窓枠に足をかけて壁を跳び、建物から建物へと飛び移りながら魔法を撃ち合って、空中、地上、屋上の区別無く二つの影は駆け巡る。
魔法を撃ち合うだけの火力戦から機動戦へ。戦いの様相が変わってもアルトリーゼの表情には余裕がある。市街地の中なら使い魔の効力範囲内、彼女のギターの力が及ぶところだ。水鈴が何処にいても捕捉できてしまう。
一方で水鈴の表情は魔法を一発撃ち合うごとに曇っていく。こちらの戦い方は元来前衛を置いての大砲役である事がほとんどなのだ。機動戦でもアルトリーゼに分はあった。
屋上に着地した瞬間、水鈴は着地姿勢から素早く走り出す。そのすぐ後を追いかけて風の弾丸が次々と着弾して弾痕の列を作った。さらに屋上に設置された貯水タンクにも着弾して勢い良く水が噴き出す。
ギターの音色が変調して、タンクから噴き出た水がビデオの一時停止ボタンを押されたように空中で止まる。変調したメロディが続くと止まった水がムチの様にあるいは大蛇のようにうねり、水鈴に向けて鎌首を上げた。
襲い来る水の大蛇に水鈴は風の呪紋を起動、強烈な風を巻き起こして水を散らす。その結果を確認するやいなや再び走る。アルトリーゼもそれを追いかけて戦場は移動していく。
二人が通った後には無数の穴を開けられた壁と床、大穴が開いて使い物にならない貯水タンク、烈風で割れた窓ガラス、それらが全て水浸しになって無惨な光景が出来上がっていた。
さらには流れ弾ならぬ流れ魔法で被害を受ける人間まで出てくる始末。水鈴は一応魔法が外れた時の事も考えて使う魔法の種類や威力に気を遣っているが、アルトリーゼは全くのお構いなしだ。流れ弾に当たる方が間抜けなのだと言わんばかりで、被害を受けた帝国軍兵士が抗議の声を出しているのを見ても鼻で笑うだけだった。
二人の戦場は目まぐるしく変わっていき、何時しか街外れに移っていた。アルトリーゼの使い魔の効力範囲も外れ近くになっている。戦いに熱中しやすい彼女も流石に幾分か頭を冷やして、遊びを止めるようになっていた。
水鈴はこの様子を見て察した。近いと。
『ロク、見つけた?』
『どんぴしゃでさ、鳥型の使役獣を見つけやした。一見普通の鳥に見えるが、魔力を感じやす。姐さんの読み通りっすね』
『そっちで倒せる?』
『あ~……すんません。高いところにいて手が届きやせん』
『分かった、位置だけ知らせて。こっちで何とかする。ありがとう』
念会話で使役獣と手早く連絡をつけて読みが当たっているらしいのを水鈴は確認した。
やっぱり目の前の敵が強力なのにはタネがあるみたいだ。ゲーム時代では楽器形状の武器はあそこまで音を自在に操れるものではなかった。リアルになった事で自由度は上がったが、元来の楽器の範疇を外れるほどではないのが水鈴の考えだ。そしてその読みを今から『らしい』から『である』に変える。
二人が対峙する図は最初に向き合った時の焼き直しのよう。距離もそれほど変わりない。
水鈴はここから巻き返そうと機を窺い、アルトはいい加減に止めを刺そうと隙を窺う。互いに機会を探り合う時が重なり、二人の動きが止まった。
まるで西部劇の決闘みたいだ、とアルトは口元に笑みを浮かべる。まるで時代劇の果たし合いみたいだ、と水鈴は口元を引き締める。
市街地では銃声や爆発音、果ては魔法のせいか急な突風が吹いて火柱が上がり雹も降ってきている。悲鳴怒号も聞こえているはずだが、二人は微動だにしない。隙を見せた方が負けるとお互い心得ているからだ。
二人の間にある空気が張りつめていく。限界まで引き絞られた弓の弦のように、表面張力一杯まで満たされた水のように、ささいな切っ掛けひとつでこの静けさは破られる。
その切っ掛けが空から降ってくる。それは魔法か何かの兵器の被害を受けたせいだろうか、宙に舞い上げられた乗用車が炎に包まれながら二人のところに落ちてきた。
お互い視界の端でそれを認め、落ちる場所が二人の向かい合う中間位置だと分かったところで二人同時に意識が最高潮に高まる。
きっかり一秒後、金属の不調和音と一緒に乗用車が地面に熱いダイブをかました直後に二人の間にあった静けさは破られた。
「破っ!!」
先手を取ったのはアルトリーゼ。落ちてきた車を目隠しにしてギターを鳴らす。オーバードライブサウンドが響き、水鈴の足元の地面が一斉に湧き立って槍として突き上がる。
土属性の攻撃呪紋。対象の立っている地面を凶器に変え、数多く用意出来て面制圧も可能になっている。一瞬で動けるだろう範囲は全て剣山にしてある。仕留められなくても動きは止められた。アルトはそう確信する。
確信が覆ったのは三秒後。落下してきた車が倒立運動に飽きて仰向けにひっくり返り、ブラインドになっていた視界が開けた。
炎上する車の向こう側で地面から生える剣山に動きを縫われているはずの水鈴は、その予想を裏切って剣山の刃先の上に立っていた。大道芸じみたその光景にはアルトもしばらく呆けているしかない。
水鈴の手にした杖が飾り尾を揺らして振り上げられた。先端には魔力が高密度で高まり発光現象まで起きている。それはもう発砲直前の戦艦の主砲と同等の剣呑さを持っている。
「――あ」
「これで、どうだっ!」
杖が振り下ろされ、呪紋の撃鉄が落ちた。高密度に詰め込まれた魔力は術式に従い、一条の熱線となって空を焼く。アルトリーゼの横を通って。
「外、した?」
余りにも決定的な場面だったせいで魔法が外れた事を一瞬飲み込めなかったアルトだが、すぐさま立ち直ってギターを構えた。
こんな距離で外すなんて、よほど殺人が嫌だったのか。だけどそんなお人好しがやっていける程ここはつまらない場所ではない。軽くいたぶってから処分してあげよう。
アルトが凶暴な表情で見詰める先、水鈴は余裕の顔を崩さない。
「いいえ、当たっている」
確信を込めた声だ。
一瞬だけ何を言っているんだと思ったアルトだったが、ここはどこで、水鈴の撃った熱線がどこに向ったか、さらには魔法的な感覚に意識を向けた事で愕然とした。
「エコーからの応答がない。まさか……」
試しに一音、魔力を込めずに鳴らす。音の増幅が数段落ちてエフェクトも機能しなくなった範囲が出来ていた。これで何があったかアルトは悟った。
演奏者ではなくて機材の使役獣が一体やられた。もちろん残る二体でも演奏は可能だけど、街を覆うほどの音の結界は展開できない。
思わず水鈴を睨みつける。もうアルトの顔には余裕がなくなり、水鈴を敵としてしか見ていない。
「やってくれる」
「ウチの子達は優秀よ。貴女の使役獣の数と位置を掴んでいる。ここからならもう一体、狙い撃てるかな」
「させると思う?」
さらにもう一体撃たれると聞いてアルトは残る使役獣に場所の移動を念会話で命じる。同時に注意をそらそうと大量の術式を準備させ、魔力を迸らせた。
これを見て水鈴は内心「失敗した」と肩を落としていた。魔法のタネを明かして、手を一つ潰したら撤退すると思っていたのだ。けれど現実は違って、後はアルトのギターが一掻きされたら再戦開始だ。
出来る事なら人を手にかけたくない水鈴としては不本意な結果になってしまった。自身の甘かった見通しに内心頭を抱え、それでも目の前の戦闘に集中しようと杖を構え直した。こうしてまたも対峙の構図になろうとしている。
そこに待ったをかける存在が現れた。より具体的にはアルトリーゼの脳内に待ったの声がかけられる。
魔力を迸らせて今にも魔法を撃ちそうだったアルトリーゼが急に構えを解き、魔力を霧散させる。表情は苦虫を噛み潰したようにという比喩表現がよく合っている位に渋い。
いかにも不本意、いかにも不承不承といった仕草でギターを背中に背負い、戦闘態勢を完全に解除させた。さらに不機嫌さを隠すことなく荒い所作で回れ右をすると、そのまま水鈴の前から立ち去り始めたではないか。
アルトの脳内で交された念会話が聞こえない水鈴としては、一体何があったのか困惑するばかりだ。あれほどにやる気だった敵が、急に身を翻して去っていく奇妙さを飲み込むまで少しの時間を必要としていた。
そのまま不機嫌な顔で無言の撤退をすると思われたアルトリーゼだったが、途中で立ち止まった。
「水鈴、余計な茶々が入ったから今回はこれでおしまいにするけど、次は最後までやろうよ」
「……次があったらね」
「次は必ず来るよ。無くても作るし。じゃあ、また」
背中を向けたままで不機嫌な調子を残した声だったが、それでも次の再戦を口にしてアルトはその場を立ち去る。背中のギターが手も触れていないのに一フレーズ分の音を出す。術式が起動し、彼女の姿が霞む。
水鈴が転移呪紋だと察した時には彼女の姿は消えていた。市街地の外れに残されたのは水鈴一人だけ。遠くから戦闘音がひっきりなしに聞こえても最前線から遠いこの場は静かだった。
アルトリーゼが姿を消してしばらく呆けていた水鈴だったが、すぐに念会話で幻獣楽団と連絡を取って被害の様子を聞き出した。
楽団では戦闘が続き、負傷者が続出していて死者も少数ながら出ている。しかし、あのままアルトリーゼが市街地で暴れ回っているよりはずっとマシな状況というのが水鈴に寄せられた情報だった。囮役をどうにか全うできたらしい。
「――ふぅぅ……」
奇妙な安心感と一緒に緊張の糸が切れてしまい、水鈴はその場にへたり込んでしまった。口からは深く大きな溜息を吐き、あちこちが切れた服の下は汗が噴き出てくる。フサフサの尻尾と耳も力なく垂れ下がっていた。
一気に多数の魔法を行使したせいか頭が重く感じ、眠気を催してくる。そのまま体を仰向けにして眠ってしまいたい位だ。
まだ作戦は続いてる最中でそれは流石にない。理性を動員して眠気に打ち勝った水鈴だったが、今しばらくは動けそうになかった。
街外れからでも戦闘音は絶えず聞こえ、幾つもの煙を上げている。楽団と首長国軍による奪還作戦が始まって三〇分、戦いはまだ終わる気配を見せていない。