20話 旅路
「敵が残っているかもしれないから気をつけて」
「うん、分かった」
彼女の言葉に頷き、私はルナの小さな背中を見ながら店の中に入る。
土埃で汚れたガラス戸を開けば、どこか雑然とした印象がある店内が目に入る。鼻を刺激するのは、ここ数日で嗅ぎ慣れてしまった血の臭い。床には二匹の軍隊狼の死体が転がっている。
古い洋画で見かけるような銃を構えたルナが前を行き、店内をくまなく見渡している。その動きはニュースや映画で見た兵隊の動きに似ている。私も短刀『呪符刀・白蓮』を抜いて、魔法をいつでも撃てるよう脳裏に術式を準備しつつ辺りの様子を探る。
意識を耳に向けると頭上の獣の耳が動き、周囲の音を拾う。前で警戒しているルナと、外で作業しているマサヨシが出す物音以外は不審な音はなく、時折風が鳴く音がするぐらい。
大丈夫なようだ。ルナからカウンターの裏に従業員の死体もあると聞いているので、そこは極力見ない様にして動く。
「敵はいない、みたいだね」
「ああ。大丈夫とは思う」
ざっと見て、敵はひとまずいないと判断した私達は警戒を解いた。ルナは構えていた銃を肩に担ぎ、私は短刀を後ろに差した鞘に戻す。正直に言えば、今日はもう戦いはやりたくない。
戦いが終わって、一〇分程の時間が流れていた。あの沢山いた犬――軍隊狼を私達はどうにか撃退できた。狼達はその数を大きく減らし、残り数匹になったところで逃げ出して戦いは終わった。
みんなにケガはない。ゲームでは低レベルの軍隊狼を相手にダメージは考えにくいけど、これは現実。戦いとは無縁な生活をしてきた私に獣と戦うのはしんどい事だった。こんな中でケガらしいケガがなかったのは本当に幸運だと思う。
だけど、ケガはなくても心が疲れて休みが欲しい。さっきまでの戦いで、およそ気力というものが根こそぎ殺がれ、どうにもやる気が湧かない。それに魔法も結構使ったせいか体内にある『何か』が目減りして、それが徐々に回復しているのが自覚できる。確証はないけど、多分これがMPに相当する感覚だろう。
戦い、命のやり取りというものは怖い。そんな事を当たり前のように行う私自身も怖い。これからも戦いがある未来が怖い。
漫画やゲーム、映画に登場する人達はどうしてあそこまで勇敢に戦えるのか? 実際に戦いに放り込まれた身としては不思議でならない。
フィクションと言われてしまえばそこまでだけど、物語を作るのは人だ。人が経験の上に想像を重ねて物語はできる。戦いの経験は物語の中にだってあるのだ。そこから学べるものだってあるはずなんだけど、今は無理っぽい。
「じゃあ、私は死体を片付けたらジープに燃料を入れてくる」
「うん。その間にこっちは、役に立ちそうな物を見つけて回収すればいいのね?」
「そう。何かあれば呼んで」
「ええ」
戦いが終わっても、やる気がなくても休んでいる暇はなかった。軍隊が近くに来ている中では手早く用事を済ませたい。
だから私達三人は、それぞれ役割を分担して補給活動をすることになった。車に慣れているらしいルナが燃料補給、力仕事向きで頑丈そうなマサヨシが使い魔ジンと一緒に狼の死骸片付けと周囲の警戒をして、残る私が消耗品とか日用品を店内から物色して持ち出す役割となった。
火事場泥棒と言われても仕方のない行為だけど、店員も客もいないで品物だけがほったらかしというもの健全ではないと思う。だから役立てる事ができる私達が拾い上げる、という考えで落ち着いた。
ルナが大型犬ほどはある軍隊狼の死骸を引きずって隅にまとめ始めた。床に血の跡が残るけど、すぐに出立する私達には床掃除する暇はない。カウンターの裏に向かってゴメンなさいとだけ言っておく。
ゲームでは倒した敵は跡形も残さず消え去るものだった。後に残ったドロップアイテムを拾って一喜一憂、それが普通だった。でもここはゲームじゃない。殺した相手は遺骸を残すし、その始末もしなければいけない。現実では当たり前のことで、その当たり前に今更のように気付かされる。
ルナの作業を横目にしながら、私は本格的に探索を始める。鼻に入る臭いが気になって、シャワーかお風呂に入りたくなってきた。女子として鉄臭いのは色々アウトだと思う。髪の毛や尻尾に臭いが移らなければ良いのだけど。しかも毛の色も銀色なので汚れが目立つし、毛の質も違うだろうから以前よりも気を遣う必要がある。
身だしなみの心配をしながら雑貨屋の棚に陳列された品に目を通していく。
スタンド兼業だからなのか、バッテリー液やラジエーターの冷却液といったカー用品が目立つ。車の免許は取得している私でも機械はあまり詳しくない。具体的にどう使うのか分からないけど、必要なものかもしれない。後でルナかマサヨシに聞こう。
次に保存の利く缶詰、ビン詰の食料品、ビン入りの炭酸ミネラルウォーターも見つけた。ラベルのデザインは古臭く、何となく『昭和』って感じ。そう言えば、ジアトーの街の商店に陳列された商品もこんな物だったし、これがデフォルトなのだろう。この分ではインスタント食品やレトルト食品の存在は望み薄か。
「ねえルナ、コレ必要かな?」
「ん? ああ、ダッチオーブン。そうだね……この先を考えると持って行って損はない」
「分かった、持って行くね」
他にも空のポリタンクに、分厚い金属製の蓋付ナベのダッチオーブン、などといったキャンプ用品みたいなものも陳列されていて、これも幾つか持ち出していく。
たかだか一泊の予定しかない野宿に大げさな、とは思わない。よく考えてみると、目的地のゲアゴジャの街もジアトーみたく荒れている可能性があるし、帝国軍だって攻めて来ている。この先も野宿する機会は多いように思える。だから今のうちに道具は揃えておいて損はない。
口数が少ないルナの返答からそんな考えをくんで、巾着型のバッグに物資を入れていった。
一通り目ぼしい物に目を付けて、奥まった箇所にある棚に足が向かう。そこは衣料品のコーナーだった。
さすがに女性用のお洒落な服は置いていないけど、婦人用のブラとショーツはあった。これも実用性重視の可愛くないデザインだけど、替えの下着があった方が良いとは思う。『浄化』の呪紋があっても、心理的に着たきりスズメはキツイ。せめて下着は替えたい。
楽団にいた時から今までは余裕がなくて『浄化』で済ませてきたけど、いざこういう物を前にすると我慢が利かなくなった。
さっそくとばかりに下着へ手を伸ばしたが、はたと手が止まる。
「あれ? ……今の私のサイズって、いくつだったけ?」
元の自分、『鈴岡楓』のサイズは知っているが、今の『水鈴』のサイズは把握していない。
何気なく身体を見下ろす。白衣を押し上げて自己主張する胸の膨らみは、元の自分のサイズよりも明らかに大きい。うん、バストアップに憧れていた時期がありましたが、見事成功です?
仕様のない考えが湧いたけど、すぐにふるい落とした。やめよう、これは深く考えると虚しくなる類だ。
「目算だといい加減すぎるし、メジャーってあったかな。あ、それに尻尾は……有尾族対応型? こんなのあるんだ」
この世界の住人用に対応した下着の存在に感心しつつ、手にとってみる。なるほど、尻尾を通す穴が開いている。私が今穿きっぱなしなっている物もきっと同じ構造なんだろう。……何日も穿きっぱなしという事実を思い返すと汚いわね。『浄化』で対応できても精神的にくる。
浮かんでくる考えを打ち消し、メジャーを探してみる。けれど売り物として陳列棚には並んでいないみたいだ。
さっきまで狼の死骸を処理していたルナは……カウンターの裏から店の書類を出して調べものをしている。
「ねえっ、メジャーって見なかった?」
「ああ、ここにあるよ。店の備品だ」
投げてよこしてくれても良いのに、わざわざこっちまで来て手渡ししてくれた。彼女って結構育ちが良いのかもしれない。
私の身長よりも低いところに頭があるルナの姿を見てそんな事を思っていたけど、ある考えが不意に浮かぶ。この子も替えの服が必要では?
ボブにした黒い髪と黒い服が異様に似合うルナだけど、ここまでの道のりでホコリをかぶってしまい、灰色気味になっている。せっかく愛らしい姿形をしているのに、この現状は女子としてよろしくない。
「替えの下着を持っていこうと思ったんだけどね、今のサイズが分からなくて」
「ああ、だから巻き尺か」
「ええ、私と貴女の分も測るわね」
「私の分?」
小首を傾げて不思議そうな顔をする様もちょっと可愛く見える。表情の変化が少ないルナだけど、その分わずかな変化が分かりやすいのも彼女の特徴だ。
私の言った言葉の内容を理解して顔を強張らせる様子を見ていると、ちょっとイヂめたい気分になってくる。あれ? おかしいな、私ってこういう性癖は持ち合わせていないはずなのに。
「替えの服は貴女も必要よね? 今の自分のサイズは測った?」
「……いや、まだだ」
「ならこの際だし、一緒に測りましょ」
「………………分かった」
何かを諦めるような顔をして頷いてきた。うーん、前から思っていたけどルナはかなり人見知りする子のようだ。警戒心の強いネコを見ている気分になってくる。
厳密な計測は必要ないから、ジャケットとベルトを吊るすサスペンダーを外してもらいワンピースの上からメジャーを当てていく。
えっとトップとアンダーは――うん、見た目通り慎ましやかね。無いわけではないのが救いだけど。で、ウエストは――細っ! なにこの数字、世の女性を敵に回すわ。ヒップも小さめで全体的にルナの体は細く、けれどもガリガリな印象はなくて……そう、例えるなら私が持っている短刀みたいなイメージだ。強くしなやかでシャープな印象。
このサイズに合う下着はこの陳列棚の中からだと、一番小さいものになる。それを渡すと、彼女は静かに頷き「燃料の補給に行ってくる」と出て行こうとした。
「待って、私のもお願い」
「……分かった」
メジャーを渡して計測をお願いすると、ますます静かになってしまうルナ。上の白衣を脱いで肌襦袢の上からメジャーを当てて、粛々と数字を読み上げていく。賑やかな性格だった桜とは正反対なタイプみたい。
ともかく、肝心のサイズだけど――トップとアンダーからすると……D!? 『楓』だった時よりも格段に大きくなってしまった。ウエスト、ヒップも理想値に近い。なんて女子の夢が詰まった身体なのやら。桜がいたら頬っぺた位はツネられそうだ。彼女はあれで美容に気を遣っていたし。
「終わったけど、これで良いか?」
「ええ、ありがと。急ぐはずなのにゴメンね」
「いや、これも必要なものだろう。じゃあ今度こそ燃料補給に行ってくる」
お互いに必要な分だけの下着を上下で揃えて、バッグに詰め込む。その後で脱いだ白衣を着ていく。
和服は脱いだり着たりが面倒臭い。以前にバイトで巫女さんをやっていなければもっと大変だったろう。手順が分かるだけでもありがたい。
手間取りながら白衣を着ていると、ルナは急ぎ足で店の扉へ向かう。やっぱり少しのんびりしてしまったかもしれない。そう思っていたら――
「ルナさん、軍隊狼の片付け終わったんすけど……」
「――っ!」
マサヨシがルナの開けようとした扉を弾ける勢いで開け放って入ってきた。それも私が白衣を着ている最中に。
さらに折り悪く、苦労しながら着ているものだから襦袢の合わせが乱れてしまった。とっさに両腕が、さらには尻尾も胸元を隠そうと動くけど、マサヨシの目はすでに私の顔から下へと移動していた。
「あ、わわ……」
「ふう」
目線とは別に腰が引けているマサヨシに、軽く息を吐いて頭痛をこらえる様に額に手を当てているルナ。それらが映る視界がにじむ。多分涙が出ている。
男性に着替えを見られた、その事が思考よりも手を先に出させ、右手がマサヨシに向かって突き出される。そこに宿るのはスタンバイされたままの術式。
後は見えない引き金ひとつで充分だった。
「いやっ!」
「ゴメ、へっぶぅっ!」
手から撃ち出された空気の塊、『風弾』の呪紋がマサヨシのお腹に当たり、小気味の良い音をたてて彼の体が数Mの距離を吹き飛んでいく。
やってしまってから「ああ、しまった」と後悔してももう遅い。その時には、スタンドのコンクリートの床を転がっていく全身甲冑を見る破目になっていた。
これを横で見ていたルナはまた「ふうぅ」とため息を吐いて顔を俯ける角度を深くして、外にいた使い魔の黒猫はポツリと言葉を漏らす。
「何をやっているのだ、君達は」
全くよね。
◆
スタンドで軍隊狼との戦闘にその後に起こったハプニング、と傍から見れば喜劇じみたイベントに遭いながらも無事に補給を終えた。
途中で帝国軍が追いついてくる事も警戒していたが、そんな事態にならず心底ほっとしている。
スタンドを兼ねていた雑貨屋で物資を揃え、ジープの燃料を予備を含めて補給し、こうして仕切り直した旅路は順調に消化されていった。
時速六〇㎞を平均速度にして、四輪駆動の軍馬は荒野の道をひたすらに南へと進んでいく。
地図で見た通り途中に人家は全くなく、あのスタンドがあった事が不思議に思えるくらいだ。あるのは草と樹木が点在する乾いた原野。遠くに山脈が見え、むき出しの土の道は地の果てまで伸びていく。日本では絶対にお目にかかれない風景が全周囲に広がっていた。
照りつける太陽の光に容赦はない。空の青さよりも、太陽の苛烈さが身にしみた。
移動している間は割と賑やかだった。主にマサヨシ君がムードメーカー役を担って、あれやこれやと話題をポンポン出していく様子は見事と思う。それでいて、個人的な話題に触れないバランス感覚を備えているのが凄いところだ。自分だったら話している内にうっかり触れて、気まずい思いをするのが目に見ている。だから自分はお喋りは好きになれない。
それでも長距離ドライブで、何時間もある移動時間中ずっと黙りっぱなしというのもよろしくない。前の自分だったら車載のコンポで音楽をかけているが、ジープにそんなものは無い。マサヨシ君の提供する映画俳優の話題に乗って、無聊を慰めるのが良いところだった。
そうして数時間。太陽が西の空に傾き始めたところで夜を過ごすキャンプ地を探し始めた。
マサヨシ君や水鈴さんは言外に「早すぎない?」という顔をしているが、時間としては妥当なところと思っている。ジンも賛同の意思を表しているし、問題はないだろう。
整備されたキャンプ場でのオートキャンプとは違い、場所の確保、焚き木の確保で結構な時間を取られるはずだ。寝る場所をジープにしてテントを張る手間、用意した食料と水で探す手間は省けるが、それでも時間に余裕を持っておきたい。
五号道路近辺に点在する林に適当な場所を見出し、ジープを停めた。ここなら道から見ても目立ちにくく、通りがかる人に不審と思われないだろう。
さっそくキャンプの設営となる。テントはジープを寝場所にするから省略、屋根と壁が欲しいので幌を張る手間があるぐらいだ。水も充分な量をポリタンクに詰め込んでいるし、いざとなれば魔法で水が出来るはずだ。自分達が用意するのは一晩過ごせるだけの焚き木と、火を扱うカマドぐらいだ。
そう考えていたが、マサヨシ君の一言が事情を変えた。
「このままずっと缶詰食べていくんすかね」
彼はここに転移してからずっと続く保存食中心の食事に飽きがきていたのだ。いや、彼ばかりではない。態度にこそ出さないが、水鈴さんもそのようだし、自分もそうだった。それは対人スキルが低い自分でも察せる空気だった。
グルメを気取るつもりはないし、普通の日本人よりも食事の乏しさは我慢できるつもりだ。けれど、美味しい食事を食べたいのは全人類共通の欲求ではないだろうか?
ジアトーの暴動以降、自分達はずっと精神的な緊張を強いられ続けてきた。それが一応とはいえ安心できる場所に移ったことで緊張の糸が緩んだのだろう。そんな二人に美味しいものを提供したい気持ちが急激に湧き上がってくる。
周囲の環境を見渡し、自分の経験と照らし合わせ、いけると思ったところで口は開いた。
「私が何か獲ってこようか」
こうして自分は見知らぬ土地で久方ぶりのハンティングをすることになった。
猟犬代わりにジンを従え、ショットガンを肩に担いで荒野に分け入っていく。あまりキャンプと距離が離れるのは好ましくないが、獲物が人の気配を察して逃げているだろうし相応に時間はかかると思われる。
キャンプの番と焚き木集めを二人にお願いして、自分は獲物の痕跡を探して原野を歩く。足元を見下ろして、足跡かフン、草木を食んだ跡を見出すのだ。
周囲に警戒の目を向けるのも忘れない。『エバーエーアデ』の魔獣が存在するこの大陸は、アラスカやアフリカ以上に過酷な土地と考えていいだろう。銃を持っていても安心は出来ない。
キャンプから離れて三〇分ぐらいが経過した頃、ようやく今夜の獲物になる動物の痕跡を見つけた。
まずは足跡。前後で大きさの異なる足跡が飛び飛びに続いているパターンは、足跡の残りにくい乾いた大地でも分かりやすい特徴的なものだ。次にフンも見つけた。直径一㎝ほどの丸い粒状のフンは目的の動物を確定する。間違いない、ウサギだ。
「でもそうなると、今の装備では強力過ぎる……どうしたものか」
ウサギのねぐらを探しつつ、装備面での不安を考える。ウサギは銃弾に弱い獲物である。通常ならキジ撃ちに使用する小粒な散弾を使うのだが、手持ちの散弾は大粒な鹿撃ち用のもののみだ。これではオーバーキルもいいところ、肉を抉ってしまう。獲物の傷は少ない方が良いのだ。
視線は痕跡を追いつつ、自分の腰に下がっているモーゼル拳銃が目に入った。ハンドガンでのハンティングも世にはある。ただ、使うのはより強力なマグナム口径が一般的で、モーゼル拳銃のような軍用銃を狩猟に使うのは珍しい事だろう。
でも、問題はない。相手は鹿やピューマではなくウサギだ。きちんと中ればモーゼルでも一発で仕留められる。問題はこの土地の法律関係だが、知りもしない法律に怯えるのも建設的ではない。警察に見つかって咎められた場合は、緊急時ということを言い訳にしておこう。
右のホルスターからモーゼルを抜き出したところで、ふと思い出した事があった。
腰のバッグを漁って、目的のものを見つけると抜き出す。モーゼル拳銃に付属している着脱できる木製の銃床だ。ゲーム内ではモーゼルを買うとセットで付いてくる付属品だったが、長らく使う機会が無くて忘れかけていたアイテムである。
ルガーP08やブローニングHPなど、古い軍用拳銃にはホルスターを兼用する銃床が付属していた時代があった。現代では少数派になった代物だが、古い銃器が多い『エバーエーアデ』の世界では結構見かけるアイテムだったりするのだ。
その銃床をグリップの後端に取り付ければ、モーゼルは擬似的にカービン銃となる。肩付けで照準が出来るので命中性が上がる寸法だ。
装備の不安が解消されたところで改めて獲物の探索に集中していく。自分があれこれと考えている最中であっても、ジンは静かなまま探索をしている。自身はあくまでも従者である、そう態度で表しているみたいだ。
彼の誠実な態度を向けられるほど、自分は出来た人物ではない。精々が主人として恥をかかない程度に振舞うのが精一杯だ。誰かに傅かれる感覚が、これほどくすぐったく重く感じるものだとは思いもよらなかった。どうやら自分は使い魔という存在にもまだ戸惑っているらしい。
そんな戸惑いの念を向けられていると知ってか知らずか、ジンに目を向けていると不意にその動きを止めた。
『主、嗅ぎつけた。前方五〇M先にあるあの大きな茂みの中だ』
『数は分かる?』
『ふむ……三羽だな』
獲物のウサギを捕捉したジン。この距離を臭いで捉えるとは流石と言うべきか。黒ヒョウ形態になった彼のノドが獲物を欲してか低く唸るのを聞いた。
ここまで確認してきた痕跡から、目標のウサギはノウサギだと考える。英語でいうなら『Rabbit』ではなく、『Hare』の方になる。種類が違うのだ。
仕留め方を少し考えて、周囲の地形を見やり方針を決める。
『ジン、君はウサギを追い立てて私の前まで誘導して欲しい。そこを仕留める』
『了解した』
採用した方法はシンプル。猟犬による追いたて猟になる。ただ、この方法を採るには狩人の意を汲む優秀な猟犬が必要になるのだが、その点ジンはまったく問題ない。
念会話で軽く打ち合わせをして、静かにそれぞれのポジションに着く。モーゼルのボルトを操作、初弾を装填。銃床で肩付けし、両腕で抱きこむ様にして銃を構えて身を伏せる。久々の狩りに気分が少し高鳴っていた。
人と人との争いの応酬とは違う、命と命の静かな応酬。人を撃った時や、軍隊狼を撃った時とも違う空気が身を包む。開いた期間はそれほどでもないはずなのに、随分と懐かしい感触だ。
『ジン、やって』
『応』
自分の合図にジンが応える。身を伏せていた彼は立ち上がった勢いをそのままに、ウサギのいる茂みに突進していく。
大型犬以上のサイズを誇る黒ヒョウの急襲に、泡を食ったウサギが茂みから飛び出してきた。ジンの鼻は正確でその数は三羽、家族のようだ。ジンはその内の一羽に狙いを絞って追い立てていく。
自分の構える銃口もウサギの動きを追跡して滑る様に移動する。元の自分よりも射撃の精度が上がった確信がある。ウサギの動きは当たり前のように視えていた。
追い立てられたウサギが唐突に止まる。そして後ろを振り返る。追われるノウサギの習性みたいなものだ。この一瞬を狙い撃った。
引き金が引かれ、撃発、排莢。肩に軽い反動を感じた時には、頭から血を流して倒れるウサギの姿が目の前にあった。
命中箇所は目。目から入り込んだ銃弾が脳組織を破壊してウサギを即死させ、狙い通りに一発で仕留めることが出来た。
空薬莢を回収し、獲物を回収し、ジンに労いの言葉をかけて、少し気を抜いた。思ったよりも肩に力が入っていたようで、久しぶりの狩猟で緊張していたのが分かる。
こんな状況でなければ狩りを純粋に楽しめたのだが、現在はサバイバル中だ。思考は切り換えていきたい。むんずと獲物の耳を掴み、早々に立ち去る。
視界の隅に残された二羽のウサギが見えた。彼らはこちらをじっと見つめている。家族を奪った狩猟者を記憶するかのような眼差しをウサギ達はしていた。
「行こう、ジン。二人が待っている」
「了解だ」
日が沈みだして赤みを増していく空を目にして、自分は今夜のキャンプに食材を届けるべく足を速めた。
◆◆
「私が何か獲ってこようか」
そんな台詞を言ったルナはジンを連れて荒野の向こうへと行ってしまった。
留守番を任された私とマサヨシは彼女の帰りを待つ身となったのだけど、どうにもマサヨシは落ち着きがない人らしい。
集めた焚き木を斧で切っていく作業をずっとしているし、口は「心配だよなぁ」とか「獲ってくるって何を取って来るんだろ」とか内容のないことを喋りっぱなしだ。
人の悪口とかはあまり言いたくないけど、ハッキリ言ってウザッタイ。
「しっかし、ルナさんってマジ逞しいよな。何か獲ってくるって、クマでも狩るのかなぁ」
「どうかしら」
よほど沈黙が嫌いな人なんだろう。焚き火の準備をしながらも口は動いている。私はそこに相槌しか打っていないが、気にしていないようだ。
私の着替えをうっかり見た彼は、『風弾』の呪紋の誤射を受けてもピンピンしている頑丈な体で、誤射したことも大した気にせず謝罪ひとつで許してくれた。大雑把なのか、おおらかなのか判別に悩む人となりだ。
最初に会ったときなどはクマに遭った農家の方の気分だったが、こうして何とか会話が成り立つぐらいにはマサヨシの巨漢さに慣れたのかもしれない。でも心のどこかで異性に対する拒否感は、根強く残っている。
理由は深く考えるまでもない。思い出すのもおぞましいあの出来事が原因で、以前以上に私は異性を受け入れにくくなっている。こんなことでこの先やっていけるのか不安になってしまう。
マサヨシのお喋りを横に、適当に組んだ焚き木に火種の『火炎』系の呪紋を威力を絞って放り込む。乾燥している環境だからか、枯れ枝には簡単に火が点いて、すぐに大きくなって炎になっていく。
出来上がった焚き火の成長ぶりを見つめていると、乾いた破裂音が遠くから小さく聞こえてきた。これもここ数日で聞きなれた音だから分かる。銃が出す音だ。
短く鋭い音が夕日に染まり始めた空に響くことしばらくして、ルナが帰ってきた。
「戻った」
素っ気なく帰還の言葉を呟くと、手に持った茶色い物体を掲げて見せる。
「ウサギを獲ってきた。解体するからポリタンクの水を用意して」
「……あ、うん」
焚き火の脇に置いた二〇Lの水が詰まったポリ容器をルナに渡す。目の前の光景に呆然として、重いはずのタンクを片手で持ち上げた事も気にならない。
ルナの手には耳を掴まれた茶色いウサギが四肢をダラリと垂れていた。動く様子が全く無く、死んでいるのが一目で分かる。横ではマサヨシもウサギに目がいってお喋りが止まっていた。
不本意ながらここまで死体は見慣れてきているお陰で悲鳴を上げたりはしないけど、これを今から食べるとなれば言葉が詰まってしまう。多分この気持ちはマサヨシも同じ。彼の濃い顔立ちが困ったような渋いしかめっ面になっている。
私達二人の反応に一切構わず、ルナはウサギを左手にナイフを右手に持って林の方向に行ってしまった。
一〇分もすると、ルナは肉の塊を左に血のついたナイフを右に持って戻ってきた。
「肉は良く洗って。後はキチンと加熱調理するように」
血が付いた肉の塊を私に渡して、ルナは手とナイフに付いた血を水で洗いだした。彼女の表情は平常のまま、血に対して嫌悪の表情はない。
ルナの持っているナイフは特徴的な形をしていた。柄の部分に指を入れるリングがあって刃は曲がり、全体的に獣の鉤爪じみた形。確かゲームでは『カランビットナイフ』とか呼ばれていた武器だったけ。幾つか種類があったはずだけど、私は専門外なので詳しくない。
水洗いが終われば、取り出したボロ布で丁寧に水気がとられ、ベルトの革鞘に納まる。その様子を私はボケーっと肉を手にしたまま見ていた。
「水鈴さん、どうした?」
「ふぇ?」
「今夜の夕食はそれだよ、新鮮なウサギ肉。熟成した方がもっと美味しいけど新味はある」
「う、ウサギ肉……。これ、やっぱりウサギなんだ。あ、あはは……凄いね、ルナ。こんな風に食料調達してしまうの初めて見た」
「お、オレも初めて見たっす。つーか、ウサギって食えるんすね」
「ああ、食べれるよ」
マサヨシもクマでも獲ってくる、とか冗談めかして言っていたくせにウサギを目の前にして引いてしまっている。うん、ルナは本当に逞しい子である。野生児?
水を張ったダッチオーブンに、イモと缶詰のほうれん草と細切れになったウサギ肉を放り込んで煮込み、調味料で味を調えれば野趣あふれるウサギ鍋が出来上がった。こうなってしまうと、鍋の中にある肉はスーパーに売られている肉と何ら見分けがつかない。
立ち昇る湯気と一緒に香る匂いも、ごく普通の肉鍋が出す匂いと変わりが無い。数時間前まで野を駆けていたウサギが、こうして鍋になっている事が信じられない。
アルミ容器に盛られたウサギ肉の匂いに食欲はそそられているけど、複雑な気分でスプーンを手にしていた。
「食べないの? あ、もしかしてウサギ肉は嫌いだったか」
「そうじゃないけど、ルナこそ良く食が進むね」
鍋が出来る頃には日は落ちて、明かりひとつない周囲は真っ暗闇になる。荒野の夜は冷え込み、冷たい風も緩やかに吹いてくる。
私達はこの場の唯一の光源で熱源になっている焚き火を囲んで、夕食の時間を過ごし一晩の時間も過ごす。こうして自然に放り込まれてみると、人類にとって火がいかに偉大なものか思い知らされる。厳しい自然の中で火は、明かりや熱になる。それは自身の命を守る火で、太古の人々が火に信仰心を持ったのが分かった気がする。
そんな太古のロマンに思いをはせていたけど、目の前のウサギ肉に解決を見出さないといけない。隣ではマサヨシが「うめぇ、ウサギうめぇ」と言ってガツガツ食べている。あれだけ抵抗のある顔をしていたくせに、食欲に突き動かされた育ち盛りの子供みたいな食べっぷりだ。
ルナも粛々とではあるけどしっかり食べているし、ジンすら彼女の足元で肉を頬張っている。なんか私一人で悩んでいるのがバカみたいじゃない。
気持ちを決めて一口、容器に浮かぶ肉をすくい取って口に入れる。口にじわりと広がるのは調味料で整えられた肉の味。分量などいい加減で雑なはずなのに、野趣あふれる風味がそれを補って余りある。
気が付けば、黙ってスプーンを動かして食事をしている私がいた。昼食を抜いて空腹もあるのか、私達三人と一匹のペースは早い。ダッチオーブン一杯のウサギ鍋はそれほどの時間もかからず空っぽになってしまった。
あのまま躊躇っていたら、マサヨシに全部食べられていたかもしれない。
お腹が満たされ、しばらく食後の気だるい空気が漂う。その中でルナが囁くように呟いた。
「命を食べさせて貰っているからね。仕留めた獲物はキチンと食べる主義だ」
「え? なにが?」
「さっきの回答。水鈴さんは、「良く食が進むね」と言わなかったか?」
「あ、ああ。うん言った。でも、そっか……主義なんだ」
「そう、主義。礼節でもある」
今更のように返ってきたルナの言葉に私はどう反応して良いか困った。彼女はかなりマイペースな人で、我が道を往くような人でもあるらしい。
けれど、ルナの主義は考えさせてくれる。普段から食べている食料も、こうして生きていた生き物が材料だ。そんな当たり前を正面から突きつけられた気にさせる。彼女の主義は、その当たり前を普段から受け入れている人のものだった。
焚き火に照らされたルナの横顔を見る。揺れる炎で彼女の凪いだ表情は映えて見え、純粋にきれいだと思えた。
◆◆◆
夕食の後片付けも終わり、明日に備えて体力を温存する必要がある自分達は、あれこれと動き回ることなく就寝しなくてはならない。サバイバルでは眠ることも生き残るための条件だ。
テント代わりに幌を張ったジープを寝床にして、シートに座ったまま眠る体勢を作れるようにした。ロクに休めないだろうが、地面に直接横になるよりは快適だ。
そして見張りも忘れてはいけない。ジンが街に引き続いて不眠の番をするのも負担だろうと思えて、交替で見張るように取り決めた。ジンと自分の二人で朝まで数時間ごとだ。
「分解清掃もだいぶ慣れたな。やはりこういうのは経験の数か」
焚き火の明かりを光源にして、今日使った銃の手入れをする。部品をブラシで磨いて汚れを落とし、潤滑と防錆の油を注し、とやっている事は機械の保守整備と何ら変わらない。モーゼル拳銃もウィンチェスター散弾銃も元の設計が古い旧式銃なので、常からの手入れは欠かせない。今日のように使用した後ならなおさらだ。
最初は戸惑った分解清掃も数を重ねれば様になっていく。その内に目隠しで分解、組み立てぐらいは出来るかもしれない。
夜に身体に起こる感覚にはもう慣れ始めている。普通であったら真っ暗闇の中で困難な作業も、自分なら日中よりも鮮明な感覚で進められる。光源も月明かり星明りで充分だった。
人とは、こうして異常な事でも慣れ親しんでいくのだろうな、と他人事みたいな気分になってしまう。
銃のメンテナンスが終われば、今回使ったナイフの手入れも始める。大小二本ある内、今回使った小さい方のナイフの水気を改めてウェスで拭い取って、防錆のオイルを薄く塗る。使用後に汚れを落とす事とよく乾燥させる事は、ナイフのメンテナンスの鉄則だ。
大小二本のナイフはどちらも自分の趣味が入って、特徴的な形状になっている。小さい方は『カランビットナイフ №4』、大きい方は『トレンチナイフ №2』とそれぞれゲーム内の名称を持っている武器だ。鉤爪に似た形状のカランビットに、ナックルガードがヒルトに付属しているトレンチナイフ。どちらもナイフファイトに向いた代物だが、野外活動で使うユーリティナイフとなると戸惑うものがあった。
野外活動には、『ランボーも真っ青』な派手で大きなナイフはお呼びではない。そういったナイフはむしろ取り回しが悪く、熟練者ほど敬遠する。同様に特殊な形状のナイフも遠慮されやすい。今持っているトレンチナイフやカランビットもこれに入るのだ。
モーゼル拳銃の時のようにナイフも趣味で選んで後悔している。せめて使い慣れた形状のナイフにすれば良かった。
後悔の念で出てくるため息を吐きつつ、手入れの終わったカランビットをシースに戻して一息入れる。
火にかけて湯を沸かしたポットを手に取り、荒引きのコーヒー豆を直接放り込む。ドリッパーもサーバーもあったものではない乱暴で豪快な淹れ方だ。
ポットは銀月同盟の元拠点、コーヒー豆はスタンドの雑貨屋から持ち出してきた物になる。この世界で飲む初めてのコーヒー、それがこんな形だとは不思議なものだ。
豆を入れたポットからコーヒーならではのふくよかな香りが湯気と一緒に漂ってきて、鼻をくすぐる。この匂いだけで胸の中に溜まっていたわだかまりが解れるようだ。コーヒーを泥水などと言う人間の神経を疑いたくなる。これほどに香り高いもののどこが泥水なのやら。
用意したマグカップに暗褐色の濃くて熱い液体を注げば、香りは最高潮だ。古人曰く地獄のように黒く、死のように濃く、恋のように甘いコーヒーが出来あがった。
「……ん……く。……ほぅ」
飲んだ熱いコーヒーが体に染み渡る。冷えた体に腹の中から温まる感触がとても心地良い。
キチンとした形で淹れていない事が悔やまれるが、これはこれで野趣にあふれて悪くない。アウトドア好きな人には、こういった淹れ方の方が美味かったという人すらいる。それだけ野外での環境は人の精神に影響があるようだ。
ジンからのアドバイスでコーヒー豆を少なめにして淹れてみたが、これでもまだ味が濃くて舌を刺激する。月詠人の感覚は乱暴に淹れたことによる雑味や豆の欠片も的確に捉えてしまい、元の身体に比べて野外補正による美味しさは半減している。鋭い感覚もこの場合考えものだ。
コーヒーを飲みつつ、焚き火を見つめて物思いに耽る。
今後の事、同行しているマサヨシ君と水鈴さんの事、ジンとの付き合い方、考えるべき事と解決すべき問題は沢山あった。今から考えておいても早過ぎることはないだろう。
コーヒーの香りを楽しみつつ考え事をしていると、ジープのある方向から物音が聞こえてきた。
こっちに近づく足音はブーツのもの。見張りの交替に来たジンではなく、二人の内のどちらかだ。
「ルナ。隣、いいかな?」
「水鈴さんか。ああ、良いよ」
背後から姿を現したのは、銀色の狐耳と尻尾が目立つ水鈴さんだ。手近にあった倒木に腰掛ける自分に同席を求めてきたので頷くと、彼女はすぐ横に腰掛けてきた。
パーソナルエリアを侵害されたようで気分はやや悪くなったが、彼女の事情も考慮して何も言わないでいた。新しくマグカップを用意してコーヒーを勧めた。
「コーヒーは飲む?」
「ええ、ありがとう」
ポットから新しく注がれる湯気の立つ液体に水鈴さんは目を細める。手に伝わる温かさに相好が崩れたようだ。が、コーヒーを口にしてすぐに渋い顔になった。
「砂糖とミルクはなかったよね?」
「ないな。ブラックのみだ」
自分の言葉がよほど無情なものだったのか、水鈴さんは渋い顔のままコーヒーを舐めるように飲んで黙り込んだ。ミルクや砂糖を入れる事に否定意見はないが、何も加えないコーヒー本来の風味が味わえるブラックは個人的に譲れない。
しばらく無言でコーヒーをすする時間だけが過ぎていく。そういえば、昨日の夜も同じようにして水鈴さんと夜の時間を過ごしていたな。似たような構図の再現に既視感を覚える。
焚き火に新しく薪を入れつつ水鈴さんを窺ってみると、彼女は上を向いて呆然としている。口を半開きにして呆けているのは女子としてどうかとは思うが、彼女の視線の先が気になり倣うようにして空を仰いだ。
「ほう、これはまた」
「……すごい」
圧倒される満天の星空が頭上に広がっていた。
星空が圧し掛かってくるような錯覚さえ覚えるそれは、確かな存在感をもってこの身体に迫ってくる。日本の都市部ではまずお目にかかれない地平線まで一杯の星空だ。
月が出ているため若干星明りが負けているが、それでも観測には絶好のロケーション。さっそく知識の中にある星と当てはめていく。いくが……む。
「知っている星がないな」
「え? どうしたの?」
「いや、ここが異世界だと再確認させられたところだ」
自分は学者ではないが、一般教養レベルで星についての知識はあるつもりだ。その知識がここでは全く通用しない。見たことも無い一等星があったり、在るべき星がなかったり、天の川の配置が妙だったり、そもそも月が異様に大きく見える時点でおかしい。
今まで目の前の事態に対処する事で精一杯で星を眺める余裕などなかったが、いざこうして見てみると地球のどこにもない夜空だと理解できる。地球との並列世界だと勝手に思い込んでいたが、こうなると星系レベルから異なる場所にいるのかもしれない。
頭上の星空を前にしてそんな深刻な考えに耽っている自分の横、水鈴さんは「なんだ、そんな事ね」とこちらの心配事を笑い飛ばすように言い出した。
「もうあれこれと思い煩っても、来てしまったものは仕方ないんじゃない? 大事なのはこれからどうするかよ、違う? ……なんて、偉そうに言ってみました」
少しふざけて見せた彼女は、言った台詞が恥ずかしかったのか立ち上がり、「もう寝るわ、おやすみ」とこちらの返事も聞かずにジープへ引き返してしまった。巫女装束と尻尾を翻す彼女の後姿は目に白い残像を焼きつけた。
水鈴さんはクサイ台詞と思ってしまったようだが、自分には考えさせるものがあった。慎重で冷静な思考は行動を助ける。けれど思い悩んでしまう思考は体を縛り付ける。この世界に来てまだ五日だ。思い悩むのも絶望するのも早過ぎる。
どうやらマサヨシ君と同じように水鈴さんも強い人のようだ。
「私も、もう少し強くならないとな」
独りになって星空を見上げ、降りしきる雨のような星空の下でそんな目標をひそかに立ててみた。
このまま自分は、空になったマグカップにコーヒーを注ぎ足し、交替時間でジンがやって来るまで星空を見上げていた。
明日になれば新たな街ゲアゴジャに到着できる。そこに希望があれば、と願わずにはいられない。
この話では狩猟の場面が描かれていますが、当然実際のハンティングとは異なることが多いです。演出上の都合として全国のハンターのみなさまにご容赦願います。
実際はモンハンのように気軽なものじゃあないのですよ……。