3.
一時期は、下校する頃にはどっぷり夜に使っていたものだが、この季節になるとさすがに明るさは残っていた。
自身の公私を知る友人、彩鳥橋子と別れた楢柴アラタは夕焼けが差し込む駅に、覚えのある影を見出した。
駅のみならず、今や市全体のシンボルマークとなった鼓の門の根元に立っているその男は、スーツで身を固め、キャリーバッグに中腰を落とすような姿勢で、スマートフォンを注視している。
そんな彼の死角で、アラタはスクーターをパーキングへ停めた。気取られないよう手前の噴水をおおきく回り込むようにしながら、その背に迫って、ふいに肩を叩いた。
「よっ、管区長!」
彼女が期待したような反応はない。ただジロリと半目を向けて、フンと鼻を鳴らしただけだった。
「あれ、気づかれてた?」
「やたら目を惹く女子高生が近づいてくるのが水面に映っていたし、周りの空気も変わった。お前が隠密任務に向かないことが良く分かったよ」
「ん? そうなんすか」
自覚はなかったが、そういうことらしい。
他の異能者と同様、あまり目立つことを良しとしないアラタとしては不本意な評だが、それが客観的な視点から来るものだとすれば、受け入れて猛省するほかない。
「で、何やってんです。こんな所で」
拠点に寄った時には、三年ぶりの非番だと聞かされた男が、人の交通の中央にいる。その理由を、アラタは手短に問うた。
「見てわからないか」
スマートフォンをしまい、『吉良会』北陸地方管区長、奥村右近は正面に向き直った。
きっちりとネクタイまで結びタイピンでまとめている。スーツにベスト。腰を浮かせた彼の持ち手には、コンパクトにまとめられた旅荷と、半透明のビニール袋が握られている。
そのうえ……まぁいつものことだが、不機嫌そうに眉間にシワが寄っている。
「あぁ……」
アラタはそれらのヒントから解答らしきものを導き出して、そして憐れんだ。
「休日返上で今から出張かぁ。そりゃご愁傷サマで」
「……どこをどう見たら、そういう結論に至る?」
どうやらその推測は外れていたらしく、彼は眉間の掘りをますます深く刻んだ。
むしろこの場合訝しみたいのはアラタのほうだった。どこをどう見ても、彼女の推論にそぐわない装いではないのか。
わざとらしいほど大仰にため息をこぼした右近は、「あのな」と前置きした。
「俺は今、プライベートを絶賛満喫中だ」
は? と思わずアラタは聞き返してしまった。彼女の前で奥村はビニール袋からビール缶と柿の種を取り出してみせた。
「今から近場のビジネスホテルを予約して、そこに泊まる」
「?」
「で、そこで酒を飲みながら地方局のテレビを見る」
「??」
「眠くなったらシャワーを浴びて寝る」
「あの、ちょっと良いですか」
「なんだ?」
「実はアタシに気遣っててホテルで誰か監視するってわけじゃないんスよね」
「だったら飲酒などするか」
「じゃ、なんでスーツでホテル?」
「平日に三十路の男がひとり私服で街をふらついてたら、暇を持て余した無職とか思われるだろ」
「じゃ、ウチで海外ドラマとか映画に見るとか」
「スキャンダルと超能力バトルが日常茶飯事なのに、なんで休みでまで付き合わなきゃいかんのだ」
「……ちょっと、言ってることが理解不能なんですけど」
服装から行動原理まで、一介の女子高生の理解のおよぶところではない。
そうした空気を彼女から感じとったのだろう。奥村は、また息をついた。
「……お前にはまだ分からないだろうがな。人間、ある時ふと他人の視線が気になるようになるんだ。きっかけや理由があるわけじゃない。若い頃は平気でも、ある日を境に、どうしようもなくそうなるんだ」
「はぁ」
「例えば、通りすぎた女子高生が笑い出したら、自分の私服のセンスがアレすぎて嗤われたんじゃないかとか」
「……」
「電車の席に座ったら隣の女子高生が必要以上に離れたり立ち上がったりしたら、ひょっとしたら自分は思っている以上に異臭を漂わせているんじゃないかとか」
「…………」
「部屋にいて音楽や映画を楽しんでいたとしても女子高生の咳払いとかが聞こえてくると、もしかしたらすごい音漏れしててウザがられてないかとか」
「女子高生に恨みでもあんのか、このヒト」
「そういうことが気になりだしてどうしようもなくなって、気がつけば俺は仕事にのめり込むようになり、たまの休日も、どこでどう過ごして良いか、分からなくなった。教えてくれるかアラタ。俺は、どこに行けばいい?」
「カウンセリングだろ」
アラタはシンプルかつぞんざいに答えた。
「けど、管区……あぁもうめんどくせぇ。奥村さん、バイク乗ってたじゃん。父さんの影響で。アレなら服装もライダースーツとかで良いし、誰の視線も気にしなくて良いじゃんか。ちょっと遠乗りしてきたらどうよ?」
まだ明確な身分がなかった頃の調子で、アラタの提案はする。奥村は渋い顔で首を振った。
「そこまで走れる時間は作れない。それに」
「それに?」
「なんか走ってる最中に正気をうしなって、奇声をあげながらそのままどこかに雲隠れしそうで、そんな自分を抑えられる自信がない」
「……追い詰められすぎだろ」
他人事のように淡々と言われては、アラタとしても閉口するほかない。
険しい彼の視線が「誰のせいだ」と訴えたそうにしている。
もし実際に面と向かって言われていれば、アラタとしても返答に窮したことだろう。それほどまでに、自分がらみの苦労を彼に一身に背負わせているという自覚はある。それをあらためて思えば、責任を感じざるをえない。
今度は少女が、大仰な吐息で応じる番だった。
「ツーリングもカウンセリングも出来ないなら、しょーがない。荷物、とりあえずコインロッカーにしまいに行く」
そう言うが早いか、彼の偽装旅荷をひったくる。
「あ、おい!」
取り戻そうと伸ばされたその腕を、アラタはもう一方の手でつかみ取って引いた。
「しょうがねーから、デートしてやるよ。ケーキの約束もまだだしな」
「……他人が見てるだろうが……」
苦々しげに毒づく保護者に白い歯を見せて笑う。
いつの日だったか、こうやって彼をケーキに誘うため、楽しく手を引いた記憶がある。
それがいつの日のことだったか。今となってはあまりに遠い、境界線の向こう側だ。
だから深くは追憶しないことにして、彼女はかつての青年とともに、夕暮れの街にくり出したのだった。




