4話 Join
レイモンドの話によれば、ゲアゴジャの街が極めて治安が悪くなったのはここ一ヶ月の事になる。急速に増加していく犯罪に街の警官は対応し切れなくなり、それどころか良い武器を装備している警官自身も標的にされて、自分の身を守るのが精一杯になっているのが現状という。
「そんな訳で、こんな乗り方をしても取り締まる人間はいないんだ。まさしく無法地帯だ」
「お話は良く分かりました。角を曲がるので振り落とされないように」
「ああ。山田も落とされるなよ」
「だからっ、僕の名前は――」
レイモンドと山田君の声が、運転席の『前』から賑やかに聞こえる。彼ら二人をボンネットの上に乗せて、自分はジープを走らせていた。
あれからレイモンドの提案に乗った自分達は、『パラス』の店主に出した注文をキャンセルして店を出た。あのままあそこに居てプレイヤー達を観察するよりも、彼の提案を呑んで話をするほうが安全そうに思えたからだ。
水鈴さんとマサヨシ君も特に反対はなく、むしろ進んで店を出ていた。あの環境は二人にも相当嫌なものだったらしい。
案内されるその場所はそう遠くないダウンタウンにある店らしく、徒歩でも行ける距離らしい。それでも外に置いたジープを放置して行けないため乗っていく必要はあった。だが自分達三人に加えて、レイモンドと山田君の五人で乗るにはジープと言う車は小さすぎた。
それを強引に解決したのがレイモンドの出した案で、「こっちに乗るから大丈夫だろ」と言い、山田君と一緒にボンネットに乗ってしまったのだ。
昔のアメリカ軍もボンネットに人を乗せて走行していたらしいが、これは実際運転してみるとかなり神経を使う無茶な真似だった。
「だいたいレイモンド、後ろの席が一人分くらい空いているのになぜ座らない」
「それはだ。妖狐族の嬢ちゃんの隣に俺らみたいなむさ苦しいのがいたらダメだろう」
「おお、なるほど。レディに嫌な思いをさせないがためか。ならば僕も耐える甲斐がある」
「すまんなルナちゃん。運転しにくいのは分かっているが、すぐ近くだから」
軽い調子ながらも申し訳なさそうに片手を立てて、拝む真似をしてくるレイモンドに「ええ」とだけ返して頷く。別に嫌ではないが、ちゃん付けは戸惑う。当たり前だが今までの人生でそんな呼ばれ方をされた事がなかったせいだ。
助手席ではマサヨシ君が意外と楽しそうな顔をして、後ろの水鈴さんは複雑な表情で固まっている。彼女は彼女でこの展開に戸惑っているらしい。
ギアは三速以上に上げず、原付バイクを走らせるスピードで道を行く。急停車や乱暴なクラッチ操作はしないよう心がけてレイモンドの案内に従い、ゲアゴジャの道を過積載のジープで走っていく。
案内は街の中心からやや外れた場所を示し、そこへ車を向かわせる。そこは狭い街路の両脇に店が立ち並ぶ商店街。今はシャッターとフェンスで閉ざされているところがほとんどの寂れた場所だ。目的地はここから一歩路地に入った場所にあるらしい。
『主、随分怪しい場所に連れ込まれている気がするが』
『理解している。いざという時の用意だけはしておくよ』
『背中は任せて欲しい』
『了解』
後部座席、水鈴さんのヒザの上に引き続き乗っているジンから飛んでくる念会話に顔を変えず了解の意思を返し、前の二人に悟られないよう両腰のモーゼルに意識を向けた。
レイモンドの誘いに乗ったはいいが気を許すつもりは当然なかった。案内された先で襲撃、などという事も充分考えられる。ボンネットに座るリザードマンに銃口を向けるイメージは案外あっさりと浮かんだ。
不審な挙動があれば躊躇う前に撃つ、そう内心に決めてハンドルを握っていた。奇妙なもので、彼らからの話を聞こうという気持ちといざとなれば二人を撃ち殺す気持ちが自分の中で違和感なく両立していた。
「ああ、ここで停めてくれ。ここの路地を入ったところの店なんだ」
「了解」
「ここに停めて大丈夫なんすか?」
「路駐の点なら取り締まる人間がいやしないし、盗みの心配ならこの辺りは浮浪者しかいない。問題ない」
レイモンドの言葉に丁寧にブレーキを踏んだ。慣性の法則で二人を振り落としてしまわないよう気をつけて路肩にジープを停める。
マサヨシ君に答える彼の言葉通り、この辺り一帯は自分達以外に人気がない。空洞化の進んだ日本の商店街の方が、まだ活気あるように見えてしまうほど荒んだ通りだ。なるほど、これならそもそも盗む人がいないから車は安全か。
二人がボンネットから飛び降りて、それに続くように自分達も車から降りる。ジンはこの間もレイモンド達に警戒の目を向けていた。
モーゼルの初弾は装填済み、ショットガンもすぐに構えられるように肩に担いで、レイモンドの道案内で通りを歩く。
通りに並ぶ店のショーウィンドウはシャッターで保護されていなければ割られて、壁にはスプレーで奇抜なラクガキが書きなぐられ、道にはゴミ箱の中身をブチまけたようにゴミ屑が散乱している。
人気もないし、もし彼らがこちらに危害を加える気なら絶好のロケーションではある。
けれど幸いにしてそんなことはなく、レイモンドは一軒の半地下の店舗の前で足を止めた。
「ここだ。基本酒場と喫茶店だが、飯も美味いぞ」
「んー、ミスターアルトゥーロのランチは確かに美味いと認めるが、組織の人間に追われている彼のところを案内して良いのか」
「組織?」
「気にするな。山田の脳内で勝手に作られた設定だ。それによると、この店の主はどこぞの組織に追われた元情報工作員だそうだ」
「それは、また」
後ろで話を聞いたマサヨシ君が「厨二、乙」とか言っているのが聞こえる。……乙?
ともかく、目の前で銀髪をかき上げている美貌の青年の中身は結構残念なものだと理解できた。このような青年が今まで生きてこれたのは、運が良いのか周りの人が良かったのか、どちらかだろう。
レイモンドはすでに山田君の奇矯な振る舞いに構わず、店の堅牢なドアに手をかけていた。表に看板はなく、扉にはめ込まれたプレートだけが店の名前を語っていた。
――バー・マグナム。弾薬の種類か、酒の増量ボトルを指すのかどちらかだ。二重の意味だったら中々に捻った名前。
扉が先頭に立つレイモンドの手で開き、付けられたベルが開閉に合わせて鳴って、来客を知らせる。
店に入るとき、モーゼルのグリップに手を置いて警戒していた。だが、店内の様子を見た自分は一瞬で警戒を無意味に感じてしまった。
外の荒んだ様子と中の様子は天地ほどに世界が違った。木目を基調にした落ち着いた内装は程良く年季がかってツヤがあり、薄暗くした照明で光沢を見せている。棚に品良く並べられた酒瓶は彩り豊か。鼻に入るタバコとコーヒーとアルコールの臭いは不快にならず、気にならない。さっきの『パラス』とは大違いで、ある種の品格すら感じられる空気を醸していた。
総じて極めて品良くまとまった静かな店内で、客がいないのが不思議なくらいだ。あくまで嗜好の問題だが、自分好みの空間で心のガードが思わず下がっている。
「やあレイモンド。それにセツラと、後ろの連れは初顔だね」
カウンターにいた壮年の男性が声をかけてきた。メガネとタンガリーシャツが似合う、どう見てもこの店のマスターとしか思えない人物。
レイモンドに案内され、ゲアゴジャの荒んだダウンタウンで見つけたのは、自分の好みにベストマッチした店。どうやら捨てる神がいれば、拾ってくれる神もいたようだ。
「ようこそいらっしゃい、バー・マグナムへ。お客様は大歓迎だ」
マスターの声に誘われて店の中へ。自分はいつの間にか心の緊張を解いて警戒を止めている。
ふと視線を感じて足元を見ると、ジンはどこか呆れたような目で自分を見つめ返していた。
◆
案内されたのは店の奥、大人数が落ち着いて話出来るよう大き目のボックス席に通され私達は向かい合って座った。
店のマスター、アルトゥーロさんがここを一人で切り盛りしているみたいで、他にお客のいない店内は静かだ。
マスターがランチを作るため店の奥に行っている間、私達は改めて互いの自己紹介から話を始める。ルナは簡潔に素っ気なく、マサヨシは学校の自己紹介みたいに、私は普通に自己紹介。
本来の名前とは違う『水鈴』というキャラクター名だけど、こうして数をやっていくと本当に自分の名前になった気がしてくるのが少し不思議だった。
「勝又太一が俺の本名だが、ここではキャラクター名のレイモンド・グレイの方が通りがいい。どちらでも好きなように呼んでくれ。中身は良い年したオッサンだがな」
「改めて紅き月の夜架月刹羅だ。こちらのレイモンドとは異変後に行動を共にしている戦友だ」
「ん? 戦友? 俺達一緒にドンパチ潜り抜けた覚えはないんだが」
「……ふ」
「笑って誤魔化すなよ」
私達の自己紹介が一通り終わって向こうの話が始まったのだけど、グレイさんと夜架――もうコイツは山田でいいわね、その方が覚えやすい――山田の話はこんな漫才もどきな感じで始まった。
バー・マグナムの半地下の店内は照明が抑えられたお洒落な内装をしている。こうして座っているボックス席も、木製の重厚でツヤのあるテーブルと椅子が使われて雰囲気がすごく落ち着いてる。その中でトカゲ男と厨二男と鎧男、加えて狐巫女が居る環境がとてもカオスだと思う。
こういう店内が一番似合うのはシックな空気を纏っているルナだろう。彼女は二人の自己紹介で気になる部分があったのか、目をテーブルに落としている。
数秒して目が上がる。
「勝又太一って、ボクシングのスーパーフェザー級の世界チャンピオンと同じ名前ですね」
「へぇ……嬢ちゃんそんな昔の事を覚えているとは、見た目より歳があるのかい?」
「ええ、まあ。彼が引退した時は陸自で生徒やっていた時だから……もう十年以上は経ってるか。ファンでした」
「陸自って……。ああ、でもファンだったとは嬉しいよ」
グレイさんの解答にルナが目をパチクリさせて、驚いている。基本表情の変化が薄い娘なのに、珍しい顔をしている。でもリクジ? なにそれ。
「まさか、本人? WBC世界スーパーフェザー級チャンピオンの勝又太一本人だと」
「元。元チャンピオン。今はこの通りのオッサンに過ぎない」
「……おぉ」
グレイさんの中の人は昔のボクシングのチャンピオンなんだ。正直に言って私は格闘技とか全く興味がないけど、ルナは違った。金色の目を大きく見開いて感嘆の吐息を漏らしている。目を輝かせるってこういうことじゃないだろうか。こんな顔初めて見た。
だから気になってしまい、興味がないはずのボクシングの話題でルナに話を聞いてみた。
「ルナ、その勝又さんって凄い人なの?」
「そりゃあ、もう!」
即座に言葉が返ってきた。しかも興奮気味で。
「勝又太一といえば、日本版ロッキー・マルシアーノと言われる人だ。四十戦四十勝無敗、三十八KOの戦歴を誇り勝った試合のほとんがKO勝ち。不敗のまま引退したチャンピオンだ。時期的に総合格闘技のブームで知名度が低いけど、その打ち立てた戦歴は称えられるべきものだと私は思う」
「ああ……なんだ、人の口から昔の事を聞くとこそばゆくなってくるな」
「何を言っているんですレイ、いや勝又さん。貴方の戦いは称賛されるべきだ。特に初防衛戦の時は素晴らしかった。個人的にベストバウトだと思います。生で見れなかったのがあれ程悔しかった事はない」
「その……ありがとう?」
ここまで口数が少なかったルナがすごい勢いで喋っている。グレイさんは身を乗り出さんばかりの彼女の称賛に引いてしまって、恥ずかしそうに暗い色のウロコをコリコリと爪で掻いていた。顔には「どうしたもんか」と書かれていて、困っている様子でもあるみたい。
マサヨシもルナの激変に驚いた顔をしている。彼は自覚があるか分からないけどルナに好意があるらしいから、こんな変化は驚愕ものでしょうね。
しかしルナがボクシングファンとは、今まで見てきたイメージからするとかなり意外に思う。
「後でサインとかしてくれませんか? この銃のバックストックとかに」
「別に良いけど、十年以上もやってないからサインが崩れているぞ、きっと」
「いえいえ、構いません」
さらにはサインのおねだりだ。しかも横に置いたショットガンの肩を当てる部分に欲しいらしい。
ここまで終始興奮気味で上機嫌なルナ。例えるなら、大好きな芸能人と予期せずお話が出来たりするとこんな感じかな。私だって松山ケンイチや渡辺謙とこんな風に出会って会話する機会があったら興奮するだろうし、気持ちは分かるわ。
でも、この世界にいるって事はグレイさんも『エバーエーアデ』のプレイヤーだったのかしら。
「気になったのですけど、ボクシングのチャンピオンがゲームとかするんですか?」
「子供の頃からの趣味さ。途中で色々中断があったけど、今のゲームは息子から教えてもらった」
一応年上らしいので丁寧に聞いてみたら、これも意外な回答が返ってきた。私の勝手な思い込みだけど、プロのスポーツ選手ってゲームのようなインドアな趣味が苦手なイメージを持っていた。特にネットゲームのような中毒性のあるものだとなおさら。
あれ? 今更かもしれないけど、十年以上前に引退したこの人のファンだったルナって、私が思っている以上に年上かもしれない。
そんな疑問が頭に浮かんだところで、マスターが料理の載ったお盆を手にやってきた。
「盛り上がっているところすまないけど、注文のランチだ。それとレイモンド、昨夜は儲けさせてもらったから金はいい」
「なんだ、アル。お前も賭けしてたのか」
「それなりに投資させてもらった。ほら、お嬢さん達も彼に感謝するといい。タダ飯はこいつのお陰だからな」
手際良くテーブルに料理を並べていき、グレイさんと少し気になるやり取りをするマスター。皿がテーブルに置かれた途端、湯気と一緒に食欲をそそる匂いが上がる。
焼きたてで油を弾けるチキンソテーに、添え物はポテト丸々一個をジャガバタにしたもの。コレにサラダとカップに入ったコンソメスープがこの店のランチメニューだった。
結構ガッツリした内容だけど、この世界に来て初めてまともな食事が目の前に現れたのであまり気にならない。幻獣楽団の時もルナ達と行動を共にしている時も保存食とキャンプの食事が中心になりがちだったし、食べる側で文句は言えないけど大雑把な味付けには正直言うと飽きが来ていた。
だからテーブルに並ぶメニューは私の目には輝いて見え、油断していると女子にあるまじき事だがヨダレが出てしまいそうだ。
こんな反応は私ばかりではない。マサヨシは料理に目が釘付けになっているし、ようやく興奮が収まったルナは料理を前にどこか嬉しそうだった。
「さて、ランチも来た事だし話の続きは食いながらにしよう。自己紹介で話が止まっているしな」
「あ……。その、ごめんなさい……つい浮かれてしまいました。えっと、話の続きは水鈴さん、任せて良いですか?」
「え? 私?」
「はい。お願い出来ませんか」
グレイさんに話が止まった事を指摘されて落ち込んだルナは、私に司会進行役を丁寧な口調で頼んできた。
浮かれた事がよほど恥ずかしかったのか、顔に手を当ててそっぽ向いているし。グレイさんは「こっちはそれほど気にしてないが」と言っているけど、彼女本人は自分の行動をとても気にしているっぽい。
これは一通りの話が終わるまで何も言わないつもりかも。小さく「僕のバカ」なんて呟き声も拾ってしまい、絶賛後悔中みたい。案外打たれ弱いところがあるのね。
まあ、ちょっと可愛く見えたので引き受けましょう。
「じゃあ、このランチを奢ってもらう代金という訳じゃないですけど、情報交換しましょうか」
「分かった、そうしよう」
こうやって始まったランチを食べながらの情報交換は、話し手も聞き手も私とグレイさんの二人だけで終始していった。
ルナは話をちゃんと聞いているけど口を一切挟まないし、使い魔のジンも一緒にダンマリを決め込む。無言でナイフとフォークを操って作業の様にチキンを口に入れていくだけだった。
マサヨシは食事に夢中で話を聞いてない。目の前の食事にガツガツ食いついて「うめぇ、うめぇ」としか言葉がない。これはグレイさんの横にいる山田も同じ様子だったりする。なんかここだけ見ると類友ね。
で、目の前で会話しつつ食事をするグレイさんは、歳を召しているせいか何か貫禄を感じる食事風景だった。テーブルマナーに反する無作法な振る舞いも、無造作な凄みがあるから妙に様になっていて不快ではなかった。
それぞれに個性が感じられる食事の仕方でランチの時間は進んでいく。
マスターお手製のランチはとても美味しく、チキンはナイフで切れば肉汁が滴るほどにジューシー、サラダはシャキシャキと新鮮で、スープも口にして落ち着く味わいだった。
ファミレスでは味わえない大量生産じゃない料理が私達を心から安心させたんだと思う。食後になると少し緊張していたように思えた場の空気が緩やかになっていた。
情報の交換の方もこうやって本格的に腰を落ち着けてやれるから、どんどん突っ込んだ話になっていく。
私は幻獣楽団で情報が集まりやすい連絡役をやっていたし、グレイさんは目的があって色々と情報を集めている。だからお互い交換する情報の量は多く、話は食事が終わっても続いていた。
「……ジアトーはそんなに酷い事になっていたか。こっちの治安が悪くなっているのが可愛く思えてくるな」
話が一段落ついたところで、グレイさんは大きくため息を吐いて食後のコーヒーに口をつけた。
私達がジアトーから逃げてきた事、あの街が大規模な暴動、軍隊の侵攻に襲われて多数の犠牲者が出ている事を聞いて、彼はトカゲの顔を痛ましそうに歪めた。私も嫌な思い出が込み上げてくるのを紅茶と一緒に飲み込んだ。お茶の渋みが深く感じられた気がする。
全員ランチを終えて料理の皿はとっくに下げられ、テーブルには食後のコーヒーと紅茶が現れていた。この場で紅茶派は私だけみたいで、他の全員はコーヒーをマスターに頼んでいる。ルナがなんか幸せそうな表情でコーヒーを飲んでいるのが興味深いけど、今はグレイさんの話よね。
グレイさんから聞いた情報を咀嚼してまとめると、この街も安全とは言いがたいみたいだ。
一ヶ月前からプレイヤーが現れるようになり、日を追う内に転移してくる人間は増えていく。当然その中には良からぬ考えを持った人も居て、馬鹿な真似をする人も増えていった。さらに最初は大人しかった人も、そういった人達に感化されていき、急速に犯罪行為に手を染める人が出てきたという。
不幸中の幸いな事は、ここではジアトーみたいに大規模な暴動が起きず、現地の治安当局の尽力もあるのか致命的なことにはなっていないらしい。それでも取り締まりには限界があって、夜道を歩くだけで強盗に遭いそうな物騒な街になってしまったのだとか。
私達が街で遭遇したあの二人組の強盗もそんな中のひとつだったらしく、もう武器無しでは街を歩くのもままならないみたいだった。
「――この転移現象は一ヶ月前から始まった、と」
「そうだ。転移してきた他の連中に話を聞いてみたが、一ヶ月以上昔に転移してきた人は今のところいない」
「一ヶ月前というと、『エバーエーアデ』の最新拡張パックが導入された日と重なってないっすか?」
「ん? ああ、俺もそれは考えた。何せ導入されたその日にプレイして、直後にこっちに来ている」
話題は移り、マサヨシから出てきた『エバーエーアデ』の最新拡張パックの話になる。
グレイさんは大げさに頷いてみせ、彼の方でもその話がしたかった風だ。転移の原因としてそこを怪しんでいる様子が窺える。
ゲーム『エバーエーアデ』は息が長い長寿タイトルの一つだった。発表された時は私が八歳の時、親のお下がりパソコンでプレイし始めたのは中学二年の時だった。
当然この十年の間にゲーム会社は、客であるプレイヤーを飽きさせないように様々な趣向を凝らしてきた。アイテム、エネミー、ダンジョン等々新規や改良された品々でお客を喜ばせていき、クレームのあった不具合を手直ししていく。
ネトゲの多くはそれらの改良をパッチや拡張パックという形で行ってきており、中には初期の原型を留めないほどに改修されたタイトルもあったほどだ。
マサヨシが口にした拡張パックは、二ヶ月前にネット上に通知され実施されていたごく普通のバージョンアップだったはず。
紅茶を片手に香りを楽しみつつその通知を思い出してみた。
何時も『エバーエーアデ』をご利用ありがとうございます云々と定型の挨拶から始まって、パック導入の日時を通知、そして具体的な変更点についての記述が運営会社のページに載せられていた。パッと見は何回か見たパック導入の時と変わらなかったはず。
肝心の変更点は確か――少し前にあったエルフ族のプレイヤーに起こった不具合の改善、北の帝国にある巨大地下ダンジョンの最下層までの解放、新種の大型魔獣の投入ぐらいだったはず。後は目立たなかったけど、ゲームサーバーの効率利用のために新種のプログラムを使用しますとか書かれていたのを見かけた。
転移の原因が会社の陰謀や社員の暴走とかだったら、この新種プログラムが怪しいところね。
「俺はあの通知に出ていた新種プログラムが今回の事件の原因だと睨んでいるが、どうだろうか?」
「そうですね。今思えば怪しいと思いますけど、まだ証拠もないですし。私達の出現が一ヶ月も時間差のあるところも気になります」
「そうだよな。第一こんな場所で推論こねくり回してもしょうがないか」
「頭の隅に留めて置く、というぐらいで良いんじゃないでしょうか」
「なあ水鈴、拡張パックの通知はオレも見たけど新種プログラムなんて書いてあったか?」
原因の究明については一先ず棚上げ、と結論をグレイさんと一緒に出したところでマサヨシがそんな基本的な事を聞いてきた。
あの通知でプログラムについて書かれた部分は一行ぐらいで目立たなかったけど、それでもちゃんと読めば目につくはず。彼って、家電製品買ってもマニュアル読まない人種かも。
「マサヨシ君、君はテレビ買っても取り扱い説明書とか読まない?」
「え? 読まないっすけど、それがどうかしたんすか」
「そう。別に深い意味はないからいい」
とか思っていたら沈黙を破ったルナが聞き出しているし。そしてやはり読まない手合いかマサヨシ。こういう人がサポートセンターの電話の人を困らせるんでしょうね。
彼にとって謎な質問だったからか、太い猪首を傾げて不思議そうな顔をしている。ルナはさっきまでの浮かれた調子からすっかり元に戻っていて、静かに何杯目かのコーヒーを楽しんでいる。もう見慣れた彼女の姿だ。
「マスター、コーヒーのお代わりを。貴方の淹れるコーヒーはとても美味しい」
「おや、そんなに飲むとはお気に召しましたかなお嬢さん」
「ええ。トラジャとコナのブレンドらしいのは分かります。ただ少量飲んだ事がない豆が使われている」
「それは当店の秘密さ。けどそうだね、可愛らしいお嬢さんには特別に美味しく淹れるコツをひとつ伝授してあげようか」
「む。それは是非に」
コーヒーのお代わりを頼むルナが何気に凄い事を言っている。ブレンドコーヒーから何の豆が使われているか当てているの?
彼女のちょっと凄い能力に感心と驚きを持っていたら、店内に鐘の音が鳴った。
ボーン、ボーンと低い音で不快にならない自己主張をするのは壁にかけられた小さな振り子時計だ。私は今まで振り子の音が気にならなかったけど、こうして自己主張されて初めて振り子の振れるチクタクという音が意識に入ってくる。それだけこの店内に時計の存在が馴染んでいたみたい。
時計が指した時刻は長短の針が一直線になる六時。……六時っ!?
「嘘っ!? 時計が狂っているの?」
「いや。そもそもここでランチを始めたのが遅い時間だった。ランチしながら話し込んで、食後も話し込めばこの位にはなる」
「そう。コーヒーも何杯か飲んだし、結構時間経っているか」
「主、それ以上コーヒーを飲んでは毒になる。今日はもうやめておく事を進言する」
「……残念だ」
確かに外の様子が窺い難い半地下の店だし、奥まった場所でずっと照明の下、他にお客も来ないし時間の経過が分からなくなる要素は沢山ある。
マスターの話では、あの振り子時計は六時間ごとに鳴るようになっている。毎時間鳴るのと違い、これも時間が分からなかった原因か。
グレイさんとの話は有意義な時間だったけど、夜になると物騒になるこの街で寝る場所を確保していなかったのは痛い。最悪あの車の中でもう一泊かな。
「そうだな。君ら、俺が泊まっているホテルに来るか? 部屋の空きは充分なのは確実だし、チェックインが遅くなっても大丈夫なところだ。何よりここの商店街の中にあるから歩いて行ける距離だぞ」
宿の心配をしていた矢先に、宿を紹介された。グレイさんにはこの街に着いたばかりと話したけど、すぐにホテルの事にまで気を回せるとは流石社会人。素直に感心してしまう。
「すいません、ありがとうございます。何か気遣ってもらって」
「いいんだ、変に遠慮することはない。こっちはジアトーの貴重な情報が手に入ったし、情報料の一環だ」
お礼を言うとグレイさんは構わない、と手を振ってくれた。厳つそうなトカゲの顔だけど、笑うと愛嬌がある顔をしている。
私は横を見て、ルナとマサヨシにグレイさんの紹介するホテルで構わないか伺うと揃って頷いてきた。今夜はまともなベッドで眠れそうだ。
全員問題なしと見たグレイさんも大きく縦に首を振って、マスターに声をかける。ホテルに電話を頼み、予約を入れて貰うようだ。
ほどなく予約がとれたと言葉が来て、彼はまた頷く。
「今夜の宿の心配がなくなったところで、お近づきの印に一杯いこうか。アル、ここからは勘定をつけて酒を頼む。それと何か摘めるものも」
「え? 酒っすか」
「どうしたデカイの。下戸か?」
「いや、下戸とか言う以前に未成年っす」
「どうにも固いな。歳幾つだ」
「十七っす」
「俺がそのくらいの時はビールぐらい飲んでたぞ。ボクシング現役の時はスッパリやめてたが」
前言撤回、悪い大人がここにいる。私の感心返せ。
宿の心配がなくなったものだから晩酌に誘ってきたよこの人。その顔は渋い男性のものから、飲兵衛のオヤジに変わっている。私としてはさっきまでランチを食べてた感覚だったから、もう食べ物が入る気がしない。
それにしても、マサヨシって私の一個下なのか。ルナさんは年上っぽいし、この中では一番年下で弄られやすそうね。可哀そうに。
マサヨシが場の変化に戸惑っている中、マスターがお酒のボトルとグラス、おつまみを入れたお皿をテーブルに出してきた。
「バカルディ。ラム酒か。しかもストレートでノーチェイサー」
「酒に氷を入れたり、水で薄めたりする習慣はここにはないぞ」
ルナが驚愕の内容を言ってくれる。ラム酒をストレートで、ですと。
大学のコンパでもビールかチューハイがいいところだった私にハードルが高すぎる物が出てきた。
戦慄する私に一切構うことなくグレイさんはラム酒の栓を抜いて、小さなグラスに透明な液体を注いでいく。その瞬間から強いアルコールの臭いと、どこか芳しい匂いがテーブルに広がる。
「ふふん! ここはこの紅き月が乾杯の音頭をば――」
「まあ、宜しくって事で乾杯だ」
「うおぃ、レイモンド酷い」
山田も何だかんだ言ってグラスを手に取って、マサヨシは恐る恐る、ルナは何時もの平坦な表情だけど割とぞんざいにグラスを掲げる。みんな飲まないって選択は無いようだ。
ああ、明日きっと大変なんだろうなと思いつつ、私も強いアルコールの臭いがするグラスを掲げて乾杯の合図とした。
軽く触れ合ったお互いのグラスが澄んだ音を立てて弾ける。今日も一日が無事に過ぎていきそうだった。