7 未来
「クソジジイ、死ねっ!」
斜め後ろからドスの利いた声が聞こえてきたので、益祥はそのおぞましさに思わず振り返った。
……
誰もいない。
墓場のどこにもその声の主はいない。
どう聞いても、それはグレ切った当時の未来が発した声だった。
いま思えば、あのときが転回点だったのかもしれないと益義は思う。
兄の翔太と四歳児の未来を引き連れて砧ファミリーパークに遊びに行った。もう十四年も前のことだ。園内の芝生の上で掛けまわる未来を見ていて声を聞いた。泣き叫ぶような女の子の声だったが、そのときには未来の声には思えなかった。だが未来が自分で拵えた草罠に嵌って転び、それからその草罠を壊して兄と飛行機になりきって駆けまわっているところを目を細めて眺めているとき、再度声を聞いた。それは、それから約一年後の反抗期に入った当時の未来の声だった。
思い返すといまでも益祥は不思議な気分に襲われるが、あのとき瞼の裡を流れた情景とまったく同じ出来事が後に起こった。益祥の妻の民江の対応も、未来の母の好美さんの形相もすべて同だったように益祥には思えた。なので、ひとり益祥だけが戸惑った。不思議ではあったが別に隠すような内容でもなかったので、そのときすぐ妻に話せば良かったのかもしれない。だが益祥は、いつの間にか、そのタイミングを失ってしまい、奇妙な空耳は奇妙な過去の出来事として益祥の胸の中に仕舞われた。そして何かの折に思い出される思い出の一エピソードになるはずだった。
未来の非行が顕著になったのは高校に入学してからの頃だったが、その兆候はすでに中学の後半に散見された。簡単にいうとまず友だちの質が変わり、服装が少しだけ派手になり、見せる仕種が少しだけぞんざいになった。ついで、それまでは学校でのことや何やかやを普通に家族に話していたのに、それが極端に少なくなった。やがて友は類を呼び、類は友を呼んで、だんだんと言葉使いが荒くなり、ついには家族に暴力まで振るうようにも、つまらぬ商品の万引きで補導されるようにもなった。
実態を質したことはないが、不純異性交遊だってしていたのだろう。
登校拒否や短期間の家出が当たり前になって、好美さんの表情から徐々に笑顔を自信が消えていくのを、益祥は哀れなものを見るように見守り続けた。歯科医をしていた一人息子の幸太郎はその状況を直視せず、まるで非行した娘が家の中に居ないかのように振る舞い続けた。なので、すべての心労は母親の好美さんだけに集中し、それでも一本芯の通った好美さんは気丈夫に娘を叱り続けたが、ある日突然その糸が切れた。後で聞いたところによると、夫の幸太郎にいわれた「おまえの育て方が悪かったんだろう!」という配慮ない発言が引き金になったようだ。そのことについては、常日頃から義美さんは思い悩んでいただろうに、わざわざそれを口にするとは、わが息子ながら何て薄情な夫なのだろうか、と益祥は憤慨し、また叱責もした。
けれども不思議なもので、本気で怒る家族がいなくなると、未来の態度が変わりはじめた。もちろんすぐ元のように戻りはしないが、少しは学校に通うようになって、盗みも止めたように見受けられた。さすがに照れ臭いのか、相変わらず家庭内での口数は少なかったが、それでも益祥たちに朝の挨拶をするようになり、服装はいまだ派手なままだったが、化粧の質が変わったようにも感じられた。
そして顔と身体一面に痣と打撲の痕を残して帰宅して、未来の非行は終わったようだった。
もちろんヤクザほどではないにしても、不良仲間の結束は固い。簡単に足抜けなどできないことは、実はその昔喧嘩でならした益祥には痛いくらいにわかっていた。だが、付き合っていた男たちの中に、いわゆるチンピラがいなかったのも幸いしたのだろう。遺伝的に好美さんの一本気を受け継いだ未来は、筋を一本通して、それを遣り抜こうと努めた。その心意気が自分にも伝わってきたので、益祥も影で応援することに決めた。
最終的に変わる、変わらない、あるいは変われないは、本人の自覚の問題だった。すべての物事の中心にいるはずの当の本人が諦めてしまえば、その本人と同じような性根の仲間たちと薄暗い闇の中を漂うだけで、腐ってはいるが居心地の良い泥沼からは這い出せない。心の闇を知っているのも、それを直視できるのも、本人以外にはおらず、家族や友人や恋人にはその手助けはできても、それ以上には何かをすることは不可能だ。さらに最近のヤクザや不良はただの馬鹿者だった。任侠の世界を肯定する気はないが――何故かといえば、それは所詮当人にとってのヒロイズムに過ぎなくて、例えばチャカで狙った抗争相手の家族のことなど一切考えないからだが――少なくとも、その昔は素人衆には一切手を出さない――もちろん馬鹿者には違いないが、ただの馬鹿者でもないような――漢が何人もいたものだった。
その後も事あるごとに未来は昔の仲間たちから因縁を付けられたようだったが、益祥が張った往時の喧嘩仲間のネットワークも役立って、大怪我をして病院に担ぎ込まれるような事態だけは避けられた。不良仲間と手が切れれば後の心配は学校での執拗な無関心と色眼鏡だったが、ここでは益祥にできることはほとんどない。たまたま未来と同じ高校に進んだ、昔仲の良かった何人かの友人たちに、未来のことを託すしかなかった。
その点で、未来は友だちに恵まれていた。
非行化しはじめたときから色々と叱責したり、または親身に相談に乗ったりしていたらしい女友だちや、恋人未満&友だち以上の男友だちを持っていた。
その男友だちの西野くんをはじめて家に連れてきたときのことを、益祥はいまでも鮮明に憶えていた。未来がパンスケもどきだったときには見られなかった、純情な恥じらいの表情を未来の中に見つけたからだ。なので興味を持って、未来が席を外したときに益祥は西野哲郎と少し話をした。そして哲郎が十七歳の青年なりに未来のことをとても心配しているのがわかって、ほっとしたり、「ほお」と感心したりした。哲郎も益祥と同じように少し離れた位置でずっと未来を見続けていたのだ。
その頃になると、母親の好美さんの顔にも時折笑顔が戻ってくるようになった。夫婦間の溝はいまだ深いようだったが、それは他人には越えられない領域のこと。なので、多少の小言を幸太郎にいったりはしたが、益祥には所詮好美を見守り続けることしかできなかった。
だが、その好美も娘の未来も、いまこの世にはいない。
事故とは一瞬にして起こるもので、神ならぬ人にはそれを避けることは不可能なのだと諦観することしか、当時もいまも、益祥にはできない。そして、その神とは自然であって、偶然であって、闇でも光でもなくて、そして何も考えていないのだろうと、最終的に益祥は考えるようになった。
そしてまた一瞬、懐かしい空耳が背後を流れたような気配を益祥は感じた。