Day.3-20 怨嗟の嵐、希望の声
イリヤさんは炎の渦中にあって、魔獣デストリアとの死闘を続けている。
これだけ長時間戦っていれば既に全身が傷だらけだろう。
俺の位置からはもう、炎ではっきりと視認することができない。
アルコール・コーリングでイリヤさんと魔獣の位置関係を捕捉するしかない。
イリヤさんの相手をする魔獣の方も、動きが段々と鈍ってきているようだ。
決着の時は近いか。
「ママ……」
チコが炎の奥にいるであろう母親を呼ぶ。
その声は、届かない。
魔獣デストリアにはもう……。
「ここはイリヤさんに任せて、逃げよう」
俺はその手を引く。
だがチコは抵抗した。
「嫌っ!
ママといるもん!」
「焼け死ぬぞ!」
「ママを助けるの!!」
「あの魔獣を見ろ!
あそこまでなったらもう、ママは助けられない!」
「違うもん、ママは……ママは私の名前を呼んでくれるんだよ!
いつも、だからママは……死んでなんかいないもん!!」
「チコの、名前を?」
「聞こえるの、本当だよ。
だからママを、ママを私が助けるの!!」
「おい!
行くなぁ!!」
俺の手をするりと抜けてチコが駆け出した。
炎の中へ。
「止めろ!!」
「クオオオオォォォ!!!」
魔獣の咆哮が被さる様にして響く。
広げていた翼を、急速に畳む。
気流が発生して魔獣の周辺に拡がっていた炎が渦を巻いて、俺たちの方へ襲ってきた!!
避ける場所が、ない!!
死のイメージが、頭に浮かぶ。
俺たちは全員ここで……死ぬ!?
キィン。
剣が、炎と闇の赤黒いコントラストの中に舞った。
下から上へ、イリヤさんの剣が振るわれると共に、死の熱風は両断されて二つに裂けた!!
旧約聖書において海を割り道を作ったモーセのように、イリヤさんの剣閃は炎の波を割り裂いてそこに道を、成した。
「す、すげぇ……」
嘆息した。
チコも、俺も、ガリアーノさんも、言葉がない。
立ち竦み、その光景に釘付けに。
「こんなものが……」
イリヤさんは闊歩する。
炎が舞い踊るランウェイを、一歩、また一歩。
剣を払い、燃え盛る卵を砕きながら。
「こんなものが……」
既にそこに、無事な状態の卵は一つとして無い。
放っておいても黒焦げだ。
それをわざわざ一つずつ、丁寧に破壊しながら、イリヤさんは自らが切り拓いたまやかしの神へと至る道を、行く。
「こんなものが!!」
火炎が、魔獣の卵が、千々に千切れて火の粉と化した。
「実の娘の命よりも大切か…………魔獣デストリア!!!!」
背中に怒りを湛えながら、赤黒く猛る炎の道を、女剣士は歩く。
もはや最後の一合だ。
次だ。
この次で、決着をつけるつもりだ。
魔獣はステップバックし壁に脚を、つけた。
力を蓄えているのがわかる。
イリヤさんはただ静かに剣を下段に構える。
いや、ちょっと待て。
チコの言っていた事……確かめなくては!
本当にあの魔獣の中で母親は、生きているのか!?
そうだとしたら、魔獣を殺してしまっていいのか!?
1秒もかからない。
いや、かけない。
俺は一瞬で、それを見つけ出す。
答えを。
万が一にも、助けられるはずの命を、見捨てるものか!
アルコール・コーリングだ。
酔えば酔うほど地獄耳……俺だけの、酒の神ゴッド・アルコホールが戯れに与えた能力だ。
酔いは充分。
能力の出力をマックスにするイメージだ。
そしてフォーカスを、絞りに絞る。
ナノ単位にまで、絞り込む。
魔獣デストリアの内部を、全身を巡る音を聴け。
毛細血管の一本一本に流れる血の、その音までも、俺の鼓膜へ届かせよ。
マップが、俺の脳内を駆け抜ける。
脳内伝達物質の速度で。
アドレナリンかドーパミンか、何でもいい。
滾れ。
漲れ。
昨日、王都ロメリアを俯瞰した時のように。
あの時、魔道通信網の微細な音を掻き分けて妨害装置を見つけ出した、あの作業のように。
魔獣が内包するもの全て、俺の掌中に!!
聴こえる。
本当に、聴こえる。
鼓動が。
脈を打つものが。
心臓だ。
間違いない。
生かされていた。
人造魔獣デストリアのベースとなったチコの母親は、魔獣の体内で未だ、生きている!!
助けられる。
助ける!!
「イリヤさん!!」
呼びかけに、女剣士は振り向きもしない。
だが聞こえているんだろ?
俺の声が、届いているんだろ!?
魔獣の背中側、首から臀部にかけてのあたりに人間の体が埋まっている。
あれを、取り出すことができれば……。
「チコのお母さんは魔獣の中で」
「……もう遅い」
魔獣デストリアは跳んだ。
女剣士に向かって。
イリヤさんの剣は天空へと飛び立つ鳥のように斜め上空へ白銀の軌道を描いて、斬り抜けた。
剣が肉を切断する音を俺の聴覚が拾った。
チコが、絶叫した。
ガリアーノさんは、動けない。
女剣士のプラチナブロンドの髪が突風に舞い上がった。
俺は、固く拳を握った。
怒りでも、絶望でもない。
歓喜だ。
イリヤさんの剣はすれ違いざま、デストリアの左の翼と左脚を、斬り飛ばしたのだ。
二度と飛翔できないように。
そしてチコの母親を助けるチャンスを、俺に与える為に。
何が……何が“もう遅い”だよ!!
この……ツンデレ!!
魔獣は墜落しもがいている。
「ガリアーノさん、押さえてください!!」
「押さえるったって……クソッ」
斧を右の翼に叩き付けて、狩人は魔獣をそこへ繋ぎ止めた。
今だ。
「イリヤさん、手を貸してください!!」
「人使いの荒い奴だ!!」
俺は魔獣の背に立つ。
暴れまわる魔獣の背中は極めて不安定だ。
振り落とされそうになる。
しかし抵抗する。
この機を逃すか!!
イリヤさんは地を蹴って跳び、俺の隣に降り立った。
「何をすればいい?」
「今から母親を取り出します。
剣を」
「うむ」
イリヤさんは先端を真下に向けて剣を構えた。
そのイリヤさんの手に、俺は自分の手を重ねる。
「俺に、任せてください」
「行けるのか?」
「俺でなければ、正確な位置はわかりません」
「よし」
「ふふっ」
俺は、なんだか急に可笑しく感じてほくそ笑んだ。
「何を笑ってる?
ちょっと気持ち悪いぞ」
「いやね、こうやって二人で共同作業なんて何だか、照れるなって」
「早くやれ、気色悪い」
「はい」
皮膚から1メートルもない。
50センチか。
そう、そのくらいの深さだ。
「エクストリーム……ケーキ入刀!!!!」
俺は叫んで剣を突き入れた。
ビクンと魔獣が動く。
構わず一気に、剣で魔獣の背中を引き裂いた。
「クオオオオォ!!!」
身をよじるデストリア。
痛覚が、あるのか!?
振り落とされる!?
俺の手を、力強くイリヤさんが握った。
「まだ、終わってないだろ」
「すみません!」
引き上げてもらう。
俺の眼下にパックリと空いた肉身。
その中に白い背中が除いた。
人間の、体だ!
「引っこ抜きます!!」
俺は屈み込んで魔獣の肉を両手で掴んで左右に押し広げようとした。
「迂闊に触るな!!」
イリヤさんの警告は遅すぎた。
魔獣の肉に触れた瞬間、俺の手を伝わって邪悪な気配が、這い上がってきた!!
魔物の瘴気か!?
俺の脳内に、“奴ら”が這入る!
俺の網膜が映しているのは……最悪の光景だった。
体中に奇怪な斑紋を浮かび上がらせた、痩身の人々。
衰弱して死んでゆく病人たち。
看病する者はなく、ただ打ち捨てられて息絶えてゆく者達の、渦巻く怨念。
ここだ。
この大広間だ。
ここが、疫病の患者達が隔離されたまさにその場所だったのだ!!
魔獣デストリアが纏っていたのは、無念のうちに死んでいった者達の声なき声。
それがチコの母親を魔獣に変えた、その根源だったのか!!
ダメだ。
次は俺の肉体を、乗っ取るつもりだ。
取り込まれる。
視界が、漆黒に染まる。
耳に、死者たちの恨みが木霊する。
俺が次の……憑代に。
「おい」
透明な声が、聴こえた。
気高い声が、鼓膜に張り付いていた邪悪なものを、祓った。
温かな手が、俺の両手を包んだ。
強くて美しい、ちょっとやそっとでは穢されることのない意志が、俺を引き戻した。
視界が、戻った。
邪な者達は、失せた。
「あの子の母親を、助けるんだろ」
イリヤさんが、傍にいた。
この人は……こんな邪気程度じゃビクともしない。
なんて、強い。
「一緒にやるぞ」
「……はい!」
俺とイリヤさんは腕を思いっきり伸ばして裸体の女の両肩をそれぞれ掴んだ。
全力を込めて、引っ張る。
ブチブチと何かが千切れていく。
この人を繋ぎ止めていた邪悪の肉が、剥がれていく。
チコの母親は、その体は傷一つなかった。
綺麗で白い裸体は、魔獣から切り離されて俺の腕の中に、収まった。
魔獣が、首を持ち上げた。
鋭い歯が無数に並んだ嘴を開く。
俺とイリヤさんは揃って地面へ転がり落ちた。
下でガリアーノさんが身を挺して受け止めてくれた。
「その人が」
「ママ!!」
チコが泣きながら駆けてきた。
炎が遂に、魔獣の全身を覆い始める。
魔獣は猛火に巻かれながら空を、決して見ることはできない空を、睨んでいた。
仄暗い洞窟に幽閉され、ただ死を待つだけだった者達の怨嗟を今、炎が舐め取っていく。
「ここはもうダメだ、逃げるぞ!!」
ガリアーノさんが言った。
「重っ……」
「貸せ!」
母親を背負うのに苦戦している俺から体を引ったくり、イリヤさんは走る。
ったく、底抜けの体力だな、あの人。
俺は、チコの手を握った。
今度こそ、強く握った。
「行こう」
「うん!」
全員が、走り出した。
必死に、がむしゃらに。
背後で猛烈に盛る炎。
洞窟全体が、慟哭しているようだった。
外へ。
一目散に。
真っ暗い出口が見えてきた。
すっかり外は夜だ。
炎の舌が、大広間から溢れ出して洞窟内を乱れ飛ぶ。
もはや、闇の一族が使用していたというあの部屋も、あの道具達も、焼き尽くしているだろう。
全てを灰に変えるまで、炎は消えないのだろう。
魔獣も、チャベタ村長も、村人達も、悲惨な過去の記憶も。
何もかもを、紅蓮の炎が呑み込んでゆく。
俺たちは脱出した。
この地獄から。
そうして、アマネク村の事件はここに……幕を下ろしたのだった。




