第2話 異常な日常
02/
まもなく桜も散ろうかという四月の半ば、告白される当日。
俺は普段通りの朝をいつもと違う場所で迎えていた。
『お兄ちゃん! 朝だよ! 起きないと遅刻』
カチッ。
手を伸ばし、枕元で叫ぶ目覚まし時計のアラーム――お早うお兄ちゃんシリーズ第三弾の妹ボイス――を止める。
部屋以外は変わらない普通の朝。かと思えば、他にも異なる点があった。
金縛りにもあわないで熟睡できたのは久しぶりだ。おもむろにベッドから起き上がってみれば、身体も嘘みたいに軽かった。おかげですこぶる気分がいい。
「部屋の中に……なにもいない……マジか」
周囲を見渡してみても、異常はどこにも存在しなかった。不思議に思いながらもベッドから出て、カーテンを開けようと手をかける。
平和な朝なんて初めてだ。その喜びに、「今日は良い日になりそうな気がする」と、カーテンをサッと開いて、
「フシュルルルル……」
即座にシャッ!と勢いよくカーテンを閉めた。
窓の向こうでクモと人間のハイブリッドな何かが、ボサボサな髪を振り乱し、奇妙な声を上げていたからだ。
「なんだ……やっぱりいるのかよ」
さっきまでの感動はどこへやら。がっくりと肩を落とし、ため息をつく。結局いつもと変わらない朝だった。
「けどまぁ、部屋には入ってこないのか」
どうやらこれが『加護』というものらしい。
同居人から聞いた昨夜の話は、嘘じゃなかったわけだ。
『――この家を守っている』
半信半疑だったけれど、あの言葉は本物だ。
それならつまり、本人の言うとおり同居人である彼女は――。
人間では、ないのだ。
◇
制服に着替えて身だしなみを整え部屋を出る。
家の中はシンと静まり返り、物音ひとつしない。
(俺しか居ないみたいな……とりあえず覗いてみるか)
板張りの廊下をキシキシと軋ませながら歩き、階段を降りて居間へと続くふすまを開いた。部屋から廊下に、どこか懐かしい畳の匂いが広がる。
その開いたふすまの向こう。
縁側に面した障子戸が解放された室内は、明かりを点ける必要も無いほど明るい。十二畳ほどの和室の真ん中に置かれた、大きなちゃぶ台の脇――そこに正座する、和服の少女に目をやる。
まっすぐに切りそろえられた長い黒髪に、深い漆黒の瞳。
彼岸花をあしらった、目にも鮮やかな赤い帯と黒い着物。
人ならざる美しさを放つ彼女の名前は、敷というそうだ。
イメージは究極の大和撫子。
あるいは匠が生涯を賭して作り上げた、精巧な日本人形か。
そんな品格と風情を漂わせる不思議な少女だった。
「おはよう敷。君って本物だったんだな」
声をかけると少女は無表情のまま、目線だけで俺を見上げた。
つい先ほどまで半信半疑だったけれど、敷の極限まで簡略化された自己紹介によれば、彼女は『座敷童』というものらしい。
「……なに?」
抑揚のない凛とした声が、静かな居間にポツリと落ちる。
敷は小首を傾げて俺を見上げ、不思議そうな顔をしていた。
「いや、ありがとう。おかげで久しぶりによく眠れたよ」
「……そう」
彼女は興味なさげに呟いて、スッと視線を伏せてしまう。
(人見知りなのか……実は人間と喋ったことがないのかもしれない。まぁ、俺も妖怪と喋ったことなんて無いが)
「あー……あはは、うん! じゃあ俺、学園行くから!」
会話が続かず微妙な空気が漂う。
その沈黙に耐えきれず、ことさら元気に声をかけた。
(気まずいぞ……これ、正直どうしていいかわからん)
すると、敷がピクリと眉をひそめ、怪訝そうな顔で俺を見た。
「……家を出るの?」
「え? そうだけど」
その言葉は珍しく、どこか咎めるような、少しだけ固い声色だった。敷が感情を込めた声を聞くのは、これが初めてかもしれない。なにか機嫌を損ねる真似をしてしまったのかと思い、おずおず返事をすると、彼女の切れ長な目がわずかに細まった。
「……なぜ?」
「なぜって……俺は学生だから学園があるんだよ」
なにが納得いかないのか、敷の眉はどんどん下がっていく。
むーっと俺を見つめる不満げな顔はとても愛らしかったが、眺めてばかりもいられない。
「……外までは、力が届かない」
呟かれた声はどこか弱々しく、訴えるような響きがあった。
(怒ってるんじゃなくて、困ってるのか? そういえば親戚連中が、座敷童は家人を守るものだと話していた。家だけでなく俺も守る対象ってことか)
「大丈夫。慣れてるから安心してくれ」
それならと、出来るだけ明るく声をかける。
(たぶん心配してくれているのだろう……合っているのか自信はないが)
「……すぐに帰ってきて」
「わかった。なるべく早く帰るよ」
「ん……」
敷は納得してくれたらしく、コクリと小さく頷いて、フイッと顔を背けた。だがよくよく見れば横顔が、なんとなく拗ねているようにも見える。
(なんというか……難しいな座敷童って)
「じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
そうして彼女と暮らす先行きに、わずかな不安を覚えながら家を出た。
◇
03/
俺が昨夜移り住んできた家は、長い軒と黒い瓦屋根が特徴の古き良き日本家屋だった。周囲の塀も趣があり、明るい場所で見ると確かな威厳を感じた。
(明るいとこで見ると、それなりに立派な家だな)
その板張りの門を抜け、敷地から一歩足を踏み出した途端、ズボンのポケットでスマホが震えた。朝から非通知の着信だ。
「もしもし」
「もしもし――私、メリーさ」
ピッ。
即座に通話を切って電源を落とす。
「はぁ……またか」
不定期にだけど何度もかかってくるメリーさん。厄介だが、すでに対処法は覚えているので問題ない。この怪異は電源を落としてしばらく放置すれば治まる。
以前一度、試しに付き合ってみたら、家の前まで来て大慌てしたことがあった。幸い電源が落ちて助かったが、反省すべき思い出だ。
「んーと……確かこっちだよな」
気を取り直して、いつもと違う通学路を歩き出す。
この家から学園へ向かうのは今日が初めてだった。
俺が昨日の夜に越してきたのは祖父さんの家だ。
実家は駅を挟んで反対側の新市街――近代的な建物が建ち並ぶ、都会よりの区域――にある。
対して祖父さんの家がある旧市街は、昔ながらの木造家屋が立ち並ぶ区域だ。石畳の道と、両側に並ぶ古い木造の家々。その間を縫うように続く細い路地は、昼間でもひっそりとした空気が漂う。
その路地に――、
「ネェ――ワタシ、キレイ?」
真っ赤なコートを着たマスクの女が立っていた。
右手には赤黒く不吉に錆びついた、やたらとデカい鋏が握られている。顔の半分を覆い隠す大きなマスクの両端からは、耳まで裂けた口が覗いていた。
「マスクからはみ出してますよ、口」
「エェッ!? ヤダ、ウソォ!?」
親切に教えてあげると、口裂け女はオロオロしながら後ろを向いてしゃがみこんだ。その脇をスルッと抜けて足早に通り過ぎる。
「旧市街にも出るんだな……勘弁してくれ」
家を出た途端にコレだ。信じられない頻度で出くわす怪異。
「おー? おはよー、囮じゃん。なんで旧市街にいんの?」
路地を抜けたところで、見知った顔に呼び止められる。
同級生の繁定 弘人だ。
平均的な俺より、さらにすらりと高い身長に長めの茶髪。
彼は俺にとって唯一の友人であり、最も仲の良い親友だった。
学園の制服は、清潔感ある色合いで統一されたデザインだ。白シャツに紺ネクタイ、濃いグレイの格子柄パンツ。明るいライトグレイのブレザーを羽織る、控えめながら品のあるスタイル。
だが同じ学園の制服なのに、弘人が着るとモデルみたいなパリッと様になる服装に感じる。
(これもいわゆる、格差社会というやつなのかもしれない)
「おー、はよー。親が海外出張。その間、祖父さん家で暮らせってさ」
「あーね。あれ? 祖父さん亡くなったって言ってなかったっけ?」
祖父さんが他界したのは去年の夏だ。
俺が移り住むまで、あの家は一年もの間空き家だったらしい。
「色々あって家は残ってるんだよ」
「そうなんやね。旧市街にあるのか? お邪魔していい?」
「来るか? 実は妖怪と二人暮らしなんだ」
ふと悪戯心が芽生え、ニヤリと笑って事実を告げる。
その途端、弘人は顔を青ざめて目を泳がせ始めた。
「行かない。絶対に何があっても、近寄らないことにするわ」
半分涙目で断言する弘人は大の怖がりだ。そっち方面の話をすると、女子の前でも叫び声を上げて逃げ出すほどである。
「なんでお前はいつもそんな化け物と縁があんの? 憑りつかれてない? お祓い行けよ頼むから」
「それで解決するならもうしてるっての。どうしようもないんだよ体質だから」
どうやら俺は怪異に気に入られる体質らしい。この変な名前のせいなのだろうか……本当に、いい迷惑だ。
「さっきもほら、スマホにさ? メリーさんから」
「やめろマジで! 都市伝説系は良くない! 最近ただでさえヤバい噂あるんだぞ!」
「大丈夫だって。お前にもしかかってきても電源を――」
「だぁーっ!?」
弘人は絶叫しながら自分のスマホを掴むと、そのまま地面に放り投げた。予想外の行動に驚き、それを慌てて拾い上げる。
「何やってんだよ。壊れるだろ」
「馬っ鹿お前! お前が触ったらかかってくるだろがっ!」
差し出したスマホを見て、弘人は脱兎のごとく駆け出した。
長い手足を存分に生かしたガチの逃げ足は、陸上部のエースもびっくりな走りっぷりだった。その背中はあっという間に小さくなっていく。
「おい待てって! スマホ置いてくな!」
ちょっとやりすぎたかと反省しながら、後を追って走り出す。
どのみち弘人は同じクラスで、追っても無駄なら逃げても無駄という、実にしょうもない追いかけっこである。
結局その後。
受け取るのを嫌がる弘人にスマホを渡せたのは、昼休みに入ってからだった。
◇
04/
購買でパンを買い、ザワザワと騒がしい教室に戻る。そうして弘人と二人で飯を食う、いつもと変わらない昼休み。
……の、はずだった。
ガラッと教室の引き戸が開いて、水を打ったように全員が静まり返る。弘人はパンを咥えたまま固まり、俺は咥えていたパンをポロッとこぼした。
教室の入口に現れた一人の少女に、俺たちも含めクラス全員の視線が釘付けになる。
現れた少女の名は影守 冴夜。
学園一と名高い、誰もが憧れる美少女だった――。