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終末世界の創世記  作者: 言乃葉
First Blood 邦題:ランボー
26/83

5話 Morning Time



 自分の体から発せられるアルコールの臭いで目が覚める朝は、淀んだ胸の内を吐き出したみたいに気分の悪いものだった。


「……う、ぐうぅぅ……」


 元々このノドから出てくる女声にもまだ聞き慣れていないのに、今朝は一層耳慣れないものに変わっている。強いアルコールで焼けていがらっぽくなったノドは、ハスキーボイスがより変調して、ガラガラボイスになっていた。

 カーテンの隙間から漏れる朝日は目に眩しく、突き刺さるように痛い。太陽が出ている間は重く感じるこの体は、今日に限って数割り増しにウェイトが増量されている。

 レイモンドが開いた酒の席の翌日は、分かりやすい二日酔いという結果をもたらしてくれた。


 まだ眠っていろと誘惑するベッドから体を持ち上げて、目をこすりつつ昨夜お世話になった部屋を見渡す。

 あのバー・マグナムのあった商店街、そこの通りにある六階建てのビジネスホテルが自分達の仮宿だ。

 ビジネスホテルというだけあって内装や調度は安物が中心だったし、タオルや歯磨きも日本のホテルより質は低い。けれどもセキュリティはそれなりだったし、安心して眠れる寝床は今の自分にはありがたい存在になる。

 例え、目覚めの気分が最悪でもだ。


「水鈴さんは……出かけているのか?」


 ツインの部屋で同室だった水鈴さんの姿はない。隣のベッドは人がいた痕跡を残してもぬけの殻になっていた。

 部屋の時計は朝の六時。昨夜は早い時間から酒精が入り、夜中を待つことなく眠ってしまったのでこれでも眠りの量は多い。彼女もきっと早くに目が覚めてしまったのだろう。

 枕の下から護身用の小型リボルバーを取り出し、ベッドを抜け出る。最初にする事はシャワーを浴びて、心身共に完全覚醒をする作業からだ。


 日本のビジネスホテルでも見かけるトイレと一緒のバスルームに入り、衣服を脱いでリボルバーをその上に置いてシャワータイム。

 給湯器が古いせいか蛇口を捻ってすぐではお湯が出てこない。体に降りかかるのは冷えた水だった。でも眠気覚ましには都合がいいので、このままお湯が出てくるまで水浴びとしよう。

 肌に刺さる水の冷たさが曇る頭の中を切り裂くように冴えさせる。長くなった髪は濡れて重くなり、目に垂れてくる。そういえば、ここが現実である以上は髪が伸びてくる。いつかは邪魔になるほど髪が伸びるし、ハサミを用意しておくべきか――いや、そんな長さになるまで自分は生きていないかもしれない。用意はその時になってすれば良いか。


 ようやくお湯が出てきたシャワーで体に染み付いたアルコール臭を流し、備品の石鹸とシャンプーで体を洗う。途中でヒゲが伸びていないかチェックしようと、ついアゴに手を当ててしまった。ツルリとした手応えで、ヒゲの心配が要らない身体だと思い出す。

 ここでようやく鏡の存在に気付いた。映るのは綺麗で可憐な少女だ。ゲーム画面で見た時の何倍も鮮明でリアルな存在。一〇代半ばの女と少女の間にある二つの特性が同居した外見。そうだった、以前の自分とは全く違う存在になっていたのだったな。

 さて、こんな姿になってしまってから――


「……一週間、か」


 そう、転移からそのくらいの時間が経っている。まだ一週間なのか、もう一週間なのか、長いようにも短いようにも感じられた一週間だった。

 こちらの世界でも都合の良すぎる事に暦は地球と変わらない。一年三六五日、一週間は七日間となっている。今日はその一週間の始まりの日、月曜日である。もっとも、逃亡生活をしている自分達には曜日など関係なく、レイモンドに教えられるまで曜日感覚どころか時間感覚すら怪しいものだった。

 ともあれ、新しい一週間の始まりにおはよう。今週も無事に生きていけますように。


 ――シャワーを浴び終えて、バスタオルで体を拭きつつ部屋に戻る。

 そういえば水鈴さんが居ないのも気になったが、同じく同室のジンはどこだろうか。何かと忠義者な言動が多い彼が、自分に無断で部屋から居なくなるのは考え難い。まだこの部屋に居るとは思うけど姿は見えない。

 ふいに天啓めいたひらめきが頭に降りてきた。まさかと思いつつ、ベッドと壁の間にある隙間を見てみた。


「おはよう主。裸のままでは風邪を引く、早く服を着るといい」

「おはよう、ジン……そうする」


 ベッドと壁に挟まれているジンが覗き込んだ自分に平然と朝の挨拶をしてきた。思わず普通に返答したが、これは彼の主人として聞き出した方がいいのだろうか?

 つらつらと思考をもてあそびつつ、裸身に雑貨屋で回収した新品の白い下着を身に着ける。その上に黒のワンピースとジャケット、腰には二挺のモーゼル拳銃を吊るして一通りの身なりは整った。こちらの暦では春半ば、朝はまだ寒い時期だからジンの言うようにいつまでも裸ではいられない。


「少し外の空気を吸ってくる」


 もう完全に目は覚めた。頭は重く感じるが、不快にならないレベルまで二日酔いは治まっている。それでも外の空気を欲しがるのは気分の問題だ。肺の空気を入れ替えれば覚醒はより完全なものとなるだろう。

 ベッドサイドに置いたウィンチェスターショットガンを手にして、ジンに一言入れておく。留守番を任せつつ休ませてやろうと思ってだ。

 でも、主従というのは気分まで似通うのかもしれない。自分がその一言を言い終わった瞬間に、肩に重みがかかった。見ればそこには黒い艶やかな毛玉が乗っている。


「この身も外の空気は吸いたいところだった。主、肩を借りる」

「分かった、構わない」


 肩にかかる重みと体温は不快ではないし、断る理由もないので良しとする。むしろ少し心地が良い。ペットを飼った事はないが、体に触れる人間より高い体温の感触は悪くない。

 このままジンを肩に乗せて部屋を出る。廊下も日本のホテルとそう違わない。窓が廊下の両端にしかないので暗く、トンネルを思わせた。

 エレベーターには乗らず階段を使って上へ、目的地は屋上だ。



 ◆



 足を止めることなく屋上まで昇り、階段室の扉を開けると外の冷えた空気が顔を撫でた。

 昇る太陽で明るくなっている場所に出たため、目が慣れるまでしばらくかかる。これも月詠人の特性なのか、太陽が取り分け苦手に思う意識が働いている。自分には照りつける眩しい太陽光線が無粋で不快で暴力的なものに思えた。

 ようやく目が慣れ、屋上からゲアゴジャの街を見渡そうとすると、視界に先客の姿が映った。


「ルナ、おはよう。よく眠れたみたいね」

「おはよう。睡眠は充分だけど、気分は少し悪い。外の空気を吸いたくてここに来たが、そちらも?」

「ええ……。まったく、洋酒をストレートで飲むなんて初めての経験だった。今も頭の隅っこが重く感じるよ。あ、ジンもおはよう」

「この身はついでか。まあ、構わんさ」


 先にベッドを抜け出した水鈴さんが、屋上を囲うフェンスに背を預けてこちらを迎えていた。時刻が違う上に立場は逆だけど、以前の夜の焼き直しを見ている既視感がある。

 どうやら彼女も自分と同じで軽く二日酔いにかかったらしく、気晴らしに屋上に出てきたようだ。同じ考えだったからなのか、自分の足はごく自然に水鈴さんの隣に向かっていた。

 近くに寄ってみると、水鈴さんの手元に見慣れないものがあって、彼女はそれを指で操作している。


 それは言葉にすると一言『魔法陣』で片付けられそうだ。ただし、色々と尋常ではない。

 直径三〇㎝の厚みの無い円形が水鈴さんの前方の空間に浮かんでおり、円内部にある幾何学的な紋様は指で操作されるたびに様相を変えていく。魔法陣そのものも淡く紅く光る粒子で出来ているようで、近くにいても質感は感じられない。

 これに近いものを挙げるとするなら、SFアニメなどに出てくる空中に浮かぶホログラムのキーボードだと思う。


「それは?」

「ああ、コレ? 魔法の術式のセッティング。楽団の人が発見したやり方なの。ゲームと実戦はやっぱり違ってね、ゲームで使えた呪紋の組み立てがこっちだと周りに迷惑になってしまうと分かったの。ちょうど時間もあることだし、こっち仕様に変えているところ」


 あの時下手すると燃料引火で火の海だったわ、と水鈴さんの言葉から察するに、軍隊狼との戦闘の事を言っているのだろう。なるほど、あの時かなり危うかったのか。

 それにしても、これが魔法のセッティングか。一応は自分もマジックユーザーの端くれ、確認も兼ねてこれは必要だと判断する。


 ゲーム『エバーエーアデ』は、レベル幾つで何の魔法、スキル幾つで何の魔法というシステムではなかった。

 レベルやスキルを満たして入手するのは『術式』である。これ単体では大した効果のある魔法にならないが、複数の術式を組み合わせて『呪紋』とし、そのセッティング次第で効果が何倍にも増し、特殊な効果も見込める魔法を仕上げることが出来た。

 つまり基本的な初歩の魔法を除き、ユーザーの数だけ魔法はあると言っていい。これは剣や銃による『戦技』でも同様だ。これはオーソドックスなシステムが中心だった『エバーエーアデ』の売りの一つだった。人の数だけオリジナルの呪紋、オリジナル技があって、実戦重視がある一方で実用性皆無のお馬鹿技で周囲を笑わせる人も居た。

 無精者でセッティングが面倒な人も、一定のテンプレートが用意されているお陰で困る事は少ない。かく言う自分も、魔法や戦技を余りいじる方ではなかった。けれどもう事情は違う。不測の事態に備えて魔法を使いやすくする必要を感じた。


「やり方、教えて欲しい」

「勿論よ。魔法を使うときの感覚は分かるよね」

「ああ」

「そのときに脳裏に浮かぶ呪紋を表に出す感じ。力を流すんじゃなくて、ただ外に出すのがポイントかな」

「……うむん」


 教えられた通り、魔法を使用する感覚で脳裏に浮かぶ幾何学文様の呪紋を外に出す。前に突き出した両手の前ににじみ出る様に光で構成された紋様が現れる。所要時間は二秒、思いの他にあっさりとした出現だ。

 ゲームではエディット画面で操作していた事が、ここではこんな不可思議な現象で片付けられる。今更こんなファンタジーを前にしても、感動よりも奇妙さが先立つ。

 呪紋内部にある紋様の一画は術式一つを意味している。それにどの様な効果があるか、見ただけで理解できた。これは熟練の考古学者が古い文字を見て、意味を読み解く感覚に似ているのかもしれない。少なくとも込められた意味を読み解くと言う点では共通している。


「トッラプ系の魔法だよね、それ。随分シンプルな術式」

「銃を使う事が多くて、魔法は余り弄らなかった」

「みたいね。でも、即応性は高くしているし、前衛で素早く使う人向けになっていて実用性は高い。良い呪紋ね」

「ありがとう」


 横から呪紋を覗き込んできた水鈴さんがそんな評価を下してくれた。人から褒められることも慣れていない自分は、どう返して良いか分からない。だからつい素っ気なく返してしまった。

 こんな味気のない返答でも水鈴さんは気を悪くした様子はなく、自身の呪紋に向かいセッティング作業を再開した。彼女の呪紋はどうやら先日ジンからダメ出しを喰らった爆炎系の呪紋らしい。自分のものに比べてはるかに複雑で緻密な術式の紋様が空中にある。

 自分もシンプルな呪紋向かい、作業に入ることにしよう。すると邪魔になると考えたのか、ジンが肩から静かに降りて自分の横で丸くなりだした。


「終わったら声をかけてくれ」

「了解した」


 待機兼小休止に入るジンを横目に、この新鮮な体験に指を伸ばす。

 呪紋に指が当たると薄い膜に触った感触が返ってくる。術式に触れ、横に動かすと術式も磁石に引っ張られるように動く。まるでタッチパネルでカーソルを動かしクリック&ドラッグをした風だ。

 数値を入れ替え、方式を変更し、呪紋を変革していく。自分の中に刻まれた魔法の力がこの作業で変革されるのは少し怖くあり、同時に感動も覚える。目に見える神秘がこんなに手軽に扱えてしまうのだ。


 今回弄ってみたのは言われたように、トッラプ系の設置型呪紋になる。

 フィールドに魔法を設置して、その場に来た対象に様々な効果を与えるものになる。通常の魔法が一瞬で発動、一瞬で終了するのと違い、永くその場に影響をもたらしたり、長時間の効果が見込める。

 欠点としては、場に設置するものなのでどうしても『待ち』に入りやすく、攻める時にはあまり向かない。ついでに地味で派手さに欠けるものが多く、人気のある術式とはいえない。だが使い道は意外に多くて、工夫次第で格上の相手も出来るなどで、熟練プレイヤーほどには好まれた。


 現在弄っているのは『地雷呪紋マインスペル』と呼称される地面に設置して、上にいる対象に爆発ダメージを負わせるものだ。弄る前では、発動が任意のスイッチ式で爆発範囲も最大に振られている。

 でも、実戦を考えるとスイッチ式は厳しい。戦いの最中にスイッチを意識しては隙を突かれてしまう。爆発範囲も絞らないと味方を巻き込んでしまうだろう。ゲームでソロプレイ中心の時とは違うのだ。

 発動方式を対象が上に乗って起動する感圧式に替え、爆発の効果範囲も手榴弾の効果範囲を参考にして絞る。

 呪紋の上を指が滑り、術式が自分の意図した通りに組み換えられる。ほどなく満足できるものになった時、


「ところで、昨日のルナの様子は少し可愛かったね」

「――っ」


 横からギロチン級の言葉の刃が降って来た。あ、指が滑って術式がズレた。


「ボクシングファンだったのは意外だったけど、グレイさんを前にした時の貴女の顔すごく輝いていた」

「どうか忘れて欲しい」


 何という事だ。二日酔いで頭が重くなっていたせいで忘れていたが、昨日の自分はどうかしていた。それを今になって思い出すなんて更にどうかしている。


「うん、忘れて欲しいって言うならそうするけど、その前にちょっと教えて」

「何を?」

「グレイさんの事をどう思っているの? 貴女が大ファンだったボクサーらしいし」

「どうって……勝又太一は日本が誇る偉大なチャンプの一人と思っているけど」

「ああ、うん理解した。芸能人に憧れるのと同じなんだ。……なら……」


 後半は高性能になった耳でも聞き取れないほど小さな声でブツブツ言い出した水鈴さんは、術式弄りの片手間に何か考え事を始めた様子だった。

 確かにレイモンド――この街では勝又さんよりも通りが良いのでこちらの呼び方にした――に対する感情は一ファンのものでしかない。昨日の自分は好きな芸能人を前にして、気持ちが舞い上がってしまう追っかけと変わらなかったのだ。

 幸か不幸か現在の彼の容貌は、転移にともないリザードマンの姿へと大きく変わってしまい、もう気持ちが舞い上がることはない。

 昨日の事は自分のミーハーな部分に対する良い戒めと思うことにしよう。水鈴さんも忘れてくれると言うのだし、残る二人も昨日の事を夢幻と思ってくれれば万々歳だ。

 あ、そうだ。昨日の自分を見たのがもう一匹いた。


「ジン、昨日の事なのだが」

「この身は何も見ていない、聞いていない。それで問題あるまい」

「ありがとう」


 非常に出来た使い魔である。自分はこんな彼に良い報いを与えるべきだろう。落ち着いた先で何か褒美とかを考えたい。

 こうしている間も朝の時間は過ぎていき、日は高く昇っていく。懐中時計を出して見ると、もう少しで七時になるところだ。もう普通の人にとっても一般的な朝の時間帯、街から聞こえる様々な音が一層大きくなっていく。街が本格的に目覚める時間だ。

 そうした時間の屋上にもう一人の人物がやって来た。


「二人ともおはようさん」

「グレイさん、お早うございます」

「おはようございます」

「ああ。ネコもおはような」

「……おはよう」


 話題の当人、レイモンド・グレイがその場に現れた。

 彼の大雑把な挨拶に自分達は丁寧な言葉で返す。水鈴さんは明らかな年上だからだろうし、自分は偉大なチャンプを前にしているからだ。使い魔の返答が不機嫌なのはネコ呼ばわりが気に入らないからか。

 屋上にやって来た彼の服装は昨日とは違っている。茶色の渋めのスーツ姿から灰色のトレーニングウェアに変わっており、ついさっきまで運動していたのか汗に濡れている。もう少し空気が冷えていれば、きっと湯気のように熱気が立ち昇っていることだろう。


「お、それは何だい?」

「これは魔法のセッティングですよ。これでゲームにあった呪紋エディッタと同じ事が出来るんです」

「へぇ、初めて見たな。この街にいる他の連中が魔法を弄っている様子もないし、それはそっちのオリジナルか?」

「オリジナルというより、ウチのチームの発見ですね。きっと他でも独自に発見している人とか居ますよ」

「ふんふん、魔法も奥が深い感じがするな、こうしてみると。まあ、俺はこっちに専念するのが精一杯だ」


 そう言って、レイモンドは二つの拳を構えてファイティングポーズを取った。

 右前のサウスポースタイル。そこから右のジャブが繰り出される。空気を打つ拳は二度三度鳴り、最後に左のショートアッパーが空を切る。想定としてはジャブで弾幕を張りつつ近付いて、アゴを狙っての左だろう。

 こんな何気ないシャドウでも堂に入って見えるのがチャンピオンの凄いところだ。今の一連のコンビネーションなら素人は一瞬でノックアウト確実。脳を揺すられるから意識があっても立てない。


「今は錆び取りの最中さ。トレーニングこそ怠っていなかったが、色々と錆び付いている」

「実戦の勘を取り戻すってことですか」

「ああ、そんなところだ」


 世界チャンピオンとしての勝又太一は二〇代前半が絶頂期だった。その頃が最も試合を組んでいた時期で、KO勝ちを量産していた時期でもある。残念ながら自分はその頃の彼を見る機会がなかった。

 そこから歳を経るごとに緩やかに試合数を減らしていき、三十二の時に引退。一度の黒星もなく、不敗のチャンピオンのままの引退はプロボクシング界としては珍しいケースだった。

 引退から十二、三年は経っている。レイモンドが言う錆とやらはかなり頑固なものと想像できた。

 だから、つい聞いてしまった。


「そんな身体になってしまっても、トレーニングを続ける意味があると?」


 意識はしていなかったが、意地の悪い質問だ。

 自分達がゲーム時代に育成してきたこちらの身体の能力は凄まじい。中途半端でも鍛えていたから分かるが、前の肉体に比べ全ての面において優れている。人間の限界をも超越した身体能力は人の持つ超人願望を叶えるものだ。

 これほどの肉体を持たされ果たして鍛錬していく意味があるのだろうか? 肉体を極限まで酷使する格闘系のスポーツマンならどう思うのか。よく考えると答え難い質問だったかもしれない。

 けれど案に反して、あるいは予想通りに彼はあっさりと質問に答えてくれた。


「あるに決まってる。今の俺達は言わば他人の身体を使っている状態だ。どんなに凄い力を持っていても、使いこなせなければ所詮借り物。だからこうして鍛えこみ、肉体がどこまで出来るか体で覚え、精神共々いじめて練り上げていくんだ。そうしていくとイメージした動きを体で再現でき、そうして初めてこの身体は俺の物って言い張れる。

 そうだな、俺にとってトレーニングは体と心を繋げる作業で、繋いだ結線を錆び付かせないように油を注す作業でもあるか。

 どうだ? こんなんだが、満足できる答えだったら良いのだが」

「――え、ええ。大変参考になりました。ありがとうございます」


 感想としてはただ一言、『本物』は違う。彼の言葉は真に肉体を鍛えた経験がある人間にしか言えないし、だからこそ重みが感じられた。

 自分のように中途半端な身が恥ずかしくなるけど、この世界には借り物の肉体で暴虐を尽くす人間がいる。参考にすると言った以上は、そういうところまで堕ちないよう心がけたい。

 腰を落ち着けたら、いや明日にでもトレーニングをしてみようか。きっと無駄にはならない。

 レイモンドの言葉に感じ入っていると、彼はポケットからサインペンらしい物を取り出して、横に立てかけていたショットガンの銃床にサラサラと筆を走らせた。


「あの、何を?」


 余りにもごく当然といった態度でやったので、止める言葉よりも戸惑いと疑問が口に出ていた。


「昨日俺のサインが欲しいって言ってなかったか? 銃のこの辺りに」

「あ」


 言った、言いました。あの後酒の席になったから忘れていたが、勝又さんのサインが欲しいと自分は確かに言った。

 社交辞令と思って流すかと思ったが、まさか律儀に実行に移すとは思わなかった。ショットガンに目をやると、銃床にクッキリと黒いサインペンで勝又太一のサインが書かれている。前に見た事がある彼のサインより崩れてるが、間違いなく彼のものだ。


「あー、ひょっとしてマズったか?」

「いえ、まさか本当にサインをくれるとは思わなかったので驚いただけです。嬉しいですよ」


 嘘ではない。勝又太一が現役時代、彼のサインが欲しくて頑張っていた時期が自分にはあった。けれど当時の彼はサインをする機会が少なくて、自分はサインを貰えるほど試合会場に行く機会がなかった。そのサインがここにある。素直に嬉しいことだった。

 でも昔に諦めたものが、こうしてポンと貰える機会が訪れるなんて、人の世というのは本当に分からないな。

 レイモンドもこちらが本当に嬉しく思っている事を察したのか、「そうか、なら良いんだけど」と言ってトカゲの顔で笑みを作ってみせた。


「さて、そろそろ朝飯の時間だ。下に降りよう」

「魔法のセットも充分やったし、いいですよ。その前にマサヨシを起こす必要がありそうだけど」

「なんだ、あの坊主寝坊か」

「仕方ないと思いますよ。今まで切った張ったの場面の連続だったし、ここに来て一気に緊張が緩んだのかも」

「ああ、なるほどな。それはしょうがないか」


 レイモンドと水鈴さんが話題に出すマサヨシ君は、違う階のシングルの部屋に泊まっている。女性陣と一緒に泊まれるだけの精神力は今までで使い切った、が彼の弁である。

 ここまでの疲れもあるが、昨日はレイモンドに何杯かラム酒を飲まされ、部屋に入ってから嘔吐する声が聞こえてきた彼のことだ、現在は疲れと酔いの合わせ技で完全にグロッキーだろう。

 悪い大人に付き合わされた被害者が若干可哀そうに思えてきた。このホテルの朝食時間は決まっているし、寝過ごさないように起こしてあげるぐらいはするか。


「私は彼を起こしてくる。先に朝食にして」

「そうか。分かった、先に行って席を取っている」

「……じゃあ、先に行っているね」


 二人がホテルの食堂がある一階へ向かうため屋上を後にして、残されたのは自分とジン。

 少し目線を落として黒猫状態のジンを見下ろすと、彼が金色の瞳で見上げてきた。申し合わせたように視線が合う。

 彼はここまで一切の私心なく自分に尽くして、こちらを『主』として仰いでいる。正直に言って、誰かに敬意を払われるほど自分は大した存在ではないと言い切れる。こうして無条件の信頼を寄せられるのはむず痒いのだ。

 今までは昔、部下に対する接し方を思い出して実践してきたが、未だに感情の整理はついていない。

 ここでお互いの腹を割って話をもつ必要があるだろうか――いや、まだ完全に安全地帯に居る状態ではないから、時期尚早。


「どうしたのだ主? 何かこの身に伝えたいことでも」

「いや、何も。マサヨシ君を起こしに行く」

「了解した。やれやれ、デカブツめ主の手を煩わせるとは良い身分だ」


 ジンの問いかけを誤魔化してしまった。何のことは無い、単純に返ってくる答えが怖いだけだ。

 後回しにして、彼の寄せる信頼に甘えている。なんて未熟。レイモンドの澄んだ言葉を聞いた後だけに、余計に自分の不出来さが身に染みる。

 朝の清々しい空気に背を向けて、自分もジンを従えて屋上を後にする。この世界に来ても胸の内は晴れない。精々裏切られないように動けよ、ルナ・ルクス。



 ◆◆



 設問一、今のオレが置かれている状況を述べよ。

 解答、ベッドから転がり落ちて、起こしに来てくれたルナさんを下に敷いている。


 設問二、この様子を見ている者はいるか答えよ。

 解答、すぐ横で殺気満々に睨みつけいる黒猫がいる。


 設問ラスト、この後に起こりえる状況を述べよ。

 解答、オレ、オワタ。


「不埒物が!」

「はうあっ!」


 バッチンと人体から出てはいけない音がオレの体から聞こえて、転がり落ちたベッドに強制的に戻された。

 腹に感じる鈍痛からして、あの触腕でボディを殴られてベッドまで吹き飛ばされたっぽい。

 この衝撃で、ここに至るまでの出来事をようやく思い出した。


 昨日はレイモンドのオッサンにラム酒を何杯か飲ませれ、グデングデンになってホテルの部屋まで連れて行かれた。

 気持ち悪くなってトイレで吐いて、ベッドの上を頭痛で転がっていた記憶もある。それでいつの間にか寝ていたようだ。

 でもって、ついさっき。オレを起こす声が聞こえて、寝ぼけたオレが目覚まし時計と思い込んで腕を伸ばし、結果ルナさんを巻き込んでベッドから落ちたらしい。


 そして、吹き飛ばされる直前までの記憶もリピート再生される。

 床に組み敷いてしまったルナさんの驚いた表情。大きく見開かれた金色の目。黒い髪と服は床に広がり開花した黒い花を連想する。

 鼻に入る匂いは火薬とオイルとシャンプーが混じったもの。剣呑な匂いのはずなのに、彼女には相応しく思える。

 さらにラッキーなオレの手は、ルナさんの慎ましい胸に置かれていた。小さくともしっかりと主張された女性らしい部分が、彼女の魅力なのだと――


「卑猥な記憶を反芻するな!」

「ぶべっ」


 飛んで来たムチのような触腕がオレの思考を終わらせた。コイツ、うつ伏せに倒れたところを追撃しやがった。

 首を回して黒猫を見やれば、触腕を振り回して威嚇している黒猫が見えた。猫状態でもあの触腕は出せるのか。

 その目はヤル気に溢れて、ノドが低く鳴っている。主人の許しさえあればギッタギタにしてやんよ、と態度が何よりも雄弁に語っている。どうやら最初に思ったように今日がオレの命日みたいだ。


 黒猫の主人で当の本人であるはずのルナさんはと言うと、床に仰向けになった状態から体を起こして何事もなかったように立ち上がってみせた。


「主、無事か」

「問題ないよ。ジン、君はやり過ぎ」

「だが、こいつは主を組み敷いたのだぞ」

「事故だ。こんな事でふっ飛ばしていたら彼の体が持たない。大丈夫?」

「お、おお、大丈夫っす。おはようございますルナさん」

「おはよう」


 本当に何事も無かったように朝の挨拶をしてくれるルナさんだった。

 改めてベッドから抜け出してみたが、ジンに殴られた部分以外は取り立てて異常はない。昨夜まで悪かった気分はもう無いし、頭痛とかも無い。二日酔いってヤツにはなっていないようだ。

 殴られて痛む腹と背中も急速に痛みが引いていくし、この体は思った以上に頑丈だ。


『主が寛大で命拾いしたな、デカブツ。二度目はないと思え』

『わざわざ念会話で脅すなよ』


 なんでこの黒猫はオレに突っかかって来るんだか。どうにも気に食わない。

 水面下でこんなやり取りをしていると思っていないルナさんは、何時ものクールフェイスでここに来た用件を伝える。


「朝食の時間だ。レイモンドと水鈴さんが食堂で待っている。君も着替えを終えたら来ると良い。それと、部屋の鍵は掛けておこう。ここはオートロックじゃない」

「ああ、分かった。すぐに行くし、鍵も掛けて行く」

「うん。私も先に行く」


 本当に何事も無く、用件を伝え終えた彼女は踵を返して部屋を出て行く。

 その表情に男性と急接近した事による羞恥の気配はどこにもない。平静な精神が窺えた。

 ジンの奴も主の後について行き、彼女の肩に飛び乗った。それをルナさんは嫌がる事無く受け入れて、肩に乗せて部屋を立ち去った。

 静かに扉が閉まって、静かになった部屋の中。オレも気分が落ち込んで静かになっていた。


「オレ、男と思われてねえな……はぁ」


 胸を触ってビンタぐらいは覚悟していたのに、お咎めなし。いや、胸を触られても何とも思われてない。

 異性から何とも思われていないのが、これほどに傷つくものだと初めて知った。魅力がどうとか言うより、前提の男を意識されていないのがまず辛い。

 きゃーきゃー騒がれる内は華なんだ。ジンの態度の方がまだ正常かもしれない。


 でも、でもだ。オレの目にはそんなルナさんの態度も浮世離れした魅力的なものに見える。あの茫洋とした金色の目をオレに向けて欲しい。そんな欲が湧いてくる。

 けれどまあ、まずオレの出来る事はさっさと着替えて見れる格好になることか。

 どうにか復活したオレは服を手にした。



 ◆◆◆



 このホテルの朝食はバイキング方式になっていて、各自持った皿に料理を盛り付けていくものだった。なんか日本のビジネスホテルみたいな朝食風景だ。

 ホテルの一階にある食堂には木製のテーブルと椅子が並べられ、安めのホテルながら良い雰囲気の内装をしている。

 ただし、街の状態が状態だ。オレ達以外の客はとても少なく、席はまばらに埋まっている程度でしかない。


「おー、坊主ここだ」

「オッサン、もう食ってんすか」

「挨拶はどうした」

「あ、おはようございます」

「ん、よし。おはよう。ま、ここに座れ」


 オレのオヤジみたいな事を言っているレイモンドのオッサンが隣の席を勧めてくれて、腰を下ろした。

 昨夜の飲み会で「坊主」「オッサン」と互いの呼び方が決定された気がする。実際この人四〇代のオッサンだし、オレは一〇代のボウズだ。互いの呼び方に不満なんてない。

 それに無理やり酒を飲ませる事がなければ気の良い人っぽいし、親や親戚みたいに下手に血も繋がっていなからオレにとって遠慮がなくて気楽に話せそうな相手だ。

 そのオッサン昨日と違って、スーツではなく灰色のパーカーとジャージ姿でパンを齧っている。


「おはよう、マサヨシ」

「ああ、おはよう」


 オッサンとは反対側から水鈴が声をかけてきた。ここでも巫女服を着ているが、不思議なことに食堂の人達から注目を集めている様子はない。オレも改めて見るまで疑問に思わないほど彼女は周囲の風景に溶け込んでいた。

 彼女も右手にパン、左手に紅茶の入ったカップを持って朝食に勤しんでいる。皿の料理はサラダが中心な辺りが女子っぽい。


 そしてオレの正面にルナさんが席について、これまでと同様に静かに食事している。

 四人がけのテーブルにオレ達四人が座って朝食の時間が進む。ついでだが、あの夜架月という厨二はこの街に拠点を持っているから、そこで寝泊りしているらしい。よく今まで生きていたなアイツ。


「朝から結構食べるのね」

「あん? こんくらい普通じゃないか」

「無理無理、私は入らない」

「坊主は育ち盛りだからな。加えてガタイも大きい。そのくらいは確かに普通だな」


 水鈴がオレの持ってきた料理の量を見て、げんなりした様子を見せている。手に持った皿には小山が出来ているのだが、今のオレにとってコレが適量だと思えた。

 何せちゃんとした料理だ。今までのようなミリメシや野生色たっぷりなものと違い、ガッツリ食えるのがひたすらに嬉しい。

 昨夜は酒のせいで戻してしまったが、今日は違う。しっかり味わうつもりでそれなりの量を持ってきた。このバイキング方式がオレには都合が良かった。


 盛られた料理にフォークを刺して、もりもり食べ始める。この様子をオッサンは面白そうに見ている。なんか、昔初めてファミレスに行った時のオヤジの表情に似ていた。

 一方でルナさんはマイペースを崩さず、もくもくと食事を進めている。ジンはというと、床でミルクなんぞ舐めている。

 どういう巡り合わせか、所属するチーム、性別、年齢、背景、それらがバラバラな四人がこうしてテーブルを囲って朝食を食っていた。


「どうしたの? 何か笑っている感じだったけど」

「ああ、いや。大した事じゃないんだ」


 顔に出ていたのか、水鈴が突っ込んできた。

 まさか「オレ達のこの出会いにちょっと運命感じたぜ」と馬鹿な事を言えるワケもなく、誤魔化してしまう。でも、奇妙な縁みたいなものをオレは信じだしていた。


「じゃあ、飯も進んでいることだ、ちょっと話しないか?」


 ――全員それなりに朝食が進んでいるところを見計らい、オッサンがこんな言葉から話を切り出してきた。


「話って、何すか?」

「今後についてだ。俺達が転移してきて、帰るアテは当面無い。となれば、身の振り方が重要だろ?」

「身の振り方……働き口とかかな?」

「大まかにはルナちゃんの言う通りだ。ゲームでの資金はこちらでも使えるが、金は無限じゃない。世知辛いが飯の種が必要という話さ」

「本当に世知辛いですね」


 全くである。でもこれが現実の世界である以上は、生活にかかる諸々の諸経費ってやつが必要なのは高校生のオレでも分かる。

 世の中金だと思うほど人生を割り切っていないが、無ければ無いで困ってしまうのも文明社会というもの。そしてこの世界も地球とは違うが、しっかりとした文明社会が構築されている。この中で生きていくにはお金が必要なのだ。


「昨日の酒の席で話すと水差しまくりだったからな。今日になってしまった」

「確かに、酔いは醒めるね」

「お前さん方に聞いておきたいが、今後のアテって奴はあるのか?」


 オッサンの言葉で、オレの中にまだ少し残っていたゲームとしての『エバーエーアデ』の感覚が完全に消えた。

 ゲームの世界はとっくに終わっている。いい加減にこの世界の地に足を踏み込め、そう言われている気がした。だが、アテと言われてもチームが壊滅してしまったので、行くところがないオレは言葉が出ない。

 反対に真っ先に声を上げたのが水鈴だった。


「この街に拠点を置いているクララっていう人を頼りたいんですけど、グレイさん知りませんか?」

「クララって、犬人族で生産職中心で大手生産系チーム『第三帝国・カンパニー』にいた?」

「そうですけど、知っているんですか? 友人なんです」

「よく知っている……なんて偶然だ。あいつ今はチーム抜けて、別の街で独立した店を構えているよ」

「チーム抜けたって、クララ何があったの」

「詳しく聞いてないが、アイツも色々あったらしい」


 探す相手がオッサンの知り合いでもあったらしく、二人の話はトントン進んでいく。

 目的の人物はどこに? ――ここから河を下ったところにある街、アストーイア。

 彼女が構えている店とは? ――ああ、銃と刃物のカスタムを請け負っている店で……

 こんな調子で質問をしていった水鈴は、探しているクララという人物がオッサンの言っている人物と同一人物と確信したようだ。大きく頷き、宣誓するみたいに言葉を出した。


「じゃあ私、アストーイアに行きますっ」


 これが取り立てて目的地の無い二人と一匹の行き先を自動的に決定させた言葉でもあったりした。

 少し不安に思う。これが現実だということはもう心身ともに理解したし納得もした。でも、何となく一緒に行動していたオレ達が離れていくのもリアルなんだろうか? それも納得しないといけないのか。

 目的地がしっかりとある水鈴が少し羨ましく思えた。




2012年5月16日 改訂


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