観察80:偽りの日々
「どなた?」
オレがノックをしてすぐ、ドアの向こうから返事が返ってきた。
(……懐かしい声だ)
喜んでばかりはいられないが、胸に温かいものが満たされていくのを感じた。
「俊行です」
オレは一言そういった。
「………もしかして海原俊行君?」
もしかしたら覚えてないかもしれない。そう思っていたが、杞憂だったようだ。
「そうです」
「なら早く入っていらっしゃい。お話しましょう?」
「はい」
オレは少しだけ躊躇いながらもドアを開け、部屋に入る。
「もう。ノックなんてするから誰かと思ったじゃない」
部屋にいた女性は朗らかに笑う。間違いなく心奈さんだ。
(……あの頃と全く変わってねぇ)
とても雪奈を産んだ人の年齢には見えない。可愛いと言っておかしくない顔つきに母性を感じさせる体つき。小さい頃は何も感じなかったが、思春期なんてものを終えた今、改めて見ると、頭がクラクラしそうだ。
「俊行君なら何も気にせず入ってきていいのよ? 私も紘輔君も気にすることなんてないんだから」
「そうかもしれませんけど……」
紘輔さんにはともかく、心奈さんにはそうはいかない。あの日以来ずっと会ってないんだから。
「それで? 今日は何の用かな? 何か私には用事があるのよね?」
流石になんとなくで7年も会ってなかった人に会いに来るなんてないもんな。
「じゃあ単刀直入で聞きます。……病気は治りましたか?」
「……雪奈の事ね」
「はい」
「……俊行君はもう大人よね?」
それは大切な事を話していいかという確認。
「はい」
オレは一つ返事で頷いた。
「本当わね、雪奈と私の精神的な病には関係はないの」
「ぇ?」
心奈さんは病気だ。精神的な。オレは紘輔さんからそう聞いていた。そして雪奈がそのトリガーになると聞いていた。
「関係があるのは、あの子の本当の父親……私が離婚した人」
「その人がどうして関係するんですか?」
「私が離婚したのは前から知ってるのよね?」
「はい。紘輔さんから聞いてます」
「それじゃあ離婚の原因は?」
「それは………」
知ってる訳がない。それはプライベートな事過ぎる。
「浮気……とかですか?」
「クスクス……俊行君ってやっぱり可愛いわね」
「……子ども扱いはやめてください」
「そうね。普通は浮気とかだと思うわよね」
「その言い方だと違うんですか?」
「いえ……結局は一緒。私を……私達を裏切ったって事は」
「裏切った……?」
「あの人は騙してたの。自分の本性を隠して私に近づいて、そして私と結婚した」
騙された私が悪いんだけどね、と心奈さんは言う。
「でも……それって普通の事じゃないんですか? 誰だって自分の事を良く見せようとしますよね?」
「そうね。普通。……あの人が私の事が好きだったら」
「………………」
好きじゃなくても結婚する事はあると思う。例えばお金目当てで結婚する事もあるだろう。だがそれは裏切りだ。本当に好きになって結婚した人にとっては。
「結婚してからの数年は幸せだった。あの人は優しかったし、二人の子どももできた」
二人? 雪奈の他にもいるのか。
「何があったんですか?」
いろいろと気になる事はあるがオレは話を進める。
「雪奈が小学校に上がった頃、いきなりあの人から離婚してくれって言われたのよ」
「いきなり……ですか? それで心奈さんは?」
「もちろん理由を聞いたわ。そしたらリストラにあったから、迷惑をかけたくないからだって。あの人はそういったの。私は渋ったけど、生活が安定したら迎えにくるというあの人の言葉を信じて泣きながら離婚届にサインをしたわ」
結局、全部嘘だったんだけどね、と心奈さんは弱く笑う。
「離婚の原因は私があの人の事を信じたから」
「? ……よく分からないです」
話がつながらない。
「最後まで聞いたら分かるわよ」
淡く笑う心奈さんの笑顔はどこか瑞菜に似た――何よりも優しくて、それでいて何かを諦めている――ものだった。