7.
「ッらぁ!」
『スラッシュ』が吠える。鉄パイプを振りかざす。
アラタが避ける。彼女の背後にあるオブジェが、その代わりに破壊される。
都合三度、そういうやりとりが繰り広げられていた。
否、破壊ではない。それは、まさしく斬撃なのだ。
それが彼の持つ能力。彼の手にしたものは、その剣の刻印で『象徴化』されたものは、どんなものであれ刃物となる。たとえそれがその辺に転がっている鉄塊であったとしても、大業物並みの切断力を持つことになるのだ。
その『刃』が通らないものなどなく、ただ『斬れる』という世界観を内包した一振りは、あらゆる硬度や強度を無視し、どんな鋼鉄だろうと、いかな屈強な人間の筋骨だろうと、まるで豆腐のように抵抗なく切り落とすのだ。
彼の為人に似つかわしい、よく言えば豪快、悪く言えば雑多な世界観。ゆえにこそ、その破壊力と突破力は、チーム随一だった。
「加勢しないのか?」
『アルカナS』のリーダーである『ワンズ』は、攻防を繰り広げるふたりを苦い顔で傍観していた。
組織の参謀役兼プロモーターである『マーチャント』は、そんな彼を見かねてあえて具申したようだった。
「下手に乱戦となれば、かえって『スラッシュ』の足を引っ張ってしまい、楢柴アラタを取り逃しかねない。それに彼は自分の戦いに水を差されることをもっとも嫌う」
次いで『マーチャント』の目は、物陰に隠れて携帯をいじっているチームの紅一点へと移った。
彼女……通称『ハニー』の答えはといえば、
「あたしもパース。これ、カメラ回ってないんでしょ? ターゲットでもないし、水だらけになってまでサポートとかムリ」
チームに確認をとった『マーチャント』自身も、あえて戦場に飛び込むマネはしたくないのだろう。
自分からは動こうとはしなかった。
アラタが飛びのく。軽く常人を超える距離を、彼女は水を吸った脚部でもって跳躍してみせた。
――肉体の強化……いや最適化か。
『ワンズ』はそう目当てをつけた。
接続を基本スキルとする彼女は、自分自身の肉体にも応用できるのだろう。すなわち、体内の電気信号をより効率よく発信させ、運動性を高めていると考えればよい。
だが、自身の基礎能力の強化など、他ならぬ『スラッシュ』がそうであるように、異能の力を持つ者にとっては初歩中の初歩だ。
察するに、楢柴は一気に距離をとって、相手の太刀筋の間合いから出ようとしたのだろう。
――だが、その程度の考えじゃあ、『スラッシュ』には遠く及ばない。
相手の浅慮を、嗤うよりも憐れんだ。
「逃がすかァ!」
『スラッシュ』が水面に切っ先をくぐらせた。
跳ね上げた水滴が、勢いよくアラタへと飛んでいく。
目潰しか、などと訝しむかのように、アラタが顔をしかめたのも一瞬、その目が大きく見開かれ、全力でその場から逃げた。
それらの飛沫が当たった壁に穴が空く。資材やオブジェが折れる。
そう、彼が捉えたものは、なんであれ凶器になる。たとえそれが五ミリにも満たない水玉であっても、斬撃の属性を付与され、散弾となりうるのだ。
この場に『ワンズ』の能力で水を引き込んだのは、アラタの能力を封じるためのみではない。ここは、『スラッシュ』にとっては無尽蔵の弾薬庫なのだ。
「勝負あったな」
呟きながら、『ワンズ』はこの決着の落とし所を探った。現段階においても、彼は楢柴アラタの説得と勧誘を完全に諦めたわけではなかった。
だが、もし彼女が頑迷にも命より実も大義もない忠義を優先し、『吉良会』に盲従する道を選んだのだとしたら、その場合は邪魔者として処理せざるを得ないだろう。
血が飛ぶ。水たまりに色をつけるがごとく溶けていく。
壁際まで追い詰められたアラタの上着は肩口のあたりが大きく裂かれ、下着の紐がのぞいていた。白い肌に走る赤い線が、非日常的で煽情的だ。
「最初そのカッコで来たときは『なんだこのオンナ誘ってんのか』とか思ってたけどよ、今のザマはもっとそそるぜ!? このまま裸に剥いてやるよ」
せせら笑いを隠さず、『スラッシュ』は聞くにたえないセリフとともに彼女を追い詰めていく。
頃合いか。『ワンズ』は本当に言葉どおりの暴挙に出かねない『スラッシュ』を制止すべく、前に進み出た。
そして、最後通牒を突きつけるためにも。
「……そうだな。ちょっと薄着すぎたな。こりゃあ、お色直しが必要か」
アラタもまた、否定はしない。
冗談まじりに、気丈に振る舞っている。
初見で水滴弾を見抜いた観察眼と頭のキレと言い、やはり惜しむべき人材だが、これが容れられないとなれば『スラッシュ』にその始末を一任することさえやぶさかではなかった。
『ワンズ』はわざとらしいため息とともに、進み
「フルアクセス」
……出よう、とした。だが、彼女の放った何らかの『呪文』が、その足を止めた。
瞬間、いやな予感がはしった。いや、予感ではなく実際に足元を、何か蛇のようなものがすりぬけていったのだ。
水の中を、いや表面の裏側を、泳いでいた。
暗い青で織られた一反の布地のような布地は、一筋、また一筋とどこからともなく浮き上がってくる。絡み合い、交差し、分離し、結合し、伸縮し……さながら、命の在り方そのもののように流転する。
あるいは逆に、生命を奪うべく拡大する、災火のごとく。
彼女をその渦の中心に、巻き取っていく。
――楢柴の刻印!? バカな、水の中で展開できるはずが……ッ!?
『ワンズ』は、水面を凝視して思わず絶句した。『スラッシュ』も身構えた。彼の勝利を確信していたがゆえに無関心だった『ハニー』も『マーチャント』も、その目を見開いていた。
『象徴痕』や刻印ではなかった。それらは、実在している。
……水それ自体を、変換させて。
水も、折れたオブジェも、転がる資材も、一切の区別なく、まったく同一の紺色の『線』へと組み替えられていく。
それこそ、ありえない事象だった。
『象徴化能力者』は、事物の道理を捻じ曲げることができる。だが、それは既存の物理法則や物質があっての転換だ。完全に上書きすることは不可能だ。
だが、これは違う。存在それ自体が、一切の法則を無視してまったく別の物質へと置換され、撚られていく。
ただひとり、それを操作しているであろう彼女のために。
水面から飛び出た布が、楢柴アラタを絡めとる。自身の形状さえも組み替えていく。
群青色の布地が、何重にも彼女の肢体を覆い包む。まるで一つの衣服、ロングコートのように形作られてはいるが、その重厚さは具足、あるいは拘束具と言ったほうが正しい。
目鼻だちや髪の毛一本さえ隠すほど、入念な鎧いようだ。
顔の中心でその布地の交差点が集積して、複雑に入り組んで、蝶か鳥の羽のような模様になっていた。
「悪いな、着替えに手間取った。……生身相手に使いたくはなかったが、こっからが本番だ」
楢柴アラタを組み替えて出来上がった怪人は、彼女の声でそう宣言し、手招きした。




