10.
アラタは、戦闘が終わった後も待機していた。さすがに切れかけたブラ紐をさらした姿や、まして『ミイラ女』姿で、外に出るわけにもいかない。
奥村からも通信越しに待機命令が出ている。
――にしても、遅いな。
事前の打ち合わせではすぐに着替えを持ってくるとのことだが、学校との距離を考えればもう来ても良さそうなものだが。
なんとなしに、未だ引かない水の中より小石を拾い上げる。丸みを帯びたそれには薄く苔が生えていて、顔を近づけて嗅げば、磯の香り。軽く力を込めて念じてみれば、『象徴化現象』の作用した痕跡、力の残留を感じさせる。
水音がした。
一瞬身構えたが、忍ばせる気配のない様子は、どう考えても素人のそれ。火事場に何の気なしに迷い込んだ羊のようだ。
と同時に、覚えのある姿を認め、アラタは迎えが遅延した理由を察した。思わず、ため息がこぼれた。
「来るなつったろ」
「終わったって奥村さんに聞いたから」
アラタのバッグと買い物袋を抱えて現れた彩鳥橋子は、緊張感を顔いっぱいに浮かべていた。だがそれは、命のやりとりとは無縁な、どこかズレた緊張だ。
本人にとっては必死なのだろうが、子犬が注射を前にブルブル震えるような、愛らしい趣がある。
思わず甘い顔を見せそうになるのも堪え、アラタはわざとらしいまでに顔をしかめた。
「楢柴さんのこと、奥村さんに聞いた」
そうか。アラタは口の中でそう呟く。橋子自身に答えたわけではなく、彼女の怯えや緊張感がどこに由来したものか、それを理解したがゆえの独語だった。
「じゃあ、アタシとアタシのいる世界が、本来お前とはまるでかけ離れた領域だって理解してるだろ。なのに、踏み込んできたわけか」
軽い怒りと失望とともに、詰問の言葉を投げる。
橋子はぐっと何かを言いたげにしていたが、それは口から出ることなく、飲み込まれる。
「……じゃあ、もう知らねぇよ。勝手にしろ」
橋子は答えない。代わり、手にしていたバッグを差し出す。
「……これ、奥村さんに頼まれた」
「あぁ」
ぎこちない空気の中、奪い返すようにバッグを手に取る。
「あと、これ替えの下着」
「ん」
次いで手渡された袋も目を合わせないまま、受動的に手にする。
そうか替えの下着か。たしかにヒモも切れて汗も吸ったしありがた……
「ん!? んん!?」
思わず、声が出た。
袋を開く。自分が使っているものと同じブランドの物が入っていた。
背からそれをのぞき込んだ橋子は、ぱっと表情を華やがせて、自由になった両手の先を重ね合わせた。
「あ、良かったぁ。やっぱりそのブランドだったわ。身生地2枚仕立てのボーンなしのタイプだったらもしかしたらって思って、行きがけのショップで買ってきたの」
「いやいや」
「サイズもピッタリみたいだし。あ、一応下もちゃんとあるからね」
「いやいや、いやいやいやいや」
「更衣室でチラ見しただけだったから、アンダーとか目測だったから不安だったけど、合っててよかったぁ」
「そこじゃねぇ、危惧するべきは、そこじゃねぇ」
「あ、でも買うとき三回ぐらいサイズ確認されてね、それがすごい恥ずかしかった……」
「恥じるべきもそこじゃねぇよ」
「え? もしかして何か間違ってた?」
頭に不安げに疑問符を浮かべながら、彼女は問う。
間違っている。というよりも、根本的な部分が逸脱しているし、抜け落ちている。
例えるならチャーハンを注文したらジャーマンポテトが出てきたかのような……いやこの例えはどうだろうか。アラタは自分でも混乱しているという自覚があった。
「いやそうじゃねーよ。今の問答がお前の頭の中のどこをどう通ってそういう結論に至るんだ」
少し言いよどんでから、橋子は答える。
「だから、勝手にしたの」
汗が引く。それとともに少々の肌寒さと心許なさが全身を包んだ。仕方なくアラタは噴水らしきオブジェを椅子代わりに腰を下ろし、ジャージと体操服と下着の切れ端を脱いで、上半身裸になった。
橋子から小さく悲鳴があがる。初めて見る裸でもないだろうにと思うのだが、彼女は自分の代わりに恥じらうように真っ赤になって目を伏せて、背を向けて、像を挟んで向かいに腰かけた。
「踏み込んでないわ、私」
落ち着きを取り戻した調子で、彼女は言った。
「力もなくて何も知らない私が踏み入っちゃいけない場所なんだってわかった。そうしたって、むしろ楢柴さんを苦しめるだけだったわかった」
でもね、と言いかけた。すぐにだから、と言い直して語を継いだ。
「だから、私は踏み込まない。楢柴さんを信じて日常にいて、自分が出来ることをする。楢柴がちゃんと帰ってきたとき、出迎えられるように。楢柴さんはふつうじゃないのかもしれないけれど、それでもきっと楢柴さんが居たいって思える場所が、帰るべきところだと思うから」
シャツを羽織る。スカートを履いてジッパーを締め、ブレザーに袖を通す。
いつもはどことなく着心地が悪いというか、違和感を覚えていたそれが、ふしぎと軽く感じる。風通しが良いように思えた。
「……それも、ダメかな」
語調を弱めて不安げに問うてくる彼女に、ふ、とアラタは息をこぼす。笑みとも安堵とも呆れともとれるそれに、橋子の影が身じろぎを見せた。
「良いも悪いも、そこに踏み止まられちゃあ否定する材料がない」
ただし、肯定もしなかった。
忠告はした。彩鳥橋子が境界線に立たされた時にどうするかは、彼女自身の覚悟の問題だ。明言したとおり、そこには踏み込まない。橋子にとっての自分がそうであるように。
それでも、理屈ではなく、救われた気分になった。
背越しに表情を崩す。ほんの一瞬だけ。
着替え終えて立ち上がった時にはいつもの顔。ため息をついて歩き出せば、迷子の子犬のように頼りなさげについてくる。
「あの、楢柴さん?」
顔色を伺うような調子で呼びかけられる。ひどく言いにくそうな歩み寄りに、アラタは足を止めて振り返った。ヒラヒラと手を振って見せる。
「これ以上おせっかい焼く気なら、他人行儀はやめとけ。名前でいーよ、名前で」
「わ、わかった……アラタちゃん?」
「ちゃん付けされるキャラかよ」
的を射た自己評価とともに呼び捨てを暗に促す。
しばらく口をもごつかせ、視線を四方八方にせわしなく指を動かしている。
「じゃあ…………アラタ?」
手の先を合わせるようにして、何かいけないことでも口にするように、声を上ずらせて名を呼ぶ。
こんなところまで来ておいて、たかだか友人をファーストネームで呼ぶ程度のことには勇気が要るらしい。やはり、どこかズレている。とは言え、自分もまた根底からズレているから、それを口にして咎めることはできない。
「じゃ、そろそろ帰るか。下着女」
「人を露出狂か妖怪みたいに言わないで!?」
「ほら、早く行くぞ。ブラマスター」
「なにそのスーパーロボットみたいな名前!? っていうかなんで逆にアラタが名前で呼ばなくなってるの!?」
その様子が内心ではおかしくて、ついからかってしまう。
心身共にとんでもなく疲れた後だった。外ではとうに日が落ちて、学校も終わっているだろう。
それでも、戻る足はふしぎと軽く。帰る先は明るく感じた。




