6 覚悟を決める時
あまりよく眠れぬまま、朝を迎えた。
婚約解消のための書類を持って宮廷へと向かうお父様とヘンリーをいつものようにエマと見送ってからも、私はしばらく玄関の扉を開けて表を眺めていた。
アルバート様との婚約破棄に関しては、今までずっとできるはずがないと思い込んでいたのが馬鹿らしくなるほどに、清々しい気分だった。
もうあの人に煩わされることはない。あの人がどこで誰と何をしようとどうでもいい。
5年間も婚約していたのに薄情だとは思うけど、あの人は私にとってその程度の存在でしかなかったのだ。
私を寝不足にするくらい存在が重いのは、もちろんセディだ。
あの侍従は、セディの頬をきちんと冷やしてくれたかしら。天使の顔が赤く腫れてたりしたら嫌だわ。
私も自分の手のひらを就寝前に冷やしたのだけれど、時間がたってからだったので違和感が残っていた。でも、これは自業自得だから仕方ない。
思えば、昨夜はセディと久しぶりに会えたのに、ゆっくりと顔を見て話をする間もなく引っ叩いてしまったのだ。
もっとも、急に現れて何の説明もなしに私をあそこまで引っ張っていったのはセディなんだけど。
そもそも、どうしてセディは昨日の夜会にいたのかしら。まあ、その答えがわかったところで今さら結果は変わらないのだから、考えても仕方ない。
そろそろ女主人の仕事をしようと扉を閉めかけた時、門から馬車が入ってくるのが見えた。
馬車が停まると、中から扉を開けて降りてきたのはあの侍従で、その後に続いたのはセディだった。
セディも玄関に立つ私の姿にすぐ気づいた様子だったが、いつものように駆け寄ってくることはなく、肩を落としてトボトボと歩いてきた。私のすぐそばまで来ても、飛びついてこなかった。
セディは俯きがちに、視線だけをチラチラと私に送ってきた。
「クレア姉様、ごめんなさい。まだ僕のこと怒ってる?」
セディが訊きたいのは昨夜のことだろうか、その前のことだろうか。どちらでも私の答えは同じだけど。
「もともと怒ってなんかいないわ」
私は少しだけセディとの距離を詰めて、その顔を覗き込んだ。
「謝るのは私のほうよ。ごめんなさい。痛かったでしょう? 腫れてなくて良かったわ」
私は手を伸ばして、昨日は叩いてしまったセディの頬をそっと撫でた。セディが顔を上げて、まっすぐに私を見つめた。
「クレア姉様は理由もなしにあんなことしないもん。僕が悪かったんだよ」
「理由はちゃんとわかっているの?」
「僕が紳士らしい振る舞いを忘れたから」
「そうよ。あなたに人目のあるところで婚約者のいる女との結婚を望むようなことを言ったり、名前を呼んだりなんてさせられないわ。私とふたりきりならいくらでも聞き流してあげられるけれど」
セディが口を尖らせた。
「そこは聞き流さないでほしいんだけど」
「婚約者がいるのだから無理に決まってるでしょ」
「あんなところを見ても、クレア姉様はあの人と結婚するの?」
「いいえ。今頃お父様が婚約解消のための書類を提出してくださっているはずよ」
セディが目を瞬いた。その表情が明るくなったように見える。
「それなら、僕と……」
私は慌てて手のひらでセディの口を塞いだ。セディの眉が下がった。
「書類を提出してから陛下に正式に認めていただけるまで、1週間ほどかかるそうよ。その間にあなたの気持ちが変わらなかったら、今の続きを聞かせてちょうだい。そうしたら私もきちんと返事をするわ」
セディがコクリと頷いたので、私は手を下げた。
「1週間、毎日会いに来てもいい?」
「駄目よ」
そう答えてから、私はセディが今まで我が家に来ていた時とは異なる姿をしていることにようやく気づいた。
「そう言えば、こんな時間にここにいるなんて、お仕事はどうしたのよ?」
「体調不良でお休み」
「仮病なんて使わないで、今から行きなさい」
「でも……」
渋るセディに、私はにっこりと笑ってみせた。
「あなたの宮廷服姿、初めて見たけどなかなか素敵ね。お仕事、頑張っているのでしょう?」
セディがハッとしたような顔になり、慌てたように頷いた。
「僕はしっかり仕事して、クレア姉様に相応しい男になって、クレア姉様を守るから」
「ありがとう。期待してるわ。じゃあ、行ってらっしゃい」
私がセディの肩に手を置いて体の向きを変えるよう促すと、セディは素直に従った。
「うん。行ってきます」
セディは先ほどよりだいぶ軽くなった足取りで馬車へと歩いていった。馬車に乗り込む前に、私に向かってブンブンと手を振ったので、私も振り返した。
宮廷服は似合っているけれど、あんなに可愛い宮廷人は他にいないでしょうね。
だけど、1週間後にセディが求婚してくれて、私がそれを承諾しても、やっぱり私たちは結婚できないだろう。私が公爵家の嫡男の妻に相応しいとは思えない。カトリーナ様が応援してくださっても、公爵は反対なさるに違いない。
だからきっと、お仕事に向かうセディを見送って夫婦の気分を味わえるのは、これが最初で最後なのだ。
2日後、私はニコラスから来客を告げられた。その方のお名前を聞いて、私は咄嗟に聞き返した。
「コーウェン公爵子息?」
「いえ、コーウェン公爵です」
「コーウェン公爵夫人?」
「ですから、コーウェン公爵がお越しです」
とうとうセディのお父様がいらっしゃってしまったのだ。ニコラスと無駄な問答を繰り返している場合ではなかった。
私は淑女として可能な限り急いで、玄関ホールに出た。
初めてお会いするコーウェン公爵は、本当にこの方がセディのお父様なのかと思うくらい、威厳あるお顔をなさっていた。
とても緊張するけれど、どうにか微笑んで淑女の礼をした。
「クレア・バートン嬢だな?」
公爵が素早く私の全身に視線を走らせたのがわかった。
「はい。ようこそお越しくださいました。中へどうぞ」
「いや、あまり時間がないのでここでいい。挨拶も省かせてもらう」
確かに公爵は宮廷服姿で、お仕事を抜けてきたという雰囲気だった。
「単刀直入に聞くが、君は息子の妻になるつもりがあるのか?」
せめてセディの求婚に頷くまでの猶予はほしかったけれど、ここで「身を引け」と言われてしまうのだろうか。
「私が次期公爵の夫人に相応しい人間だなどとは思っておりませんが……」
「そういう回りくどい謙遜はいい。私が知りたいのは、君がセディの求婚を受けるのかどうかということだ。セディに1週間後に出直せなどと言っておいて、まさか断ったりしないだろうな?」
セディがそこまで正直にお父様にお話していることに、私は少し驚いた。
「お受けしたいと思っております」
「そうか。それならいい」
私は思わず首を傾げた。
「よろしいのですか?」
「君のことを詳しく調べさせてもらったが、我が家に迎えるにあたって特に問題になりそうなことは見つからなかった。婚約者の存在を除けば、だが」
今、さらっと「調べた」と仰ったわね。あまり深くは考えないほうがいいかしら。
「妻は君をずいぶん信頼しているようだし、何よりセディ本人が望んでいるのだ。父親が息子の気持ちに添う選択をするのは当然だろう」
それを当然と考える父親は、貴族にはそう多くないのではないだろうか。
ウィリス子爵が私を嫡男の婚約者に選んだ理由はアルバート様の希望などではもちろんなく、少しでも上位の貴族との繋がりがほしかったからだと思う。
私のお父様はどちらかと言えば少数派だけれど、ヘンリーが突然「婚約者にする」と言ってエマを連れて来てもまったく反対しなかったのは、エマがヘンリーの妻に相応しいことこの上ない令嬢だったからだ。
あら、もしかしてコーウェン公爵って、こう見えて親馬鹿?
「突然訪ねてすまなかった。また近いうちに会えることを楽しみにしている。では、これで失礼する」
「あ、はい。どうもありがとうございました」
私は深く頭を下げた。
足早に去っていく公爵のほうから、「これで陛下も否やは仰るまい」などと聞こえてきたのは、きっと空耳だろう。
それにしても、公爵に反対されないなんて、どうしよう。セディの求婚に頷いてもそこで終わりだろうとばかり思っていたから、彼と結婚する覚悟がまったくできていないわ。
だけど、今さらセディの手を取らないなんて選択肢、私にはないのだ。




