観察60:無表情
「……雨か」
まだ梅雨には早い時期。だが今日の雨は梅雨のように強く降っていた。
「憂鬱だな……」
雨の中、駅から家へと続く道は多くの水溜まりを作っている。
「昼はあんなに晴れてたのに……」
オレは独り言を言う。隣には誰もいない。雪奈は昨日からずっと見ていない。こころは雪奈を捜しに行っていた。瑞菜は……今日はさすがにいない。
(久しぶりに……もしかしたら初めてか?)
いつだって傍には誰かがいた気がする。
「恵まれてたんだよな……」
今だって恵まれてはいる。帰ったら誰もが認める美少女との同居生活だ。ただ、瑞菜が……雪奈がオレの傍にいないのが寂しかった。
「……家か」
こころはまだ帰ってないんだろう。見えてきた家に光はない。それがどうしようもなく冷たく感じた。
「……?」
家の傍に誰かがいるのが見えた。近づいていけばいくほど、その輪郭が見えてきて……。
「…………雪奈」
それが雪奈の姿に重なった。
「……何やってんだよ? 傘もささないで」
見るからにびしょ濡れで、雨が降り始めてからずっとそこに居たのではないかと思う位だ。
「……お兄ちゃんだって傘さしてないじゃん」
そう言われてみればオレもびしょ濡れだった。
「……そんなことよりさっさと家に入るぞ?」
このままじゃ風邪をひく。
「嫌だよ」
「……なんだって?」
「嫌だって言ったんだよ。だいたい入るんだったら最初から入ってるよ」
言われてみればそうだ。雪奈は合鍵を持ってる。
「じゃあ……なんでここに来たんだよ?」
「これを返しに来たんだよ」
そう言って雪奈は鍵を……この家の合鍵をオレに差し出してくる。
「……何のつもりだよ?」
「私にはもう必要ないものだから」
雪奈は無表情にそう言う。オレはその表情には見覚えがあった。今のオレ達の関係が始まる前。今となっては昔の頃、オレは今の雪奈と同じ表情を見ていた。全てに絶望した……そんな表情を。
「もう、私が来ることないと思うから」
「いきなりどうしたんだよ?」
オレはできるだけ動揺を隠しながら話す。
「だって……私邪魔だよね?」
「なんのことだよ?」
たぶん今日はそういう日なんだろう。オレは半ば諦めと覚悟、そして確信を持ちながらそう聞く。
「なんだ……お兄ちゃんも私が何を言うのか分かってるんだ」
オレの態度に何か気付くものがあったのか雪奈は笑って……無表情に笑って言う。
「そうだよ。昨日お兄ちゃんとお姉ちゃんが何してるのか知ったんだよ」
「そうか」
「そうかって……それだけ? あわてないの?」
「なんで慌てるんだよ?」
「私がこの事を昔の人に言ったら大変だよ?」
「別に瑞菜は関係ないよ……もう」
そう関係ない。こころとどんな関係を持っていようと。
「まだ隠すんだ……。この前言ったよね? 気づいてるって。だから隠す必要はないよって」
「オレも言っただろ? だからこそ認めないって」
あの日――瑞菜が包丁持って押し掛けてきた日だったか……――、雪奈はオレに直接聞いてきた。瑞菜との関係を。そして言われた。隠す必要はないって。だからその日からオレは隠すことをやめた。ただ……認めることをしないだけで。
(……まぁ、今はそんな必要もないけどな)
オレは苦笑をこぼす。
「……そうなんだ。まぁ別に私にはもう関係ないからいいけど」
「それで? お前は鍵を渡して、その後どうするんだ?」
「家に戻るよ。部屋に閉じこもっていれば会うこともないし」
「……本当にそれでいいのか?」
「お兄ちゃんには関係ないよ」
「……だったら何でここでお前は待ってたんだよ?」
本当にオレに関係がないって言うなら……雪奈がオレと話したくないのであったなら、わざわざオレに直接鍵を渡しにくるはずもない。
「それは………」
「とにかく家に入れ。そしたら全部はなしてやる」
「話すって……何を?」
「お前が知りたいこと全部だ。……オレが知ってることの範囲でだが」
「っ…………………」
「どうする? 家に入るか?」
「ずるいよ………お兄ちゃん」
答えは最初から決まっていたようなもので、オレ達は家に入った。
いろんな事が変わる……そんな日も確かにあります。