22話 Dawn
血の味と一緒に昔の出来事が自分の内側より湧き上がってきた。数秒間の茫然自失の時間の中で、思考は過去を巡る。
取り立てて目立ったところのない男児時代――両親が死んで天涯孤独となった中学時代――自活をしようと入った改編される前の陸上自衛隊少年工科学校――以降、七年間を自衛隊に身を寄せる。当時の収穫は、射撃と狩猟の趣味を覚えて、各種資格の修得、訓練によって出来た頑丈な肉体ぐらいで後は思い出したくない。
自衛隊を辞め、次に身を寄せた先は中央アジアや中東で活動している民間軍事会社、傭兵組織だった。そこでも水は合わず五年で辞めた。
日本に帰国してから職に就くことは無かった。その上、僥倖な出来事で一生働かなくても問題の無い金額を手に入れる。これはもう引き篭もれという何かの啓示と思い、以降の十年間はインドアの趣味とアウトドアの趣味の両方に勤しむ趣味人の毎日を過ごす。
『僕』に欠けている物があったとすれば人との交流だ。
人に関わる記憶は薄いものだ。自衛隊の同僚や部隊の同僚も所詮仕事を同じくする人間でしかなく、学生時代も友人を誰一人として作っていないし、作る必要を感じなかった。そして両親もすでに遠い過去に流されて顔すら曖昧だ。墓参りは霊園の管理に任せきりで一回もしていない。
人情が薄いのだ。自分以外に関心はなく、必要ならどんなに身近な人間でも切り捨ててしまう。そして切り捨てても、それほど悲しまないだろう。どうやらそういう非情な人物が自分らしい。
「――ぐっ!」
「ルナ!? 大丈夫? やっぱり血なんか飲むから」
開いたフタから過去がドロリと出てきた。遠くから人を視るのが好きで、そのくせ人と交わりたくない。そこに後ろめたさはないし、恥じ入る所もない。ただ客観的に欠点と考える思考が残っているのか、過去の思い出は負の臭いがしていた。
臭いに当てられて嘔吐くような声がノドから出る。すぐ傍にいた水鈴さんの切迫した声からして、今の自分の様子は余程深刻みたいだ。今の過去の高速リプレイも走馬燈の類なのか?
離人感が酷い。身体が自分のコントロールを離れていくようにも感じる。まともに地面に立っているのかさえ分からない。すぐ傍からかけてくれる水鈴さんの声が遠くに聞こえてしまうのだ。
過去の記憶が晴れると、その奥からさらに無形の大きな奔流が湧き出てくる。どうやら、過去の思い出は『落としブタ』のようで、これからが本番だった。
さっきまでが過去なら、今度は未来の妄想だ。この世界で『ルナ』として生きていく場合の仮定の思考である。
この世界に転移してきたプレイヤー陣の中でもトップランクに入ると自負できる力を自分は保有している。徹底的に『ルナ』というキャラクターを育成してきたし、リアルでも射撃、生存術、戦闘理論、その他身一つで生きていくのに必要な技能と知識は習得してるつもりだ。
これは『IF』の話だが、マサヨシ君に出会わなかったら自分は荒野で隠者の様に生活していただろう。何者にも頼らず、独りで満ち足りた生活だ。正直に言えば今でも憧れる在り方だったりする。
でも、そんなのはあくまで『IF』でしかない。多くの人と関わり、多くの想いの片鱗に触れ、自分には変化を求められている。その行く末が『力』の奔流と共に流し込まれてきていた。
『ルナ』と『僕』の心身が完全に合一されれば『ルナ』の能力を『僕』の経験の下に動かせて、経験にはない能力へと昇華も可能だ。
各種戦技は戦闘理論、各種魔法は発想次第でいくらでも化ける。武器だってサブ役に押しやっているものの強力なものが多いし、防具も充実している。
話は戦闘に限定しない。持っている財貨はこの世界でも通用するし、長年貯め込んできたそれはそれだけで『力』になる。クリストフの話も振り返ってみると権威すらどうとでもなりそうではないか。
阻む物はなく、自由気まま、我が儘に振る舞える最高の世界。そういう未来が可能に――
『主っ! 気を確かに』
――可能な訳がないだろう。何を飲み込まれようとしているんだ自分は。第一、集団生活の極みの様な自衛隊で自覚したが、自分は人の上に立つことも下に付くことも嫌いだ。苦手ではないから七年間も続いたが、あれ以上は無理だ。
こんな自分に権力者など荷が重すぎる。まして自分から望むものじゃない。『力』はあれば困らないが、身に余る制御の効かない代物はゴメンだ。
この場で必要以上のものは要らない。欲しいのは直面する事態を解決できるだけのものだ。
切り替わった思考のお陰で流されそうになった『力』の奔流は、手に収まる無形の『場』として留まった。それはすぐに裡に染み入り、真実必要な『力』となったように思えた。
ここでようやく離人感は薄れ、五感は自分のものとして機能を取り戻した。
最初に感じたのは触覚と嗅覚から。正面から背中にかけて圧迫と熱を感じた。といっても危険なものではなく、誰かが自分を抱きしめているらしい。さらに嗅覚は日向で良く干した布団のような心地よい匂いが鼻をくすぐった。
視覚が戻って目の焦点が対象に合う。息がかかるぐらい近くに銀髪に縁取られた水鈴さんの端正な顔があった。
「これは一体?」
「あ……ルナ。良かった」
何故抱きしめられているのか、問おうにも彼女の嬉しそうな表情を前にしては少し無粋な気がして口を閉じた。
首を巡らして周囲を見渡せば周囲の人達も自分を見て安堵の表情を浮かべている。特にエカテリーナさんのグループは深く息を吐いている。意識が飛んでいた時間は短かったみたいだが、どうも心配をかけてしまったらしい。
申し訳ないという感情が湧いて出てくるが、最優先にすることがあることぐらいは分かっている。もうすでに夜は更けきって、朝の時間に差し掛かっていた。満月はまだ空にあるが、日の光で力が減退してしまってはここまで来た意味がなくなってしまう。
「ルナ?」
「大丈夫、ありがとう水鈴さん。もう行かないと夜が明ける」
「あ、うん」
体を包んでいた暖かさが離れる。乾燥した空気が肌を撫でて、その感触で理解できた。彼女も自分を助けてくれたのだ。人肌の感触と匂いというのものは存外人間の本能に訴えかけるものらしく、戻って来られたのも水鈴さんが体を張ってくれたお陰だと考えられた。
それと戻って来られた恩人はもう一人、いや一匹。まだエカテリーナさんの腕に抱かれているジンに近付く。接近の気配に気付いたのか、力なくグッタリとした体が起き上がって彼の金色の瞳が自分を見る。良かった、こちらは怪我こそあるがまだ無事だ。
デールを助けられなかった回復呪紋の燐光が手を覆う。それでジンの体に柔らかく触れる。すでに何度か経験をした魔法による修繕だ。特に術式を意識せずとも息をするように呪紋が構成される。
「主……感謝します」
「それはこちらの台詞。ありがとう、君が居なかったら私はどうなっていたか分からない」
本当に感謝している。あの一喝がなければ『力』に流されていた。感情を表に出すことは苦手で、顔に感謝の念が出ていないだろうがこの気持ちは真実だ。
それが態度として表れるよう、回復呪紋の光が覆う手でジンの体を撫でる。毛皮の滑らかで温かく、撫でている側の方が心地よくなる手触りだ。
撫でる度にジンの様子は改善していく。爆風で損傷をうけた骨や筋肉は適正な状態へ戻って、刺さっていたロケット弾の破片も体から抜け落ちて傷口が塞がる。ほどなく自力で起き上がると、エカテリーナさんの腕から飛び降りて地面にしっかりと足をつけた。
「エカテリーナさん、ジンの事ありがとうございます。それと、デールさんの事はお悔やみを」
「いいえ、どちらもお構いなく。今は何を置いてもするべきものが控えていますよね。幸い周囲の魔獣ははけています。お早く」
「了解。ジンは待機を」
「不本意ながら承知した」
やや不満そうな声ながら頷くジン、神妙そうな顔をするエカテリーナさんと部下一同、そしてマサヨシ君、水鈴さん、レイモンドの三人を置いて一歩足を『コラム』へ向けた。
血を内に取り入れて『力』を自覚し、真実己のものとした今なら理解できる。ここから先の作業は自分一人でやった方が効率が良い。ジンもエカテリーナさんもそれを分かっているから見送ったのだ。
「ルナさんッ」
「ルナッ」
「すぐ戻る」
声をかけてきた二人に軽く手を振って、次いで地面に横たわるデールの亡骸を見やった。戦闘で人を殺したのが十年ぶりなら、共に戦った人間が目の前で死んだのも十年ぶりだ。彼と一緒にいた時間はとても短時間だったけど、残った印象はとても色濃いものだった。
そんなデールの血が自分の中を巡っているというのは結構感慨深い。なるほど、吸血行為は月詠人にとって特別な事と設定集で見た記憶があるが頷ける。彼には深い感謝を。
視線を切って、塔を見据える。『浄火』の呪紋を町一つ覆うくらいにするなら、町全体を俯瞰できる場所が必要になる。あそこの屋上は確かにうってつけの場所だ。
◆
一歩を踏み出せば、後はスムーズに『コラム』へと足は進む。今だけは妨害が何一つとして無い好機だ。
歩く速度はどんどん跳ね上がり、十歩も行かずに疾走へと変わる。視界の端は流れる風景で、正面にはポッカリと口を開ける塔の入り口。そこに風を巻いて突入した。
塔内は非常灯の明かりしかなく、月明かりのある外よりも暗い。でも目の暗順応は瞬時に起こり、真っ暗な中でも視界が塞がることはない。
塔の内部には何も無く螺旋階段が内壁にあって、自分には火砲のライフリングを連想させる。見上げると巨大な大砲の中に入った錯覚におちいりそうだ。
内壁には壁画が描かれており、良く見ればアストーイアの町の歴史が絵として表現されている。『地球』のアストリアコラムでも壁画はあったが、あっちは外壁に描かれている。こんなところにも違いを見出し、急ぎなのに少し口元が緩んだ。
向こうのアストリアコラムと同じなら、こっちの螺旋階段も一六〇段ほどはある。いちいち昇るのも時間のかかるのでショートカットだ。今の自分にはそれができる。
走ってきた勢いをそのままに、垂直跳びをするつもりで下肢に力を込めた。腰を軽く沈めて、目線は目標になる跳躍先を見据えて上へ。
充分に力が溜まり、タイミングも良いと見て下肢の力を解放、いやここまでくると爆発させると表現するのが正しい。踏み込んだ床が砕けて細かい欠片がブーツからこぼれ落ち、耳元でうなる風はさっきよりも激しい。元の自分よりも長くなっている髪も大きくなびく。風圧で髪が後ろに流されて少し重い。
それら体で感じた感覚が思考を形作る前に目標地点が迫る。すかさず空中で姿勢を整えて螺旋階段に足を伸ばした。
迫る階段を足で蹴りつけて、最初の勢いを殺さないようにして次の目標へ跳ぶ。螺旋階段を足場にして跳躍を重ねて上へ。
重力がおかしくなったような跳躍距離とその反動。普通だったら遊園地のアトラクションでもないと経験できないGと風圧が体にはかかっていた。
一歩足を踏み外すと大怪我では済まないはずの暴挙。だというのに身体は文字通り弾んでいた。
跳躍すること五回、ものの十秒で『コラム』の頂上に着いた。町で一番高い場所にあり、吹きさらしの頂上では河口から吹く潮気を帯びた風が通り抜けている。
風は町の様々な臭いを運んでくる。ものが焼ける臭い、舞い上がった土砂と瓦礫の臭い、何より色濃く鼻を刺激するのは濃密な血の匂いだ。暗闇の中で町のあちこちでは火災が発生し、幾つもの建物が崩れている。悲鳴や銃声も上がって災禍の凄惨さをより鮮明にしていた。
薫る血の香にわずかに酔うもすぐに気を引き締めて町を見下ろす。町のあちこちを徘徊している魔獣達が退けば、それだけでも状況は好転する。今から自分がその手助けをするのだと思えば、気持ちは複雑に絡まりそうだ。
「自己中心の筆頭みたいな私が人助けなんて、世の中分からないな」
誰も見ていないのを良いことに独り言を口にして自分自身をあざ笑った。自嘲と嘲笑と苦笑が混じりあっていて、この場に鏡が無いのはありがたい。きっと酷く歪んだ顔をしているだろうから。
もっと冷酷に他人を傷付けられる人間だと自己評価をしていた。けど、気にかけたものを惜しむ感性は人一倍だったらしい。
この世界に来てから共に行動している人達、仮宿でも居を置いている町、そして今の『ルナ』の肉体。いずれも自分が気にかけて、守ろうとしている諸々だ。
その諸々のために今出来る事をと『力』を振るった。
身体に導かれて手を空に伸ばし、満ちた月を掴むように掌をかざして握りこむ。もちろん空にある月を地上の人間が掴めるわけもない。なのに自分は確かに手応えを感じた。月を掴んだのだ。
更なる『力』が上乗せされた。それは自分の内から吹き上がるものとは別種、月から与えられる『力』に握りこんだ拳が震えた。震えは腕を伝って心臓に届いた。一拍、鼓動が止まる。
「――か、はっ」
鼓動が再開されると、血管を伝って全身に伝わる『力』を感じる。冷たく温かで、鋭く穏やかな相反していても反発しない不思議な感覚が体の内側を優しく撫でていくのだ。
愉悦も快楽も一瞬で通り越して、飲み干して、その先にあったのは平静な心地よさだった。
これが『月蝕』。月詠人とは、文字通りに月を詠み込んで共にある種族だった。ゲームの設定として頭では知っていた事柄が実際に身体で感じるものになっていた。
経験は何物にも勝る力、どんなに突飛な出来事でも一度経験してしまうとそれは真実になってしまう。
魔獣に蝕まれている町を見下ろして範囲を策定する。月にかざした手を戻して息をするように『浄火』の呪紋を戻した手の上に織り上げた。
自分は魔法を信頼していない。でも、こうして織り上げられる術式に確たる手応えを感じていている。それはイルカが海を泳ぐように、カラスが空を飛ぶように、生き物が生き物として備わっている機能を当たり前に使うように魔法を使っている。
術式に導かれて手の上に火の玉が生まれる。ソフトボール大のそれは暗闇の中で明るく灯り、でも熱は感じない。
「これで……ふっ」
炎色が渦巻く球を町の方向へと投げた。力強さも速さもなくふわりと町へと飛んでいく火球。攻撃性のない柔らかな光を宿している火球は、ふわふわと町の上空まで飛んでいって、弾けた。
――――
それはまるで花火のように火の花が空に咲いた。
長い夜の終わりを告げるように清めの火が空を裂いて、咲き開いた。
◆◆
「おや、綺麗な花火ですね。この凄惨な夜の終わりに相応しいかどうかは人それぞれでしょうが、終わりの号砲としては洒落ています」
「確かに綺麗ですけど、これは『浄火』の魔法です。それも町一つを覆う広範囲の」
「なるほど、としたら追い打ちが必要かもしれませんね。ちょっと失礼、電話をかけさせてもらいます」
「いえ、お構いなくどうぞ」
『コラム』のある丘からわずかに下った場所に建っているクリストフの屋敷。そこの執務室では二人の人物が窓から見える大きな花火を見上げていた。
応接用のテーブルの上には湯気の立つ紅茶と焼き菓子の載った小皿があり、お茶の香りは対面のソファに座る二人の間に漂っている。
普通の花火は一瞬の輝きが終わったら消え去ってしまうものだ。それが今見える赤い花火は、消えることなく空に留まり続けて赤い火の粉を雪のように町に降らせていた。
ひらひらと降り落ちる超常の灯火。その光は見る人の心を和らげる効果でもあるようだ。
執務室の室内灯は点いていない。室内は薄暗く、外からの明かりが内を照らしていた。もとよりこの屋敷の住人達にとってこの程度の暗さは何の障害にもならない。大げさに言うと屋敷の照明は客達のためにあると言っていい。
ここにいるのは屋敷の主のクリストフ、そして客人のライアの二人だ。ライアは犬人族であり、人間よりも夜目は利くが屋敷の住人である月詠人ほどではない。本来なら天井に吊されたシンプルながら格調の高い照明器具の出番のはずだった。
けれどクリストフは「町の夜景を見ながら話そうよ」と言い出して、控えていた使用人に明かりを落とさせている。
ライアは赤い浄火の花火が町に降る光景にしばらく見入っていた。まるで光の雪が町に降っていくように見え、こぢんまりとしたアストーイアの町が何倍も大きく輝かしく見えた。
魔獣の襲撃で傷を負った町が光の雪で癒される。それは何て神秘的で美しい光景か、などとライアは外の光景に魅了されていた。手元に手帳でもあれば詩や歌の一つでも書きたいぐらいだ。
ライアは時間感覚を失うほど外を見つめていて、彼女の後ろから近付くこの部屋のもう一人をすっかり忘れていた。
「お待たせしました」
「うっひゃいっ!」
「ああ、すいません。驚かせてしまいましたか」
だから不意にかけられた声に過剰に反応してしまったライアは、気配もなく戻って来たクリストフの表情に悪戯が成功した子供のような顔を見た。どうも最初から驚かせるつもりだったみたいだ。外見も少年の姿であるせいか、こういった時の彼はイタズラ小僧のような雰囲気を持っている。
二人が顔を合せてまだ数時間、ライアは今回の会談相手を計りかねていた。
ジアトーの街でこの世界に転移してきたプレイヤー達の受け皿になろうと思い立ち、侵攻してきた帝国にも抵抗してゲリラ活動を行っているライア。
彼女は今後の活動を考えて後ろ盾を欲していた。クリストフの肩書きとこの国においてある程度の影響力は欲している後ろ盾の条件に合致している。何としても彼の庇護が欲しいところ。ライアはそう考えていた。
その考えを抱いていざ面談に漕ぎ着けたは良いが、面談相手が少年の姿であることにまず驚き、続いて少年と思わせない弁舌に警戒感を湧かせ、すると今度はイタズラ小僧のような態度でかく乱される。
つかみ所がなくて真意を見せずそれでいて誠実な姿勢は崩していない。それはまるで熟練の政治家みたいだ。ライアの中身、元々の人物たる十条 一菜はこういう人種のことは良く知っている。彼女の父親がそうした政治家だからだ。
「それで、貴女が話した事だけど……うん、面白いと思うよ。実に興味深い」
「そうですか。ありがとうございます」
「僕個人としてはこんな面白い話には是非とも一口のせて欲しいね」
「本当ですかッ」
再開した会談の第一声で提案した話が思わぬ好感触を得て、姿勢が前のめりになってしまうライア。慌てて姿勢を戻して礼を失したことを詫びるが、向こうは一切気にしていないようすだ。
目の前の少年の姿をした人物を政治家みたいだと捉えた時は、自身の提案に色々と難癖をつけてくることは覚悟していた。そこをいかに粘って交渉し、権益を引っ張ってくるかがライアの腕次第と思っていた。それがこうも簡単に好感触が得られるとは思ってもみないかったのだ。
これでこの世界に転移してしまったプレイヤー達の受け皿が出来るかもしれない。そう思うとライアは嬉しさを隠し切れない。
でも、クリストフの本題はここからだ。
「そうだね。あくまで『僕個人』はね。でも、他の人はどう思うやらだよ?」
「ッ! 可能か不可能か、明確に分からないと手を出してこない。そう言いたいのですか」
「頭の回転が速い人は好きだよ。その通り。僕だけなら手を貸すのもやぶさかではない。けど、フェーヤの一族で僕の独断で出来ることは案外少ない。何か具体的なものが無ければ他の連中は動かないよ。特に今は戦時中だし」
「あの土地の権益が丸ごと手に入る可能性があっても、ですか?」
「連中は守りに入っている。成功するか分からない博打は打ちたくないのだろうね。まったく、下らないコトだよ」
クリストフ本人としては乗り気でも、彼の属する組織はそうではない。彼の言っている内容をまとめればそうなる。
手にしている既得権益を損なう可能性がある博打には普通は誰もが消極的だ。その組織の言い分もライアには分かる。でも、ここで後ろ盾を得なくては後が苦しくなる。諦めるつもりは元から無い。
気持ちが傾いているらしいクリストフの様子をライアは成果を得る好機と捉えた。彼女は幾つかの交渉のカード切る用意を始める。
さあ、交渉はまだまだこれからだ。ライアはテーブルに置かれた紅茶でノドを潤して気分を入れ替えた。
窓から見える空は白澄み、間もなく太陽が顔を出す。この町にとって長い夜は終わっても、ライアの目指す道行きはまだ終わりそうにない。
二人の一進一退の会談は空に日が昇っても続けられ、窓の外で降りしきる光の雪をもう気にしてはいなかった。
◆◆◆
「ああ、想定以上の事が起きてしまいましたね。これは帝国軍の作戦には支障が出ますね。ねぇ、皆さん」
「……ああ、まあな」
アストーイアの側を流れるコラッド河。ちょうど町がある場所とは対岸に町の様子を見張る一団があった。彼らはアードラーライヒ帝国陸軍に所属する偵察部隊であり、侵攻予定の町の様子を探るべく数時間前よりこの付近に潜伏していた。
当初は作戦通りに状況が推移し、町は魔獣の襲撃で混乱していた。それが町全体に降る光の雪があってから明確な変化が出ている。町を襲っている化け物達の勢いが遠くから見ている彼らの目にも落ちていると分かったのだ。
あれほど恐れ知らずに暴れまわっていた化け物たちは急に怯えだし、抵抗している町の人間達に追い立てられて町の外へと叩き出されている。他にも自ら逃げ出したり、町の人に仕留められたりしてもいる。ともかく、もうあの化け物達はあてに出来ない様子だった。
「それに、向こうからやって来るのは首長国の機甲部隊ですよね。駆けつけられましたか」
「南下に失敗して残っている連中さ。だけど相手取るには我々では厳しいだろうな」
「ですね。作戦は失敗ですか」
「お前らS・A・Sとやらの失敗だがな」
「耳が痛いことです。ええ、少し天狗になっていたかもしれません。反省はしていますよ」
「……フン、どうだか」
帝国陸軍の軍服の一団に混じり、軍隊のものとは違う空気と衣装の人間がいた。細目で赤毛以外は特徴の薄い男性、町を脱出してきたリーだ。
彼は町を『転移』の呪紋で町を脱出した後、偵察部隊のいるこの地点まで移動してきた。仕掛けた人としては罠がどうなるかを最後まで見届けたかったらしい。けれどこんな結果はリーの予想にもなかったものだった。
想定していたよりも抵抗する人間が多く、想定したよりも彼らの武装は充実していて、想定していたよりも少し早くに魔獣達が正気付き、想定していたよりも軍隊の到着が早かった。ここまで想定外が多いとリーの読みが甘かったと言われても仕方の無い話になってしまう。
町の南の方角から土煙を立ててやって来る数多くの軍用車両を見て、リーは帝国軍の侵攻作戦の失敗を悟った。おそらくはダンジョン化した森を避けて大回りしてきたのだろうが、時間を与えすぎたのも失敗の原因だろう。
「何にせよ、かく乱は失敗です。本隊に伝えたほうが良いのでは?」
「貴様に言われるまでもなくやっている。じきにここも撤収だ」
「そうですか。では、こちらは一足早くに退散させてもらいます。お疲れ様でした」
「……チッ」
偵察部隊の指揮官が苦々しい表情でリーを睨むが、まったく堪えた様子もなく場を離れていく。それが面白くないのか、指揮官はリーの去り際に舌打ちをしたがやはり無反応だった。
基本的な身体能力全般がこの世界の住人よりも高い元プレイヤー。その一人でもあるリーがさっきの舌打ちが聞こえない訳がないのだったが、聞き流していた。彼としても指揮官が不満に思う理由が分かるからだ。
偵察部隊が潜伏する場所から少し離れた場所に黒塗りの大型乗用車が止っていた。全体的に曲面を多用し、長いボンネットはいかにも大きなエンジンが載っていそうだ。馬力重視の古いアメ車にどこか似ている。エンジンはすでにかけられていて、運転席にはピンクブロンドの少女が退屈そうに座っている。
「おまたせしました」
「うん。で、町の様子はどうだった?」
「逆転されました。あの調子では持ってきた魔獣全てが追い払われるか退治されるでしょう」
「あーそう。あんなの惜しむ気持ちはないけど、せっかく用意したのにちょっと悔しいな。じゃあ、帝国の軍隊も?」
「ええ。あの森を大きく迂回して首長国の軍隊も出張ってきましたし、作戦は失敗です」
助手席のドアを開けて手早くシートに座るリーの顔には、無念さや悔しさなどの負の感情はない。むしろ予定通りといった顔をしている。
確かに起こった出来事はリーの想定を越えている。それでもリーの予定を変更するほどではない。まだ予定の内に入れても問題はない。だから彼にとっては予定通りだ。
戦術や一局面での負けはあって当然。重要なのは最終的に目標を遂げられるかにある。常からそう考えているリーには焦りは無かった。
その事を察しているのか運転席のピンクブロンドの少女、アルトリーゼの表情にも余裕が感じられる。彼女はすでに着替えており、血の付いた軽鎧姿から温かそうな白いニットのカーディガンとレギンスで身を包んでいた。その姿からは銃弾で傷を負った様子は見られない。
「ああ、でももう一つの方は順調ですよ。特にゲアゴジャではより良い成果があったと連絡が来ています。これでこの世界にやって来た転移者達の動向は変わるでしょう」
「転換点ってやつ?」
「いえいえ、そんな地点はとっくの昔に通過していますよ。ですがそうですね、重要な局面でしょう」
「ふーん。あんまり興味はないかな」
「構いませんよ、興味はなくとも充分な働きを見せてくれればこちらから文句はありません。それより出して下さい」
「りょーかい」
リーの求めに応じてアルトは車を発進させる。やや乱暴にギアを繋ぎ、アクセルが踏み込まれてエンジンが唸りをあげて回る。大柄の車体は蹴り出されるようして荒野の路面を走りだして、土煙を舞い上げてその場を走り去っていった。どうやら運転技能に関してもアルトはかなりの暴れん坊みたいだ。
光の雪が降るアストーイアの町を背にしてリー達は今度こそ立ち去った。彼の脳内ではすでに策謀が帝国の思惑とは別のところで進行しており、それがこの世界に転移してきたプレイヤー達の境遇に大きな変化をもたらすのも彼は知っている。
こうして町の人々が知らないところで帝国の進行は避けられた。ただし、やって来る安らぎも一時のものだろうとは関わっている人間の誰もが予感していた。
◆◆◆◆
『コラム』の足元、広場では作戦に参加したみんなが町に降る光の雪を眺めていた。
黒服の連中は死んだ一人を囲み、水鈴とジンはさっきから『コラム』の方を向いたまま、オッサンは静かにその場でたたずんでいて、最後にオレは何となくオッサンの近くで地面に座っていた。
全員戦いが終わった後の脱力感みたいなものに襲われているらしい。気が抜けている雰囲気がその場に漂いまくっていた。
「終わった、と考えて良いんだろうな」
独り言みたいに呟いたオッサンはパンツのポケットからタバコの箱を取り出して、慣れた所作で口に一本咥えて火を点けた。タバコの煙が風に乗って空に昇る。その姿はやけに印象に印象に残るもので、まるで映画のラストシーンを見ているみたいだ。
終わった。確かにあれだけ町を散々かき回した魔獣はルナさんの放った『浄火』の呪紋で正気に戻って、そのほとんどが町から逃げ去っていく。ここから町を見下ろしても魔獣の逃げ去る様子が分かるくらいだ。この周りからも魔獣の姿は消えていて、オレ達はこうして無防備でいられる。
でも、この光景を見ていて胸の中から込み上げてくるものがあった。
「けど、肝心なのはこれからだろうな。どうなるんだか、これから」
「……そうっすね。どうなるんだろ」
見えない未来への不安だった。オッサンもそれを感じ取っているのか、口に出している。
大きな山場を超えた後で急に足元に不安を覚えて立ち止まりたくなる。今まで気に留めていなかった、意識していなかったものが表に浮き上がってきた。
バルディッシュを脇に置いて、ぼんやりとこれからの未来を考えた。
「……ダメだ。何も思いつかないや」
考えはしても思考は真っ白であやふや、思い描ける未来は見えてこない。それが余計に不安をかき立てて悪循環をしているみたいだ。
この先オレ達はどこへ行くんだろうか? 例えば元の世界で学校に通っていたときだって、未来に漠然としたイメージしか持てなかった。
なんとなく大学に進学して、なんとなく就職して会社の歯車になるんだろうな、ぐらいにしか思っていなかった。それが今では明日さえ見えない。会社の歯車になるのを嫌がっていたオレだけど、漠然とでも未来があるのは良いことなんだと思い知った。
先の見えない未来を思って暗い気分になった時、水鈴の明るい声がその場に響いた。
「みんなッ、ルナが出てきた」
いつの間にか下がっていた顔を上げると、『コラム』の出入り口に人影が現れた。薬で強化された夜目はまだ利いていて、人影の顔も良く見える。
黒い髪はあれほどの戦いがあってもまだ艶があって、衣服や顔に土埃が付いていても汚いとは思えない。夜明け前の薄暗い中にあってもルナさんは色鮮やかに見えた。顔は何時もの静かな表情をしているけれど、心なしか嬉しそうにしていると見えるのは目の錯覚だろうか。
彼女の顔を見て、オレの中で鬱屈としたものが急に晴れていく気がする。何をそんなに迷っていたのか、と思わせてくれる。
不安は消えないけれど、それを抱えても先へ進んで行けそうな気がする。成るように成るし、成るようにしか成らない。だったら先の見えない未来でも進んでいかないとダメだ。
「行くか、ボウズ」
「うっす。胴上げでもしますか?」
「それは調子に乗りすぎだ」
「へへっ、そうっすね」
現れたルナさんに水鈴とジンが真っ先に駆け寄って、オレとオッサンの二人は後から付いて彼女の立つ場所へと走り寄った。
その時、空が一気に明るくなった。見れば東の空から光の塊が姿を現わした。日の出だ。
太陽が空を金色の光で一杯にして、長かった夜が終わったと知らせている。そして、まだあやふやな未来でも先はあると信じさせてくれた。陳腐な言い回しだけど、どんなに暗い未来であっても明ける時は来るんだ。
「ルナさんッ! やりましたね」
「うん」
駆け寄って手を出してみると、彼女もノリを分かってくれてハイタッチに付き合ってくれた。オレの大きな手と彼女の小ぶりな手が一瞬だけ触れて乾いた音を鳴らした。
先は見えないけど、今日も一日が始まった。




