16話 夜会
唐突で尾籠な話だが、人間は食べる物があれば出る物もある。表立って出てくる事はないが、こういった排泄の歴史も人の営みの一つとして学術的に考えられ、立派に一分野となっている。排泄行為、それは人間が生物として存在する限り常について回るものである。
などと小難しく思考をしてみたが、かいつまむとこちらの世界においても生きている限り出る物は出るの一言に尽きた。
「月詠人とかいっても人間と変わりなしか」
洋式トイレの便座に座りつつ、ポツリと漏れた言葉はトイレ全体に響いていた。
妙な性的嗜好は持ち合わせていないつもりなので、女子用トイレにいることに興奮を覚えるといったことはなく、リアル女子に対しては感性が枯れているので女子の排泄姿に思うところはなかった。
ただ、性転換ものを扱った小説でたびたび取り上げられているように、トイレの作法は男だった時よりも細やかな神経が必要で、雪さんに尋ねてどうにかものにできるようになった。この点でも彼女に感謝しなくてはならない。本人は顔を赤くしていたが、それが余計に申し訳なかったしね。
出す物を出し終えて、水を流す。トイレ方式は日本のそれと変わりがない。心配事があるとしたら残りの水の量だ。
この拠点の屋上にある貯水槽が自分達の命綱である。ジアトーの街の各所で水道が断水されている中、自分達が豊富に水が使えるのもこれのお陰だ。もし貯水槽の水が底をついたらどれ程不便なことやら見当もつかない。電気はなくてもどうにかなるが、水は人の営みにとって欠くことの出来ない要素だ。
残りの水量を気にして、手を洗う水も少なめにして手早くトイレを出た。どうもこの残り水量が自分達に仕掛けられたタイムリミットという気がしてならない。
トイレを出るとそこは拠点一階のエントランス。ここにあるトイレは各部屋にあるものと違い、来客用のものになっている。
マサヨシ君の部屋は現在水鈴さんの個室になってしまい、隣のタカヨシという人のトイレは破損していた。探索して分かった事だが、まともに使用できるトイレはマサヨシ君の部屋とここしかないのだ。
やはり、ジンが言い出したように彼には何かが取り憑いているような気さえする。あるいはゲームにおける幸運値がこの世界でも適用されているとかだろうか? ……メニュー画面が見られない今となっては確かめようがない話だ。
エントランスから階段を上っていく。外はすでに暗く、冷え込みだした風がこの身にも吹き込む。
外の街路を見やれば、今夜も赤々と燃えるキャンプファイヤーを囲んでいる暴徒連中の姿。どうも酒が入っているらしく、夜の繁華街で耳にするような言葉が聞こえた。彼らも大概にして暢気なものだ。このまま酔い潰れて脱出の時まで眠ってくれないだろうか。
上り階段の終点、屋上に辿り着く。遮る物がない広いスペースに荒野を渡ってきた冷涼な風が吹き抜けている。街の明かりがほとんどないため、夜空の小さな明かりが一際強調されて地上を照らしている。空に見える月は最初に見た時よりも丸みを帯びて、光が増している。夜空は星の光に満ちていた。
「雪さん、交代の時間」
「あ、もうそんなになるの? 気付かなかったわ」
屋上のへりにいたネコ耳の剣士に声をかける。彼女は屋上の柵を越えて床に座り、足を宙に放り出していた。
非常に危険な行為だが、彼女が言うところによればこの位の高さから落ちても大丈夫だとか。ジンという前例もあるし本当なのだろう。
ジンに水鈴さんの監視を頼んだことで外への警戒が緩んでしまう。ジンは「両方見ても問題はない」と言ってくれたが、負担が大きくなるのは間違いない。彼も一緒に行動を共にする一員である以上、気をかけなくてならない仲間である。
それに、『主』などと大層な言葉で自分に付いてくる黒猫を邪険にできない。ネコ派の自分にとってジンはかなり好みな存在なのだ。
やや話がズレたが、要約するとジンの抜けた穴を自分達三人が交代で見張ることで埋めようと、夕食の場で話が持ち上がった。ジンは渋っていたが、使い魔とはいえ負担が無いはずがない。そこを突いて強引にでも頷かせた。
簡単なくじ引きで順番を決めれば、マサヨシ君、雪さん、自分の順番となった。夜も更けた今、雪さんと交代すれば朝方までここで監視役の任務に就くことになる。
「マサヨシはどうしてる?」
「よく寝ている。イビキ一つかいていない。そちらは?」
「そうね。時々銃声っぽい音がしたけど遠かったし、問題はないわ。当然、あそこの馬鹿達にも気付かれていない」
「分かった」
二mの高さはある柵を「よっと」のかけ声で軽く飛び越え、こちら側に着地する雪さん。フェルパー族の運動神経を早くも掌握している様子だ。
軽くひねりをつけて綺麗に着地する彼女は、星空の下にあるせいか幻想的に見える。
「おみごと」
「ありがと。って言っても、何か知らない内に当然って感じに出来ちゃったのよね。元々のあたしは運動苦手なのに」
「……そうなのか」
「ちょっと、そんなに深刻にならなくてもいいのに。怖い顔しているわよ」
身体の変異について少し考えてしまったが、そんなに深刻そうな表情をしていたのか。手を顔に当ててみるが、どうにも自分の表情は分からない。
「私の顔よりも、今後について話したい。この街を脱出したら幻獣楽団は南のゲアゴジャまで行くのが方針ですよね」
「もう……ええ、そうよ。あそこが一番近いプレイヤーシティだからっていうのが理由だけど、大人数を長距離移動させるのにも苦労があるらしいわね。ライアさんも車両と物資の調達で忙しいし」
「そう。確かに幻獣楽団ほどのチーム人数になると、脱出の際にはキャラバンみたく隊列を組む必要がありそうだ」
強引に話題を変える方便で今後について話を振ったが、これも重要な話だ。
脱出後、どこに針路をとるか。今日も離れた場所にいる幻獣楽団のチームリーダー・ライアさんと一、二度念会話で話をし、この話題も出てきていた。
この世界から当面出ることが叶わないなら生活の基盤を整える必要に迫られる。しかし、現在いる街は荒れ果てて基盤どころではなく、どこか住みよい場所に新天地を求めなくてはならない。脱出後の事も考えなくてはならない重要事なのだ。
幻獣楽団が新天地として脱出後の目的地にしているゲアゴジャという街は、ここから南に約四〇〇㎞離れた土地にある大きな街だ。
米国のポートランドをモデルにしているこの街は、ハイマート大陸西海岸に五箇所あるプレイヤーシティの一つだ。プレイヤー達の拠点が集中し、これらの街を中心にゲームのメインシナリオが進行するというのが『エバーエーアデ』での話になる。
同じプレイヤーシティだったジアトーで多数のプレイヤー達が転移している。なら、ゲアゴジャにもプレイヤー達は転移しているだろう。同じ境遇の人と身を寄せたい心理もあってか、楽団の目的地はそこになっていた。ここと同じ混乱が起きている可能性も十分に考えられるが、それならそれで別の候補地へ逃げるらしい。
そのための車両と物資の調達で、日中のライアさんの忙しかった様子が念会話を通しても分かった。それでも話をしてくれた彼女は、口下手な自分にはありがたい人物だ。
「貴女もゲアゴジャ行きのつもりなんでしょ。ならあたし達と一緒がいいんじゃない」
「確かに。でも寄生している気がして申し訳がない気分になってくる」
「それこそ問題無いと思うわよ。今は手が幾つあっても足りないんだし。リーダーも喜ぶはずよ」
「そう」
自分もゲアゴジャへの脱出を考えていた。同じ境遇のプレイヤーがいれば身の振り方にも幅が出ると考えたからだが、ライアさんのチームと同行するのに抵抗を感じた。
言葉として出た寄生感への抵抗もある。でも、同じぐらい抵抗に感じたのは、大人数の中に入り込む拒否感のせいだ。これもあって集団行動に馴染めないのだが、今は非常時だ。向こうがOKなら否やはない。
「分かった。朝にでもライアさんに通信して同行を申し出てみる。チーム加入を断った手前言いにくいが」
「そんなの気にする人じゃないわよ。あ~、でも物資は自前で調達した方が良さそうね。ウチも余裕ある方じゃないし」
「了解した」
一通り話が終わったところで雪さんがおもむろに自身の首に手をやる。首に巻いたマフラーを外して差し出してきた。よく見るとこれは自分がマサヨシ君に貸したもので、どうやら防寒用にと彼が又貸ししたようだ。
「うわ寒っ! マフラー有る無しでこんなに違うなんて。ま、いいか。はい、マサヨシから借りたけど元は貴女のでしょ」
「いいよ、そのまま持って。それは予備のだ」
「良くない。借りた物は必ず返す。これはあたしの数少ない信条なの。次いつ返せるか分からないじゃない」
言葉に真剣な空気を持たせて、なかば強引にマフラーを返してくる。信条まで持ち出されたら拒否はできない。確固としたポリシーを持っている人間を自分は羨みつつも尊敬している。無言で素直に受け取り、腰のバッグに収めるとした。
ふと視界を移せば、雪さんがこちらの様子を妙に緩んだ表情で見ている。「無口クールなルナ、可愛いにゃー」などという呟きが聞こえたが、空耳だろう。空耳であって欲しい。
「水鈴さんは変わらず?」
「ああ。ジンからの報告では、ベッドの上から動いた様子はない。それに寝てもいないらしい」
「真夜中よ、今。眠れないのかしら。もしくは、眠りたくないのかしら」
「……」
「ふう、ここで話しても始まらないわね。じゃあ、よろしく」
「うん、おやすみ」
最後に水鈴さんの話題で軽く言葉を交し、雪さんは尻尾をしなやかに揺らし屋上から出ていった。
自分では推し量れないが、何気なく出たため息一つにどれだけの言葉が詰め込まれていたのやら。彼女もマサヨシ君と同じく、この厳しい環境で努めて明るく振る舞おうとしている一人なのかもしれない。
明日をも知れない自分達。次の日の朝日が見られるよう、自分はここで朝を待つ。
◆
弾倉から丁寧に弾を抜いていき、別の弾倉に込めていく。弾薬と弾倉のすれる音が小さく星空の下で鳴る。
モーゼル拳銃用の弾倉とは違い、タイプ14用の二〇連発弾倉には一杯まで弾を込めないのがポイントだ。弾倉に使われているスプリングに故障があれば、即給弾不良、ジャムとなってしまう。そこで弾を少なめにして、スプリングの負担を減らす工夫が必要なのだ。自分の場合は一七発に留めておく。
現在やっている簡単なお仕事は、弾倉のスプリングを休ませるための措置だ。弾薬を込めっぱなしにした弾倉は、スプリングが固まって元に戻らなくなってしまい、これも給弾不良、ジャムの原因になる。そこで定期的に弾を抜いて、複数の弾倉でローテーションを組んで休ませる必要がある。
戦闘中に起こる作動不良。経験のない自分には想像するしかないが、かなり背筋の寒くなる想像だ。
撃っている銃が突然主人の意に反し動きを止める。慌てて対処するが、向かい合っている敵が待ってくれるはずもない。向けられる銃口、一秒の後にやってくる必殺の弾丸、頭蓋を撃ち抜かれ倒れる自分の姿まで幻視しそうだ。
そうならないために、こういった地味で地道な工夫を日々積み重ねなくてはならない。
「随分と遠いところに来たな」
こんな工夫が必要な平穏とは程遠い世界。物理的にも精神的にも現代日本との距離は果てしなく遠い。
屋上の柵に立て掛けたライフルが視界に入る。前の世界では狩猟か標的射撃にしか使ったことがない銃器。自分はこれですでに七人の命を奪っている。もちろん人助けのための措置だと考え、後悔はしていないが、前の自分と今の自分に明確な一線が引かれた気がしてならない。これも精神的な距離を感じる一因だ。
外の街路でたき火を囲んで眠りに就いている暴徒を見下ろす。燃え盛っていたキャンプファイヤーも数時間が経った今は普通のたき火ぐらいに小さくなっている。
そのたき火を囲んで地面に直接横になって眠っている彼ら。あの連中も自分みたく前の世界に距離感を感じることはあるのだろうか。プレイヤーだった以上、彼らも日本人、もしくは日本に在住したはず。あの平穏さに思うところはないのだろうか。
「……感傷に過ぎるか」
連日の出来事で精神に疲れが溜まっているからだろう。こんな建設的ではない考え事をしてしまうのは。死者を悼むのも殺害に対する恐れも、みんな生きているから出来ることだ。まずは生き抜いて、想うのはそれからだ。
思考を打ち切って、弾薬を詰め替えるルーチンワークに没頭する。見張りとしての警戒は耳に任せていた。作業と聴覚は切り離しており、耳は周辺の不審な音を拾う事に、手は作業を続ける。
タイプ14用の弾倉は装着している分を抜いて六本あるので、二本休ませて四本に弾込めをする。即応弾はこれで六十八発だが、フルオートで撃つつもりはないので充分な弾数だろう。
人差し指ほどの長さはある7.62㎜×51弾を弾倉から弾倉へと詰め替え、足りない弾数はバックから取り出したバラの弾を込めていく。
詰め替えの最中は弾薬の状態もチェックして、サビやキズがないか確認する。本職の狙撃手ならここで弾丸にあるバリを取ったりするのだが、目で見た限りは問題はなさそうなので良しとした。長距離狙撃の予定はないので、これで大丈夫なはずだ。
最近はゲームをする時間が増えて銃に触れる時間が減っていたが、こうして真鍮製の薬莢を見ていると気分が落ち着くあたり自分は根っからのガンナーなのかもしれない。
薬莢の底を見てみる。ここには弾薬を製造した会社などによる刻印が刻まれているのが普通だ。けれど、今手にある弾薬にそんなものはなく、ツルリとした底面を見せている。出所不明の弾薬を使うのに不安を覚えるけど、現状はこれしか弾がない。拠点で回収した弾薬も全てこの手のものだった。とりあえず、粗悪品でないことを祈りつつ弾倉に込めていく。
そんな具合に手を動かしていたら、自分が出す音以外の音を耳が拾った。
手を止め、静かにホルスターのモーゼルに手を伸ばす。聞こえた距離が近いのでライフルを構える余裕はない。
一挙動で銃を抜き、動作と一緒に音源の方向に顔を向けた。音は階下へ通じる階段から。雪さんが戻って来たにしては不自然で、警戒するべきだ。
そうして構えた銃口の向こうには、意外な人物がいた。
「水鈴さん。あ、すまない」
銃を向けている相手に気付き、すぐに銃口を逸らしてホルスターに収める。
対して水鈴さんは、こちらの出方を窺うこともなくフラフラした足取りで屋上に出てきた。
銀色の髪と尾が揺れ、太極図が描かれた巫女装束が冷風になびく。さっきの雪さんの跳躍も幻想的だったが、水鈴さんの今の姿も大概に現実味が薄い存在だ。
彼女はそのままゆったりした歩みで屋上の端まで来て、自分のすぐ隣で柵に手をかけた。
水鈴さんの持つ雰囲気は儚く、危うげ。まるで燃え尽きる直前のロウソクの火を思わせる。その姿を自分は放置できず声をかけた。ああ、何て事だ。我ながらここまで人が良いとは思いもしなかった。それともこれが普通なのか?
「一応確認するが、飛び降りるのか?」
「やらない」
思った以上に素直に答えが返ってきて、彼女は柵を背にして体育座りで床に座った。飛び降りる気はない、今すぐに自殺云々といった行為はしない、と。そう思っていいのかな?
次に気になった事を聞いてみる。
「ところで、ジン――あ、監視の使い魔はどうした?」
「睡眠魔法で眠らせた。驚きよ、こんな真似が自分に出来るなんて」
「そう」
なんと。ジンを魔法で眠らせるとは。どうやら水鈴さんは魔法を相当使いこなしているようだ。
そして、魔法を使いこなす事に自嘲気味になっている。彼女の端正な顔は薄く笑いの形になっていた。
そのまましばらく時間が流れる。自分はこれ以上かける言葉を持てないし、水鈴さんの言葉待ち。彼女の方でも同じなのか、沈黙が何となく続いていく。
荒野の冷えた空気が長くなった髪を揺らす。吐く息が白く、水鈴さんも同じ。ここではたと気付いて、バッグからしまったばかりのマフラーを取り出した。今の彼女の格好は割と薄着で、暖かくしたいと思ったからだ。
「よければコレを。ここは冷える」
「そんなに寒くはないんだけど……ありがと」
これも素直に差し出したマフラーを受け取る。首に巻かれた赤いマフラーが巫女衣装と良い感じに色の調和を取った。
そしてまた静かな時間が過ぎる。と、思われたが水鈴さんが沈黙を破った。
「ごめんさない、取り乱したりして。匿ってくれた人のところで騒ぎを起こすなんてどうかしてた」
「いや、一応雪さんから事情を聞いて、無理もないと思った。謝る必要はない」
「あ……聞いたんだ。じゃあ、私が人殺しだっていうのも?」
「ああ。だけど、それは私もだ。私も人を殺している」
「それは共感? それとも同情?」
「事実を言っているだけ」
「そうなんだ」
「そう」
自分の言葉にどれほどの価値があるか分からないが、ここまで言った水鈴さんの雰囲気は心なしか和らいだように思う。少なくとも、ここに来た時の凍ったような表情はもうない。
おもむろに彼女が、腰に付けている巾着型のバッグから金属の筒を取り出した。どうも魔法瓶らしい。マグカップも二つ用意して、それに中身を注いでいく。湯気の立つ温かな液体からは独特の酸味混じりの匂いがした。
「マフラーのお礼って訳じゃないけど、飲む? トマトスープ。雪さんが作ってくれたらしいのだけど」
「頂こう」
カップを受け取って口をつけると、トマトの風味が存分に活かされた味わいが口に広がる。おそらくは缶詰のトマトピューレから作られた一品だろうが、それをここまでにするとは雪さんも相当料理が上手い人だ。もしかして調理師とかだろうか。
冷えた体に暖かいスープはかなりの効き目をもっていた。ほっこりとした熱が胃袋に収まる感触が心地よく、目を細める。
「なんか、ネコっぽいね。貴女」
「そう、か? 自覚はないけど」
「こういうことは自覚のあるなしの問題じゃないと思う」
それから沈黙の反動みたく、ぽつぽつと会話が続いた。
とりとめが無く、散文的で、断続的で、どう見ても無意味な話が続いた。けれども、こんな風に誰かと長時間話すのはひょっとして生まれて初めてかもしれない。
口下手な自分は主に聞き役、水鈴さんは話し役。彼女が話す内容に自分がコメントを加え、そこにさらに混ぜっ返しがきて一つの話題が繋がっていく。自分にとって奇跡的な長時間会話だ。
カップのスープが無くなれば、魔法瓶から注ぎ足される。本音を言うとコーヒーがベストなのだが、暖かいスープも悪くない。
どれぐらい話が続いたのか。魔法瓶の中身がなくなった辺りで、唐突に水鈴さんの声のトーンが変わる。今まで明るめだったが、より明るく、無理矢理に空元気な調子に。
「私ね、この場所に来る直前まで本気で死のうと思ってた。もう桜のいない世界に生きる意欲が湧かなかったの」
「だが、私が聞いた時には違うと言っていなかったか?」
「それは貴女がいたからよ」
「む?」
確かにここに来た当初の彼女は何時自殺を図ってもおかしくない様に見られた。それがなぜ自分がいただけで変わったのか。
「良く、分からないのだが」
「私も分かんない。ただ、独り寂しく死んでいくんだ~、なんて思っていたところに人がいた。それで何でか知らないけど話している内に自殺する気が失せてきて……うん、今だと桜を覚えている私が彼女の分まで生きようって気になってきている」
「それだと、ここにいるのが私でなくとも問題がないように聞こえる」
「あ、気を悪くしたらゴメンなさい。でも、そうだね。ここにいたのが誰であっても結果はそう変わらなかったかも」
「そう。まあ、別段気を悪くしてはいない」
「そっか、それは良かった」
孤独な死を選ぼうとしていたらその場所に人がいて、人と触れ合ってしまった事で自殺の意思がなくなった。
彼女の話を要約してしまうとこんな具合になってしまうが、情緒に欠けるし行間の感情まで汲み取れない。これはまとめるだけ野暮というものか。とにかく、精神を持ち直したという事実を知っておけばいいだろう。
すっかり冷めたカップの中身を飲み干すと、星空の明かりとは違う光が空の果てから現れた。地上をあまねく照らす黄金の光――夜明けが来ていた。
断続的だったとは言えこんなに長い時間話をしていたのかと、空を見上げつつ感心していると水鈴さんから声がかかる。
「そういえば、まだ貴女の名前を聞いてなかったわ」
「ああ、確かに」
あれほど言葉を交していながら自分の名前を名乗っていなかった迂闊さに気付かされ、恥ずかしいやら気まずいやら、どうしようもないとくる。
自分の情けなさに思わず手を額に当てて天を仰ぐ。夜と朝の境目、深い蒼色の空が見えた。
「ルナ、ルナ・ルクス。ここではそう名乗っている」
今からじゃ遅い気もするが、問われたからには名乗ろう。初めましての意思を込めて彼女に手を差し出した。
「うん、よろしくルナ」
差し出した手を掴んだ妖狐族の少女の顔には一切の無理がない笑みがあった。