2.
十年前、北陸地方。
県立大学の研究棟。
ブリーフケースを抱えて、その男子生徒は廊下をつまらなさそうに歩いていた。
道すがら、遊びの予定を確認し合う同学年の生徒や、教授に飲みに誘われる後輩の姿を見かけた。その内の何人かには、講義やゼミで一緒だった連中もいる。だが、彼らはその学生など記憶にないように通り過ぎていく。青年もまた、彼らをいないものとして扱った。
青年は、ひとりだった。
「いよっ!」
その学生の尻を、平たい何かが勢いよく叩いた。
痛がる彼が振り向くと、そこには身長と年齢が一回りほど上の男が、ノートを掲げ持ってて立っていた。
「相変わらずつまんなさそうなカオしてんねぇ、お前は」
ヘラヘラと笑う彼は、スーツにジャケットという格好よりも、アロハシャツとウクレレの方が似合いそうだ。言動ひとつ取ってみてもその学生と対極に位置する人物だが、不思議と忌避感は覚えない。慣れたとも言える。
「お、それがラボに持ち込む荷物か」
「そうですが」
さして興を惹くような拵えでもないだろうに、『楢柴』というネームプレートを提げた教授は彼のカバンを覗き込みながら尋ねた。
「なんか荷物少なくね?」
「他は現地で揃えられますので」
「いやいや、娯楽物持ってかないと長続きしないべさ。他の連中は何かしら持ち込むって言ってたぞ」
「かと言って、これと言って趣味もないですから」
研究一筋に生きてきた彼にとって、それこそ、交友関係以上に無縁の存在だった。
話題作りの一環だとしても、そもそも学生から選抜されたのは自分だけだ。他はヘタをすれば、この楢柴教授以上の壮年老年の生物学者ばかり。そんな相手といったいどう話を合わせろというのか。
「いけねーなぁー、若者がそんなんでどうするよ」
教授はわざとらしく、天を仰いで嘆いてみせる。
「あ、そだ。お前、免許は持ってたろ。俺のバイク貸してやっから、ちょっと転がしてみ」
「要りません。っていうか、ずっとインドアで暮らすことになるのに、どうやって」
言いかけた時、目的地である研究室の手前にまで来ていたことに気がつく。
思ったよりも早く着いたように体感し、一瞬戸惑う。
だが、彼の戸惑いはドアを開ける前よりも、開けた時のほうが大きかった。
「あ、いらっしゃい!」
少女が出迎えた。
あまり計画的とは言えない積み方のダンボールに腰掛けていた彼女は、幼稚園から小学生の中間ぐらいの年頃。そのあたりの年代の一般的なイメージよりかは痩せっぽちな体躯だが、長い髪の下の少年じみた笑顔は不健康や陰気とは無縁のものだ。
「え、っと……」
待ち構えていた相手と違ったのだろう。戸惑う青年を見返すかたちで、彼女もキョトンとしたまま固まった。だが、その目に怯えや恐れの色はない。
「こーら、危ねぇっての。ダメだべ、そんな場所に座っちゃ」
青年の背後から伸びた楢柴教授の腕が、少女の腰を抱え込む。停まっていた時間が動き出すかのごとく、少女の表情にふたたび花が咲いた。
「お父さん!」
そう呼称する親しげな響き、表情。それらが、彼女がいったい何者であるのかを如実に語る。
「さっき、バイクって聞こえた!」
「おっ、お前も興味あるかー? けど、乗るのは大人になってからな。今より平和になって、お前が最高の女になれたら、だ。それまでお預けー」
「えー?」
「えーじゃない。ガソリンの臭いがついた手で帰ってこようものなら、お母さんが嫌がるぞ?」
「そうね。まずその臭いのついた指を折る」
会話に、女性の声が加わった。
気がつけば、背後に小柄な女性が立っていた。
ウェーブのかかった亜麻色の髪に、分厚いポンチョにジーンズ。美女の体現とも言うべき、見目麗しい相貌。一見すれば森ガールともとれるふわふわとした格好だが、その表情は剣呑そのもので、目力が強い。向こうっけが強そうな切れ長の目で、威圧感たっぷりに、男衆を睨んでいる。
通行の邪魔だと言わんばかりの圧力に、ふたりは慌てて左右の端に飛んだ。その中間を、ツカツカと靴音を鳴らしながら彼女は通過した。
青年も、何度か顔を合わせているし、前もって紹介もされていた。楢柴教授の妻だった。
その横顔を、楢柴切絵教授は少女を抱えながら閉口しながら見送った。
「……お前な。いくらなんでも、その脅し文句はねーべ。DVだなんだと問題視されてる昨今、一児の親の発言としていかがなもんかと思うね」
「は? アラタにそんなことするわけないじゃない。折るのはあんたの指よ」
「……いや、あの。妻から夫への暴力もアウトなんですけど」
彼女……楢柴天佳と楢柴切絵の夫婦間の今の会話の中に出た名に、青年は覚えがあった。予備知識として目を通した資料の中、破棄されたプロジェクトのひとつの被験者と同じ名。
「……じゃあ、この娘が例の」
「そっ!」
切絵は青年に相槌を打った。と言うよりかは、口にしようとしていたことを、遮られた。
「俺たちの、娘だ」
はしゃぐ娘を脇に抱え、頰を寄せ、彼はまっすぐに答えを出した。そんな彼らを守るかのように、妻が側に添った。
人付き合いが不得手な青年だったが、他人や自分が思っているよりかは、その意図が組めないほどには不人情でもなかったようだ。
「かわいらしい娘さんですね」
そう、彼はぎこちなく笑い返した。
「当たり前」
応じたのは、天佳だった。
「この絶世の美女の娘なんだから」
「…………」
「……お前、それアラサーの経産婦のセリフじゃねーぞ」
ひと昔前のアニメなら、こういうセリフは高笑いとともにギャグキャラに片足を突っ込んだようなサブヒロインが言いそうなものだ。が、目の前の彼女は息を吸うように、さながらそれが万国共通の認識であるかのように、純度の高い瞳で青年を見返しながら言い切った。
「あぁ、でもちょっと不安はあるかも」
「?」
「切絵の劣性遺伝子が混じってないか」
「お前にとって俺ってなんなの!?」
情け容赦ない天佳に、切絵は悲痛げに訴える。
冗談よ、と軽い調子で、しかし微笑ひとつもせずに彼女は流した。
「よかった冗談か。しかし今の言葉はあんまりにあんまりすぎたぞ」
……ふつうの夫婦であれば、そのまま取っ組み合いの喧嘩にでも発展しかねないようなひどいやりとりが続くが、そこを両者が意識した様子はない。娘も、ケラケラ笑っている。
どうやらこれでも、超えてはいけない最低限のラインはお互いに守っているらしい。お互いに何事もなかったかのように、慣れた調子で引越しの作業を進めていく。
そこに青年や、あるいは後から来たスタッフが加わって、膨大なデータ処理も物理的な片づけにも、ひと段落がついた。
そのままの流れで解散という運びになったときには、窓の外は、すっかり夜景に切り替わっていた。
他のスタッフに紛れて大学から出ようとした青年を、楢柴切絵は呼び止めた。
「これからウチで食ってくか?」
「いえ、そういうのは他の人に」
「遠慮すんなって」
一応誘う体裁をとっていたが、拒否権はないらしい。
彼らの娘もまた、切絵に肩を組まれた青年の腕を引いた。
「今日はね、お母さんがロールケーキ作ってくれたの! お手伝いがんばったゴホービだって! だから、お兄ちゃんもッ」
自分と同じ報酬を味わえ、というらしい。
「……良いんですか?」
遠慮がちに、天佳へと尋ねた。
青年の身からするりと少女が離れていく。
今度は母親に抱きつきながら、彼女の片腕に自分を巻き取らせる。
娘の奔放さにされるがままになりながら、楢柴家のサイフと胃袋を握る女は、フンと鼻を鳴らしながらも、手を差し伸べた。
「食事代二万円。チャージ代は別」
「ワハハ、お前金ぼったくられるってよ!」
「なに無関係みたいなツラしてんのよ、あんたも払いなさいよ」
「俺スポンサー特権持ってねぇの!?」
そんな丁々発止に、また少女が八重歯を見せて軽やかな笑い声をあげる。
苦り切っていた父親も、愛娘が喜んでいるのであればまぁいいか、という調子で、ヘラリと相好を崩した。
彼らに引きずられるような形で――わかるかどうかというレベルでだが――かすかに目を細め、唇を緩めた。
誰しもイメージするようなものとは違うが、これがおそらく彼らにとっての家族であり、日常だったのだろう。
そんな彼らの姿ほど、青年は尊く、美しいものを見たことがないと、年月を経た今でも思っている。
――そう、これが。
かつての青年奥村右近と、楢柴アラタとの、最初の出会い。
そして、彼らの家族と食事をした、唯一にして最後の機会だった。




