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12 ターミナル

「いいから早く、その場から立ち去って!」

 かなりはっきりした空耳が聞こえたが、修はそれを意識的に無視した。無視したことには理由があった。原因はわからないが数日前から、空耳を聞く回数が増えていたのだ。だから、いちいちそれらを気にしていては仕事を含めてすべての進行中のことが出来なくなってしまう。だから無視を続けた。慣れてしまえば平気なもので、空耳と実際に聞こえる声を区別できるようにもなっていた。けれども瞬間ドキッとする気分は変わらない。

「修くんの例って、世間一般の人たちとは違うみたいね」

 事が終わってシャワーを浴びて戻ってくると、ベッドに腰掛けたままぼんやりとしている修に日和が声をかけた。修の様子に関わりなく話を続ける。

「家族とか、恋人とか、あるいは親しい他人でもいいんだけど、修くんみたいに、いろんな人の声が聞こえるってことは、ないみたいよ」

 いい終わってベリーショートの髪をバスタオルで拭くと、テーブルの向こうの椅子に座ってブラシを掛けはじめた。

「時間的な隔たりはあるらしいけど、同じ人の声、同じ死人の声が聞こえるみたいね」

 日和は別に修の答えを聞きたいわけではないようだった。

 日和自身は、あの会議のとき以外、空耳体験をしたことはない。だが――正確な数字はわからなかったが――世間では約百人に一人が空耳体験をしているという。百人に一人だから、一万人では百人になる。それではあまり多い数には思えないが、一千万人ならば一万人になる。東京二十三区に東京の人口の半分が集まっていると仮定すれば、五千人だ。そう思うと、渋谷駅や新宿駅あるいは東京駅といったターミナル駅で擦れ違う人たちの中には体験者が少なくともひとりはいるような気がしてくる。だとすれば、かなり大きな数だろう。

 日和の肩書きは製作部アートデザイン課課長だったが、営業への橋渡しや大手中小を問わずクライアントとの食事にも出席する。今日だって、このホテルのレストランでついさっきまで会議の名目で食事をしていた。出席者は見慣れた課長、部長仲間とクライアントで、日和は理由をつけて丁重に誘いを断ったが、今頃、同じホテルのラウンジバーで彼らは酒を酌み交わしているかもしれない。そんな食事会議の席上で、日和は聞き語りに何人かの空耳体験者の話を聞いた。話の中には、空耳と会話をするといったような日和には眉唾としか考えられない体験談もあったが、いずれにしても同じ聞き手に聞こえてくるのは特定の同じ家族か知り合いの声だけらしかった。修が寝物語に語った、「おかあさん、たすけて……」や「ぼんやりしてないで、早く非難しなさい!」の声のように、男の子だったり、成人女子の声だったりはしないようだ。それとも実はそれら声の主は同じ人物で、最初は男だったが、後に性転換して女に生まれ変わっていたのだろうか?

 そこまで考えて、日和はもどかしい気分に襲われた。それは中途半端な自分の空耳体験に由来していた。

 確かに、自分は空耳体験者だった。結論が後日持ち越しになって、その後、ゆるキャラのアイデアが当然のように没になったあの会議の終了間近に、確かに女性の声を聞いている。聞こえた内容からいって、それは修がそのわずか前に聞いた声と同じ人物が発したものだったのだろう。火事か地震の発生による避難を想起させる「ホラ、早く、早く、整列して逃げなさい!」といった避難誘導の声だった。だが日和には、その声の主を特定できない。もっともそれは修にしても、またあの同じ会議室に居合わせた部長や課長にしても同じことだったが……

「ねぇ、修くんには本当に声に憶えはないの?」

 気にかかったので、日和は修に問いかけた。すると、今度は修が答えた。

「いや、ぜんぜん。あの後ずいぶん記憶を探ったけど、やっぱり知り合いの声じゃなかったよ。子供の頃の知り合いでもない。まぁーったく、いつの知り合いだったんだろうね?」

 最後は口調を疑問形にして、修は問いかけを日和に投げ返した。まったく、こういうところがいけ好かない。なんでこんな男と、セックスだけの関係でわたしは付き合っていられるのだろう、と日和はこれまで考えてこなかったわけではない自分の問題点を見つめ直した。でもまだ飽きないから、きっと中毒なんだな、いまは…… ついで、すぐさまそう結論づけた。そして、不意に気になったので聞いてみた。

「ねぇ、いつの知り合いだったって、どういう意味?」

 修がさっき発した言葉の一部が頭の網に引っかかっていた。それで、ようやくシャワーを浴びる気になったらしくベッドから立ち上がって、ここセンチュリー・ハイアット・ホテル八階のスイートルームの浴室に向かいはじめた修に問いかけた。予定では今夜は泊まりのはずだったが、明日私用の急用が入って、修は今夜、奥さんのいる家に帰ることになっている。夜のこの時間ならばタクシーを拾えば一時間掛からずに、落合の家まで辿り着くだろう。

「はぁ、何だって?」

「だから、いつの知り合いだった、って訊いてるのよ!」

「日和さんは、空耳の時間のずれる話とか、聞いてない?」

「うん、聞いてない」

「こないだ、何とかいう元大学の物理学の教授がワイドショーで説明してたよ」

「よく、そんなもの見る暇があったわねぇ」

「クライアントの都合だよ。それで先方の待合室でテレビが点いてた」

「で、なんて?」

「空間って、たとえば前後なら、前後左右に動けるじゃない。でも、時間ではそれができない。何故かというと時間は生物が生活の必要上作り上げた概念でしかなくて、本当は存在しないからなんだって…… 時間は昔のアナログ時計を見てもわかるように――四時と五時の長針の角度とか、五分から十分への短針の移動とか――実は空間で計られていて、流れる時間なんてものは実際にはないっていうんだよ。常にあるのは今だけで、たとえば化石なんかは確かに古くて時間の概念があった方が説明しやすいけど、別にそう考えなくても説明はできるらしい、」

「へぇ、それで?」

「だから、時間的なものは実は空間に付随する性質らしいんだけど、それが空間によって等価じゃないっていうんだよね。それで説明しにくいから、もう一回時間の概念で考えると、その時間の一部が等価な空間にわずかずつ入れ代わっているって説明なんだ。だから、よくわからないけど、そのベクトルの方向がもっと大きな超空間的に一致した場合、単に過去の声ばかりではなくて、未来からの空耳も聞こえるっていってたんだ。まあ、ぼくにはそれ以上、上手く説明できないけれど……」

 そのときだった!

 ホテル全館に非常ベルが鳴り渡った。

 結城修と牛島日和は、その後自分たちが聞くことになるだろうある声について直感した。

(了)


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