挿話3 トニー
若様がまた半泣きで馬車に戻ってきた。
「何があったんです?」
私が尋ねると、若様はポツポツと語りはじめた。
曰く、「クレア姉様」には自分のほうが相応しいのにクレア様に婚約者のほうが紳士だと言われたので、昨夜の夜会でどこぞの令嬢方から聞いた婚約者に関する話を教えてあげたところ噂だと一蹴され、無理矢理口づけた、と。
「そしたら、もう来ないでって、クレア姉様が……」
「淑女としてはまったく正しいと思いますが」
「何それ。トニーはクレア姉様があの人と結婚してもいいの?」
そんなことになったら若様が手のつけられないことになりそうなので困ります。
「そういうことではありません。婚約者でもない方に無理矢理口づけるのが悪いことだなんて、若様だっておわかりでしょう」
若様は口を尖らせながら頷き、ブツブツと呟いた。
「僕だって、あそこまでするつもりはなかったんだもん。クレア姉様が柔らかくて良い匂いなのがいけないんだもん」
あそこまでって、どこまでしたんですか。
「とにかく、本音はどうあれクレア様は婚約者の肩を持つしかなかったでしょうし、若様に口づけを許すわけにはいかなかったのです」
「そう言えば、あの人みたいなこと僕にはさせたくないって言ってた」
「クレア様は若様に本物の紳士になってほしいのでしょうね」
「本物の紳士……」
若様はしばらく考えてから、再び口を開いた。
「僕、ちゃんと紳士になる。それから、お仕事も頑張る。そしたら、クレア姉様はきっと僕と結婚してくれるし、また口づけしても怒らないよね」
若様、よっぽどクレア様との口づけが気に入ったんですね。
「結婚すればいくらでも口づけできますよ」
「結婚するまでできないの? それならトニーはまだ結婚してないから、口づけしたことないの?」
そんな憐れむような目で見つめないでください。私が24歳にもなって結婚できないのは若様の侍従などをしているせいです。
そもそも、貴族ではない私たちはそれほど堅苦しく考えません。
「そこは想像にお任せします。結婚前の口づけについてはクレア様にご相談してください」
若様は結婚まで我慢なんてできないだろうから、そこはクレア様に諦めてもらおう。
「うん、わかった。クレア姉様との口づけ気持ち良かった。カイルの言ってたとおりだった」
若様はうっとりした表情になった。
カイル様とは、若様がセンティア校でご友人になられた隣国の第二王子殿下のこと。どうやら若様に色々と余計な入れ知恵もしてくださったらしい。
「とにかく、僕はクレア姉様の夫に相応しい男になるから、トニー、あの人のこと調べておいて」
「そういうことは、慣れている者に任せるべきかと」
「ああ、そっか。父上にお願いしよ」
お屋敷に戻る頃には、若様はすっかり元気を取り戻していた。
「ねえ、トニー。クレア姉様に明日も会いに行っていいかな?」
「しばらく控えたほうがよろしいのでは?」
「明後日は?」
「早いです」
若様は不満そうな顔をした。まったく、いつまでもつのやら。
それにしても、普段なら若様の歯止め役になられる奥様が、今回は「迷惑になるから長居したら駄目よ」と仰るくらいで静観の構えだ。
奥様にとってクレア様は亡き親友の忘れ形見だし、そもそも奥様は「本当に欲しいものは自分の手で掴み取るのよ」と拳を握る方だからな。
旦那様のほうは、概ね想像どおりだったが。