1 天使の帰国
よろしくお願いいたします。
私には大切な人がいる。
母親同士が親友だった関係で、しょっちゅう顔を合わせていた男の子。
4つ歳下の彼は天使のような顔に愛らしい笑みを浮かべて、いつも私に纏わりついてきた。
私には弟と妹がいるが彼はひとりっ子なので、兄弟というものに憧れがあったのかもしれないし、歳の近い私の弟妹と張り合っていたのかもしれない。彼は私を「クレア姉様」と呼んでいた。
私も、自分をまっすぐに慕ってくれる素直な彼が可愛くて堪らず、もうひとりの弟のように思いながら「セディ」と呼んだ。
11歳になったセディは、お父様の仕事の関係でしばらく外国に行くことになった。
セディは泣きながら私に縋りついた。
「クレア姉様と離れるなんて嫌だ」
「セディ、泣かないで。また会えるんだから」
「何年も会えないんだよ。クレア姉様は僕のことなんか忘れちゃうよ」
「私がセディを忘れるはずがないでしょ。セディは?」
「絶対に忘れたりしない。いっぱい手紙を書くからね」
「ええ、私も書くわ」
涙の約束が違えられることはなく、セディは私に手紙を送り続けてくれた。私も必ず返事を書いた。
滞在国が変わるたびに新しい住所を知らせる手紙が届き、セディが14歳になるとそれは隣国の男子校の寮になった。
手紙を読めば、セディがどんどん成長しているらしいことは感じられたけれど、私の頭の中に思い浮かぶセディはずっと可愛い11歳の姿のままだった。
そうして6年が経ったある日、セディから「もうすぐ帰国します」という手紙が届いた。
再会できることが楽しみな反面、17歳になったセディはきっと昔とはずいぶん変わってしまっただろうと考えると、怖くもあった。
せめて少しだけでも天使の面影が残っていれば良いのだけど……。
◆◆◆◆◆
執事のニコラスから来客を告げられた。「どなた?」と尋ねると、意味ありげな笑顔で「お会いになれば、きっとすぐにおわかりになりますよ」との返事。
とにかく、私はお出迎えに向かった。
「クレア姉様」
玄関ホールに出た途端、そんな呼び声が聞こえると同時にギュウと力いっぱい抱きしめられて、私は身を硬くした。
「ただいま、クレア姉様。会いたかった」
再び同じ声にそう言われて、私は冷静さを取り戻した。私を「クレア姉様」と呼ぶのも、顔を見れば必ず飛びついてくるのも、この世にひとりだけだ。
「セディ、なの?」
違和感があるのは、声に聞き覚えがないうえ、それが頭上から降ってくるせい。だけど6年ぶりに会うのだから、私より背が高くなって声変わりしているのも当然だった。
「うん、そうだよ、クレア姉様」
そう言うと、彼は腕の力をわずかに緩め、私を覗き込むように見下ろしてきた。ずいぶん大人びてしまったけれど、その顔に浮かんでいたのは紛れもなく私のよく知る天使の笑みだった。
それを目にしてしまえば、私の口元も自然と綻んだ。
「お帰りなさい、セディ。まあ、こんなに大きくなってしまって」
昔のようにセディの頭を撫でようと手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。いくら幼馴染でも、もうすぐ21歳になる淑女が、17歳の立派な紳士に対してすることではない。
いや、それを言うなら、私がセディの腕の中にいる状況がそもそも駄目だと今さらながら気づいた。
「セディ、嬉しいのはわかるけど、いつまでそうしているつもりなの? あなたももう大人なのだから、そういうことをしてはいけないのだとわかっているでしょう?」
私が口を開くより早く、セディの背後から懐かしい声が聞こえた。
首を伸ばしてセディの肩口から覗くと、彼と似た美しい女性と目が合った。
「カトリーナ様」
「クレア、久しぶりなのにごめんなさいね。セディったら、体は大きくなったのに相変わらずなんだから」
「いいえ。とにかく、中へどうぞ。セディ、あなたも」
セディがようやく私を放したと思ったら、今度は手を取られた。ああ、本当に昔のままだ。
「いい加減になさい」
カトリーナ様が容赦なくセディの手をピシャリと叩いた。
応接間にふたりを案内し、近況を報告し合った。
といっても、セディと私はずっと手紙のやり取りをしていたので、互いにおおよそは把握していた。セディが隣国にある名門校を卒業したことや、私の弟ヘンリーと妹レイラがそれぞれ結婚したことなど。
カトリーナ様が私に何か尋ねようとして、やめたように見えた。おそらく、隣にいるセディを気にしたのだろう。
ヘンリーの妻エマをふたりに紹介してから、私たちの話題はお母様のことになった。
「もうアメリアに会えないなんて、まだ信じられないわ」
カトリーナ様の目に涙が浮かび、セディも沈んだ顔になった。
私のお母様は、生家も婚家も伯爵家。一方、カトリーナ様は国王陛下の妹君で、降嫁先は由緒あるコーウェン公爵家。
そんなふたりがとあるお茶会で偶然出会い意気投合。それからずっと、月に何度かは顔を合わせて交流していた。お母様とカトリーナ様はそれぞれ結婚し、そこに私たち兄弟とセディも加わった。
しかし6年前、外交官であるコーウェン公爵が数年かけて周辺諸国を外遊されることになり、カトリーナ様とセディもそれについて行かれた。
その1年後、お母様は病に倒れ、そのまま亡くなってしまったのだ。
「母も、よくカトリーナ様のことを話していました」
しばらくはしんみりしてしまったが、昔の思い出話などで再び盛り上がった。多分、お母様もカトリーナ様には笑っていただきたいはず。
そうして、おふたりが帰る時間になった。
「また来るわ。クレアも良かったら家に来てちょうだいね」
「はい。ありがとうございます」
「クレア姉様」
セディが私の前に立って、首を傾げた。
「僕もまた来ていい?」
「ええ、もちろん」
私が答えると、セディはヘニャッと笑った。
セディとカトリーナ様は馬車に乗って帰っていった。
昔は、セディが「まだクレア姉様といたい」と駄々をこねて、カトリーナ様と私でどうにか宥めて馬車に乗せたものだったけど、やっぱり大人になったのね。
ちょっとだけ寂しさを感じてしまった。
それにしても、結局あのことをセディに話すことができなかった。そもそも、5年近くも手紙に書けずにいたことを、直接顔を見て話せるわけがなかったわ。
カトリーナ様が訊きたそうにしていたのも、きっとそのことよね。カトリーナ様に先にお話しして、セディに伝えてもらおうかしら。
翌日。来客を告げられて玄関ホールに出てみると、ギュウと抱きしめられた。
「クレア姉様」
もちろんセディだった。
「セディ、どうしたの?」
「クレア姉様がまた来ていいって言ったから、また来たよ」
それは確かに言ったけど、まさか昨日の今日で来るとは思ってもみなかったわよ。
「カトリーナ様は?」
「今日は別のところに行ってる」
セディを止めてくれるカトリーナ様はご一緒じゃないのね。
「仕方ないわね。こちらにいらっしゃい」
セディが離れてくれたので先に立って歩き出すと、やっぱり手を繋いできた。
昨日は私の向かいにセディとカトリーナ様が座ったけれど、この日のセディは当たり前のように私の隣に腰を下ろした。
紅茶を淹れてくれたメイドは、扉を開けたまま居間を出ていった。
セディの見た目はすっかり紳士でも言動が昔のままなので、周囲にそんな風に見られるのは複雑な気分だった。
「セディはこれからどうするつもりなの?」
「父上みたいに宮廷で働くよ」
「それなら、あなたも外交官になるの?」
「ううん。昨日、陛下に帰国のご挨拶に行った時、秘書官がいいんじゃないかって言われた」
「そう言えば、おととい帰国したのよね?」
「うん」
「当然、陛下に1番最初にご挨拶に行ったのよね。次は?」
「クレア姉様」
私よりも先に挨拶すべき方は他にもいるでしょう。ああ、カトリーナ様、すみません。
「あのね、セディ。昨日カトリーナ様も仰っていたけれど、あなたも私ももう大人になったのよ。それに相応しい行動をしないと」
「うん。大人になったから、こうしてひとりでもクレア姉様に会いに来られた」
セディは満面の笑みで胸を張ったけど、違う。
「宮廷に入って忙しくなる前に、しておきたいこととかないの?」
「クレア姉様に会うこと」
迷いのなさに、とうとう溜息が出た。
「そういうことではなくて、次期公爵として領地経営について学ぶとか、社交するとか」
「父上と一緒に叔父上から領地の話を聞いたり、母上と一緒に帰国の挨拶に行ったりもしてるよ。それがなければクレア姉様ともっと長く過ごせるのに」
セディは不満そうな顔になったが、私は少しだけ安心した。
「そんなことは言わずに、しっかりやらないと駄目よ」
次期公爵をこんな風に子ども扱いしていいのかしら。
「クレア姉様がそう言うなら、ちゃんとやる」
まったく、相変わらず可愛いわ。頭を撫で……じゃなくて、セディが見た目だけでなく中身も紳士らしくなるよう、私がきちんと導いてあげないと。
お読みいただきありがとうございます。
実は、再会がこんな感じだったらどんな物語になっていたのか、と考えたのが最初でした。