20話 閑話休題・上
城館で事件があった夜も日が昇って明ける。スタン・カイルは日の出と一緒に目を覚ましていた。
初夏から本格的に夏の時期を迎えて日の出時刻は早くなっており、朝の四時には東の空から太陽が顔を出している時期になる。当然、睡眠時間は短い。けれど眠気は一切体に残らず、スタンはベッドから身を起こしていた。
思い返せば昨日の夜は彼の身に色々とあった。豪華な晩餐会に出席して、そこでリアルでも顔見知りだった人と会い、襲撃があったかと思えば魔獣まで出てくる始末。気が昂ぶって眠りが浅かったのかもしれない、とそう自己分析していた。
そうやって二度寝をする訳でもなくベッドの上でボーっとしていたら、時計の針は六時を回っていた。スタンの泊まっているこのホテルはビジネス目的の宿泊客が多く、もうこの辺りの時間から朝食を用意できると案内にはあった。
ちょうど腹も空いている。昨夜食べたお高い食べ物はもう消化されていて、胃袋は食事を要求していた。
体からの欲求をスタンは無視しない。ホテルの食堂で食べる気は起きないので、ルームサービスで朝食を持ってきてもらうとした。
部屋の電話で受付けに電話で注文を入れてしばらく、従業員がトレイで持ってきた朝食にスタンはありつけた。
従業員にチップを渡し、出来たての香りを立てる朝食の乗ったトレイを持って窓際に腰を下ろした。カーテンを開けると朝日に照らされるゲアゴジャの街並みが見下ろせる。物思いに耽るにはちょうど良いロケーションだった。
そのまま窓際で食事をしようとトレイの上を見ると、サービスなのか新聞が朝食と一緒に乗っていた。
「昨日の事件がもう出ている」
新聞の一面、畳まれていても見えるところに大きく燃える城館を写した写真が掲載されていた。見出しは『ゲアゴジャ西岸地区で火災。歴史的建造物炎上、死傷者多数』と書かれている。
当事者だったスタンは無視するつもりは無く、さっそく朝食を食べながら新聞を読んでみることにした。
朝食として出てきたトーストにバターを塗るかたわら、新聞を広げて文字を追う。それほど間を置かず、スタンは昨夜起こった事件が世間にどんな風に伝わったのかを知る。
「――事件が、事故になっている。隠蔽ってヤツか?」
銃撃戦に魔獣、さらには爆発で建物が壊れて燃えた事件だったのに、原因を『ガス爆発』で済ませている異常な内容にスクランブルエッグに突っ込んでいたフォークが止まる。
刑事ドラマなどのフィクションの世界では良く目にした隠蔽工作。しかし当事者になってみると、怒りや嫌悪よりも先に不安が湧いてきた。大変な目に遭ったのに世の人は分からないという不安だ。
胸に何かがわだかまるみたいで、フォークで突き刺した堅焼きのベーコンを口にして噛み砕き、不定形のソレと一緒に飲み込む。食べ物を食べたお陰か、気休め程度には気分が落ち着いたような気がした。
そうしてスタンは朝食と一緒に新聞の記事を読んでいく。読み進めてもスタンが関わった出来事以下の内容しか書かれておらず、ゲアゴジャの消防と警察はこの一件を事故として処理したのが分かった辺りが数少ない収穫だった。
一面の事件の記事を読んだだけで気力を持っていかれたスタンは、これ以上新聞を読む気になれなくなって手近にあったゴミ箱に放り込んだ。
放り投げられた新聞はスタンの狙いから少しズレてゴミ箱を外してしまい、逆にゴミ箱に当たって倒してしまった。ゴミ箱の中身が散らばって別の負の感情に囚われそうになるが、もう面倒臭くなって放置してしまった。どうせ今日にもチェックアウトの予定だ。後のことは清掃員に任せた。
シュリンプの入ったサラダをほおばり、もしゃもしゃと不機嫌さと一緒に咀嚼する。せっかくの朝の風景も新聞のせいで台無しになってしまった。行き場のないやるせなさが体の内側に溜まっていくようだ。
朝食をあらかた胃袋に収めてしまい、コーヒーで一息ついた。コーヒーを口にした時に広がるフレーバーのお陰で荒れた気分が少しは和らいだ気がして、朝食が終わる頃には気分もかなり収まっていた。
「そういえば。師匠、やたらコーヒーが好きだったけ」
コーヒーでスタンが思い浮かべる人物は一人、大のコーヒー党だった覚えのあるルナだ。
元の世界でリアルの面識があったので、どちらかと言うとそちらの方が思い浮かびやすい。けれど昨夜の一件で『ルナ』としての姿が強烈に記憶に焼き付いている。
黒いドレスに身を包んだ夜の空気がする女の子。ウィップティーゲルの自爆から逃げる時に抱きかかえた軽く柔らかな感触も記憶に残っている。いずれも元の世界で面識のあった人物とは重ならない。ただ、彼女の持っている面影は目つきの悪さを中心にして色濃く、男女の性差を鑑みてもスタンが見間違わない程度に特徴が残っていた。
あの色々と考えているクセに表に出にくい表情だったり、リアルでのコミュ障気味な人見知りと口下手さも記憶通りだ。あれで元は自衛官でその後はPMCというファンタジーな職歴を持っていたとは信じがたい。本人曰く、「任務に支障が出ない範囲で口を閉じていた」のだとか。
「このコーヒーも師匠なら、あれこれ味のウンチクが出てくるのだろうな」
手元のコーヒーを見ながら、好きなことなら口数の多くなる人物の姿が『ルナ』のものになって重なる。元の世界での『友人』がこちらの世界でも元気でやっているのは、スタンにとっては喜ばしいものだった。
昨夜は脱出した直後に消防隊が駆けつけたせいでロクに会話も出来ないまま有耶無耶の内に分かれてしまい、火事場のドサクサで逃げるようにしてホテルに戻ってベッドへ直行した。スタンはルナと再会しようにも連絡先さえ知らない。
念会話なら出来るかもしれないが、これからやる仕事を思えばテレパシーじみた真似には抵抗を覚える。
でも、彼はそれで構わないと思っている。この街に来た目的を友人には知られたくない。叶うなら、目的を遂げて街を去るまで会わないでいたい。
「……標的か。この人を殺すんだな」
ゴミ箱に入れ損なって広がった新聞が目に入って、その中の一つの記事に燃えた城館の責任者としてスタンの標的たる人物のコメントと写真が載せられている。
モノクロでも分かる端正な青年の顔。昨夜、ルナとダンスを踊っていたのを見ていたのを思い出すに、余計に友人と再会はしたくない。
こんな思いをしてまでスタンは標的を殺さなくてはならない。そういう風に仕向けられている。
「リーのヤツ、一体何を考えている。こいつを殺して何になるんだか」
スタンは置かれた境遇を作った人物を考えて悪態を吐いた。あの一見すると物腰の柔らかそうな風貌の裏にどれだけの邪悪が詰まっているのか、基本的には人の良いスタンには想像もつかない。
こちらの世界に転移してからというもの、所属しているチームS・A・Sはすっかり無法者の巣窟と化した。ゲーム時代は少々やんちゃな部分がある程度の健全なチームだったはずなのに、今では元の世界に頭のネジを置き忘れたような連中が数多く巣喰っている。
連中の脳内は未だにゲームをプレイ中の気分でいるメンバーもいて、自分が殺されるかもしれないという恐怖も体験していない。そうじゃないメンバーも戦闘や人殺しに忌避感を持たない面子が多く、スタンのように葛藤する方が少数派だった。
さらにチームはリーとストライフの提案で人員を増やし、規模はどんどん大きくなっていた。新しく入ってきたメンバーもチンピラめいた人種がほとんど、もう悪党と言って差し支えないチームに豹変していた。
かつてスタンが所属していたS・A・Sは消えてしまった。だから彼は逃げ出したのに、向こうから追いかけてきた。
一方的に告げられた仕事内容は人殺し、恩着せがましく押し付ける報酬は今後一切の不干渉と少しの金、さらりと冷酷に口にされた失敗時のペナルティはチームへの強制的な拘束。
足抜けしたいスタンには断る余地はない。理由も目的も知らされず、彼は仕事の結果のみを求められていた。
考えに耽っていた時間は思いの外長かったみたく、再びカップに口を付けた時にはコーヒーはだいぶ冷めていた。窓の外でも太陽が高さを増して、街は朝の賑やかさを見せようとしている。
今日のスタンの予定は暗殺の下見と仕込みだ。どちらもそれなり以上に気を遣い、時間のかかる作業が待っている。今後の事を思えば今から行動を始めた方が望ましい。
手早く身支度を済ませたスタンは、暗殺の準備をするために街へと繰り出す。内側ではどうしようもない葛藤を棚上げにしたまま、外側だけで今日の予定をこなそうと動く。足取りは重く、手の動きは鈍い。それでも時間だけは過ぎていく。
スタンの中ではクリストフを暗殺する好機に恵まれるのは明日。明日で一切の決着が着く。
◆
昨夜の事件があってもゲアゴジャの街の日常は崩れなかった。朝に出勤する人々のラッシュがあって、昼にはランチの匂いがあちこちから立ち昇る。そして現在は夕方、帰宅ラッシュが一段落して街のあちこちからは夕食の匂いが漂いだしていた。
『バー・マグナム』でも酒と食べ物を求めて客が入るようになって、祭期間の効果もあってか静かな賑わいを見せている。
カウンター席に数人、ボックス席に三組、マスターが言うには、これが戦争が起こる前の普通の客の入りなのだそうだ。この店が繁盛している場面を初めて見た自分としては、失礼ながら新鮮な光景に見えた。
カウンター席に座る自分の隣では、レイモンドがグラスを片手に何か考え込んでいる様子だ。自分がここに居るのは他でもない、彼に「相談がある」と言われて誘われたからだ。
しかし最初の注文をしてから話は切り出されず、お互い黙ったまま十分以上の時間が流れていた。
「祭だというのに、ここだけ葬式みたいに静かだな」
「あ、マスター」
直前までテーブル席に料理を届けに行っていたマスターが戻ってきて、自分達の様子を見るなり苦笑じみた表情を浮かべた。
今日店に来た客達は祭での雰囲気をそのまま持って来店していて、二次会、三次会の会場になっていた。バーの空気を読んで大声で騒いだりはしていないが、皆が皆楽しそうな表情でお酒を飲んでいた。
対して隣のレイモンドは、さっきからずっと沈黙を保ったまま手にしたグラスに視線を固定している。リザードマンの顔で表情は読みにくいが、苦しそうな感じは自分にも伝わる。なるほど、葬式とは言い得て妙だ。
このままレイモンドが口を開くまで待とうと考えていたのだけど、周囲の客を思えば葬式めいた空気はすぐに払拭した方が良いかもしれない。
思い立ったらさっそく、と口を開きかけたところでレイモンドがようやく言葉を吐き出した。
「――相談なんだが……」
「あ、はい。どうぞ」
「……娘になってしまった息子に対してどう接したら良いか分からない。助けてくれ」
「ええっと……ああ、なるほど壱火の話」
「そうなんだ。少し話を聞いてくれ」
一度話し始めたレイモンドは、さっきまでの沈黙分を取り戻そうとするかのように口数を多くした。
話は壱火から聞いた内容をレイモンド視点に直したものと言っていいだろう。ただ、壱火は元の世界からは信じられない位に性格がアグレッシブになっており、そのギャップに戸惑っているそうだ。
こっちの世界に転移してからしばらく、ずっと息子の行方を捜していたレイモンドだったが、探した相手の余りの変わりようにどう接したら良いか分からない。それが気になって試合にも集中できないと言う。
「試合って、あ、今夜もフェイスオフの試合があったか。何時から?」
「八時から試合開始だ」
「あと二時間。準備も考えるともう会場入りしても良い頃合いだけど」
「ああ、そうだ。だがな、もう今夜は棄権しても良いと思っているくらいだ。こんな気分で試合に臨みたくはない」
そもそも彼がこの世界の格闘技界に飛び入り参加した理由は、息子の行方を捜す資金を手にするためだった。フェイスオフは日本のボクシングよりも実入りがあって、それなりの収入が即金で手に入るのが強みだそうだ。
元ボクシングチャンピオンとしての経歴も活かせるとあって、あの夜架月――山田で良いか――の手回しでフェイスオフの世界に入った。それも息子が見つかり試合を続ける理由は無くなった。早々に引退してどこかで職でも見つけようかとレイモンドは苦笑している。
「なんで私にそんな相談ごとを?」
「これは勘だが。アンタ、俺と同い年かやや下ぐらいの年代じゃないのか?」
「ええ、正解です」
「やっぱりか。なに、そう大した理由はない。近い年代の人間に愚痴ってみたくなっただけさ。迷惑料はここの飯代、そう悪い取り引きじゃないと思うが」
「そうですか。ですけど、私じゃ大した話相手になりませんよ」
「いいさ、聞いてくれるだけでも有り難い。実際、話をしていて少し楽になった気がする」
話をしていて喉が渇いたのか、彼は手に持ったグラスを何度か傾けて中身をあおる。酒精の匂いはなし、代わりにジンジャーの強い匂いがする。試合前でアルコールは断っているみたいだ。棄権を考えている割に試合に臨む姿勢は出来ていた。
でもレイモンドの話には自分は本当に力になれないと思っている。リアルの異性に興味は無いし、親子関係でも中学の段階で無縁になり、人付き合いも仕事に支障がでない範囲で避けてきた。こんな自分が人様、ましてやファンだった相手から相談されるのは思ってもみない出来事だ。
「壱火はこの後レイモンドと一緒に行動すると考えても良いんですよね」
「ああ、戸惑いはしてもやっぱ親子だしな。こんな事態だし、なるべく一緒に居たい。それで、昨日は預かって貰った形になったけど、総司、壱火はどうしている?」
「まだホテルで寝てます。使い魔を見張り役に付けているので大丈夫。さっき、報告が入って壱火が三度寝に入ったそうで」
「はぁ。昨日の事件は聞いているから強くは言えないが、我が子ながらだらしないな。その辺りは妻に似たんだろう。アイツも寝るのが趣味みたいなところがあった」
「そうですか」
コメントが返しにくいので無難な相槌でこの話題を終わらせる。人の奥さんについてアレコレ言うつもりは一切ないが、寝るのが趣味とは……
壱火もその母親の遺伝を引き継いでいるらしく、城館からホテルのベッドに直行してからは一歩も動いていない。今もドレスと銃を床に脱ぎ散らかして下着姿でグーグー寝ているのがジンからの報告で分かっている。一体彼女は何時間寝るつもりなんだろうか?
こんな具合にレイモンドから相談とも愚痴ともだべりとも取れる話をしていると時間はさらに進んでいく。
途中で空腹を覚えてマスターに夕食を注文、出てきたパンケーキにナイフを入れる。マスターの話では、この祭期間中に一食はパンケーキを食べるのが古くからの習わしだそうだ。イギリスやアイルランドのパンケーキ・デイみたいなものだろうか。
メープルシロップがひたひたになっているパンケーキを食べて、コーヒーを一口。口の中に広がる幸福感に気分を良くしていると、レイモンドがこちらをまじまじと見ている。
「なにか?」
「いや。何となくだが、娘を持つのも悪くないように思えてきた。やはり話をして良かったよ、ありがとう」
「礼を言われる程のことは。こっちもファンだった人から相談を持ちかけられたので嬉しかったですよ」
「そうか……なら、ファンと娘のために今夜も稼がないといかんな。もうそろそろ試合に行く。棄権は無しだ。マスター、勘定はここに置いておく」
「武運を」
「おうっ」
スツールから立ち上がったレイモンドは、流れるような動作で空のグラスに勘定分の銀貨を入れて入り口へ向った。自分の声にも後ろ手でサムズアップで返して扉に手をかける。普通だったら気障なマネなのに彼がやると不思議と様になるのだから大したものだ。
結局彼は言いたい事抱えていた事を話して楽になりたかったらしい。得てして相談とは、そういうケースが多いのだと数少ないコミュニケーション経験で学んでいる。だからレイモンドに対して否定的な気持ちにはならなかった。
レイモンドの奢りなので遠慮なくパンケーキを食べる。マスターの腕が良いのか、前とは味覚が変わってきているのか、口に広がる甘味は食べるごとに幸福な気持ちにさせてくれる。これに加えてコーヒーを口にすれば言う事なしの味わいだ。
持ち帰りも出来るので、後で壱火とジン用に包んでもらおうか。あ、そういえば――
「晩餐会の料理、持って帰れなかったな」
あのゴタゴタでパーティーに出された料理は全滅。自分も壱火も料理をお持ち帰りには出来なかったのを思い出した。
今更になってそんな些細な用件を思い出したのが可笑しくなり、思わず声を出して自嘲してしまった。マスターはそんな自分を不思議そうに見ていた。
昨日の出来事が嘘のような平穏。もう少しその空気に浸っていたいから、自分はもう一枚パンケーキを注文した。