Day.2-6 腹筋のすべて
馬車は30分かからずにシトリの宿まで到着した。こっちの世界には信号などという煩わしいものがないから足止めを食らう場面は少なかった。人の往来の時くらいだ。
道中、色町ネハンの入り口に当たる細い路地の周辺が騒がしい雰囲気に包まれていた。
兵士と思しき恰好の者達が多くそこに集まっている。
ただ、何か仕事をしているという風ではなかった。
「あの人たちは?」
「ふん、王都の警備兵といっても一日中どこかに張り付いているわけではない。
休憩時間もあれば交替で早く終わる日もある。
概ね、仕事の後の息抜きといったところだろう」
さも興味なさげにイリヤさんは吐き捨てるように言った。
今、彼女の頭の中は別のことでいっぱいのはずだ。
給料日なのかな?などと俺は思った。
給料もらって早速娯楽に消費するところなど、俺の世界もここも変わらないなぁ。
給料日がいつとか、知らないけれど。
さて、宿に着くと物音を察してかシトリが外へ飛び出してきた。
「イリヤさん、お兄さん!」
「どうした?シトリ」
イリヤさんが代金を払っている間に俺が先に降りる。
「マスキュラさんが帰ってきたんですけど……酷い怪我を!」
「容態はどうだ?」
イリヤさんが降車し素早く歩きながら訊く。
「死ぬほどじゃないですけど、特殊な怪我なので治療には専門知識が必要です」
シトリが引き戸を開けて俺とイリヤさんを通す。
マスキュラさんか、この宿のオーナーだったな。確か筋骨隆々の男だとシトリは言っていたか。
馬車の中でイリヤさんから聞いた情報によれば、マスキュラさんが怪我をして戻ってきたと。
それ以外にも何かありそうだったが、シトリは直接会って話すと言っていたらしい。
食堂へ向かう。
そこの畳の上に胡坐をかいて座っている男が一人。
上半身は裸だった。
全身を鋼のような筋肉が覆った男だ。
しっかりと日焼けした浅黒い肌。
腹筋が綺麗に割れている。
その腹筋の左側面に、“黒い渦”があった。
「やぁ、イリヤ。
それと……お客さん、かな?」
男は額から汗を流しながら、平然とした顔でそう言った。
この人が……。
「マスキュラ、何があった?」
イリヤさんがマスキュラさんの傍にしゃがみ込んで“黒い渦”を確認する。
手をかざすも、その渦に触れようとはしなかった。危険なものなのか?
「あれは……魔術によって出来た傷です」
シトリが俺に言う。
「魔術?
でも一見、大丈夫そうだけどな」
“黒い渦”は腹筋のところで止まっていて内部まで貫通しているようには見えなかった。
皮膚の上に極々小さな黒い竜巻が舞っているような……そんな感じだ。
「あれはマスキュラさんが止めているんです」
「あ、魔術使えるんだ?マスキュラさんって」
「え?」
「ん?」
「いや、腹筋固めて止めてるんですよ」
「んんっ!?」
ん?今、腹筋固めて、とか言った?
「それはどういう……」
「お客さん、知らないのかい」
マスキュラさんがニヤリと笑う。
「鍛え抜いた腹筋は魔術さえも止めることが出来るんだぜ」
「うそでしょ!?」
腹筋すげぇな!
てかこの世界の魔法そんな物理的に止められて大丈夫なのかよ!?
「だが一時凌ぎだ、こんなもの。
腹筋の力が弱まったなら魔術はマスキュラの皮膚を貫いて内部を破壊するだろう」
イリヤさんが魔術の状態を確認して無慈悲にもそう告げた。
「おうよ、だから困ってんだぜ。
何とかこの面倒なやつを消してくれないか」
「私では無理だな。
シトリも、そういった類の術は専門外か。
ジュークにはこちらへ向かう途中、連絡を取ろうと試みたが繋がらなかった。
今は折り返し待ちだ」
「誰か他に治せそうな人は」
「回復魔法使いか、魔術に精通した人間ならジューク以外にもいるが」
イリヤさんは一旦言葉を切りシトリの方を向いた。
シトリが首を振る。
「他言するな、ということだ」
「実はさ、とある人物を連れて帰ってきたのさ」
マスキュラさんが言う。
とある、人物?
「それで、そう簡単に他の人に頼るわけにはいかないんです」
「誰なんだ?シトリ」
「いいですか、絶対に、誰にも言っちゃダメですよ」
シトリは念押ししてきた。どういうことだろう。
「ふぃ~、すっきりしたわぃ」
その場の緊張感にそぐわない声がいきなり、食堂の奥から聞こえた。
あっちは確かトイレだったな。
真っ白い一枚布を体に羽織った小柄な老人が、ひょっこりと食堂へ顔を出した。
新しい……宿泊客?
イリヤさんはその老人を一目見たとたんに、はっとなってそ場に片膝をつき頭を下げた。
最敬礼、というやつか?
「あれ?何々?偉い人?」
俺は混乱して老人をまじまじと見る。
老人が微笑みながら、
「そなたは……見ない顔じゃな。
名を申すがよい」
と若干尊大な口調で言った。なんか、偉そうなジジィだなぁ。
「俺は、さか……」
「おい!」
イリヤさんはやおら立ち上がると俺の頭頂部をがしっと掴んで俺の上体を無理やり折り曲げた。
頭が下がって自然とお辞儀する形になる。
「ぐえっ!何するんですか!?」
「バカもの、このお方を誰だと思っている!
絶対にお前の名を、口にするな!」
「いや、誰なんですか?」
「現ロメール帝国国王、ロメール1世様だ!!」
え、ええええええぇぇ!!?
いやいやいや、危ないところだ。
うっかりまた俺の本名言っちゃうところだった。
王様相手じゃさすがに……ヤバすぎる。
「すまんのぉ、驚かせてしまったかの」
ひょうきんそうに笑うこの老人が……国王だって!?
「王様、よくぞ御無事で」
イリヤさんは頭を上げ言った。
そうだ、国王は確か秘密会合からの帰国の途中で魔物の襲撃に遭ったんじゃなかったかな。
ジューク直属の魔導師達が身辺警護についていたはずだが。
「マスキュラ、何があったのか聞かせてもらおう」
イリヤさんの鋭い眼光はマスキュラさんに向く。怪我人相手だというのに容赦のない人だ。
「あぁ、どの道あんたには言わなくてはならないと思っていた。
だが……このお客さんは」
え、俺か?
「こいつは単なる外国からの旅行者だ。
おい、外へ出ていろ」
マジ!?俺だけ除け者かよ!?
その時、イリヤさんが俺の目を真正面から見据え、俺にだけわかるようにかすかに、頷いた。
その意図が、俺にはわかった。
そうか。
俺の正体について、ここではまだ明かさないつもりか。
イリヤさんにも何か、考えがあるんだな。
ならば。
「はい、何か重要なお話になりそうなので、俺はどこかへ行ってます」
「すまんの、お客人」
ロメール王は笑みを絶やさず俺に手を振った。
「いえ、俺はよそ者ですので、お気になさらず」
「お客さん、王様がここにいることは絶対誰にも言わないでくれ」
マスキュラさんは念押ししてきた。
「もちろんです、俺は口が堅い方なんで」
皆に手を振り宿の外へ。
そして建物から少し距離を取る。
大丈夫だ。
どれだけ離れていようと、俺ならばその会話を聴くことが出来る。
俺の、スキルならば。
あの場にいる4人の中で俺の能力を知っているのは2人。
イリヤさんとシトリ。
王様とマスキュラさんは俺のことを知らない。
酒のストック残り3本中の1本を開封する。
間髪入れずに一気飲みだ。
酔いを、アルコールを、急激に回す。
さぁさぁ、一体何が起こった?
じっくりと全部、一から十まで聴いてやろうじゃねぇか。
アルコール・コーリング。
俺だけのスキルで。