第13話:みんな大好き!ヨコハマグランド⑤
サトミが髪を乾かし、バスルームから出ると、部屋の明かりが少し落とされていた。 ソファでは、池波正太郎の本を胸に載せたまま、ツカサが静かに寝息を立てている。
サトミはそっと近づき、彼の肩を揺らした。
「ツカサ、寝てたよ……」
「ん……ああ、そうか。寝ちゃってたか」
ツカサはゆっくりと目を開け、眼鏡の位置を直しながら、まだ夢の中にいるような声で答えた。
「疲れてるの?」
サトミの問いに、ツカサは少しだけ自分を偽るのをやめたように、深くソファに背を預けた。
「あー……。今週は、正直結構疲れたよ」
「どうしたの?」
「……まあ、ちょっとね。上の人間のミスを、下で全部帳尻合わせしなきゃいけなくて。典型的な尻拭いってやつかな。でも、年功序列の世界だからさ、仕方ないんだよ」
いつもの「完璧な事務員」としてのツカサではなく、組織の歯車として戦い、すり減っている一人の男の顔。
「でも。サトミと一緒に今日、ここに来られて元気が出たよ。……ありがとう」
はにかんだように笑う彼を見て、サトミの胸が締め付けられた。
(なんだか……いつものツカサじゃないみたい)
いつも自分をリードしてくれる彼が、今は少しだけ小さく、そして愛おしく見えた。
「……じゃあ、僕もお風呂に行ってくるよ」
ツカサはよろりと立ち上がり、バスルームへ向かった。
「うん、いってらっしゃい」
サトミは一人残された部屋で、再び窓の外へ視線を戻した。 静まり返った横浜の海。観覧車の灯りはもう消えていたけれど、隣のソファに残ったツカサの温もりが、今の彼女には何よりも温かく感じられていた。
「いやあ、シャワーを浴びたら目が覚めたよ」
バスルームから戻ってきたツカサは、少しだけ顔色を良くして髪を拭いていた。
「……ツカサ。まさか今日も、ソファで寝るわけじゃないわよね?」
サトミがベッドの中から、少しだけ身を乗り出して尋ねる。
「今日はベッドが二つあるからね。……ちゃんとベッドで寝るよ」
ツカサは苦笑いしながら、もう一方のシングルベッドに入った。
「今日は本当に疲れた。……もう寝るよ、おやすみ」
電気を消し、部屋は横浜の夜景が漏らす微かな光だけになった。
「ツカサ……おやすみなさい。今日も、ありがとう」
サトミが小さく声をかけたが、返事はない。聞こえてくるのは、規則正しく、深い眠りを示す彼の寝息だけだった。
広い部屋、そして広いベッド。けれど、サトミの胸には得体の知れない寂しさが募っていた。彼女はむくりと起き上がると、シーツの擦れる音を立てないよう、慎重にツカサのベッドへと潜り込んだ。
(あ……ツカサの身体、温かい……)
その温もりに包まれると、先ほどまでの不安が嘘のように消えていく。サトミは彼の背中にそっと寄り添い、深い眠りへと落ちていった。
翌朝。カーテンの隙間から差し込む朝日を浴びて、ツカサは目を覚ました。
「ん……? えっ?」
身体が重い。見れば、自分のお腹のあたりに、細くて白い腕が回されている。
「……サトミ、おはよう」
彼の声に、サトミが眠そうな目を擦りながら顔を上げた。
「……サトミ、どうしたんだ? 狭かっただろ?」
「……あったかかった」
幸せそうに微笑む彼女を見て、ツカサは激しく動揺した。
(うわあ……昨日の記憶が、寝る直前からまったくない。僕は……何もしてないよな?)
エリート事務員としての冷静さを必死にかき集めるが、心臓の音は激しく脈打っていた。
「……じゃあ、着替えてクラブラウンジに朝食を食べに行こうか」
平静を装いつつも、ツカサは顔を真っ赤にしながらベッドを抜け出した。




