22話 天涯比隣
朝のゲアゴジャにパオを走らせてしばらく、目的の物が良く見える地点に着いて車を止めた。
場所は街を東西に分ける河の河川敷沿いにのびる道、街の中心地に程近い地点。路肩に車を寄せてエンジンを切ると朝の街の雑音が一気に大きくなった。
懐中時計を取り出して見れば時刻は朝の七時を指している。祭期間中でも朝のラッシュがもう少ししたら始まりそうだ。
耳に聞こえるのは通勤通学のために動き出す人々の営み。目に見えるのは朝日を浴びて輝く街の建物と祭の飾り付け。欧米な街並みなのに日本語の横断幕やアドバルーンが見えるのは少し違和感を覚える。
車の窓を開けてそれらの風景を見やってから、助手席に座った黒猫に声をかけた。
「ジン、この辺り?」
「ああ。待機状態のせいで見えにくいが、橋の上だ。中央部分の街灯の上に設置させれている」
「真ん中か」
バッグから観測用の双眼鏡を取り出して言われた場所に向ける。
ゲアゴジャで何本もかかっている橋の一つ、モリソン橋と呼ばれる大きな鉄骨の橋が見える。橋の下がトラス構造になって三角形を組み合わせた鉄骨が橋を支えている日本でも珍しくないタイプの橋。水運を考えてか、中央部分はアーチ構造をしてして多少大型の船が通っても問題ないようになっている。
ジンが指定した場所は橋に何本も設置されている街灯、その内の真ん中部分にある街灯に双眼鏡を向けて注意深く見詰めてみた。
果たして、ジンが指摘した場所に問題の物はあった。アレが昨日彼が伝言していた『気になるもの』だ。
大きさは一般的なノートサイズで厚みもそれに準じる。色は無色透明だが光の入り具合で形状は見て取れる。ぱっと見は透明なアクリル板といったところか。
あれがただの板きれと違う点は、何の支えもなく空中に浮いているのがひとつ。次に鳥がやって来てもホログラフの様に通過出来てしまうのがふたつだ。
『ゲーム』での記憶が正しければ、あのアクリル板みたいに見えるのは魔法によって生み出された物体だ。機能や効果も見当がついていて、さらにはあれを設置した人物にも心当たりがあった。
どうしたものか、嫌な予感しかしない。そして経験上嫌な予感ほど良く当たる。
「これで六個目か。これで最後?」
「昨日街中を探索した限りはだがな。あれが思っている通りのものなら不審物でしかない。あの月詠人の元締めの身を思うなら対処した方が良いだろう」
「街の重要イベントの最中に重要人物が命を取られるとあっては色々とぽしゃるね。泣ける」
双眼鏡から目を離して膝の上に地図を広げた。ゲアゴジャ市街地の地図で、そこにジンが赤いマーカーで六個の点を書き込んでいる。昨夜の内に話を聞いて、朝早くからジンの案内で街を見回った成果がこれだ。
発見時の板の角度も記しているが、後から変更も可能なので参考程度だ。何個かフェイクも考えられるから、この時点で角度から相手の位置を割り出すのは難しいと思われる。
待機状態のため、ゲーム時代と同じくこの時点での破壊は不可能である公算が高い。鳥が素通りしているところを見るとほぼ確定的だ。
考えれば考えるほど嫌な予感と不吉な推測は濃厚になっていく。朝の爽やかな空気が何の慰めにもならない。
ジンと二人、車内に暗い空気を放出していると、それを感知した訳でもないだろうが道路の下、河川敷から大きな声がかかってきた。
自分を呼ぶ声に目を転じると、河川敷の広さを利用した運動場から一人の青年が走ってくる。見知った顔だ。確か最初にこの街に来た時に顔を合せた――
「確か、山田さんだったね」
「違うっ! 夜架月刹羅だ! もしかしてワザとか? ワザとなんだな。くそっ、何て事だ。組織では夜架月の名は忌み名だとでも言うのか!」
「主、この者は何を言っている?」
「説明は難しいけど、一種の精神的な病と思っておけば大丈夫」
「医者にかからなくていいのかね?」
「恋愛とか馬鹿とかと一緒で、医者にも治せない」
「なるほど、そういった類の病か。納得がいった」
「扱い悪いなオイ! それとルナ君、君はそんな事を言う性格だったか?」
「ケースバイケースです」
「絶望したという言葉は今使わせてもらおう!」
やって来るなり賑やかな会話が始まった。直前まで思い悩んでいたはずなのにこの青年が登場した一瞬で空気が粉砕される。
自分と同じで月詠人の転移者、銀髪で左右の瞳の色が異なる虹彩異色の目など明らかにアレな外見をしている美青年。黙っていれば同性でも見惚れそうな美貌でも口を開けば途端に残念でイタい人、それが彼だ。
顔を合せたことは一度きりのはずなのに忘れようがない相手だ。向こうもこちらの名前をしっかり覚えていたらしく、挨拶代わりの漫才じみたやりとりで場の空気はすっかり平和になっていた。
「それで、夜架月さんは朝から何を?」
「アレを街で幾つか見かけてな。この灰色の頭脳が陰謀の影を感じて調査に乗り出してみたのだ」
格好つけて彼がビシッと指さすのは、橋の上にある例の物体。
「設置型に改造した『シールド』の呪紋。それも反射角度すら調整、制御して偏向させてある代物のはず。一部での通称では『リフレクター』」
「知っているんだ」
「無論! エバーエーアデの神業動画にも出ていた。反射を利用し、あらぬ方向から弾丸を飛ばす射撃術。アレを設置した人物はそれをやろうとしている」
またも格好つけて髪をかき上げつつ自説を口にしていく夜架月。
自分の推測も彼の考えとほぼ合っているので口は挟まないけど、何か口にする度にポーズをとるのがいい加減うっとうしく感じるようになってきた。
「狙いは何だと思う?」
「今日はこの辺りの地域で一番のイベントの最終日だ。しかも詳しくは知らんが、権力者もスピーチしたりするんだろう。となれば、そのVIPを狙撃するのが目的と見た!」
「……頭の回転は凄いはずなのにどうしてだろう、残念な感じがしてくる」
「やっぱり扱いが酷いな! 月詠人の体のせいで日中はやたらとダルいのに崇高な使命を感じて動くこの夜架月を残念とは! いや、もしや貴様は組織の――」
わめく山田某を視界の横に置いて、もう一度双眼鏡でアレ、『リフレクター』を確認した。あれは『シールド』の呪紋を改造して出来る弾丸の軌道を変える装置。運営側の用意したものではなく、プレイヤーの創意工夫から生まれた魔法だ。
元々撃った銃弾の軌道を変えるスキルなら存在している。ただし、これは肉眼で見える距離に限られており、遙か彼方の遠距離を狙い撃つ代物ではない。
そこで編み出されたのがこの『リフレクター』。これを使えば地平線の向こう側にいるはずの相手でも狙えるようになる。ただし、綿密な角度調整は必須で弾を当てる場所がズレると目標に当たるどころか、反射さえ起こらない。そのぐらいに高い難易度の技術が要求された。
その難易度からゲーム中に好んで使う人は極めて少なく、自分もこれには余り手を出さなかった。ゲーム時代でも成功率は低かったし、実戦で使った機会は数える程度だった。
ただ一人、病的にこの技が上手い人物を知っている。彼だったらゲームからリアルになったこの世界でも技を披露できると思う。だからこそ嫌な予感しかしない。
「スタン、何をする気だ」
空を仰いで名前を呼んでも答えは当然のように返ってはこない。すでに顔見知りなのだから念会話という手段もとれるはずなのに、臆病さから二の足を踏んでしまう。それでスタンが出ても、きっと自分の口から言葉が出てこないのは分かり切っているからだ。
オープントップのパオの天井に幌は無い。見上げると上には人の心を憎らしいくらいに無視して晴れ渡る空が見えた。
「無視か。徹底的にどスルーか」
山田某の声が聞こえたけどやはり脇に置いて、青く突きつける空を見詰めて……見詰めて……躊躇いがあっても振り切って……動こうと決めた。
◆
久々にいいものを貰ってしまった。そう思った時には体が横にズレて、視界が傾いた。
『チャンピオンの強烈な蹴り上げ! これにはレイモンドひとたまりもない様子だっ!』
傾いて揺れるせいで実況席から聞こえるアナウンサーの声がやけに歪んで聞こえ、観客の声もゆわんゆわんと反響してくる。こりゃ脳みそ揺さぶられたかもしれないな。流石はチャンピオン、良い技をもってやがる。
力が抜けそうな足に活を入れて踏ん張り、両の拳を構える。もう何千回、何万回も繰り返して染み付いたファイティングポーズで闘志は尽きていないと相手にアピールするのだ。
口の中に鉄の味がする。大方今ので口の中を切ってしまったのだろう。何、現役時代じゃ良くあったことだ。気にする事はない。それよりも気になるのは、俺自身の体にまだ違和感があって動かしにくい瞬間があった事だ。
「――っ!」
体のバネを活かしてリングの床を蹴り離れた間合いをゼロに。対戦相手に右ジャブを散らすように繰り出して足を縫い止め、左のショートアッパーでボディを抉るのを期した。
で、実際やれたのは右のジャブのみ。ショートアッパーが予想以上に大振りになってしまい、隙を作ってしまった。
その隙を見逃してくれるほどチャンピオンは甘くない。空いたボディにブローを三発、おまけに抱え込んできてヒザ打ちまでしてきやがった。
コレはマズイ。体のサビは落とせても感覚はまだ掴み切れていない中、ラフファイトに持ち込まれるのは本当にマズイ。
「寝てろ」
端的な言葉が聞こえたと思った瞬間、今度は背中に強い衝撃が走ってマットに体が沈む。畜生、追い打ちでヒジ打ちまでしてきたのか。
試合でダウンするなんて一体どのぐらいぶりなのか。頬に感じるマットの感触が奇妙に懐かしい。
このまま、意識が暗闇に引きずり込まれそうだ。そうなると俺の負けは確定、人生初の負けがこんな形になるとは思いもよらなかったが、それも悪くないように思えてきた。
フェイスオフなんてアンダーグラウンドじみた格闘技をやってきたのも息子の総司を探すための資金稼ぎだ。その目的も果たされてしまった以上はこだわる部分なんてどこにも無いはずだ。
沈もうとする意識と一緒に映像も暗くなる。見えるのは観客席で声を張り上げている息子、いや今は娘か? こっちで壱火と名乗るようになった少女の姿。
今にも泣きそうな顔で何か叫んでいる。何を言っているのかは分からない。分からないが、壱火の姿を見た途端に意識が沈むのを止めた。
問いかける。このまま終わって、果たして子供に申し訳が立つと思うのか?
問いかける。本当に体が慣れていないという言い訳で敗因を語ってしまって良いのか?
良い訳無いだろう!
気が付けば俺は、体の芯から込み上げてきた衝動に任せてマットから跳ね起きていた。
『おおっ! レイモンド、ダウン状態から回復。凄い勢いで起き上がってみせた。あれだけやられてまだ余裕があるのか!?』
歪んでいた声や視界も元に戻っている。意識もクリアだ。ダメージはあるけど戦えないほどじゃない。まだいける。ファイティングポーズをとり、相手に闘志を向けた。
その相手、この大会決勝戦の対戦相手にして前回チャンピオンの男は、目を見開いて少し驚いたような顔をしている。それも数秒だけで、すぐに顔色を窺わせない無表情に戻った。
いいさ、俺がこれからもっと驚かせてその無表情を崩してみせる。
再びマットを蹴って間合いを詰める。今度はさっきより一歩分後ろ。それが今の俺にはベストの距離だ。
放つジャブにも一工夫。せっかく強い手首と長いリーチがあるのだ活かさない手はない。腕全体をムチのようにしならせて速く、鋭く、叩くというより斬りつけるように打っていく。
相手の無表情に変化はない。この程度の技には余裕で対応してのけると態度で語っているようだ。大変結構、そうでなくては。
ジャブから次の技へ持っていこうという繋ぎ目に相手が割り込んでくる。具体的には手の指を揃えて突きだしてくる。抜き手だ。
だが、それに付き合うつもりは無い。右で抜き手をパーリングして弾いた後は、一歩間合いを詰め、強引に攻撃機会を潰す。
そして放った左ストレート。狙うのは鼻の下。吸い込まれるように拳が狙った場所へと向っていき、インパクト。無表情顔が仰け反った。
畳みかける。右でこめかみ、踏み込んでから左でレバー、もう二回ダブルでレバー打ち、離れるタイミングで右のショートアッパーでアゴを打つ。相手が軽く浮いたところを左で眉間を打ち抜く。
もっと速く、もっと正確に、際限なく回転を上げていけ。敵をとことん置き去りにする勢いで打ち続ける。
狙う場所も耳裏、みぞおち、心臓、アゴ、こめかみ、眉間、鼻下、思いつく限りの急所を徹底的に打つ、撃つ、討つ。
さっきまでの俺を罵りたい。こんな形での負けが悪くない? 冗談ではない! これで負けてボクサーとして恥ずかしくないのか、俺。
これまで積み上げてきた勝利の影で敗れ去った対戦者達に申し訳が立つとでも? ありえない。
引退したから関係ない? 違う。それはもう過去の話で、ボクサーとしてリングに上がった以上は現役だ。
なにより、子供が見ているんだ。親が無様をさらせるか!
「よくも散々――」
もうどんなパンチをどれだけ打ったか記憶していない。対戦相手はリングに立っているだけになっていた。
「恥かかせてくれたなぁ――」
フラフラでも俺は一切の手加減せずに打ち続ける。倒れそうでもパンチを打たれてマットにいかないのだ。今の奴は正しく人間サンドバッグになっている。
「これは礼だ――」
最後の一撃。一度連射を止めて、左を引いてフックとアッパーの中間位置にセット。敵の口が動いて何か言っている気がするが無視。
「受け取れ」
手加減、遠慮、自重の一切合切をやめた左スマッシュを敵にかましてやる。
人が出すものとは思えない音が鳴って、チャンピオンが宙を舞ってリングの外へと吹き飛ばされる。弧を描いてその体が空中に飛ばされる様子がやけにゆっくりに見えた。
そしてリングに一番近い観客席に墜落する。観客の悲鳴と怒号が聞こえて、ここで初めて周囲の音に気が向いた。完全に音が戻った。
『しょ、衝撃的勝利! レイモンド、チャンピオンをボコボコにした挙げ句、リング外まで殴り飛ばしてみせた! これにはファンのみんなもビックリだ! このシェリルのいる実況席の隣でチャンプがノビている。だれか担架もってこーい!』
相変わらずうるさく聞こえる実況の声に、試合が終わったと確信した。
真っ先に目を向ける場所は決まっている。そこでは壱火になった我が子がガッツポーズと笑顔を見せていた。それを見ただけで今までのわだかまりが嘘の様に消えていく。
勝って良かった、間違ってはいなかった、そんな事がただ嬉しい。
拳を振り上げると会場中の観客が応えて声を出してくれた。大気が震える。これほどの雰囲気は過去を振り返ってもそうはない。
「勝ったぞ!」
振り上げた拳を壱火に向けて叫ぶと、向こうも応えて拳を突き出してニッカリと笑う。もう歓声はBGMだ。
『フェイスオフ、ゲアゴジャ大会決勝戦は衝撃的な結末でレイモンド・グレイ選手がチャンピオンを撃破、新チャンプとなりました。リスナーの皆さん聞こえるでしょうか、この会場中に響く歓声を。新チャンピオンの誕生を祝福する歓声です。おめでとう!』
またこんな風に歓声を聞ける機会があるとはな。そんな風に少し感傷に浸って、屋外スタジアムの空を仰いだ。
「――?」
その空に透明な板が見えた気がした。何かあるのか? それともダメージのせいで変な幻覚でも見えたか?
「それでは、優勝者のレイモンド選手にインタビューをしたいと思います。よろしいでしょうか」
「え? ――ああ、インタビューか分かった。おや、嬢ちゃんどっかで会ったことないか?」
「おやおや、さっそくガールズハントですか? パンチと一緒でそちらの手も早いですね」
「いやいやいや、違うから。純粋な質問だ。第一、俺には妻と子供が」
すぐに始まったインタビューのせいで、俺は透明な板の存在はすぐに忘れてしまった。
後から思えば、この時に壱火やルナに念会話などで話しておけば良かったと後悔している。
事が起きるまであと僅かも無かった。
◆◆
ゲアゴジャを中心とした都市圏各地で行われてきたイベントは、今日のゲアゴジャイベント最終日で終わりを迎えようとしていた。
古くから続いている祭だからか政にも関わりが深く、首長国の有力者が集まる機会でもある。今回は地区長を選出する会議が開かれていた。
フェイスオフの大会が終わったスタジアムでは、すでにこのイベントに終了を宣言する閉会式が行われていた。試合で湧いていた会場の空気は変わり、粛々と式典が進行する。
クリストフはそんな会場の様子をスタジアムにある控え室から見ていた。
「――それで、君がルナからの伝言を頼まれた、と」
「オゥイェエ。まさしくザッツライト、ルナからフェーヤ氏に伝言をしてくれと頼まれて、こうして参上している次第で……だからさ、この怖いお姉さんにプレッシャー出すの止めるように言ってくれないか」
「また以前のように巫山戯た挙動で逃げられては敵いませんで」
「オゥ! 我が『神速疾走』を封じようというのか。だが、やらせはせん」
「……」
「スイマセン、調子に乗ってました。お話、続きして良いでしょうか?」
「手短に頼むよ。地区長就任の挨拶があるからね」
「サー、イエッサー」
控え室にいるのは三人。クリストフに従者のエカテリーナ、そしてどういう訳か夜架月刹羅の姿があった。
彼はルナから狙撃される可能性ありの重要人物として危険を知らせにやって来ていた。
ルナとしては、この世界での後ろ盾になってくれる人物がいきなり倒れられては困ってしまう。だから危険を知らせて備えて貰おうという魂胆があった。
もちろんクリストフ以外にも重要人物が来賓として集まるスタジアムであるため、会場の警備はルナに言われるまでもなく固めている。
クリストフやその他有力者勢から抽出した私兵はもちろん、街の治安を預かる警官も動員されて閉会式会場は警備されていた。当然遠距離からの狙撃対策も為されており、スタジアムを狙い撃つのに適した建物はほぼ全て押えられている。
だが、ルナが警告する常識から大きく外れた狙撃に対する備えは無かった。一体誰が考えるだろう、弾道を曲げて標的に襲いかかる弾丸など想定外もいいところだ。
「話は分かったけど、就任の挨拶は延期できないよ。いくら命を狙われていても屈してしまえば負けだ。たかだかスナイパー一人に政治家が負けを認める訳にはいかないのさ」
「ですが、弾道を曲げられるとなるとスナイパーの位置特定が非常に困難です。配置しているこちらのスナイパーでは時間内に探し出せないかと」
「僕の就任挨拶までどのくらいだっけ?」
「式の進行具合からみますと、あと一時間強でしょう」
「進行をゆっくりにさせて様子を見ようか。夜架月君だっけ? 君はルナと連絡つくよね? だったらこのまま連絡役よろしく」
「や、ヤーヴォール」
夜架月から話を聞いてもクリストフに緊張の色は無い。その気負わない姿勢のまま彼は就任演説に臨もうとしていた。
ゲアゴジャを中心とした地域一帯の政治的責任者の地区長。その選出は昨日の会議で決まった。対抗馬だったベンジャミンが死亡していたため、他を寄せ付けない求心力でクリストフは地区長就任となった。
今日の閉会式で市民の前で初めて就任の演説をする。クリストフにとって今後のために外せない時間が迫っているのだ。
控え室の窓から外を見やると、スタジアムの席を埋める観衆がザワつきながらも大人しく式の進行を見守っているのが見える。
彼らのためにもクリストフは退けない。一応は戦時下になる中、政治家が弱気では勤まるものも勤まらない。
彼の見立てでは自身の命が狙われている公算はかなり高めだ。しかも転移者関係の非常識な手段を使ってくるせいでクリストフの手勢では対応が間に合わない。
この危機に対応できる能力を持っているのは街にただ一人。
「期待してますよルナ。僕も貴女もここで終わる身じゃない」
ここにはいない相手に囁くように語りかけて、手のサインだけで従者にお茶を要求した。
長年仕えているエカテリーナは心得たもの。主人のサイン一つで手早くお茶の支度を始めた。ほどなく控え室には紅茶の香気が漂い出した。
果報が来るか時間が来るまでは優雅に紅茶でも飲んで待っていよう。クリストフはお茶の香りに目を細めつつそう考えていた。
「あれ? 連絡役って、ずっとここにいないとダメ?」
「ダメですね」
「おぅぅ……」
夜架月が今後の予定を自動的に潰されて落ち込む場面はあっても式のスケジュールには一切関係なく、閉会式は進行する。
その時まで、あと少し。