Day.5-23 泥濘に浮かぶ花
俺は眠った。
満足感に包まれて、泥のように眠った。
そうして目を覚ました時、既に日は傾き始めていた。
美しい夕暮れの光が、俺の部屋に差し込んでいた。
チコのお母さんはホーリィさんと言うらしい。
チコと二人でこの宿に住み込みで働けるよう、マスキュラさんが既に手配してくれたようだ。
彼女らには行く宛てが無かったが、このマスキュラさんの粋な計らいによって王都ロメリアにて快適な暮らしが送れるようになったのだ。
下の階が俄かに騒がしくなってきた。
どうやら今夜は、王都ロメリア最大の危機を乗り切ったということで祝杯をあげるらしい。
シトリとマスキュラさんが中心となってその為の準備が進んでいるのだろう。
がちゃがちゃと食器の音がしている。なんだかいい匂いもここまで漂ってくる。
俺は服を着替えて、部屋を出た。一階へ。
晩餐は楽しみだが、その前に俺にはどうしても行かなければならない場所があった。
挨拶をしておきたい人がいる。
「あっ、お兄さーん!
おはようございます!といってももう夕方の5時ですけど!」
「やぁ、シトリ。
ちゃんと寝た?」
「寝ましたよ!3時間くらいは」
「げげっ!大丈夫なのそれで!?」
「はい、慣れっこです!
宿のことをほとんど手伝ってくれないオーナーの分まで働いてるんですよ」
シトリの横でエプロンをしているマスキュラさんがギクッと肩を震わせる。
二人は食堂にお皿を並べたりしているところだった。
「こんな時間からお出かけですか?
晩餐会は夜の7時からですよ!
お兄さんが主役なんですから、遅れちゃダメですよ!」
「あぁ、ちょっと散歩に行ってくるだけだよ」
「絶対、ぜーったい、遅れちゃダメですからね!」
「うん、わかってるよ」
軽く手を振って、宿の外へ出る。
奇麗な夕焼けだ。ため息が出そうになる。
ゆっくりと、街道を歩く。
団子屋のおっさんに挨拶し、人ごみの中を目的地へ向かっていく。
顔を、見ておきたい人がいる。
早くそうしなければあの人はふいにいなくなってしまうかもしれない。
そんな気がした。
やがて狭い路地を抜け、入り組んだ迷路のような通路の奥、お目当ての一角が姿を現した。
煌びやかな魔導石の輝き。いよいよここから、この町は活況を呈することになるのだろう。
色町ネハン。
目指す場所はもちろん、マリさんの店だ。
と、意外にも玄関先に、俺はマリさんの姿を認めた。ほうきを使って外を掃いているようだ。
「マリさん」
声をかけると、マリさんが振り向いて笑顔を見せてくれた。
「あぁ、あんたか」
奇麗な服を着ている。真っ赤な襦袢。マリさんのトレードマーク。
「もう普通に働いてるんですか?」
「あたしの店だからね。
女の子達が心配して、寝ずに待ってくれてたんだよあたしのことを。
嬉しかったね、だからさ、休んでなんかいられないね」
「そうなんですね」
頼られている人なんだな、マリさん。その分、弱いところを見せられなかったりもするんだろうな。イリヤさんがそうであったように。
マリさんには重大な秘密があって、それを知っているのは多分俺だけ。
マリさんの特殊な体質に目をつけ実験材料にしようとしていたラガドは死んだ。
だからこの人の秘密は俺が漏らさない限り、誰にも知られはしない。
でも、きっとこの人はいつか街を出ていくんだろう。不老不死ということは、いつまでたっても老けないということだ。いずれはどこかで、普通ではないということを悟られる。
その前に、この人はどこか遠くの街へと、流れてゆくんだろう。
そうしてこれまでも悠久の時を、生きてきたに違いない。
寂しくはないのだろうか、苦しくはないのか。
訊きたい。
訊いてみたいことがたくさんある。
「何をボケーッと突っ立ってるんだい?
あたしの顔に何かついてるのかい?」
「あぁ、いえ。
ただ……」
「店に遊びに来たってわけじゃないんだろ?」
「はい、マリさんのことが気になってしまって」
「あたしに、わざわざ会いに来てくれたの?」
「そういうことになりますかね」
「ふぅーん」
一歩、二歩、マリさんは近づいてきて、俺の腕に自分の腕を回してきた。
「おわっ!どうしたんです急に!?」
「別に、何でもないよ。
こんなとこで立ち話もなんだから、中で少し話そうじゃないか。
二人だけで、ね」
そのまま強引に店に引っ張り込まれてしまった。
「ねぇ、リコリス!」
ちょうど廊下にいた女中にマリさんが声をかけた。
「はぁい、姐さん」
「この人はあたしを城から救い出してくれた命の恩人さ。
ゆっくり話したいから、あんた一時間くらい店番頼めるかい?」
「あら、その人が!?
そういうことなら、喜んで!」
「ありがと!」
そう言ってマリさんはぐいぐいと俺の腕を引き廊下を進む。やがて二階へ上がり、その中の一室へと、俺は連れ込まれてしまった。
中のつくり自体はマスキュラさんの宿とほとんど代わらない。
畳敷きの床。奇麗な布団。
「まぁ、座ろ!ほら!」
促されるまま俺はマリさんと横並びに布団の上に座った。
この間ずっと、マリさんは俺から離れようとしなかった。
腕を組んで、指先を絡めてきて、頭を俺の肩の上に置いて。
「うん、いい感じだねぇ」
そんなことを言うのである。
「いい感じ、ですかね!?」
「うん、あたしは好きだよ」
「へ?」
「ん?伝わらなかったかい?
あたしは、あんたの事が好きって言ったんだけど」
「はぁ……え、いや、はぁ!!?」
「はい、逃げないの!」
驚いて腰を浮かせかけた俺を強い力で布団へ引き戻すマリさん。いきなりなんてことを言い出すんだこの人!
「こんな年寄りじゃ恋愛対象にならないかい?」
顔を寄せて、じっと俺の瞳を覗き込んでくる。見た目だけなら30代前半、もしくは20代後半といっても通用するだろう。ある瞬間から、この人の時はずっと今まで、止まったままなのだ。
「いや、そ、そ、そんな事は……」
「それともこんな商売してる女は、やっぱり汚い?」
「あ、いえ、その……俺は気にしないっていうか」
「うん、良かった」
蛇のようにしなやかに、腕が俺の首の後ろへ回された。
鼻先が触れ合うような距離に、マリさんの顔がある。
吐息が、俺の顔にかかる。その熱まで、感じる。
「ねぇ」
「は、はい!?」
「そんな緊張しなくていいよ。
時間はたっぷりあるんだから」
「で、ですがしかし、そのー、えっと」
しどろもどろ、という状態だ。向こうの世界ではセクシーなお店に行ったことが無いでもないが、そういう商売の女性と親密な関係になったことなど皆無だ。というか夜のお店なんか酒に酔った勢いで、付き合いでしか行ったことないし。
「ね、どうする?」
甘い香りが鼻腔を犯してくる。単なる香水なのだろうが、まるで媚薬のように、麻薬のように、俺の思考を鈍くしている。
このまま、衝動に身を委ねてしまいたい。その先にあるものを、確かめてみたい。
「どうしよっか」
少女みたいに笑って、マリさんは俺の顔を、首の裏側へ回した両腕で引き寄せた。
が。
俺は指をマリさんの唇へと押しつけ、制止した。
数秒の間、俺達は見つめ合った。
静かに熱を帯びた瞳の交差。
そして、俺は、首を垂れ、
「すみません。
やっぱり止めときましょう」
敗北宣言をしたのだった。




