2 紳士らしく
さらに翌日。来客を告げられて少し警戒しながら玄関ホールに出ると、私の姿に気づいたセディがまっすぐに駆け寄ってくるのが見えた。
「クレア姉様」
私は心を鬼にして、飛びつかれる直前で横に動いてセディを避けた。
今日こそセディにきっぱり言って、紳士らしい振る舞いを説かねば。
「セディ、駄……」
セディのほうへ振り向くより前に、私はギュウと後ろから抱きしめられた。
「何、何?」
肩越しに私の顔を覗き込んでくる無邪気な天使。ああ、可愛……、これでは本当に拙い。
私はセディの腕を私の体から力任せに引き剥がし、改めて彼と向き合った。セディが哀しそうな顔をしているからって怯んではいけない。
「セディ、紳士がこんな風にむやみやたらと女性を抱きしめてはいけないわ」
「むやみやたらとじゃないよ。クレア姉様だけだよ」
「それでも駄目よ。紳士が抱きしめていい女性は妻と家族、それから婚約者のみ」
私はビシッと断言した。
セディは子どものようにムウと口を尖らせつつ視線を彷徨わせていたかと思うと、ふいに顔を輝かせた。
「クレア姉様、僕のお嫁さんになってくれるの?」
どうして婚約者ではなく、いきなり嫁なの? そして、なぜ私から求婚したみたいになってるの?
ああ、でも、とうとうセディに告げる時が来たようね。
「それは無理よ」
「何で?」
「私にはもう他に婚約者がいるから」
セディは何度か瞬きした。
「婚約者?」
「そう、婚約者」
「ふうん、婚約者」
セディの顔から表情が消えた。
正しいことをしたはずなのに、私の良心がズキズキと痛んだ。
「ごめん、クレア姉様。今日はもう帰るね」
そう言うと、セディは玄関を出て行った。
私は何だか心配になり、玄関の扉を少しだけ開けて外を覗いた。俯き、肩を落としてフラフラと歩くセディの背中が見えた。
追いかけて何か言葉をかけてあげたい衝動に駆られるけれど、そんなことをしたら台無しだ。それに、今のセディにかけるべき言葉は浮かばなかった。
表でコーウェン家の馬車と一緒に待っていたセディの侍従が、何かセディに声をかけてから、視線に気づいたのか私のほうを見た。怖い表情で睨まれたけれど、それも仕方ない。
馬車はセディと侍従を乗せて、門を出て行った。
もっと他に伝え方があったのではないだろうかという後悔で、胸の内がもやもやした。
そもそも、婚約が決まった5年前にさらっと手紙で知らせてしまえば良かったのだ。それを読んだらセディが泣くかもしれないなんて、躊躇ったりせずに。
だけど、泣いてくれたほうがまだ良かった。私のせいであんな顔をするセディは見たくなかった。
これでもう、セディは私を「クレア姉様」と呼びながら飛びついてはこないだろう。その前に、2度と私に会いに来ないかもしれない。
もちろん、紳士淑女の関係としてはそれが当たり前。この数日がおかしかったのだ。それはわかっている。
だがその夜、私はなかなか寝つけずに溜息ばかりを繰り返していた、のに……。
次の日は、昼前から来客を告げられた。
まさかと思いつつ急いで玄関ホールに出て行くと、セディが突進してきた。
「クレア姉様」
ギュウウと抱きしめられて、少しだけ安心してしまったのはもちろんセディには内緒だ。
「あの、セディ?」
私が恐る恐る呼びかけると、セディは腕の力を緩めて私を見下ろしてきた。
セディは悪そうな笑顔を浮かべていた。でも、一生懸命作っているのが私には丸わかりだ。
「クレア姉様、淑女は婚約者でもない男に抱きしめられたら駄目だよね? こんなところを婚約者に見られたら、きっと婚約破棄されちゃうよ。でも、大丈夫。クレア姉様は僕と結婚すればいいんだから」
子どもだとばかり思っていた天使に脅されてしまった。セディもやっぱり大人になったのね……、って感心するところじゃなかったわ。
「セディ、貴族の婚約は家と家とで取り決めて、さらに国王陛下の認可が下りてはじめて正式なものになるのよ。結ぶのも大変だけど、解消するのはさらに大変なの。それなりの理由があれば別だけど」
「今すぐ陛下に会ってお願いしてくる」
しまった。セディは陛下の甥だった。
セディが私の体を放して外へ駆け出していこうとするので、私は慌ててセディの腕を掴んで止めた。
「待ちなさい」
「まだ何かあるの?」
セディは口を尖らせたけど、その手はちゃっかりセディの腕から離れようとした私の手を握った。
「あなたの我儘でお忙しい陛下を煩わせたりしないで。だいたい、私が婚約を解消することがあったとしても、セディと私が結婚できるはずないでしょう」
「できるもん」
「一度婚約を解消した4つも歳上の伯爵家の娘が、公爵家の嫡男の妻に迎えられるはずないわ」
私は強い調子で言った。
「あるってば」
セディも叫ぶように返した。
私は嘆息した。
「無理よ」
「僕、ちゃんと紳士らしくするし、仕事も頑張るよ。クレア姉様の夫に相応しい男になるから」
「あなたには私よりもっと相応しい相手がいくらでもいるわ」
セディの眉が下がり、目が潤んだ。
「クレア姉様は、僕のこと嫌いなの?」
うう、狡い。
「嫌いなわけないでしょう」
「じゃあ、好き?」
「……好きよ。でも、ずっと弟みたいに思っていたから、結婚相手として考えたことはないわ」
「それなら、今から考えて」
「可能性がないのに考えても仕方ないでしょ」
セディが顔を顰めた。
「クレア姉様の、クレア姉様の……」
そこで少し間が空いた。セディは言葉を探している様子だった。
「クレア姉様の意地悪!」
何とも子どもっぽい悪口を言い捨てて、セディは足音荒く玄関を出ていった。
私が思わず吹き出してしまったのも、内緒にしておいてあげよう。
その翌日も。
「クレア姉様」
ギュウウ。
「……セディ、紳士らしくすると言っていたのはどうしたのかしら?」
「それはクレア姉様が僕と結婚してくれたらの話だもん」
「わかったわ。私が悪かったのね」
私が嘆息しつつそう言うと、セディが瞳を輝かせて私を見つめてきた。私はそれをまっすぐ見つめ返して口を開いた。
「あなたにばかり紳士らしくしろと言って、私自身はあなたの前ではちっとも淑女らしくなかったから……。今後はコーウェン公爵子息とお呼びいたします。次期公爵に対して数々のご無礼、申し訳ございませんでした」
本来ならここできっちり淑女の礼をしたいところだが、セディ……、コーウェン公爵子息の腕に捕らわれているので軽く頭を下げることしかできなかった。
再び顔を上げてセ……、コーウェン公爵子息を見れば、戸惑うような表情になっていた。
「ク、クレア姉様?」
「何でございましょう、コーウェン公爵子息?」
私は淑女の微笑みを浮かべてみせた。
「セディって呼んでよ、クレア姉様」
「私とあなたの関係ではそれは許されません。今後はあなたも私をバートン伯爵嬢とでもお呼びくださいませ」
「そんなの嫌だ。クレア姉様って呼ぶ」
「駄目です」
少しきつめの口調で言うと、セディ、じゃなくてコーウェン公爵子息の目が潤んだ。
「クレア姉様のわからず屋!」
セ……、コーウェン公爵子息はそう叫ぶと、ようやく私を放して外へと駆け出していった。
私が少し間を置いてから玄関の扉を開けて覗いてみると、コー……、もう面倒くさいからいいわ、セディの姿は見えないのに、コーウェン家の馬車はまだ動く様子がなかった。その横で例の侍従が呆れたような表情を浮かべている。
彼の視線の先に目を向ければ、玄関前の柱の陰からセディがこちらを窺っていた。
「そんなところで何をなさっているのですか、コーウェン公爵子息?」
私の呼びかけに、セディは口を尖らせてそっぽを向いた。
「……今日も私とお茶を飲んではくれないのかしら、セディ?」
根負けしてそう言うと、途端にセディは顔を輝かせて柱の陰から飛び出してきた。私の手をしっかり握る。
「クレア姉様がそんなに言うなら、一緒に飲んであげてもいいよ」
「まったく、そんな小憎らしい言い方、どこで教わってきたのかしらね」
私はそう言って顔を顰めつつも、セディのヘニャッと笑った顔が可愛いのでつい許してしまうのだった。