2話 Iron Fist
ゲアゴジャ。その都市はハイマート大陸西部にある都市の中で最も生活水準の高い街になる。人口や物流の多さは他の都市に譲るが、市民生活に必要な要素は他の都市に比べて軒並み豊か。
何かと乾燥しやすい大陸西部でも穏やかな気候で治安も良好。街の住人達の環境意識が高く、街並みは綺麗なものだ。正に住みよい街を具現化したような都市になる。
それが一変したのは俺と同じように、こちらの世界に転移してきた元プレイヤー達のせいだ。心無い連中の無軌道な振る舞いがこの街に暗い影を落とし始めている。それを実感するたびに、同じ元プレイヤーとして恥ずかしい思いをこの一ヶ月抱いてきた。
アストーイアからコラッド河を遡った定期船は、昼過ぎにゲアゴジャに到着した。
河の両岸に開けたコンパクトな街、それがゲアゴジャの見た目の印象だ。コンパクトといっても俺が逗留しているアストーイアよりも人口は断然多いし、背の高いビルディングも立ち並んでいる。それでも日本の都市部の光景を見慣れた人間からすると、緑が多くどこか長閑な印象がある。
河の西岸にある桟橋から街に降り立った。横の車道では、物資を積んだトラックや自家用車が先を競うように船を降りていき、車を持たない乗客達もせわしない様子で桟橋を歩いて街並みの中に消えていく。
ある『事情』のせいで、ゲアゴジャ・アストーイア間の陸路は不通同然になっているから船の利用者はとても多かった。
その中に一人気になった人影を見つける。船の上で気分悪そうにしていたスーツ姿の若い女性だ。余りにも顔色が悪そうだったので声をかけたのだが、穏やかに心配無用と返されてしまった。大き目のスーツケースを片手に歩く彼女の姿は、日本でも見かける仕事の出来る女性という感じがした。
彼女の顔色は悪いまま変わりない様子だが歩く足には力がこもっていて、あの様子なら確かに心配無用だろう。
女性から視線を切るとゲアゴジャの街並みに足を向ける。今夜の試合の前にやるべき事が俺にはあった。
ゲアゴジャのモデルとなった都市はアメリカのポートランドという都市らしい。産まれてこの方日本を出た事がない俺としては全く実感が湧かないが、日本と違う異国に居るということは肌で感じられる。
何かの本では、長く海外で暮らしていた日本人が帰国した時に「日本の空気は味噌の匂いがした」と書いたらしい。このゲアゴジャやアストーイアも、日本とは異なる空気が流れているように思えた。
レンガが敷かれたメインストリートを歩き、周囲を見渡せばコンクリートとレンガ造りのビルが立ち並ぶ風景。湿気の少ないカラリと乾いた暑さが身を包み、空には雲の少ない青空が広がる。
コレだけを見るなら平和そうだが、道行く人の雰囲気は暗く、陰湿な空気は街を覆っていた。
この一ヶ月で賑やかだった西岸地域のダウンタウンも人が減り、街路に転がるゴミが増えて、壁に意味不明のラクガキがされている場所が多くなった。
目に見えて治安が悪くなっている。遠くではパトカーの物らしいサイレンと、銃声まで聞こえる。俺がここに来た当初では信じられない荒廃ぶりとなっている。
急激な治安の悪化で街を離れる人が増えて、ダウンタウンの表通りにはシャッターやフェンスで店を閉める店舗が目立っている。そこから一歩裏通りに入れば、寂れ具合は一層ひどくゴミと一緒に人も道に寝そべっていた。
ゴミにも人にも目をやることなく足を進め、裏通りにある一軒の店に入る。そこが俺の目的地だ。
階段を下りて半地下にある堅牢な扉を開けると、扉に付いているベルが鳴る。薄暗い店内に似合わない澄んだ音がして、中にいた人物はこちらに気付いた。
歳はアストーイアのバーガー店の店長ミックと同じぐらいの壮年の男。港湾労働者だったミックと違いこちらは細身で物静か、ダンガリーシャツとメガネが印象に残る文化系のインテリ然とした男性だ。
「ああ、レイモンドか。いらっしゃい」
「やあ、アル。ランチくれないか」
「ん、座りなよ」
この街で知り合った男性、アルに席を勧められてカウンターの席に座る。木目調の落ち着いた雰囲気の店内に自分の他に客はいない。
裏通りの目立たない半地下の店というせいもあるだろうが、ここまで客がいないのも街の雰囲気と無関係ではないだろう。カウンターに着くアルの表情が沈んで見えるのも気のせいではない。
「先週に来たときよりも街が荒れていたな」
「ああ、ひどいものさ。一昨日なんかはこの店に強盗が入ったよ」
「本当か? 大丈夫だったのか」
「散弾銃で脅しつけたら逃げていった。今じゃ道を歩いている時でも銃がなければダメだよ」
調理をしながらアルが指で天井を指すので上を見てみると、そこには銃弾で開いたと思える穴がポッカリとあった。おそらくは威嚇で撃ったのだろう。
店の店主が銃器で武装するとは、まるで映画で見た無法者の街みたいだ。ここを襲った強盗も運がない。いや、見る目がないな。ここは表通りにある普通の飲食店とは毛色の違う場所だというのに、それを見極められなかったのだから。
「よし出来た。はいどうぞ」
「ありがとう」
出てきたランチは、コンソメスープにサンドイッチと軽いものが中心。今夜出場する予定の試合も考えてくれたのだろう。感謝をこめて頂くことにした。
この店は夜の酒場の顔がメインになっている。しかし店主アルの料理の腕は良く、昼の喫茶店としての顔もそれなりに繁盛していたのだ。それもこの一ヶ月で様変わりしたのが物悲しい。
サンドイッチに口をつけ、スープを飲んでいく。どちらもしっかりとした味付けがされて、胃袋を満足させる昼食だった。こんな状況なのに味は前と変わらないのは、アルの料理人としてのプライドかもしれない。
このまま食後のコーヒーをもらいつつ、アルのもう一つの仕事について話をした。
「それで、成果は上がったか? 顔を見る限りでは芳しくないのは分かるが、経過は聞いておきたい」
「正解だよ。調査して二週間目だけど、ヒットなし。少なくとも国内にはいないね」
「そうか、となると東か北か」
「国外となると追加の調査費用は結構かかるよ。それでも続けるか?」
「……少し考えさせてくれ」
返ってきたアルの言葉は俺を落胆させる。予想はしていたが、ここまで面倒なものとは思っても見なかった。
この店は単なる飲食店ではなく、一種の情報屋を営んでいる。この大陸のあちこちにネットワークを持ち、そこから寄せられた情報を売り買いしているのだ。時には探偵じみた真似で独自に調査をして情報の確度を高めているらしく、情報屋アルの信頼はかなり厚いのだという。裏社会の人間から、時には警察からも頼りにされているらしい。
そんな彼と知り合い、親交を深めたところで依頼したのが息子の行方探しだった。評判の高い情報屋ならば警察や探偵に話を持ち込むより良い方法と思えたのだが、そう上手くいくものではなかった。
やはり手元にある情報が少なすぎるのが痛手だろう。
「だいたい、この一ヶ月の間に現れた『壱火』という人物を大陸から探せという注文も厳しいぞ」
「分かっている。だが名前しか知らないんだ」
「名前としては珍しいが、それを大陸中からとなるとな」
「悪い。無茶言っているのは自覚している」
俺の息子、勝又総司はゲームの『エバーエーアデ』のいろはを教えてくれたゲームの教師役だった。あいつは親に自分のキャラクターを見られるのを嫌がってか、自分がプレイしているところを見せた事がほとんど無い。総司も高校生、難しい年頃って奴かもしれない。
そんな息子から何とか聞き出せた自キャラの名前が『壱火』というものだった。結局情報はコレだけで、性別も容姿も活動場所も分からずじまい。当時は無理に聞く気になれず、話題を変えてしまった俺だったが、今はひたすら後悔している。
少し温くなったコーヒーを口に入れて、後悔と一緒に飲み込んだ。舌に感じる苦味はいつも以上だ。
「今日の試合でファイトマネーが入る。そいつで追加調査を頼みたい。いいだろうか?」
「分かった。今の君はお得意さんだし、勉強させてもらおう」
「ありがとう、本当に」
「よしてくれ、こいつも仕事だ。……でもな、今の街やお国の時勢だと調査が長引いてしまうかもしれない。そこは覚悟してくれ」
「お国って、ジアトーの事か?」
「まあな。詳しくは有料だけど、どうもキナ臭い。忠告するが、行かない方が良いぞ」
調査続行を依頼して、いきなり暗雲が垂れ込めてきた。新聞で読んだジアトーの連絡不通、ゲアゴジャの治安悪化、取り巻く環境は日に日に悪くなっている。
この中で息子の行方を捜すのは有能な情報屋でも難しいのだろう。情勢を話し始めるアルの顔色は冴えない。俺の表情もきっと似たり寄ったりな顔になっているはずだ。
暗い話で元から薄暗い店内が一層暗くなった気がして、気分を紛らわすつもりでスーツの内ポケットからタバコの箱とライターを取り出す。するとこちらの様子を察したアルが、カウンターにガラス製の灰皿を出してくれた。
「すまんな」
「いや。……どうにも、最近のデナリには良い話がない。その壱火って人が君の大切な人なら、むしろこの国にいなくて良かった、そう思えばどうだい?」
「そういう考え方もアリか」
タバコをくわえ、オイルライターで火をつける。喫煙を始めて十年ぐらいが経ち、動きそのものは身体が変わっても覚えている。昔は体を鍛えるために酒もタバコもコーヒーさえも飲まなかったが、今ではすっかり悪癖が身に染みついてしまったものだ。
そういえば、総司にはタバコの臭いが不評でしょっちゅう文句を言われていたな。吸い込んだ煙に息子の文句を重ねて、苦笑してしまう。
アルの言葉に励まされたのもあってか、随分気が楽になった。確かに安否も確認しない内から絶望感に浸っていても建設的とは言えない。俺はもう若くは無いが、まだまだ前向きに生きていけるはずだ。
そのまま一本タバコを吸い尽くして腕時計に目を落とすと、ちょうど良い時間になっていた。
「じゃあ、試合の時間だ。ごちそうさま」
「ああ。無責任に応援する気はないが、死なないようにな」
「死なんさ」
ランチの代金を払いドアベルに見送られて外へ。それなりに時間を潰したため、空の太陽はだいぶ傾いた位置になっていた。建物の影が長くなりだしている。
試合の会場までは公共交通の路面電車を使い三〇分の距離で、試合開始までは後一時間半。ほどよい頃合だ。店内で脱いでいたソフト帽を被って、もう一本タバコに火をつける。
今日も稼ぎに行こう。そのぐらいの気負わない気持ちで、俺は路面電車の停留場に向けて足を踏み出した。
流れる紫煙の臭いに混じって、血と硝煙の臭いが心なしかした。今日もこの街は不穏な気配がしている。
◆
手から腕にかけて念入りにバンテージを巻いていく。単なる布帯に過ぎないバンテージだが、この布が拳を護るためには有効で拳を固めるにも効果がある。
手早く、だけど緩まないようしっかりと巻く。本格的にこういう作業をするのに十年のブランクはあった。しかし意外と覚えているもので、俺の暗緑色のウロコの肌に白いバンテージが問題なく巻かれる。
グッと拳を握り締める。もうそれだけで俺の二つの拳は一組の武器となる。
「ヘイっ! グレイ、出番だぞ」
「分かった」
かけられた声に応えて、俺は控え室を出る。控え室と試合のあるリングまでそう距離はない。だから観客達の熱気とざわめきがここまで伝わってくる。
俺はもうスーツ姿ではない。上半身は裸で、下はすねにかかる程度の丈を持つパンツ。足には滑りにくいシューズを履く。この競技に明確な服装規定は存在しないが、昔に近い格好の方が何かと都合が良いため試合ではこの格好で通している。
一緒にリングに向かうセコンドはいない。この戦いは昔、俺が身を捧げていたボクシングの世界とはかなり違っていた。
控え室から短い廊下を歩き、リングのある会場に入る。薄暗い部屋から眩いライトの当たるリングへ。同時に観客達のざわめきが一層高まる。この辺りの感触は昔と似ている。
向かう先のリングを見据える。広さと形状そのものはボクシングのものと大差ない。だが、リングの周囲には金属製のフェンスが張り巡らされ、観客とリングを隔てている。これではまるでプロレスの金網デスマッチのリングだ。
この試合が開かれている会場そのものも余り広くない。すぐにフェンスに辿りついた俺は、係員によって金網の中に選手として招かれた。
「さあ今週も鮮血の決闘、フェイスオフの時間が始まりました。実況はこの私、むさい決闘場に咲く一輪の花、シェリルがお伝えします。今週は実行委員の方が張り切り、リングは頑丈なフェンスで囲われていますっ! 名付けて金網デスバトルぅ! 引く逃げるのも無理、死ぬ気で戦えって事ですね~」
実況アナウンス席にいるハイテンションな女性の声に思わず呆れてしまう。どうも本当に金網デスマッチらしい。今更ながらエライのに出場してしまったな。
『フェイスオフ』――スラングで取っ組み合いを意味するこの競技は、このデナリ首長国で人気のある戦いだ。スポーツ、とは日本人の感覚からして言いがたい。ルールは単純。一対一で戦い、武器を使用せず素手で戦うこと。それ以外では本当に何でもアリだ。目潰し、金的、ヒジヒザの使用、なんでも認められる危険極まりない戦いである。
加えてこの競技では賭博も公に行われており、観客席で今も係員から発券された賭けの券を買う人が多く見受けられる。日本、いや世界的に見てもこういったのはアンダーグラウンドな臭いがするはずだ。でも驚いた事にこの競技は国が認めているし、実況席のアナウンスは街の放送局で中継されてラジオ放送されているのだ。
「さあ、そんな痺れる本日の一発目は、レイモンド・グレイ対フィックス・シザーのカードだ! 二週間前にこのフェイスオフ界に現れ、二つの拳のみで戦う潔い戦いぶりが一部のマニアのハートをがっちりキャッチしているリザードマンのグレイ! 対するは、人狼族の瞬発力を活かした高速戦を得意とするスピード自慢のシザー! 勝つのはどちらだ!」
俺が上がってきた方向と対面になるような位置からリングの上に上がってくる人狼族の男性、あれがフィックス某か。
フェイスオフでは現代の格闘技では信じられないくらいに試合間隔を短くできる。実況席で言われているように、俺がクララの仲介でこの戦いに出るようになって二週間しか経っていないが、その間に六試合も出場出来てしまった。出場は選手の任意に任されるところが多く、その日出場する選手を運営側が見繕って対戦カードを作るかなり大雑把な仕組みらしい。
こちらに転移した時に手持ちの資金が心元なかったため、前職を活かしてこんな事をやっている。他に金の稼ぎ様はあるはずなのに、ボクサーとしての業は存外根深かったみたいだ。
感傷もほどほどで切り上げ、本日の対戦相手を観察して力量を測ることに専念する。ボクサー時代と違い、対戦者の前情報が全くないところから戦わないといけない。これが精神的に結構負担になる。
俺と同じく上半身裸の青年、歳は二〇代だろうか。人狼族の特色である耳と尻尾が無ければ、日本の街でもそれほど奇異に見えない男だ。引き締まった上半身の筋肉は無駄が無く、いかにも身軽そうだ。もうこの段階からステップを踏んで疾走に備えている。ボクサーだったらアウトボクサー的な戦い方が得意そうな感じを持つ。
だがここは何でもありのフェイスオフ。どんなものが飛び出すか油断はできない。お互いがリングのコーナーに位置取り、ゴングが鳴るのを待つ。
こちらを睨み、ステップを踏むフィックス某。応えるように俺は何万回も繰り返したファイティングポーズをとって構える。
首筋の辺りがチリチリと熱を持つ。吸い込み、吐き出す息が熱い。これだ、この感覚だ。
今この瞬間において俺に意味があるのは、自分と相手のただ二つ。息子の行方も、活動資金も、クララのこともこの時だけは意味を持たない。罪悪感を感じるが、それすら闘志で塗りつぶす。
余計なことを考えると勝てる試合も勝てない。俺が現在することはこの対戦相手を殴り倒すことだ。
「それではお待たせしました! フェイスオフ今宵の第一試合、レディ~、ファイ!」
アナウンス嬢の声と同時にゴングが鳴る。ボクシングと同じ金属の打ち合う澄んだ音が号砲だ。
その号砲と同じくして対戦相手が消えた。
僅かにゴングの音に気取られた一瞬の隙を突いて動いてきたのだ。でもどこに? 素早く左右、下と死角を確認。いない。
リングのマットに影が差している。まさかと思い、上を見上げれば金網の天井を足場に跳躍の姿勢をしている対戦相手。天井までは三Mはありそうだ。なんて跳躍力だ。
「きえぇぇい!」
落下速度に脚力を上乗せした飛び蹴りが奇声とともに襲ってきた。その姿は狼というより猛禽類。
こんな攻撃はガードできないし、カウンターも無理がある。取れる手段は回避だけ。素早く体重を移動、最速で捻るように飛び蹴りをかわす。蹴りを受けたコーナーのポストがひん曲がり、その破壊力に背筋が凍る。
が、相手の攻撃はまだ終わっていなかった。蹴り足がポストに刺さったまま軸足に変わり、反対の足がなぎ払うように振るわれてきた。極めて変形した後ろ回し蹴りだ。
認識一秒未満。条件反射に近い動きで両腕を盾にしたガードは、間に合った。衝撃を殺すべく腕に感じる衝撃に逆らわず後ろに跳ぶ。
「くうっ」
脚力はかなりのものだ。あんな変形した蹴りなのに腕を痺れさせる。数Mの距離を跳んだ俺は、リングの中央にいる。
開始直後の大技、奇襲としては申し分ない。俺もこれには度肝を抜かれた。どんなものが飛び出るかと身構えていたのに関わらず、さらに上をいくとは。
ポストから降り、またステップを踏むフィックス某。その口元は微かだが歪んでいる。うん、舐められているな。
ステップから今度は疾走。しかも恐ろしく前傾姿勢で走ってみせる。相手の体が下がり過ぎて、こちらの持ち技ではアッパーぐらいでしか対応できない。だが迂闊にアッパーを放って、避けられた隙は埋めがたいものになる。こんな非常識に身軽な相手なら尚更だ。
狙うなら攻撃をしかける瞬間だ。そう考え、疾走してくる相手に身構える。
疾走から攻撃に。急速停止した獣はその運動モーメントを攻撃力に変換して襲い掛かってくる。またも蹴り技、ノドとアゴを狙う掬い上げるような前蹴りだ。
テレビ観戦で見た総合格闘技の選手より何倍も速い蹴りだ。前の俺だったら、現役時代でも反応できないだろう。
だが、今の俺なら捉えることができる。後ろのスペースに余裕はあるから僅かに後退してスウェーで避ける。直後にその隙を突かせてもらう。
そう思ったら、避けたはずの攻撃が当たった。ブレる視界、アゴに感じる衝撃。だがまだ倒れてはいない。思考もまだ働く。
何があった? 混乱に支配される頭を建て直し、フィックス某を見るとその場でとんぼ返りを打った直後のような着地姿勢をしている。足も蹴りを放ってきたのと反対の足に赤い色が付いている。
どうやら蹴り上げた足が避けられた直後に軸足も蹴り上げて、体を一回転させつつ攻撃を仕掛けてきたらしい。やろうと思えば俺でも出来るだろうが、戦いの中で技として組み込んでくるとは恐ろしい奴だ。前の六戦ではいなかったタイプに俺は戸惑ってしまう。
そしてさらにこちらを畳みにかかったようで、着地直後から一気に踏み込んで間合いを詰めてきた。今度は前傾姿勢はなし、迎撃はできる。
けれども俺の体が動かない。いや、動く事は動くが動きがいちいち鈍い。
「……な、に」
まさかアゴに受けた衝撃で脳が揺すられたのか。経験もあるし、考えられる。崩れ落ちないのが不思議なくらいだ。
迫る対戦相手に俺が出来ることは、またも防御。必死に腕を動かし、ガードを間に合わせる。
どうにか腕を上げたところで衝撃。ここから相手のラッシュが始まった。
「ラッシュ、ラッシュ、ラッーーシュ! シザーここで一気に決める気なのか、開始一分もしない内に怒涛の攻めだ! そしてロープに押し込まれたグレイは、ガードしたまま打たれるまま、このまま終わってしまうのか!?」
連続したパンチのコンビネーションが降りかかる。頭をガードする俺の腕を下げるべく、ボディを重点的に絶え間ないパンチ。背中にはいつの間にかロープを背負っていた。
俺は腹筋を締めて、ガードを下げないように耐える。不幸中の幸いは、相手が打撃技中心のストライカーで関節技、投げ技を仕掛けてこないことだ。そうなったら今の俺はジ・エンドだ。
このフェイスオフにはラウンド制といったものはない。ゴングに救われることがない以上、どちらかが倒れるまで試合は終わらない。
衝撃でブレる視界の中、対戦相手のフィックス某の顔が見える。かすかに歪んでいた面相が、完全に笑みの形になっていて嗜虐の色が濃く出ている。
完全に楽しんでいる。このまま良い様にいたぶる気だ。いいのか俺? このまま舐められて負けたとあって。
良い訳が、ないよな。
ブレていた視界が急速に正常さを取り戻す。断たれた体と意思の接続が繋がる。動けるか? いや、無理にでも動いてみせる。
パンチを繰り出してくる相手の内懐に肩を入れ、強引に押し入る。ボクサーとしてラフファイトもこなしてきた身だ。このぐらいは出来る。
そして相手が次の行動を起こす前にこちらが動く。下肢のバネを拳面に伝えれば、密着した状態でも充分な威力のパンチを放つことが出来る。俺はその理論を実証した。
肉を打つ重たい感触が手に伝わり、相手がくの字に体を曲げる。
「お前の蹴りは中々だけど、パンチはまるで軽いぞ」
「――っ!」
そう、こいつのパンチは派手な見た目の割りに軽く感じた。だから数で勝負なのだろうが、もう遅い。今から先達としてパンチの手本を見せてやる。
まずは基本中の基本のジャブ! 俺の場合はサウスポーのため、右で繰り出す右ジャブだがやることは変わらない。素早く鋭く、なおかつ腰を入れてしっかりと相手に打ち付ける。
ボディに喰らった衝撃で足が止まったフィックス某にジャブは面白いように決まる。
そして左のストレート。下肢から腰、肩、腕と力の伝導が充分に行われた一撃は、相手の眉間に叩き込まれる。
吹き飛ばされるように彼の体は反対のロープへと後退する。すかさず追撃。
今日は良い感じにキレいる。土産だ、こいつには俺の得意技を見舞ってやる。
ストレートを放った左を構える。拳の位置はフックとアッパーの中間位置。スリークォーターから放たれる一撃、すなわち――
スマッシュ。
めきょ、と何かがへし折れる音が拳を伝わってきた。相手の口からポップコーンみたいに白い歯が飛び出てくる。へし折れたのは彼の歯のようだ。いや、感触からするとアゴも砕けている。
バッタンとマットに仰向けに倒れる相手は顔面血まみれでピクリとも動かない。派手に吹っ飛ぶことがなかった分、衝撃はもろに彼の体を襲っただろう。
ここで周囲の音に気を回すだけの余裕が戻ったが、妙に静かだ。耳がおかしくなったのか疑うほどの静かさの中、ゴングが数度鳴り渡る。すると怒号のような歓声が襲い掛かってきた。
「凄まじい逆転劇! 魅せてくれましたこの男! あまりにも凄まじくて、うっかり実況を忘れるアナウンサー泣かせな神速をグレイは見せてくれた~! 観客のゴミ共は座りションベンしてるじぇ~」
公共の電波に乗せるには品が無い実況をしているアナウンサー嬢の声を聞きつつ、試合が終わったことを悟った俺はリングを降りる。同時に対戦者のフィックス某も係員によって担架でさっさと運ばれていく。
勝利者インタビューも対戦者との会話もなし。この後何試合か控えているにしても味気がない終わり方だ。
だが、
――レイモンド! レイモンド! レイモンド!
この観客たちの俺をコールする声は心地が良い。拳を振り上げてみせる。歓声はさらに盛り上がった。
ああ、本当に懐かしい。
控え室に戻る道行、俺は過去を想っていた。
◆◆
ゲアゴジャの街が近づくにつれて、周囲の風景は変わっていく。緑が乏しい荒野から目に映える美しい田園風景に。人気のない無人の原野から農作業に勤しむ人が見られる農地へと変わっていた。
ジアトーとは違いゲアゴジャの近郊は農地になっていて、ジープを走らせる五号道路の両脇にも耕された畑が広がっている。見える限り一面に広がる畑はかなり壮観で、遠くに見えるトラクターが無ければ遠近感が狂いそうだ。
こうして人気があるところを見ると、いよいよ目的地は近い。
軽く車上の様子を窺ってみる。助手席にいるマサヨシ君は周りの広すぎる畑の光景に目を奪われて、首を横に向けたままだ。都会っ子らしい彼は、スケールの大きなものに慣れていないのかもしれない。
バックミラーで水鈴さんを見やる。彼女はバッグから取り出したのか、一冊の本を読んでいる。未舗装道路で結構揺れているはずなのに平気そうだ。ジンはその彼女の隣で体を丸めて目を閉じている。眠っているという様子はなく、疲れているようにも見えない。やる事がないから休んでいるだけ、なのだろう。
脱出劇の後に魔獣と戦闘そして野宿とハードな場面があったはずなのに、二人に疲労の色は見られない。自分は経験があるから問題ないにしても、彼らはどうなんだろうか? 若さか、現在の異常な身体能力だからか、あるいはその両方か。
「もうそろそろゲアゴジャに到着する。まずは……」
「昼飯っすね!」
「……そうだね」
台詞を横からマサヨシ君に掻っ攫われた。それほどに空腹なのか。ジャケットのポケットから銀色の懐中時計を出して時刻を見れば、確かにお昼時。彼の腹時計は中々に正確である。
この懐中時計もゲーム内のアクセサリの一つだ。と言っても大した物ではなく、ゲーム画面を映すディスプレイ上に懐中時計型の時刻表示をする文字通りのアクセサリに過ぎなかった。個人の好みで色々な色と形状を楽しめるようにはなっているが、ステータスに変化は起こらないアイテムだった。
けれども、時間を知る事は現実では重要だ。それが戦闘行動だったら尚の事。昨夜の内にバッグの中身を漁り、時計を探して出てきた物がコレになる。古めかしい外見だが、機能は問題ない。
その懐中時計が示す現在時刻は十一時過ぎ。この辺りが若いマサヨシ君が空腹を言い出す頃合なのか。
「もう数十分待って。それに向こうが安全か保障はないから」
「あ~、確かに。向こうもジアトーみたくドンパチしているかもしれないか」
「でもそれなら、この辺りの農家の人も逃げているじゃない。案外大丈夫かもしれない」
「お。そう言えば、そうだ」
水鈴さんの言葉も頷ける。ジアトーみたいに荒れていれば、この辺りの農家の人達はとっくに逃げ出すか家に篭っている。ああして普通に農作業しているように見えるなら、街も安全だと考えられる。
けれど無防備になる気はない。自分の身は自分で守る。その当たり前の心構えをこの世界に転移してから改めて思い知らされたのだから。
自分がハンドルを握るジープは低い丘を越えて、また一歩ゲアゴジャの街に近づく。途中で移動中のトラクターを追い越し、乗っていた農夫から手を振られる場面も交えてさらに南へ。
そうして見えてきたゲアゴジャの街は、大きな河のほとりに広がるこじんまりとした街だった。
「あれがゲアゴジャかぁ」
「ゲームで見たのと違って、随分と小さく見えるわね」
水鈴さんの言うように『エバーエーアデ』に出てきた街とは印象が違う。もっと都会という印象だったが、ここから見えるゲアゴジャはジアトーよりは大きいものの随分とコンパクトだ。人口密度の多い日本の都市部と比べるのは間違っているけど、日本の都会に慣れた人には田舎のように思えるかもしれない。
遠目に見える建物群には煙は見えないし、銃声や魔法が出す派手な音も聞こえてこない。河には幾つかの船がゆっくりと行き来して、それがさらにこの街の長閑さを演出している。
ジアトーのような混乱とは無縁の平和な街、そう見える。だけど、やはり自分は油断するつもりはない。人が集まっている以上、争いの種は何時だって何処にでも転がっているからだ。
「主、貴女の背中にはこの身があることをお忘れなく」
「うん……」
こっちの危機感を察したのか、ジンがかけてくれた言葉は今までに無く優しい響きがある。誰かに思われるなどという経験の無いことに、返せる返事は我ながら素っ気ない。
目の前に広がるゲアゴジャの街にわずかな不安を感じながらも、自分はジープの進路を街に向けた。
はい、はじめの一歩と映画のロッキーに洗脳されました。言い訳しません。
これを書いている時は脳内でロッキーのBGMが流れっぱなし……反省しています。