3.
私、彩鳥橋子は打ちひしがれていた。ただただ呆然としていた。更衣室で。
……いやほんとうは、もっと前から呆然としていた。
端末のアプリに、例の探知システムを導入してから、ずっと。
「どうかしたか?」
隣のロッカーを使っていた楢柴さんが、怪訝な顔をした。
今日は楢柴さんのクラスとの合同で、球技大会のバレーの練習だった。
制服を脱ぎ捨てた彼女は、惜しみもせず、恥ずかしがりもせず、濃紺の下着と引き締まった肢体を外気にさらしていた。
少年的な所作や雰囲気に反して、女性としては理想的にすぎる体型が、かえってアンバランスで、かつ強烈な魅力があるという。女の私でさえも、そう思う。
と同時に、今まで散々危険にさらされているだろうその肉体には、傷のひとつもない。
それほどまでに俊敏なのか、そこまで頑丈なのか。あるいは私の知らない、超人的な治癒力でも持っているのか。
私は勝手に脳内に湧いて出るイメージに気圧されそうになるのを避けて、話題を引き戻した。
「これ」
「あぁ、通知アプリか。久々に見たな」
私が自分のスマホを見せると、妙に感慨深げに、楢柴さんはうなずいた。
まじまじと見つめる彼女の瞳には、無数のポイントが映り込んでいる。
それが、現在進行形で、少なくとも『吉良会』の察知している範疇で起こっている、この付近の事件だ。
知りたくもなかったことだけど、知ってしまえば気になってしょうがない。いつ何時、私や家族や友達が巻き込まれるか、気が気でない。おかげでスマホとにらめっこして、眠れない夜が続いている。
けど、久々という言葉が引っかかって、私は首をかしげた。
「アタシ、それ消したから」
あっけらかんとした調子で、楢柴さんは答えた。
「えっ!? で、でもそれって大事なんじゃないの!?」
言葉を詰まらせながら尋ねる私に構わず、彼女は自分の着替えを再開した。
「そりゃまぁ大事には違いないけど、そんなもん逐一気にしてたらそれこそ身体を壊すことになるだろ」
体操服に身体を収め、ショートパンツに脚を通した楢柴が振り返る。その腕が伸びて、私の頰を捕らえた。
「ほら見ろ、せっかくの可愛い顔が台無しだ」
真顔をズイと近づけながら、楢柴さんが言った。少し薄いけれど形はいい唇から漏れ出た息が喉元にかかる。
ただのジョーク、ふつうのコミュニケーション、ありふれたスキンシップ。
ドギマギする私は、自分に必死にそうくり返し、「近いから」と楢柴さんを押し返した。
そして彼女もまた、私への接近に執着はしなかった。
「今までも知らないなりになんとかなってたんだろ。無視しろなんて過激なことは言わねーけど、あんまり依存しすぎるなよ。所詮それは、組織の思惑の副産物だ」
私はあっさりと離れた彼女の存在を、つよく意識した。
「じゃあ、楢柴さんがアプリを消したっていうのも、それ関係?」
一体全体なにが『それ』なのか、『関係』なのか。それは私自身よくわからないまま、ただ話題をつなげたくて口にしてしまった。
ただ、私の言わんとしていたニュアンスは理解してくれたらしい。
「……なまじ力があると」
ロッカーに私物を詰め直す手を、楢柴さんは止めて律儀に答えた。
「そしてどこまでも目の届くようなツールがあると、なんでもかんでも救えそうな気になるから。けど、実際はそうじゃない」
なんてな……と肩をそびやかして冗談気味に締めくくったけれども、それ以上踏み込ませない、切って捨てるような強い口調だった。
「そもそも、アタシの場合厄介ごとは向こうから飛び込んでくるんだよ」
ぼやきながら自分のスマホを取り出した楢柴さんの顔が、その液晶画面をのぞいた瞬間「げ」とゆがむ。
思わず声を漏らしてしまった自分を恥じるように、気まずそうに私を見直して苦笑した。
「ウワサをすれば、なんとやらだ」
後頼む。
RPGの呪文のように言い残して、彼女は体操服にショートパンツという格好のまま、更衣室を飛び出した。