ニカを――!
「陛下ッ! 皇帝陛下ッ!」
東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープルの宮殿の廊下に響くは、一人の女の声。
其の女の声は、真っ直ぐに一人の男の元に届いた。
「テオドラ?」
男が廊下を歩く足を止めて振り向いた時には、其の女――テオドラは既に男の真後ろに居た。
走って来たのか、彼女の息は少し切れている。
頭には冠などの重い装飾品もあり、少し走っただけでも息切れするのは確実だろう。
「ハァァーッ……お早うございます。陛下」
テオドラが女らしくない息を大きく吐き、男に向かって朝の挨拶をした。
「お早う、テオドラ。――朝から『陛下』などと堅苦しい呼び方はよしてくれ。『ユスティニアヌス』で良い」
男――ユスティニアヌスは疲れた表情で答えた。
「いいえ! 私は『東ローマ帝国を掌握する皇帝陛下』に用があって、わざわざ走って――陛下? 貴方、物凄く顔が疲れていますよ? 御ッ丁寧に目の下に濃い隈まで作って……まさか、また私の忠告を無視して徹夜していましたね?」
テオドラの其の言葉に、ユスティニアヌスは顔を引き攣らせた。
全く其の通りであった。
東ローマ帝国皇帝であるフラウィウス・ペトルス・サッバディウス・ユスティニアヌス――ユスティニアヌス1世は、寝る間も惜しんで仕事に精を出す皇帝であり、よく言ってしまえば仕事熱心、悪く言ってしまえば仕事中毒な皇帝である。
其は、「不眠帝」とも呼ばれるほどであった。
「もー! 昼間の執務に支障が出るから夜間の執務は最小限にしてさっさと寝てくださいとあれほど! あれッほど医者も私も忠告したのに! こンの馬鹿な皇帝は!」
テオドラは拗ねたように顔を背けた。
ユスティニアヌスは其の言葉に怒るどころか、「そうか、済まぬ」と認め、素直に引き下がった。
たとえ、「馬鹿」と言われようともだ。
テオドラは、ユスティニアヌス1世の妻――つまり皇后である。
テオドラはこれまでの皇后とは違い、自らも様々な政策を打ち立て、政治に影響を及ぼした。
ユスティニアヌスは此を許可した。
其だけ二人は互いを信頼し合っていたと云うことだ。
しかし、そんな皇后の出は最悪であった。
彼女は劇場の踊り子と云う卑しい身分に生まれた。
当時、劇場の踊り子は、裏では娼婦のような立ち位置でもあったため、皆から蔑まれ、嘲笑される対象でもあった。
だがテオドラは、劇場で其の美貌と踊りの才で注目され、一部の人々に人気を集めていた。
無論、踊り子として人気、と云うことは、娼婦としても人気、と云うことになる。
しかし、其の様な状況からテオドラを救ったのは、当時元老院議員であったユスティニアヌス其の人であった。
彼はテオドラに一目惚れをし、彼女と結婚するために周囲の反対を押し切って法まで変えてしまったが、其はまた別の話である。
「いいですか、陛下。これからは――いえこれからも、徹夜は駄目です! 特に今の時期は避けますように。皇后テオドラからのお願いです」
テオドラはユスティニアヌスの眉間に指を差しながら、命令するような、しかしどこか諭すような口調で、お願いと云う名の命令を下した。
「だが、そしたら執務が――」
「黙って従ってください。私は東ローマと貴方のために言っているのですから」
テオドラの「貴方」の言葉に、ユスティニアヌスは言葉を詰まらせた。
其はつまり、皇帝としてのユスティニアヌスも、夫としてのユスティニアヌスも、テオドラはどちらも排除せず対等に気を配ってくれていると云うことだとユスティニアヌスは解釈した。
そうなると、テオドラの其のお願いを聞かない理由などなくなる。
「分かった……努力はしよう」
ユスティニアヌスの其の言葉に、テオドラは満足して彼の眉間を差す指を解いた。
「――で、何の用だったかな?」
「あ、そうでした。私が新たに考えているこの政策ですが……あ、資料、忘れた。すみません! 取りに戻ります!」
ユスティニアヌスは、資料のために回れ右をして再度走り出した皇后の姿を見送った。
皇帝も皇后も、いつも忙しい。
コンスタンティノープルには、国立の戦車競技場がある。
其処では、戦車を走らせて速さを競わせる、いわゆるレースがコンスタンティノープル市民の人気の的になっていた。
コンスタンティノープル国立戦車競技場――ヒッポドロームは、赤、白、青、緑の四組に分かれており――特に青と緑が人気を集め、赤と白は衰退したが――それぞれの組には熱狂的な応援団がいた。
其の熱狂さは、応援団同士の喧嘩も度々起こっていたほどだ。
歴史的にも著名な、コンスタンティノープルを大混乱に陥れて甚大な被害を与えた其の事件は、其処からが発端だ。
きっかけは、先述の通りヒッポドロームの戦車競走の組同士の喧嘩だ。
激しい喧嘩だった。
何人か、死人が出た。
犯人はすぐに捕まったが其の内2人が逃げ出し、教会に逃げ込んだ。
其の数日後、ヒッポドロームでまた競技があったために、応援団員である2人を解放せよと仲間らが暴動を起こした。
「ニカ! ニカ!」
暴動の際に彼らは勝利を求めてこう叫んだ。
此が俗に言う「ニカの乱」の始まりである。
其はコンスタンティノープル市民の耳にも届き、暴動はさらに拡大することとなる。
応援団員である2人への恩赦を求めての暴動だったはずが、其は市民の不満を爆発させるきっかけとなり、今の状況に不満を持つ市民らも暴動に参加した。
其の暴動にてコンスタンティノープルの約半分は焼け落ち、被害は甚大なものとなった。
「まずい……コンスタンティノープル市民の怒りは尋常でない……!」
ユスティニアヌスは普段の落ち着きはどこへやら、玉座に座り、額に血管を浮かばせ、眉間に深く皺を寄せて静かに焦っていた。
既に暴徒らは聖ソフィア聖堂まで焼き払い、ただひたすらにニカを求めている。
ただ、其のニカはどこにある?
暴動の被害は最小限に抑えたい。
しかし、どうすれば彼らは納得する?
ユスティニアヌスはいつものように深く思案したかった。
しかし、外から聞こえる暴徒の勝利への雄叫びが其の集中を途切れさせる。
――彼は重々しく口を開き、問うた。
「暴徒らは何を求めている?」
其処に居た役人の一人が、恐る恐る口を開いた。
「彼らは……財務長官や司法長官らの罷免を求めているようです」
「…………」
ユスティニアヌスは何も話さなかった
ただ、外から聞こえる勝利への雄叫びに揉まれながら思案しているだけだ。
テオドラは、隣から其のユスティニアヌスの様子を、いつものように助言をしたりせず見ていただけだった。
此処で話しかけても邪魔になるだけだと気づいていたからだ。
財務長官や司法長官を手放すのは、国家の大きな損失だ……
ただそれで治まってくれるのなら……
暫くして、ユスティニアヌスは絞り出すように命令を下した。
「暴徒らに伝えよ。要求を吞み、彼らを罷免する。そして、新たな者を任命することにする、と」
役人らは従順に其の命令に従った。
テオドラは何も言わなかった。
ただ、其の選択を受け入れてはいるようであった。
其から3日程が経った。
暴動は一向に治まらず、寧ろ悪化しているように見えた。
ユスティニアヌスは、治まらぬ暴動にどうすることもできず、玉座に浅く座って猫背になり、顔を手で覆っていた。
皇帝が其のようなみっともない格好をするのは如何なものかと思われるが、其のようなことなど気にできないほど、ユスティニアヌスは焦りに焦っていた。
同じ場所に居た元老院議員らなども、此の状況に何も言えず、沈黙を貫いている。
「テオドラ……」
ユスティニアヌスが其の姿勢のまま、隣のテオドラにしか聞こえないような声で語り掛けた。
其の声はいつになく弱々しい。
「はい……?」
テオドラも今までの状況に対し、何も策を巡らせなかったわけではない。
彼女自身も思考を巡らせたが、最適解は未だ見つけられずにいる状態だ。
其故、テオドラの声もどこか自信なさげだ。
「此の暴徒らを鎮めるには……どうすればよいのだ……?」
「思いついていたらとっくに話していますよ……」
再度沈黙が訪れた。
皇帝も、其を支える皇后も、暴徒の圧倒的な意思と数の前では何もできなかった。
今までの慣習に基づいて、ならだ。
ユスティニアヌスは、急に何かを決心したかのように立ち上がった。
「暴徒に伝えよ。明日、余はヒッポドロームへ行く」
周りの者は驚きの表情を見せたが、否定する理由など作れなかった。
皇帝が民衆に直接姿を見せるなど異例中の異例であったが、万策尽きた此の状況にて、其のような理由で皇帝の策を止める程頭の固い者は、ここには居なかった。
翌日、ユスティニアヌスは言葉通りヒッポドロームへ赴いた。
民衆にも其のことがきちんと伝わっており、ヒッポドロームには多くの暴徒が集まっていた。
暴徒らは、皇帝が直々にヒッポドロームに姿を見せて何をするのか、期待と嘲りを込めながら其の時を待っていた。
時が来た。
皇帝の其の手には福音書――新約聖書に収められている書物だ――が掲げられていた。
そして、声高らかに宣言した。
「今回の暴動について、余は諸君らを不問に致す! 諸君らには一切罰を与えない! 全ては余の過ちであり、余の責任である!」
其の宣言に、一部の者は歓呼の声を上げたが、他の者は「嘘つき」などと叫び、其の宣言を認めなかった。
皇帝は歓呼の声と叫び声の両方が聞いて取れたと思われたが、叫び声に対しては何ら反応をしなかった。
ヒッポドロームと宮殿は隣あっている。
皇帝はそのまま宮殿へと戻った。
「駄目だ……」
宮殿に戻ったユスティニアヌスは、精神的に疲労が蓄積されていた。
テオドラも、皇后として、妻として、ユスティニアヌスと云う男が疲れ果てていく姿を間近で見ることは楽な事ではなかった。
だからといって、励ましや提案の言葉も今の彼には通用しない。
何より、テオドラ自身も既に疲れてきた。
ただ、帝国のため、ユスティニアヌスのためであったら奮い立つことは難しいことではなかった。
「陛下。もう此の際――」
彼女が口を開きかけた時、外から急報が飛び込んできた。
「暴徒によってヒュパティウスが擁立され、皇帝として宣言されています!」
「「なっ……!」」
二人は同時に声を上げた。
ヒュパティウス――元皇帝であるアナスタシウス1世の甥だ。
彼が担ぎ上げられたと云うことは、暴徒側の目的は明白。
ユスティニアヌスを皇帝の座から引きずり降ろそうとしているのだ。
いよいよ本格的にユスティニアヌスの治世が危ない。
そして、其の危険を摘み取る為にユスティニアヌス側がやるべきことも明白だ。
「ベリサリウス将軍」
ユスティニアヌスは、ベリサリウス将軍にヒュパティウスの捕縛を命じた。
ベリサリウスは名将である。
数多の戦いで活躍し、ユスティニアヌスの治世に多大な影響を及ぼした偉大な将軍だ。
ベリサリウスは命令通り、宮殿からヒッポドロームに侵入しようとした。
しかし、失敗に終わった。
ベリサリウスが悔しそうに口を噛み締める。
自らの失態が、最悪の結末を予感させたからだ。
此の失敗が、さらに暴徒の自信を高める結果となった。
暴徒の勢いは止まらず、宮殿にもそろそろ限界が近づいていた。
ユスティニアヌス側の人々は、既に限界を突破気味であった。
その状況で、ユスティニアヌスはとうとう一つの決断をする。
「逃亡だ」
ユスティニアヌス曰く、一度コンスタンティノープルと帝国を捨て、どこかへ逃げ延びて再起を図るとのことだった。
皆、其に賛同していた。
むしろ、此の状況で無謀にも戦い続けるような酔狂な者は居ないだろう。
皆、そう考えていた。
しかし、此処に其の酔狂な者が、一人だけ、存在していた。
其の者は今まで黙っていたが、「逃亡」の単語を聞いた瞬間、其の口を開いた。
平時より威厳が満ち、覚悟が其の表情から見て取れた。
テオドラであった。
彼女は、其処に居た皆に届くように、しかし其の矛先はユスティニアヌスにしか向けず、「逃亡」に反論した。
「生を受けた者が死を迎える運命は免れません。其と同じように、支配者が逃亡者になることも不可能です。」
其の言葉から、テオドラは逃亡に断固として反対していることを皆が悟った。
「私は、道行く人々が私のことを『皇后陛下』と呼ばない日など一日たりとも過ごしたくはありません。もし助かりたい方がいらっしゃるなら、どうぞご自由に。すぐ其処は海で船もありますし、金も充分にあるでしょう。しかし、今逃亡して貴方は幸せでしょうか?」
皇后の其の言葉に、其の場全員の考えは揺れた。
そして、最期の一言に、皆奮い立つことになる。
「古には、このような言葉があります。――『帝位とは、最高の死に装束である』」
其の言葉に、皆の頭から「逃亡」と云う選択肢は完全に消え去った。
そうだ。帝位とは命のために捨てる程軽いものであったか?
否。此の帝位は、死んでも守り抜くべきものである。
「テオドラ……!」
ユスティニアヌスは、驚きと感嘆の目で、堂々と演説をするテオドラを見た。
そして、最後の決断を下した。
余は何を弱気になっていたのだ。
此処で引けば、全て無に帰す!
「ベリサリウス将軍! 敵はヒッポドロームに集まっている! 其処へ兵と共に突撃し、暴徒らに全面攻撃を仕掛けよ! 乱は、これにて終結する!」
「御意の儘に!」
ヒッポドロームに突撃したベリサリウスと其の兵は、其処に集った暴徒らに対し、恐るべき虐殺を始めた。
其処には悲鳴が響き渡り、其が木霊することで暴徒の恐怖を駆り立てた。
暴徒らはヒッポドロームから逃げられずに一人残らず亡骸と化し、其の犠牲者は3万人にも及んだと記録されている。
皇帝に担ぎ上げられたヒュパティウスも其の際に捕らえられ、翌日に処刑された。
コンスタンティノープルを大混乱に陥れた其の暴動――ニカの乱はこうして終結した。
数日後、ユスティニアヌスは焼失したコンスタンティノープルを眺めながら、深いため息をついた。
此の選択は正しかったのだろうか。
暴動を治めるために民を虐殺してしまう結果となったが、本当に其しか選択肢はなかったのだろうか。
「深く思案中のようですね。陛下」
ユスティニアヌスの後ろから、不意に声が聞こえた。
振り向くと、其処にはテオドラが居た。
ユスティニアヌスとは対照的に、其の声は自信と威厳に満ち溢れているように聞こえた。
「テオドラ……余の選択は、正しかったと思うか?」
「……珍しいですね。自信なさげに」
ユスティニアヌスの声は、後悔と迷いが絡まり合ってどこか自信なさげだ。
そんな彼に、テオドラは少しも臆することなく答えた。
「貴方が其を正しいと思えば正しいですし、誤りだったと思えば誤りでしょう。今大切なのは、後ろばかりを気にして前が見えないことよりも、前を見て考えることではないですか?」
正論だ。
「テオ――」
「しかし、確実に言えることはあります」
ユスティニアヌスに話す隙を与えず、テオドラは続けた。
「此の帝位だけは、絶対に誰にも渡さない。奪い取ろうとする者は、排除する。それまでです」
ユスティニアヌスは目を丸くして、改めてテオドラの顔を見つめた。
其の顔は皇后としての威厳が滲み出ているが、其の発言もまた国を統べる者のそれであった。
数年前まで踊り子と云う卑しい職業に就いていた者とは思えない。
テオドラは、ユスティニアヌスに顔をまじまじと見られていることに気付くと、少しだけ顔を赤らめて俯いた。
「まぁ、其が言えるのも、私益や国益以上に民のことを考えることができる慈悲深き皇帝だけですけどね、陛下。貴方ならできるでしょう?」
テオドラは顔を俯かせたまま、そう付け足した。
ユスティニアヌスは、ただ「分からぬ」とだけ答え、コンスタンティノープルの町に視線を戻した。
テオドラは少し納得できなさそうであったが、暫くしてしゃきっと視線を戻すと、「さて!」と話を切り出した。
「これからやるべき事は何か分かっていますよね?」
「ああ。まずはコンスタンティノープルの再興。そして聖ソフィア聖堂の再建だ」
「分かっていらっしゃるなら、こんな所で突っ立っていないで執務です執務!」
ユスティニアヌスは、半ばテオドラに引きずられるような形で執務室に歩を進めた。
皇帝も皇后も、これから忙しくなる。
「あ、そうだ」
テオドラが歩きながら、何かを思い出したかのように口を開いた。
「これからはさらに執務が大変になることでしょう。少しは――睡眠時間を削る必要がありそうですね」
彼女は振り返ってユスティニアヌスの方を向き、冗談ぽくそう言った。
そして、微かに口角を上げて笑みを作ってみせた。
其の笑みは、踊り子としての妖艶さはそのまま、皇后としての威厳も兼ね備えた、完璧な笑みだった。
其に対しユスティニアヌスは、笑みを返しながら、やがて訪れる激務を覚悟することしかできなかった。
主な参考
・ニカの乱‐Wikipedia
・テオドラ 女優からビザンツ皇后、聖人へ デイヴィッド・ポッター 著 井上浩一 訳
上記以外にも、情報を提供して下さった方々に、最大限の感謝を。




