第8話:ANAインターコンチネンタルホテル東京(完)
サトミがバスルームから戻ると、部屋には心地よいサックスの旋律が流れていた。
備え付けのスピーカーから響くのは、ジョン・コルトレーンの『My Favorite Things』。
ツカサは東京タワーのオレンジ色の光を浴びながら、残りのシャンパンを静かに傾けていた。
「……あー。また、ブルーノート行きたいな」
音楽に身を委ね、独り言のように呟くその姿は、病院での多忙な事務員であることを微塵も感じさせない。
弓削とともに微かな石鹸の香りを纏い、サトミがそっと彼に近づく。
「……ツカサ、お風呂出たよ」
振り返ったツカサの瞳に、少し上気した顔のサトミが映る。
コルトレーンの情熱的な演奏が、静まり返ったプレミアの部屋にいっそう濃密な空気をもたらしていた。
「さて、僕もお風呂に入ってこようかな」
ツカサはそう言い残し、ささっとシャワーを浴びて戻ってきた。
「サトミ、ベッドを使っていいよ。僕はソファで寝るから」
そう言って、ツカサはクローゼットの毛布を手に取った。
「えっ……でも、身体がいなくなっちゃうんじゃない?」
心配そうに顔を曇らせるサトミに、彼は穏やかな、けれど意思の強い視線を向けた。
「さっきも言ったけど、僕はサトミのことを大切にしたいんだ。もう少しお互いのことを深く知ってから……ね」
サトミは複雑な表情を浮かべたが、彼の誠実な言葉を拒むことはできなかった。
「ツカサがそう言うなら……」
彼女がフカフカのダブルベッドに潜り込むと、ツカサはその上から先ほど借りたもう一枚の毛布を優しく掛け直した。
最高の寝心地に包まれ、サトミはいつの間にか深い眠りへと落ちていた。
ツカサはソファに身を横たえ、窓の外でオレンジ色に輝く東京タワーを見つめながら、静かに眠りについた。
翌朝。
サトミが目を覚ますと、そこにツカサの姿はなかった。
ふと、ドアの開く「ガチャ」という音が響く。
「あっ、起きた?」
入ってきたのは爽やかな汗を流したツカサだった。ウェアに身を包んだ彼は、朝からジムでひと走りしてきたのだという。
「シャワーを浴びてくるから、その後は二階で朝ごはんを食べに行こう」
昨夜のしっとりとした空気から一転、活気に満ちた一日の始まり。ツカサのルーティンは、一切揺らぐことはなかった。
二階へと降りると、そこには朝の光が差し込む豪華なビュッフェが広がっていた。
焼き立てのパンの香ばしさと、出汁の優しい香りが混ざり合い、心地よく鼻腔をくすぐる。
「僕は少し、洋食系で攻めてみようかな」
ツカサは手際よく、色鮮やかなサラダや瑞々しいフルーツを皿に並べていく。タンパク質と野菜をバランスよく取り、仕上げにシェフが目の前で仕上げる黄金色のフレンチトーストを添えた。
「ここのフレンチトースト、絶品なんだよね」
一方のサトミは、湯気が立ち上る和食のコーナーへ。
「私はやっぱり、朝はご飯とお味噌汁がいいな」
ふっくらと炊き上がった白米に、旨味が凝縮された赤味噌の汁物。そして脂の乗った焼き魚。サトミのトレイには、どこかホッとするような日本の朝の風景が完成していく。
窓の外の都会の景色を眺めながら、二人で囲む贅沢な朝の食卓。
「美味しいね」
「うん、本当に……」
昨夜の少し気まずくて、けれど温かかった空気は、美味しい朝食とともに幸せな記憶へと上書きされていく。
チェックアウトまでの残り少ない時間。二人は一言一言を慈しむように、ゆっくりと食事を楽しんだ。
「あー、お腹いっぱいだ。。大満足だよ」
ツカサは満足げに息をつくと、名残惜しそうにダイニングを後にした。
一度部屋に戻って手際よく荷物をまとめ、再びロビーへと降りる。
「チェックアウトをお願いします。支払いは、このカードで」
ツカサが財布から取り出したのは、鈍く、けれど気品ある輝きを放つクレジットカードだ。フロントスタッフはそれを恭しく受け取り、手際よく決済を済ませる。
数万円の追加料金を含む明細を受け取り、彼はそれをスマートに鞄へと収めた。
「さて、行こうか。サトミ、溜池山王駅まで一緒に帰ろう」
「うん、ありがとう」
ホテルの回転ドアを抜けると、都会の少し冷たい、けれど清々しい朝の空気が二人を包み込んだ。
昨日の夜、期待と緊張を胸に歩いたあの道を、今は心地よい疲労感と充足感と共に歩いていく。
駅までの短い道のり。
昨日よりも少しだけ近くなった二人の距離を感じながら、ツカサはまた、次の金曜日を目指して戦場のような日々を乗り切る活力を取り戻していた。




