8.
戦場の空気は一変した。
コップの中の冷水に、熱した岩石でも投じたような、そんな劇的な変化と異物感が、場を支配していた。
異質の塊たるその魔人……楢柴アラタは、たしかな足取りで『スラッシュ』へと寄ってくる。
彼は、一度退きかけた我が身を叱咤し、踏みとどまらせた。凶猛な笑みを無理矢理に引きつらせ、上半身を小刻みに揺らす。
「……ハッタリかましてんじゃねーぞコラァ!」
水面を切り上げた。雫はふたたび弾となり、アラタへと撃ち込まれる。
アラタは虚空へと手を彷徨わせた。
きゅっとその指が折られると、水中から群青の布が突き出て彼女と彼との間に立ち上った。
それらは水弾を阻み、吸い取り、あるいは覆い込む。
飛沫は布をズタズタに裂きこそすれ、もはや彼女自身の肌には届かない。『剣』の世界は、くるまれたままに力を使い果たし、集束を迎える。
その斬撃と大布の隙間から、アラタの腕が伸びた。
間を詰められた。懐に入られた。そのまま壁へと叩きつけられた。
野獣のごとき敏捷性と動体視力、判断力を自負する己が、一切の隙も見せたおぼえもなく、いとも容易く。
しなりをつけながら喉輪に食らいついたそれは、『スラッシュ』から抗する力を奪っていく。否、彼の単純な頭脳は、その本質を理解した。
今、自分と彼女の腕とは接続されている。そのうえで、支配されている。
物理的に、拘束されているのではない。魂が、縛られている。決してほどけぬ鎖よりも強い、戒めの世界だ。頭ではそうではないと理解しているにも関わらず、本能がそれに抗っている。催眠に近い。
「ふざっ……けんなぁ!」
『スラッシュ』は、御剣総助は、機能を制限された声帯から声を絞り出した。
握りしめた拳で、背後の壁を叩く。分厚いコンクリートは、彼の敵意の『剣』に感応し、バラバラに寸断させた。
その向こうは、線路とトンネルがあった。
未使用であるにも関わらず、ろくすっぽ手入れされていないために鉄錆びた臭いが立ち込める。
だがおかげで、支配から逃れた。
たわんだ拘束を斬りほどき、後ろへ飛び退く。……退く。
――退く? この、オレが?
誘いでもなく、算段も立てず、ただ相手の攻撃から逃げている。そんな自分に気づいた。悟ってしまった。
そんな彼の自覚が、正真正銘の隙を生む。
目の前に、大布が迫っていた。
舌打ちして鉄パイプで切断する。振り切ってから、その浅慮を悟る。
得物を大振りにした自分は、体勢を大きく崩していた。そして千切れた一反の奥底で、群青色の人影が迫っていた。その背に負った炎の刻印を、果てなく拡張させながら。
魔人の領土は殖えていく。
満ち潮のように音もなく寄せる紋様は、『スラッシュ』の斬り飛ばした破片や踏みしめている線路を絡めて捕らえ、物質化し、彼女の外皮と一体化していく。彼を戒める鎖へ転じる。
そのまま引き戻された彼の頬を、アラタの鋭い回り蹴りが襲った。
翻った彼女の袖口から伸びた一反が彼の腕を鉄パイプを弾き飛ばし、さらに厳重に彼を束縛する。
刻印から、彼女の思念の一端が逆流した。
そして、素顔をさらさぬ群青の魔人の真意を知った。
楢柴アラタは、悩んでいた。
だがそれは、こちらの誘いを請けるかどうかというものではない。まったく無縁のことで、彼女は頭を痛めていた。
どうすれば、互いの被害を少なくできて事を収められるのか。苦心していたのは、そこだった。
気遣われていたのだ、自分たちは。
自分たちの強さなど、端緒から彼女は歯牙にもかけていなかった。
油断や侮りとは無縁の、純然たる配慮。ゆえに、だからこそ、御剣にとってはこれ以上ない愚弄であり、彼の怒りに火をくべるには十分過ぎた。
「バカにしてんじゃねぇぇえええ!」
彼に怒号が斬撃となって、周囲の拘束を切断する。にくたいを侵食し、肉体のコントロールを奪いつつあった刻印を切った。
だが、本来であればその剥離に必要な精妙さなど、彼には元々持ち合わせがない。
結果、自身の神経や肌さえも傷つけるはめになった。その痛みが、御剣の憤怒を加速させる。
「……殺す!」
口腔や鼻腔や眼窩から出血し、肌や衣を赤黒く汚しながらそれでも有り余る血気で目を充血させながら、青年は凶相をアラタへと向けた。
「てめぇだけは絶対ぇに殺す! 嬲り殺して細切れにして、その上で犯してもう一度殺してやるッ!」
アラタの表情は、異形の面貌からは窺い知ることができない。ただワンテンポ置いてから、落ち着き払った調子で応じた。
「……嬲り殺して細切れにしたら犯せねーだろ。それともアンタ、そういうシュミでもあんのか」
意図してかどうかはともかく、膨らんだ胸部の下に腕を組みながら。
そしてどこかズレたコメントは、『スラッシュ』をなおさらに焚きつけた。
「こんの、クソアマがぁ!」
「よせ」
再度の突撃を仕掛けようとした彼の肩を、掴む者がいた。『ワンズ』が、いつの間にか、同胞たる自分の背後に回り込んでいた。
「もう『マーチャント』も『ハニー』も退いた。僕らも行くぞ」
「あぁ!? 待てよ、まだこのゴミの始末がついてねぇだろが!」
「その理由を、僕が言っても良いのか?」
『ワンズ』は冷たく『スラッシュ』を見返した。
いつものように、ヘドが出るほど取り澄ました、ひどく迂遠な言い方。だがその目は、
「自分でも分かっているだろう。これ以上やっても、お前は彼女に勝てない」
という客観的事実を、直言していた。
露骨な舌打ちとともに、御剣はいったん怒りのボルテージを下げることにした。
だが、未だ激情をくすぶらせた肩に、『ワンズ』の右手が添えられる。そして彼らの足下に、魔法陣を模した、『ワンズ』の象徴の刻印が赤く光輝を放ち始めた。
「楢柴、君を安く見積もっていたつもりはなかったが、それでもまだ足りなかったようだ。だが……いやだからこそ言える」
『ワンズ』は捨て台詞を吐いた。
だが確信に満ちたその物言いは、決して負け惜しみなどではない。彼の理屈と経験に基づいた推論だった。
「君の世界は人のそれとは程遠い。いつか僕らよりも厳しい現実に直面し、僕らよりも困難な選択を迫られ、そして一線を超える日が必ず来る。その時になって、後悔するな」
相変わらず、群青の女の表情は読み取れない。すべての清濁を受け入れる女神像かのように、佇むのみだ。
『ワンズ』の投げかけた命題について肯定も否定も聞けないままに、『アルカナS』の面々は、次の瞬間には別の隠れ家に転移していた




