非生物の死と主観的物語
1章. ひょろっとした島で最も偉大な少年
20世紀最後の夜、東京の偉大なギター弾きが銃殺された。死因はペットボトルの蓋に食い込んだスパナが作った小さなささくれだという(あくまで一般的に言述した場合)。この物語の主人公 : おっちょりペンペケ三世は第51章(最終章 : 欠点の多い現代のピアノ)まで登場を待ってもらうとして、本章では℃的な寒さと人々の熱気が対流を起こすポップコーン的な夜に銃殺されてしまったギター弾き : ボボの話をしなくてはならない。
ボボの父と母は、主に鉄でできたドラム缶であった。現代のドラム缶の多くに共通するように、中にはネズミの死骸やら、宇宙人の腕やら、様々な食物の成れの果てが詰まっていた。ボボは毎朝、25分かけて両親におはようの挨拶をしてから、ギター(1000円のフライパンにタコ糸を張ったもの)を担いで駅前に向かう。
駅前はボボのライブを心待ちにした客で溢れかえっている。ボボは聴衆の期待に応えるために、一日の大半を駅前ライブに費やすのであった。客はボボをさげすんだような目で見ながら通過し、満員電車に乗り込む。
20世紀末にはまだ、電車の正体はイモムシで、人をたらふく食べた後に蛹となり、最後には宇宙に飛び立っていくということが知られていなかった。それもそのはず、電車が蛹になるには400年を要する。しかもその間
毎日10万人もの人間を摂取する必要があるのだ。もちろんボボも、その事実は知らなかったが動物的な感によって何となくわかっていたのかもしれない。その証拠に、ボボは生涯を通じて一度も電車に乗ることはなかった。
ボボの演奏には特別な力があったように思われる。ボボの指先(といっても紙や針金でできたものだが)から溢れだす奇妙な世界は、まるでブラックホールのように人々を底なしの無光にいざなった。感性の優れたもの(美しいもの)には、無 : 0すらない世界への小旅行に感じられたが、ほとんどの人間(または幽霊と呼ばれる精神的ビニール袋)は雑音としてすら認知していなかった。つまりボボの表現したかったことは、その場に居合わせた全ての聴衆に完全なかたちで伝わっていたことになる。
ここで、「スゴさ」についての話をしよう。ボボは「スゴ」かった。
しかし、世間にとっての「スゴさ」とは、金ぴかの時計のようにわかりやすいものでなければならなかった。
「スゴさ」を定めるのが世間であるならば、ボボは「スゴ」くなかったかもしれない。しかし、ボボは「スゴみ」があったのだ。少なくとも私(作者 : ボボを唯一視認した者)にとってはそうだ。人々は地球の回転に合わせて歳をとっていったが、ボボはその協調性の低さゆえか歳をとることはなかった。見かけの上においては生涯「少年」であった。
ボボは少年のうちに殺されてしまった。あるいはそれを殺害ではなく、破壊と呼ぶものもいるだろう。
また、銃殺されたと考えるものもいれば、「ホッチキスの針に当たって傷がついた」と表現するものもいるだろう。ホッチキスは金属片を射出する点において銃である。また、ホッチキスの針は並行する先端を一組持つように折れ曲がった金属塊であるという点でスパナであった(この点は議論の余地があるかもしれない)。そしてボボは、「ペットボトルにできた小さな傷」とみなす者がいたとしても、耳目鼻口(それを鋭いもので引っかかれてできた傷と呼ぶものがあろうと)が少年のように見える位置関係となっている点でたしかに少年であった。ボボの演奏、両親へのあいさつ(両親の存在そのものすら)、それらすべてを「想像」とするものがいるかもしれない。ペットボトルの蓋が毎日ギターを担いで駅前へ向かうという非現実的な光景を否定するものはたくさんいるだろう。
しかしボボはたしかに実在し、そして消えてなくなったのである。
東京の、"いつもの"夜のことである。