4 大切な人のために
翌日には昼前から「クレア姉様」、ギュウウウが来た。
夜会でセディが見せた曇り顔が頭の中をチラついていたため、私は彼を邪険に扱う気になれなかった。
「はいはい、いらっしゃい」
セディは答えるかわりに私の頭にグリグリと頰ずりした。
「ほら、行くわよ」
私が歩きはじめても、この日のセディはいつものように私の体を放してくれなかった。
「セディ、歩きにくいわ。離れて」
「嫌だ」
昨夜の紳士はどこに行ってしまったのかしら。
私は嘆息し、そのまま居間に向かった。
ソファに座ってからも離れないので、お茶を淹れてくれたメイドも戸惑った表情を浮かべていた。彼女は扉を普段より大きく開けて出ていった。
「セディ、これではお茶も飲めないわ」
私の言葉にセディはようやく腕の力を緩めたけれど、解放はしてくれなかった。至近距離から恨みがましい目で見つめられる。
「クレア姉様、あいつのどこが僕よりいいの?」
アルバート様が私の婚約者なのはそういう問題ではないのだけど、セディは何と言えば理解してくれるのだろうか。
「次期公爵が『あいつ』なんて言葉を使わないで」
私が誤魔化すように言うと、セディはさらにむっつりとした。
「顔? 僕が父上みたいな男らしい顔なら良かったの?」
コーウェン公爵にお会いしたことはないけれど、セディがお母様似なのは間違いない。
そう言えば、デビュタントの時の王宮の夜会で遠目ながら初めて拝見した国王陛下のお顔がどことなくセディに似ていて、セディは本当に陛下の甥なのだと実感したものだった。
とにもかくにも、私が世界中で1番好きな顔は目の前にある天使の顔だ。
アルバート様の顔も整っているはずなのだけど、セディと見比べることになった昨夜、アルバート様の顔ってとても地味だったのね、と思ってしまった。私が言うのも何なんだけど……。
しかし、こんなことはっきりとは口にできない。
「私の好みで言うならば、アルバート様よりもセディのほうが上よ」
瞬間、セディの顔が輝いて、すぐむっつりに戻った。
「それじゃあ、僕のほうが身長が低いから?」
「大して違わないじゃない」
「だよね。誤差の範囲だよね」
再びセディの顔が輝き、むっつりに戻る。
「あの人、ああ見えて仕事ができるとか?」
正直、私にもそのあたりはよくわからなかった。
アルバート様も、お父様であるウィリス子爵も宮廷には入らずに家業である商いごとに励んでいるはずなのだけど、平日の昼間に訪ねてもお屋敷にいらっしゃったりするから実際には多くの部分が人任せのようだ。
「それなりに、かしら」
何とも曖昧な言葉にセディが納得してくれるはずもなかった。
「僕はこれから宮廷で真面目に働くよ。公爵としての仕事だってしっかり頑張るし。それなのにクレア姉様が僕よりあいつを選ぶ理由が全然わかんない」
「セディ」
声を尖らせると、セディは不貞腐れた表情で言い直した。
「あの人」
「少なくとも、アルバート様のほうが紳士らしい振る舞いをなさるわね」
私が皮肉を込めてそう言うと、セディの目が細くなった。
「そうだね。ちょっと会って話したくらいじゃ、あの人が裏でしてることなんてわからなかったもんね」
セディの言葉に私の思考がしばし停止した。
「……セディ、何を言っているの?」
「クレア姉様、知らなかったの? あの人、クレア姉様を放って、いつも別の女の人たちとふたりきりでこっそり会ってるんだって」
私は思わず顔を顰めた。
誰がセディにそんな話を聞かせたのだろう。あの令嬢たちか、それともヘンリーかしら?
でも、仕方ない。その噂はすでに社交界に知れ渡っているのだから、セディの耳に届くのは時間の問題だったのだ。
「あくまで噂でしょう。真に受けたら駄目よ」
そう言いながらも噂は事実だろうと私が考えていることくらい、セディは気づいたかもしれない。
「クレア姉様の言ってた『紳士らしく』って、あの人みたいにすることなの? それなら僕にも今すぐできそうだけど」
セディの口から出た言葉の意味を理解するより先に、天使の顔が今までにない距離まで迫ってきて、私の唇に柔らかいものが触れた。
一瞬、頭が真っ白になった。ようやく状況が呑み込めた時には、セディの唇は離れていた。
「ねえ、クレア姉様、あの人ともこんなことしたの?」
「するわけないでしょ」
「良かった」
セディはヘニャリと笑い、再び唇を重ねてきた。今度はさらにセディの舌が私の口の中に入ってきた。セディこそ、こんなこと誰に教わってきたのよ。
セディから逃れようと力いっぱい彼の体を押してみるが、ビクともしなかった。セディはやはり男の人なのだとこの後に及んで気づいた。
再会してからずっと、見た目は成長しても中身は昔のままの天使だと安心し油断しきっていた。今までは手加減もされていたのだろう。
セディが私のほうへと体重をかけてきて、私の体が傾いだ。
と、突如、ガシャンと何かがぶつかるような大きな音が響いた。居間の外に控えていた誰かがわざと立てたのだろう。
セディの腕の力が緩んだので、私は今度こそそこから逃れて立ち上がった。セディとの距離をとり、彼に背を向ける。
「あの、クレア姉様」
セディ自身が戸惑っているような声だったが、私はそれを冷たく撥ね付けた。
「セディ、帰ってちょうだい」
「クレア姉様」
セディも立ち上がった気配がしたので、私は強い調子で言った。
「それ以上近寄らないで」
「ごめんなさい。もうしないから……」
「信じられないわ」
「クレア姉様」
震える声で私を呼ぶセディのほうを見ずに、私は言った。
「私もあの人の噂は知っていたわ。それにあの人に限らず、婚約者がいるのに他の相手とそんなことをできる人を軽蔑するわ。だからこそ、私はあの人と同じことをするつもりはないし、あなたには絶対にそんなことさせたくないの。わかったら帰って。もう来ないで」
「……本当にごめんなさい」
セディが部屋から出て行く気配がし、やがて玄関の扉が開いて閉まる音が聞こえた。
私は肩の力を抜いてソファに腰を下ろすと、呟いた。
「セディ、ごめんなさい」
悪いのは私だ。婚約者がいるくせにセディの来訪を許していたのだから。中途半端な態度を取るくらいなら最初からきっぱり拒むべきだったのに。
セディが期待してしまうのも当たり前。セディを非難することなんてできない。
私が信じられないのはセディではなく、私自身だった。
あの時、セディが相手ならこのまま流されてしまってもいいかと、そんな考えが頭を過ぎった。
だから、私はもうセディに会えないのだ。
あれからセディが私の前に姿を現わすことはなく、私は元通りの日々を過ごしていた。
そうして10日ほど経った頃、我が家を訪れたのはカトリーナ様だった。
「セディが毎日押しかけて迷惑をかけたようで、悪かったわね。センティア校でだいぶ成長したと思っていたのだけど、クレアに久しぶりに会えてすっかり甘えてしまって」
「迷惑だなんてとんでもないです。こちらこそ、婚約したことを黙っていて申し訳ありませんでした」
カトリーナ様は微笑みを浮かべた。
「クレアの歳になれば、婚約者くらいいるわよね。と言うか、私はもう結婚してしまっただろうと思っていたのよ。実家から手紙を転送してもらうくらい、簡単なことでしょう」
「……セディは、どうしていますか?」
こんなことを聞く資格なんて私にはもうないのに、やはり気になっていた。
「宮廷で秘書官として働きはじめたの。帰宅してからも旦那様に何か教わっているようだし、しっかりやっているわ。クレアのおかげね」
「いいえ、私は何も」
確かにセディは「真面目に仕事する」と口にしていたけれど、私が叶えてあげられない交換条件があった。
「セディにとっては、クレアがいてくれるだけで頑張る理由になっているのよ。外国にいってから、一生懸命色々なものを見たり聞いたりしていたのは、クレアにたくさん手紙を書きたかったから」
6年間、セディが送り続けてくれた手紙を思い出した。いつもセディが見たものや聞いたことについて詳しく書いてくれていて、読むのが楽しかった。返事につまらない日常のことしか書けないのが申し訳ないくらいだった。
「それに、14歳になったら帰国して学園に入る予定だったからクレアに会えるって喜んでいたのに、旦那様の勧めたセンティア校に入学したのも、成長してクレアに褒めてほしかったからよ」
「私は……」
セディをちゃんと褒めてあげただろうか。
「私としては、セディをクレアに任せられたらこれほど安心なことはないのだけど」
目を見開いた私に対して、カトリーナ様はさらに続けた。
「実を言うと、国を離れる前に旦那様にセディとクレアの婚約をお願いしようかと真剣に考えたのだけど、あの頃のセディはまだまだ子どもだったし、遠い場所からクレアを縛りつけるのは申し訳なくて諦めたの。でも、こんなことになるなら婚約させておけば良かったわね」
こんなことというのは、私があんな人と婚約したことだろうか。それともセディが私との結婚を望んだことだろうか。
カトリーナ様は私たちの間のことをいったいどこまでご存知なのかしら。
何にせよ、公爵が私をセディの妻として認めるとは思えない。
今頃、公爵はひとり息子の伴侶に相応しい令嬢を探しているかもしれない。セディと家柄や年齢、外見が釣り合う、私ではない誰かを。
それでも私はセディに会いたかった。
私を見てヘニャッと笑い、「クレア姉様」と呼びながらまっすぐに駆けてきてギュウと抱きつくあの天使に。
本当は、私もセディをしっかりと抱きしめ返したかった。昔と同じようにフワフワの髪や、スベスベの頬を撫でたかった。
6年も会っていなかったのに、再会してからの1週間が鮮烈すぎて、私はセディのいない元通りのはずの日々に、まったく慣れることができずにいた。