2話 確認
動くと決めたならばすぐに行動。まずは着替えるところから。
最初に頭に活を入れる意味で顔を洗おうと流し場に足を向け、水を出す機構を確認した。
現代日本の生活に慣れ親しんでいると、蛇口をひねれば水が出るというのが当たり前になるが、ここでは違っていた。
「ポンプ式の井戸か……釣瓶式よりはましと考えよう」
古い民家とかなら今でも見かけることがある水圧を利用した金属製の手動ポンプが流し場に鎮座していた。
頻繁に使われているようで、ハンドルは滑らかに上下へ動いて水が出て流し台に置かれた洗面器に水を満たしていった。
洗面器に手を入れると井戸水らしい冷たさが手を伝わって全身に広がる。身をかがめて顔に水をかけていけば痛みにも似た冷たさが顔全面を刺激していく。手で掬った水を一口飲んでみると、冷たい感触と一緒に井戸水ならではの清涼感が口の中で広がった。
伝わってくる一つ一つの感覚が、コレがどうしようもないほどに現実なのだと言い聞かされているような気分になる。
「視覚、聴覚はもちろん、嗅覚、味覚、触覚といった全感覚を再現って、今の技術じゃ不可能だろう」
運営側がいきなりヴァーチャルリアルを導入しました、という線はない。現行の技術を総動員してもこれを再現するのは難しいだろうし、するメリットも薄い。何より、直前の記憶ではログオフして寝ていたはずだ。自分は一般人、とは厳密には言い難いが普通の市民を捕まえてこのような事態に放り込んだところで運営会社に意味はない。
「会社の陰謀説はなし。となると宇宙人か、オカルトに走った開発者か、ああセカイ系というのもあるか。私はごめんだがな」
原因を考える思考を手慰みに、スウェットを脱いで下着姿に。ブラもショーツも黒で統一されている。
フリルやレースといった飾り気は全くなく、ユ○クロとかで見かける女性用下着のように機能一点張りのシンプルなデザインだ。
見つけたタオルで水をしぼり体を拭いていき、寝汗をぬぐう。井戸の水でひんやりとしたタオルの感触が肌に心地よい。
目の前にある女性の肉体に男性としての欲情や劣情は湧かない。第一自分の体だ、戸惑うことはあっても性欲の対象になりはしない。第二に自分は官能小説かエロゲ、エロマンガじゃないと性欲の対象とならない。例え元の状態で裸の女性の前にいても、ピクリともこないだろう。
そのお陰で年齢=彼女いない歴=童貞歴が三十年を超えてしまった。これについては恥とも不名誉とも思っていない辺り業が深い。
「まさか『魔法使い』になった事でこの世界に来てしまった……だったら笑うね、盛大に」
色々と精神の限界だからだろう、きわめて馬鹿らしい考えが頭に浮かんだ。そんな都市伝説に原因を求めても詮のない話だろうに。
ソファー近くにあるハンガーラックに見覚えのある服を見つけ、着替える事にした。
シスターが着ていそうな黒いシックな色合いのワンピース。しかし丈は短めで膝上一〇㎝までの長さしかない。さらにワンピースの上に茶色の革ジャケットを着る。次いでラックにかけてある黒いニーソックスを履き、そばに置いてあったこれまた黒い編上げのブーツを履いて、しっかり靴紐を締める。
これでほぼゲーム中の『ルナ・ルクス』というキャラクターの戦闘服姿となった。
一見軽装に見える状態だが、身に付けたいずれも高い耐久性と防御力を誇り、入手するには高レベルのプレイヤーでも一苦労する逸品……というのがゲームでの話だ。現実に着てみた感触はというと、普通の衣類と変わりがない。
ボディーアーマーのように重かったり、耐火服のようにゴワつくわけでもない。ゲームのような防御力があるかどうか分からない以上は過信しないことにしよう。
それにパンツルックが当たり前だった身の上としては腰回りが寂しく感じられ、頼りなく感じてしまう。なるほど、これも男女の性差というものか。
ほぼゲームでの装備を再現したわけだが、足りない装備がある。
RPGの世界を再現されているという事はバトル、つまり敵との戦闘を想定した装備『武器』がなければならない。
ここが『エバーエーアデ』の世界そのままなら、外の世界には魔獣や無法者といった脅威がゴロゴロしていることになる。自衛の手段は用意して然るべきだ。
『ルナ・ルクス』のメインとなる武器は銃器になるわけだが、この広い部屋の中でそれらしき物は見当たらない。標的用のマンシルエットなら見つかったが、弾も銃器も見当たらない。
「見つかったのはサブアームに使っているナイフが数本、か」
家探ししてみて、見つかったナイフを手に独り言を漏らす。
ナイフは大小二本に、刃のない投擲用が六本とゲームでの装備そのままだ。ゲームと違うところは、ナイフを研ぐための砥石とオイルがセットで見つかったぐらいだ。それだったらメインの銃器があっても不思議ではないのだが、やはり違うのだろうか。
もう少しちゃんと調べてみようかと考えるが、その前に人に聞くという手段を思いついた。
そう、言葉を喋る黒猫ジンに聞いてみるというのはどうだろうか? 彼だって「何かあれば呼んでくれ」と言っていたし、ここで声をかけても問題ない気がする。
だけど、この広い場所で外にいるだろうジンに呼びかけるには声が大きくなる。大声は記憶にある限りここ十年は出していない。それより探し出して声をかける方がいいか。
ジンへの声のかけ方で迷っていたら向こうから声がかかってきた。しかも予想外の方法で。
『何か用があるようだな主。それほどに切羽詰まった事が起こったのか?』
「うわっ!」
頭の中に例の渋い声が響く。余りにも唐突に声が聞こえたため、手に持ったナイフを落としてしまった。
さっくりと木製のテーブルにナイフが突き刺さる様子を見て、足に刺さらなくて良かったと頭の片隅で思う。冷汗を感じながらも、今重要なのはジンのこの声だ。
「ジン、この声って何? 頭の中に響くようなんだけど」
『む、念会話≪テレパス≫も忘れているとは……たしかに無理からぬ状態か。ならば頭の中で会話したい相手を思い描き、声を出す感覚で頭の中で話してみるといい』
言われて早速実行してみる。もとから独り言体質だし、この体が感覚を覚えているというのもあるのだろう。ほどなく感じが掴める。
『これで、いいのかな? 問題ない?』
『ああ、聞こえる。この程度の距離なら肉声でも十分聞こえるが、この方がよいだろうな』
肉声で聞こえる訳ではないせいか若干ざらついた音質だが、聞き取りに問題はない。
ふと思ったのだが、この念会話というものはゲームのチャットシステムがリアルに変化したものだと考えられる。
ゲーム『エバーエーアデ』ではこのシステムで遠く離れた相手とも会話が出来るようになっており、またプレイヤー同士の意思疎通のツールとして日常的に使われているものだった。ヘッドセットのマイクで話しかけていたものがこういう形をとるとは、思いもしなかった。
このことで知り合いのプレイヤーに呼びかけてみる、という事を思いつくがその前に当初の案件から片付けよう。
『よく用があるって分かったね』
『この身は主の使い魔だ。離れていてもある程度は感情が伝わってくる。特にこちらに用がある時などはすぐに分かるようになっている』
『そうなのか。ええっと、それで用なんだけど。私がメインで使っている武装はどこにいったか知らないかな』
『そこもか。ソファーの下にバッグが幾つかあるだろう。その中にあるウェストバッグの中身が主の武装だ』
気になる会話内容だったが、言われてすぐにソファーの下を検めることにした。革製の頑丈そうなバッグが大小いくつかあり、どれもゲームで見覚えがあるものだ。
ゲームの設定がここでも適用されるならこの中身に自分のほとんどの財産が詰まっていることになる。
『見つけた。ありがとう』
『礼にはおよばないさ。それより、こちらでも変化があった。身支度を済ませたら外に来てほしい』
『何かあった?』
『急ぎではないのだが、我々の身に危険が及ぶかもしれない事態だ。詳しい事は見た方が早いだろう。待っている』
『分かった』
念会話を終了してバッグを取り出す。どうも事態の変化はこちらの理解と納得を待ってくれそうにない。
喚くのも泣くのも後回し、今は直面する事態に対応していくのが正解なのだろう。
◆
ジンに言われたバッグを取り出す。腰に巻くタイプで、この位の大きさなら背中側で保持するものだ。
これも見覚えがある。いつも戦闘時にルナが腰に巻いているウェストバッグだ。
ジッパーを開き、中身を覗けば小さくミニチュア化した品々が見える。その中から目当ての品を指でつまみ、取り出してみた。
するとバッグの口付近で急速に巨大化していき、見た目には騙し絵のような様子が展開されて元の大きさになっていく。指で摘まんでいた品物は両手で抱える兵器へと変化したのだ。
このバッグ、特別な名称はないがその機能は秀逸の一言に尽きるものだ。
バッグの口に入る物品ならどのような大きさのものでもしまい込むことができ、質量保存の法則に喧嘩を売るがごとくバッグの重量に変化はない。既定の質量内ならどんな形状でも何個でも入るようになっており、当然許容量が大きいものなら値が張るようになっている。
プレイヤーならば一個は必ずもっており、他のゲームで言うところの『イベントリ』という扱いをしている。
ベテランなら数個のバッグを持ち、用途によって使い分けをしているのが普通になる。『ルナ』としての自分も幾つかのバッグを持ち、武器用、採取用、保存用などと使い分けしている。
自分が取り出したものは武器用。メインに使っている武器弾薬をこの中に詰め込んでいた。
ゲームでの設定がそのままに現実として目の前に現れたというのに驚きが薄いのは、すでに感覚が麻痺しだしているからかもしれない。
そして、両手にもった武器を改めて見る。ルナがメインで使っている武器の一つ、ライフル銃だ。
昨今のポリマーやらグラスファイバーで構成された銃器とは正反対の鉄と木で作られた古めかしいスタイル。米軍が昔使っていた『スプリングフィールドM14』がモデルになっている。と言うかそのものだ。
『スプリングフィールド・タイプ14』がこれのゲーム中での名称になる。
本体部分の上にスコープがマウントされており、下には本体安定のための二脚が折りたたまれてくっ付いている。ゲームでは遠距離用に使っていた『ルナ』の、そしてこれからは自分の得物となるだろう銃器だ。
日本人の大半は銃器に馴染みが薄いが、自分は違う。これまでの経験を換算すると十数年は銃器に触れてきている。これのモデルになったM14もつい最近扱ったことがある。
だから不思議に感じる。妙に軽いのだ。弾倉を取り外し、薬室の中身を確認して弾がないことは確認した。けれど弾のあるなしだけでは説明のつかない軽さを感じている。
オリジナルのM14の重量は五㎏強、スコープと二脚付ならさらに重くなり、今の華奢に見える体では持ち続けるだけでも大変なはずだ。
オモチャみたいなものかと疑えば、そうではない。ほのかに香るガンオイルの匂い、ボルトを動かすと聞こえる金属音、この質感はオモチャで出せるようなものではない。
「体……もしかしてこの体だからか?」
ふと、思い至る。高レベルに育てた『ルナ』は、当然としてステータスの数値が高いものになっていた。
自分は筋力をそれほど重視せず、敏捷さに重点を置いた育て方をしていたのだが、それでも筋力の値は中々のものになっていた。そのゲームでのことがこの肉体に反映されているとなると、華奢な外見を裏切るとんでもない膂力の持ち主という結論が出てくる。
リンゴくらいなら軽く握りつぶせるかもな、などと今の状態に薄ら寒さ覚えつつ次の得物を取り出した。
取り出したのは二挺の拳銃。
これまた古めかしいもので、特徴的な細い木製のグリップとトリガーの前に着脱できる弾倉が配置されているシルエット。モーゼル拳銃が元になっているのは少し銃器に詳しい人間だったら誰でも分かる。
ゲーム内の名称だって『モーゼル・タイプ712』とされ、隠す気はないようだ。
ゲーム『エバーエーアデ』に出てくる銃器は全体的に古いタイプが中心になっている。グロック拳銃やAUGライフルのような新素材を使った銃器はほとんど出てこない。参考年代も一番下ったところで1990年代ぐらいだろうか。ただし、米軍が使うM16のような小口径高速弾を使う小銃が出てこない辺り、制作者の偏った趣味が感じられてしまう。
二挺のモーゼルを構えてみる。
プロの観点からすると二挺拳銃というものは論外だ。両手保持が原則の拳銃を片手ずつ二挺持つなど命中性が著しく落ちるだけ、弾をばら撒くにしてもサブマシンガンを持てばよく、意味合いはない。
一度射撃場で挑戦してみた事があるが、二挺それぞれに意識がいかないし、弾数も数えられないし、当たらないと悪いことずくめ。インストラクターの人からは「そういう事はジョン・ウー映画の中だけにしておけ」と呆れられた覚えがある。
それが今はどうだ? 明瞭に意識が二挺のモーゼルに行き渡り、二挺の銃口がどこを向いているか理解できる。左右の銃がそれぞれ別の生き物のように動く。まるで手の延長というより、標的を狙う二機の機械みたいだ。こんな感覚は今まで経験したことがない。
「『二挺拳銃』のスキルか、これ」
RPGのプレイヤーキャラが修めていき、戦闘時や非戦闘時などの場面で発揮される技術全般がスキルだ。
大半のRPGで導入されており、『エバーエーアデ』もその例に漏れないシステムだ。スキルは大別して修めているだけで発揮されるパッシブと、ポイントを消費して発揮されるアクティブの二種類があり、『二挺拳銃』のスキルは前者パッシブに属する。
その内容はゲーム内ではハンドガンに種別される武器を両手に装備出来るようになる、というもので近距離での火力を上げたかったり見た目のカッコよさを重視したいガンプレイヤーはこのスキル習得を目指すことが多かった。
自分もその一人だった。二挺拳銃なんて現実では非合理極まりないことをよく知っているだけに憧れがあり、それこそジョン・ウー映画よろしくなアクションを『ルナ』にさせたくて習得したスキルだった。
「それが、現実でもこうなるとは……いや、これが本当に現実のものかまだ疑いの余地は残した方がいいな」
本当に『ルナ』が修めたスキルが使えるとなると、『魔法』すら使えてしまう事になる。ますます現実とゲームの境界があいまいになっていく感触が濃くなった。
試しにゲームでやるようにメニュー画面を呼び出すというのをやってみる。ゲームパッドのボタンを押すイメージで念じてみる。
――反応なし。
このような事態に陥る話を題材とする小説などでは、当たり前の様にメニュー画面が視界に現れるものだがここでは違ったようだ。
やり方が悪いのか、そもそもこれが現実だからなのかは分からない。
「……あ、と。いつまでもジンを待たせるのは良くないな」
ところ構わず思索にふけるのは悪い癖だ。昔からこのことで人から怒られてきた覚えがある。今度もまたジンに叱られるのは願い下げだ。
「どうにも、自分も大概に混乱しているという事か」
軽く自嘲し、遅れた分を取り戻すように素早く装備を整える。
ウェストバッグを腰に巻き、中から拳銃用のヒップホルスターを二つ取り出し、左右の腰の位置に調整してバッグのベルトに固定。弾の込められた弾倉も取り出してモーゼルとライフルにそれぞれ装填、ボルトは引かず薬室に弾は入れない。
二挺のモーゼルをヒップホルスターに差し入れ、予備の弾倉もバッグのベルト部分にマガジン入れを取り付けて収納、ナイフも鞘に入れてベルトに装着。ベルトにかかる重量が増したので、ベルトにサスペンダーを取り付けて肩から吊るして昔の軍用ベルトキットに仕立てる。
後は指抜きの革手袋をはめ、ジャケットを上から羽織り直し、ライフルを革スリングで肩に担げば準備完了になる。
姿見で不備はないか最後の確認。鏡に映った自分の姿は『ルナ』の戦闘場面で見かけるものだ。
モニター越しだったものが今確かに血肉をもって目の前にあるというのは、ゲームファンとしては嬉しく、リアリストな部分の自分としては笑止千万な事態で、夢見がちな部分ではこれが全て夢だったらと妄言をつぶやく。
全部ひっくるめて複雑な気分だ。鏡に映るルナの顔も笑い泣きみたいな複雑な表情をしている。ああ、今の自分も笑いたいのか泣きたいのか分からないよ。
表現不可能な気持ちを抱えたまま、出口に向かう。きっとこんな混乱なんかこれからも増えていくと思いながら。
◆◆
外に出てみて一番に感じた事は日差しが強いということだ。
建物の中では感じることのなかった灼熱感が扉を潜ると一気に襲いかかって来て、思わず腕で顔を庇う。
太陽は高く上っており、朝方からだいぶ時間が経っていることを示している。空には雲ひとつなく、見渡す限りの青空が広がっていた。
空気は乾燥し、大地もまた乾燥している。渇き切った土の臭いが風にのって通り過ぎていき、目を下に向ければ一面の荒野が広がっていた。いや、ここまでくると砂漠と表現した方が適切だろう。けどこれは日本人の殆どがイメージするような鳥取砂丘のような砂砂漠ではなく、岩と砂礫、少々の下草が生える礫砂漠だ。
ゲーム『エバーエーアデ』の舞台となる『ハイマート大陸』のモデルは北米大陸そのものだ。北はアラスカ、南はメキシコ国境までで、東はニューファンドランド島、西はアリューシャン列島までで、ハワイやグリーンランドは存在しない。その上南米大陸がない分、大陸全体が緯度の低い位置にあってフロリダ半島に当たる部分が赤道近くに位置するという設定だったと思い返す。
『ルナ』の拠点があるのは『ジアトー』と呼ばれる大きな街の町はずれにあり、そこにあった廃工場を買い取って住めるようにリフォームしたものだ。
その『ジアトー』という街は、アメリカ大陸に当てはめるとシアトルに位置する。ただし、先にいったように緯度が下がっているため、気候としてはカルフォニアぐらいに乾燥し、暑い土地になっている。
そんな設定を現実で証明するかのように、太陽はぎらついている。
ゲーム世界が現実になったのだと脳内の一部でささやき声がするが、何もかもを鵜呑みにするにはまだ早い。
ともあれ、湿度が高くないのが救いだ。カラッと乾いた空気と吹き抜ける風は体感温度を下げてくれる。今着ている余裕ある長袖のワンピースはこの気候では間違った選択ではないだろう。直射日光で肌が焼けるのを防ぎ、ジャケットの前を開けるとそれなりに風通しがよい。色が熱を吸収しやすい黒である事を除けば悪くない服装だ。
振り返り、今出てきた建物を見やる。記憶が正しければここは廃業した工場が前身になっており、今は『ルナ』の住処だ。リフォームの手は内部が主で、外側には最低限の措置しかされていない。だから事情を知らない人からすればここは廃工場のオブジェクトにしか見えない。人気を避ける癖がある自分にとっては優良物件だった。
『ジン、待たせてゴメン。身支度を済ませてきたんだけど、どこにいる?』
『街側の方にいる。来てほしい。どうにもきな臭い事態だ』
念会話でジンとやり取りを交わすが、遅れたことを咎めることなく来て欲しいと言う。ここまで言うとなれば余程の事か。
この住処は小高い丘の上にあり街全体を臨むことができる。それがこの物件の売りでもあった。街とのアクセスが悪くなるのを承知の上なら住みよい場所だ。
建物の裏手に回り、街を臨める場所に行くとジンが呼んだ理由がすぐに理解できた。
いや、これはないだろう。本当、勘弁してほしい。
「これは……戦闘が起こっているのか?」
「だろうな。見ての通りだ。念のため身は伏せた方がいいだろう」
「あ、ああ……そうだな」
昔取ったなんとやらで匍匐体勢をとってジンのいる茂みに這い進む。
ジアトーの街の状況は一目で分かるものだった。一言ずばりで『有事』だ。
モデル元になったシアトルよりはるかに小規模な都市となっているジアトーだったが、レンガや石造りの建物が立ち並ぶ海沿いの風光明媚な街並みはモニターを通してでも目を楽しませる美しさがあったものだった。
だった……今では過去形だ。砲弾か爆発物のせいかこの場所から見える限りでも数えきれない建物が損壊している。
壁に大穴が開くのは序の口、屋根がなくなっているもの、五階建てが四階建てになっていたりというのもチラホラ。完全に倒壊して瓦礫の山になっているのだってザラだ。
市街地のあちこちからは銃声が聞こえ、時折大きな爆発音がこの距離まで響いてくる。そして爆音に交じって人の悲鳴が街のあちこちから上がり、逃げ惑う人影がここからも見えた。
「こんな大きな戦闘音、中にいる時には気付かなかった」
「無理ない話だ。街から聞こえる騒音を嫌った主ルナが建物全体に防音措置を施したのだからな」
「普通に暮らす分にはそれが正解だろうけど、今はまずいよ。その措置ってどうにか出来るものか?」
「無論だ。主ルナが張った結界だからな。主が解除すればいい」
「結界って。やはり『魔法』はあるのか」
こんな会話でも当たり前に非日常の単語が出てきて頭を抱えそうだ。
精神的頭痛をこらえ、街の状況を詳しく見ることにする。伏せた体勢のままライフルを構えて二脚を展開、スコープのキャップを取って伏射姿勢をとった。薬室に弾はまだ入れない。
スコープの向こう側、レティクルが捉える光景は街を俯瞰した時よりも酷く、凄惨なものだった。
「……気持ち悪い」
「あまり見続けるものではない。程々で切り上げた方が良いぞ」
ジンが気遣うような声音で言葉をかけてくれたが、見えるものを前にすれば耳を素通りしてしまう。
通りに面した商店で大規模な略奪。様々な装備に身を固めた一団が店から品物を奪っていき、追いすがる数人の店員を銃で撃ち殺したり、戦斧で叩き切ったり、魔法らしき物で燃やし殺したりと人数分のバリエーションで殺害している。
さらに店にも魔法と思える火球が撃ち込まれ爆発炎上、それを見た一団は大いに盛り上がっている様子で大口を開けて笑っているのがここからでも見えた。
別の場所にスコープを向けてみる。大きな通りの真ん中で分かりやすい馬鹿が一人いた。身の丈ほどの大剣を振り回し、通りにいる人々を次から次へと切り殺している。街の治安を預かる官憲らしき人たちが出張っているようだが、彼らも馬鹿の暴走は止められないらしく切り殺されていき、路上に血しぶきが飛び散る。
次々と人を斬り殺していくその馬鹿の顔には満面の笑みがあった。
また別の場所に目を向ける。爆風などの影響を受けて窓ガラスが割れた建物の中では複数人の男が裸の女性数人を囲んでいた。
なにが行われているかは一目瞭然。下種なことに犯された女性を面白半分で殺しているみたいで、その部屋の所々に血だまりも確認できた。
女性たちにナイフを突き立て犯している男たちの顔もこの上なく愉快で嬉しそうなものだ。
奪い、殺し、犯す。
およそ考えられる悪徳がスコープを移動させる毎に映る。胸の辺りに不定形のドロドロとしたものがせりあがって、今にも吐きそうだ。
狩猟でクマやイノシシ、シカ、ウサギなどを刃物で捌いて血や内臓などを直視してもこういう気分になった経験はなかった。
いっそここから馬鹿をやっている者どもに必殺の弾丸を撃ち込んでやりたくなるが、それがいかに危険なことかも分かっている。実質退路が確保できていない状態で騒ぎ立てるのは自殺行為に他ならない。
それにこの悪徳ごった煮の街を見て分かったことがある。
「あいつら、私と同じプレイヤーか。しかも街中でのPK行為禁止というルールは存在しないし、街そのものの破壊もありか」
彼らが身に纏っている装備の数々はゲーム内で見覚えがあるものが多く、モニターとリアルの差はあっても特徴的な部分があって覚えやすい。
ここまで聞こえる大声の中にも「エバーエーアデ、サイコー」などとゲームタイトルを叫ぶものがいることからして、あれらは間違いなくプレイヤー達なんだろう。
ネットゲームが始まって以来、悪質なプレイヤーは必ずいた。そのために制作側や運営側は様々なルール、取締りを行ってきた。
『エバーエーアデ』でもルールはちゃんと敷かれており、その一つに街エリアでの戦闘は禁止というものがあった。違反した場合はNPCのシェリフが駆けつけてプレイヤーを拘束し、悪質ならばアカウントを停止という措置がとられる。
だが、この地獄風景を見る限りはゲームでの知識を捨ててかかった方が良いかも知れない。
ゲームでは破壊できないはずの建物は壊され、攻撃対象にならないNPC扱いだろう人々が殺害され、プレイヤーでは勝てないはずのシェリフもどんどん殺され、殺された人々は消えることなく、血と内臓を巻き散らかして死体をさらす。街から立ち昇る煙に混じって死臭もこの場所まで臭うようになってきた。
「主の知識にあるものはここでは通用しない。まぎれもなくこれは『現実』なのだからな」
茂みの中で至近距離から聞こえるジンの台詞は突き放すようでいて、「しっかりしろ」と叱咤する言葉にも思えた。
そうだ。これはゲームなどではない。厳然とした現実だ。受け止めろ。一度目を閉じる。
受け止めて、噛み砕き、飲み込め。消化しきれなくなった時が死ぬ時だ。
目を開ければすぐ近くにいた黒猫が自分の前にやって来てこちらを見つめている。
「主ルナ、貴女はどうしたい?」
問いかける金眼はまっすぐに自分を見据える。ゲームでは感じられなかった確かな意思が感じられた。
だからか、自分も捻りなく答えを口にできた。
「私は生きたい。生き抜きたい。何をするにしてもまずこの命がなきゃ始まらないんだから」
いきなりこんなゲーム世界に似た場所に自分のキャラクターそっくりな体で放り込まれ、右も左も分からない今。
いま構えているライフルの銃口を口にくわえて引き金を引けば元の状態に戻れるかもしれない。けれど実行に移す気にはならなかった。
目の前の街で行われている惨状を見てなおの事強く思える感情、それは命への執着だ。
ここにある体、『ルナ・ルクス』としてある体が自分のものとして生きている。脈打ち、息をし、五感でこの世界を感じている。姿形は変わっても生きているんだ、自分は。
この生の実感を自ら捨て去る気にはどうしてもなれない。だったら生き抜く事から始めようと思った。
「その言葉、確かに受け取った。やはり主は主のままだな、安心した」
そう言って嬉しそうに目を細めるジンは大層可愛く見え、この状態でなければ体を撫でたいところだ。
生き抜く、そう決めた。
それが今はどれだけ難しいか街から上がる阿鼻叫喚の音を聞けば分かってしまう。
音はまだまだ止みそうにない。
7月29日 改訂
11月29日 再改訂
12月23日 再改訂