9 諍い
「お願いだから止めて! 別に隠すつもりじゃなかったのよ!」
あまりにも鮮明に声が聞こえて、篤司はぎょっとして室内を探りまわった。
……
美智留はいない。
当然のように、美智留がいたという痕跡もない。
篤志はそのとき職場にいた。休日にじっくり物件を見学したいという若夫婦の客を、京王線桜上水駅から徒歩二分の小西不動産の自分の机の上に指を組んで手持ちぶたさに待っていた。聞こえた空耳のせいで室内を泳いで巡り、最終的に辿り着いた視線の先には色分けされた数台のラックがあった。それらのラックには色とりどりの各種物件のパンフレットが整然と分類されて差し込まれている。その手前の事務机には、世間では休日の午前の気怠げな雰囲気を漂わせた全員先輩の三人の同僚の姿があった。
いったん昂ぶった神経の張りを深呼吸を数回ゆっくりと繰り返すことで落ち着かせると、篤志は改めて室内の隅々を見渡した。
空耳を聞いて声を立てわけではなかったので、室内にいた同僚たちに気づかれた様子はない。けれども篤志にはあのとき以来、この先の人生で二度と思い出したくないと念じている自分にだけ聞こえたはずの美智留の声が、いまだ部屋の中に漂っているような気して仕方がなかった。
もちろん空耳どころか普通の声にしたところで、その縦波の空気振動がその場に留まり、かつ増幅するなどという考えは単なる妄想に過ぎないだろう。だが篤志には、決して広くはない、雑居ビル一階に陣取った畳約十畳ほどのスペースの接客フロアおよび事務室の中で、美智留の声がその気配をだんだんと濃厚にしていくように感じられた。それはまるで声の濃厚さがあるレベルを超えると、居合わせた三人の社員誰かの耳に自分の声が確実に聞こえるとでもいう、美智留の遺志の反映のようにも思われた。
篤志がそんなふうに思いを巡らせていたときのことだ。ガタッと音がして先輩社員の槁本紀子が席を立った。特に断りの言葉はなかったので篤志がそのスタイルの良い後姿を眺めていると、槁本女史は黙って給湯室に向かい、すっと隠れるようにその中に消えた。ついでコーヒーメーカーか急須に水を入れるくぐもった音が聞こえてきたが、篤志には、そのどちらかまでは聞き分けられなかった。
美智留の突然の死が警察で確認されてから、すでに一年近く経っていた。深夜の行動で不自然さも認められたので、しばらくの期間、捜査や保険会社による調査が進められたが、結局単なる交通事故死と判断されて決着が付いた。篤志の存在を薄々ながらも美智留から聞かされていたらしい両親に通夜のお席で悔やみを述べられたときは居ても立ってもいられない気持ちにさせられたが、さすがにいまでは気持ちの整理はついていた。美智留とのことは心の裡に仕舞われたのだ。その美智留の両親から、初七日後の四十九日にも式への列席を望まれたが、篤志はその誘いをきっぱり断った。敦には、もうこれ以上美智留と関わる気はなかった。その断りの際、美智留の両親に思うところがあったかもしれなかったが、それ以上、彼らも篤志に無理に声をかけなかった。
鼻腔にコーヒーの芳しい匂いがする。
「お客さん、遅いわね……」
声に釣られて見上げると、そこに槁本女史の姿があった。
「でもまだ、約束時間を五分ほど過ぎただけですし……」
時計を見ながら、篤志が答えた。
「じゃ、コーヒーでも飲んで待ってたら? 落ち着くわよ」
「はい、ありがとうございます」といってコーヒー茶碗を受け取ると、篤志はそれを一口啜った。女史が淹れてくれたコーヒーはキリマンジャロだったらしく、苦味の中に甘みと酸味が際立った。すると、
「おーい、紀ちゃーん。こっちにもコーヒーくれよ! 若いもんばっかり贔屓しないでさぁ」
部屋に居合わせた残り二人の社員のうち年配の方、五十過ぎで恰幅の良い菅谷泰治が槁本紀子にコーヒーの催促をし、それに、
「はいはい、わかってますよ。いま行きますから、待っていてくださいな」と彼女が笑いながら応じ、ついで篤志に秋波を送ると、すぐにその顔の上に別の笑顔を貼り付けて、槁本紀子は、菅谷といつも無口なもうひとりの社員、西村覚の許にコーヒーを運びに行った。
美智留と元カレとの噂は旧友の平井広武からもたらされた。美智留と最初に出遭った居酒屋にも同席した広武は、篤志の高校時代から友人だった。美智留と付き合いはじめてすぐ、篤志は広武に美智留とのことを告げていた。だから、広武も頭の片隅に美智留のことが引っかかっていたのだろう。
「あのさぁ、別に告げ口するわけじゃないんだけど……」
広武にそう切り出されたとき、広武の喋り方が要領を得ないせいもあって、篤志は最初彼が何をいいたいのかわからなかった。だがしばらくして、美智留が同じ大学の学生らしい男とホテル街で密会していたらしいとわかって胸の中に痛みを感じた。その痛みはやがて嫉みとなり最後には険しい憎悪にまで膨らむのだが、そのときの篤志にはまだ自分の感情がうまく捉えられていなかった。
美智留とは毎週末に会っていたので、篤志はもしも彼女に疾しいことがあるなら自分の方から何かいってくるだろうと、美智留の言葉を待ち続けた。だが、広武から噂を聞いて数週間が過ぎても、美智留が元カレのことを口にすることはない。なので、
「あのさぁ、美智留、何かおれに隠していることないか?」
ついに我慢しきれなくなって、篤志は美智留にそう問いかけてしまった。自分の問いかけたその言葉が、巡り巡って自分のわだかまっていた感情に負のスイッチを入れることになるとも知らずに……
それは水泳デートの後、食事を終えて、珍しく篤志のアパートではなく隣駅に引っ越したばかりの美智留の部屋に上がってすぐのことだった。
「えっ?」
美智留はとっさにそう答えたが、瞳が泳いでその中に不安が揺らめいていた。なので、篤志は美智留の嘘を知ってしまった。胸の中に重い帳が下りてくる。
「あの、篤志さん、あの……」
篤志がそれ以上言葉を続けなかったので、美智留も困惑してしまったらしく、そんな言葉しか口にすることができなかった。すると今度はその美智留の狼狽に篤志の方が疑念を深めた。ついで、不意といった感じで篤志が美智留に近づいた。尋常ではない篤志の異様な雰囲気に美智留が一歩二歩と後退る。しかし狭いアパートなのですぐに背中が壁に当たる。逃げられない。逃げようとしても、逃げられない。アパートの壁が背骨に痛い。するとふいに篤志が美智留の両肩を両手で鷲掴みにし、次に掌を開いてそれをアパートの壁にギュウギュウと押しつけはじめた。美智留の鎖骨が撓って緩い音を立て、その後激しい痛みが美智留を襲った。そのときに美智留の目が極限まで見開かれていて、はっきりと意識された恐怖がその中に浮かんでいた。ついで、知らずと涙が湧き上がってきて、そして――
あの言葉とともに篤志の手から逃れ出た美智留は素足のままアパートから飛び出して、そして対向車道を走ってきた整備不良の車に跳ねられて即死した。




