第9話:みんな大好き!ヨコハマグランド①
月曜日。 目覚まし時計の音は、容赦なく現実を突きつけてくる。 鏡の前でネクタイを締め直し、僕は深く息を吐いた。昨日までの「プレミアのお部屋」の柔らかなシーツの感触は、もう遠い夢のようだ。
病院に足を踏み入れると、独特の消毒液の匂いが鼻を突く。
「ツカサさん! 急ぎの伝票が溜まってますよ!」
「先生がサンプル室でお呼びです!」
怒涛のように押し寄せる業務の波。多忙な医師たちの機嫌を伺い、複雑な事務処理をこなし、時には理不尽な要求にも笑顔で応える。僕はペンを握り直し、モニターに向かった。
そして待ちに待った金曜日の夜。 今週の激務は、僕の神経をいつも以上にささくれ立たせていた。 人混みに揺られる電車は、今の気分じゃない。僕は一度帰宅して着替えると、愛車『ジャガー F-TYPE』のエンジンに火を入れた。腹に響く重低音が、イライラを心地よい高揚感へと塗り替えていく。
「どこら辺にいる? 今日は迎えに行くよ」
サトミに電話を入れ、合流地点を品川に決めた。車内にはお気に入りのTFMが流れ、交通情報を告げている。
品川のコインパーキングに車を停めて駅へ向かうと、「おーい、ツカサ!」と弾んだ声がした。
「いつも電車なのに珍しいね」
「今日はあんまり人と接触したくなくてね……あと、二人きりになれるし」
僕の言葉に、サトミが少し照れたように笑う。
駐車場に辿り着き、低い車体に驚くサトミのために助手席のドアを開ける。
「ありがとう。……なんか、視界が低くてドキドキするね」
「慣れるとこれが心地いいんだよ。勝島から高速に乗るからね」
首都高を走り抜ける車内、TFMから流れる音楽が二人を包む。
「ツカサってTFM聴くんだ。私はJ-WAVE派かな」
「たまに聴くよ。でも、道路状況を知るにはこれが一番なんだ」
そんな他愛もない会話を交わしているうちに、横浜の街が見えてきた。
「わあ、見えてきた! あの帆の形のホテル……」
サトミが窓の外を指さす。
「今日はあそこに泊まるけど……サトミも、泊まっていくかい?」
「えっ……いいの?」
「もちろんだよ。そのために連れてきたんだから」
ディーラー街を抜け、突き当たりを右折。そこから左へ入れば、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルの正面玄関だ。 車を寄せると、手慣れた様子でドアマンが近づいてくる。
「ツカサ、駐車場はあっちじゃないの?」
「あー、ここは、このままで大丈夫なんだよ」
僕はドアマンに車の鍵を託し、トランクから荷物を取り出す。
「ツ、ツカサ様!」
そこへ、一人のスタッフが勢いよく駆け寄ってきた。旧知の仲である西崎さんだ。
「西崎さん、こんばんは。こちら、僕の彼女のサトミです」
「はじめまして、西崎と申します。ツカサ様、いつもありがとうございます」
僕は用意していた土産を彼女に渡し、さらに車を移動させようとしたドアマンを呼び止めた。
「あ、待って。これ、皆さんで食べて」
ドアマンにも心付けの土産を手渡すと、彼は嬉しそうに、より一層深々と頭を下げた。




